大友信勝「学生セツルメントと地域福祉施設との再会―ヤジエセツルメントを中心にして―」

はじめに
セツルメントをキーワードにした研究集会に講演依頼を受け、このようなテーマでまとまった発表をしたことがなく、半世紀以上前の実践を思い起こしながら責めを果たそうと考えている。副題のヤジエセツルメントの発表が中心で、主題に切り込んでいない。『レンガの子ども』やヤジエセツルメント保育所を論述している浅井純二さん等の先行研究を読み、自らの思い出とつないで述べてみたい。

1. 名古屋市南区弥次衛町(以下、ヤジエと略)がヤジエセツルメントの舞台
〇1959年9月、伊勢湾台風、約5000人が死亡。
〇ヤジエ町はどういう地域か。名古屋南部の被災地の一つ。ヤジエ町はゼロメートル地帯、低湿地の地域、応急仮設住宅(約300戸)が建てられ、その後、災害復旧公営住宅に移転するが、生活困窮で行き場のない被災者、非正規雇用が多く、在日コリアンの割合も高い。応急仮設住宅はバラックで8畳一間、共同トイレ、共同炊事場からなっている。
〇なぜ、在日コリアンが多いのか。名古屋南部工業地帯は戦前・戦時下の重化学工業を支え、朝鮮半島から徴用があった歴史を持っている。住宅地として環境は良くないが、ここに住み、台風にあい、他に行くところがない災害弱者に在日コリアンの割合が高かった。

2. ヤジエセツルメントの歩み
〇ヤジエセツルメントの歩みは伊勢湾台風の被災者救援から始まる。当初は様々な被災者救援活動が名古屋大学、愛知県立女子大学、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学等の学生たちによって行われる。救援活動からどうしてヤジエセツルメント保育所が誕生するのか。
〇避難所への避難が定着するようになると臨時保育所が開かれ、名古屋市立保育短期大学、日本福祉大学の学生たちが、その活動への参加をはかっている。この臨時保育所は学生たちが大学の災害対策本部等に必要を訴え、市役所に交渉し、その数や規模の拡大を図っている。臨時保育所が被災者にとって切実な要求であり、学生たちがその要求に答えた。
〇台風直後の臨時保育所が次第に既設保育所の再開によって縮小していく時期に、名古屋大学泥の会、日本福祉大学(学生自治会)が住民アンケートをとり、保育要求を掘り起こしている(1959年12月)。避難所も11月に入ると応急仮設住宅へと切り変わっていく。
〇ヤジエセツルメント保育所は元養鶏場(事務所)に1959年12月24日~1962年8月まで、民間保育所(無認可)として、市立宝保育園が開設されるまで活動した。
〇ヤジエセツルメント保育所の直接的な発足経緯はどういうものか。学生たちは、被災者の利用できる託児所がなければ働きに行けないという住民要求を受け止め、12月24日から冬休みを利用し、1月20日までやる予定であった。しかし、父母の会(1959年12月27日)で継続を望む声が強く、市から正式に元養鶏場(事務所)を借り、名古屋大学泥の会、日本福祉大学災害対策本部、旭丘高校童話部の3者による資金カンパの要請が行われている。
〇資金カンパは、地域と結びついた施設を作ることをうたい、設立総会がYWCAで行われている。ここで東京保育問題研究会からの保母派遣要請が行われている。
〇東京保育問題研究会から、及川嘉美子さん、難波ふじ江さんのお二人を迎え、2歳児から6歳児まで、約30名の保育を行った。
〇保育所運営委員会委員長は浅賀ふさ先生である。先の臨時保育所開設時点での市役所交渉の中心は浦辺史先生である。また、学生とともに保育所活動を支援したメンバーに、日本福祉大学保育研究室の土方弘子先生たちがいる。他大学でも、保育問題研究をしている先生方が保育要求にこたえる活動を活発に展開している。

3. ヤジエセツルメントとの出会い
〇1962年4月~1966年3月まで、ヤジエセツルメントに在籍し、1964年4月~9月はヤジエセツルメント委員長を担当した。伊勢湾台風(1959年)の時、どうしていたかといわれると、私は秋田県の高校生であり、入学が1962年である。
〇なぜ、ヤジエセツルメントに入ったのか。学生寮に入っていたが最も熱心な誘いを受けた。天下・国家を論じるので圧倒され、価値観が揺らいだ。子どもたちや地域を守ろうとする使命感のような熱意があった。他に、井戸田セツルメント、白水セツルメントが活動しており、部落問題研究会や児童文化部の人気が高かった。
〇家庭の事情で仕送りが期待できないことから、アルバイトと奨学金によって、活動と両立できるのかを心配した。母が長期の難病で医療費の負担が重く、そのため家計が傾き、その母も入試の時期に亡くなり、不安定な状態での入学だった。
〇ヤジエとの出会いは、1962年4月、市電で杁中から大久手を経由し、笠寺方面行きの市電に乗り換え、遠くて時間のかかる道のりだった。ヤジエセツルメント保育所が二人の保母と学生,保育問題研究会の支援で運営されていた後半の時期である。仮設住宅から災害公営住宅への引っ越しも始まっており、仮設住宅に空き家が出始めていた。セツルメントの学生たち(セツラー)は応急仮設住宅の空き家を借り、そこを拠点に活動していた。共同炊事場で食事を作り、共同トイレを活用し、質素でつつましい生活だが声を掛け合い、明るく元気だった。前年(1961年)、赤痢が発生したという話も聞いたが、湿地帯でバラックの仮設住宅、共同炊事場、共同トイレ、雨が降ると汚水がたまるような環境であり、発生してもおかしくないと納得した。これは大変なことになりそうだという予感がした。
〇セツルメントの会議は会議室がなく、様々な所で臨機応変に行われた。応急仮設住宅、災害公営住宅の階段の踊り場、近くのお好み焼き屋、夕方以降はセツルメント保育所、そして、大学のサークル室等である。当時のヤジエセツルメントは名古屋市立保育短期大学と日本福祉大学の2校で構成されていた。セツルメントの日常活動は、児童部、保育部、青年会部の3部門制であり、対外活動として、名古屋南部セツルメント協議会があった。名古屋南部セツルメント協議会は全国学生セツルメント協議会に加入しており、名古屋では、ヤジエセツルメントの他に、井戸田セツルメントと白水セツルメントが加入していた。ヤジエセツルメントのセツラー総会は名古屋市内のお寺を借りて合宿形式で行うことが多かった。OSも来て総会は賑やかで、夜は、せんべい布団1枚と毛布1枚である。
〇ヤジエセツルメントの活動は災害救援活動の歩みと復旧・復興とともに変化し、常に変動の中で次の活動の開拓をしていく事業の連続であった。保育部はヤジエセツルメント保育所が市立宝保育所への切り替えとともに閉鎖され、その後の活動は児童部に一部が引き継がれていく。青年会部は、セツルメント保育所を夕方から夜にかけて活動場所にしていたことから、活動の拠点を失うことになった。リーダーの青年たちが大同製鋼やブラザーミシン等、近くの活動拠点を検討するが継続できないことになった。青年会部はレクレーションと情報交換が主なものであり、特定の地域活動はしていなかった。セツルメントの執行部は青年会部を生活相談部に切り替え、生活保護の多い地域で地域要求にこたえる道を模索した。生活相談部は生活と健康を守る会、医療生協(南診療所)に接近するが、専従の職員や専門家もいない状態で、学生中心のため、勢い学習活動が重点になる。セツルメントの性格からすれば地域実践に結び付けなければ本来の役割は果たせない。アイデアはともかく、実施体制や条件が伴わず、1年有余でこの事業は中断している。

4. 学生セツルメントの特徴と限界
〇生活相談部の挫折を通して、学生としての活動について限界があることを学んだ。限界とは、地域政策を打ち出すには、主体の側に、専門性と継続性、活動の拠点(定住性)に関わる条件整備が求められ、情熱や意欲だけではできないということである。
〇セツルメントとは何か。セツルメントは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民が語源である。我が国は、戦前、東京帝大セツルメントが関東大震災(1923年)への救援活動(1924年)から発足している。しかし、権力の弾圧により、1938年に閉鎖している。戦後のセツルメントの多くは学生セツルメントとして取り組まれている。名古屋には、伊勢湾台風以前にセツルメントの歴史がある。しかし、当時(1962年)活動していたわけではなく、名古屋南部セツルメント協議会に入っていたのは、井戸田・白水・ヤジエの3つのセツルメントである。
〇ヤジエセツルメントはどういう性格のセツルメントか。それは、貧困に苦しむ労働者居住区への知識人の植民ではない。あくまで、伊勢湾台風の被災者支援からから始まり、貧困という悪条件を持っている地域に入り、地域、父母の要求に沿って「子どもを守る」活動に重点を置く活動展開を目的にしている。地域政策を考え、青年会部、生活相談部を作ったが、セツルメント保育所閉鎖以降、拠点施設がなく、専従の専門家も配置していないことから継続的発展につなげることができなかった。学生には入れ替わりがあり、財政問題への対応が難しいという問題がある。ヤジエセツルメント保育所の閉鎖時に活動拠点の確保に向けて募金活動を社会的に呼びかけ、労働組合や各種社会団体に先輩セツラ―とチームを組み訪問したことがある。台風から2年有余が経過し、救援の熱気はなかった。その時の「苦悩」を今でも思い出すことがある。
〇1963年に入ると、ヤジエセツルメント保育所が前年度に閉鎖しており、名古屋保育問題研究会関係者が、名古屋で新たな共同保育所作り運動、保育労働運動に取り組んでいる時期でもあり、保育問題研究会は活発な活動展開を図っていく。セツルメントは、名古屋市立保育短期大学から新入セツラ―は入らず、日本福祉大学のセツラ―に絞られていく。全体としてこの時期を見れば名古屋の保育運動が活発になり、そこにセツルメントの実践現場から人材を送り出した側面もある。見方によれば、セツルメントは人材養成の役割を多少とも果たしたのではないかと考えている。

5. ヤジエセツルメントから何を学んだのか
〇『同じ喜びと悲しみの中で』というセツルメントの実践の書がある。福祉の思想・哲学が底を流れているような気がして、座右に置いていた。ヤジエ町は非正規労働者が多く、ここに留まることしかできなかった在日コリアン、生活保護受給者の多い地域であった。子どもたちは荒れていた。どうしてここまで荒れるのか。その深い意味が当初は分からなかった。荒れている子どもたちに何もできなかった。先輩セツラ―から話を聞き、やりかたを見ながら、子どもたちの顔や名前、特徴を覚えることに努め、そこから実践を始めた。
〇セツルメントをわかっていなかった。どういう性格の組織なのか。社会的な位置と役割は何なのか。その点を学ぶ必要があった。セツルメントの歴史を調べた。COSを組織化し、社会改良の視点、理念を開拓し、トインビーホールが生まれたことがわかってきた。なんということか。社会事業・社会政策の現代史の幕開けを切り拓いたのがセツルメントではないか。セツルメントは下層労働者の自立性の強化と貧困の解決に社会改良が不可欠だという視点から博愛の科学化、組織化を主張している。それを学んだ時に、目からうろこが落ちた。
〇セツルメントは、出発点に「悲しみを分かつ」思想を持っている。労働者教育といっても、トップダウンで知識・技術をダイレクトに持ち込まない。教育とレクレーション、娯楽を組み合わせ、柔軟にそれらを取り入れ、文化を大事にし、人間としての感性を掘り起こすことを事業の重点にしている。労働者教育を行って革命を起こすわけではない。社会改良への取り組みをせめてもの第1歩とみている。しかも、無報酬であるばかりか、自らがトインビーホールに寄付までしている。
〇セツルメントは貧困をどう見ているのかが気になった。非人間的な生活環境の人々にみる「低い品性」、これは無知と人間的自立のはく奪によってもたらされたとみる。マルサスの「人口の原理」にみる「恥の烙印」(Stiguma of Pauparism)という「劣等処遇の原則」を批判する源流についてもセツルメントから学ぶものがある。

6. ヤジエセツルメントと歩んで
〇セツルメントは仲間たちに正義感が強く、実践力のあるセツラ―が多く、人生の得難い先輩や仲間たちに恵まれたと思っている。
〇生活相談部の挫折をはじめ、苦い思い出はあるが、セツルメントでの成功談はない。しかし、セツルメントから学んだこと、やっていてよかったと思えることがある。名古屋南部セツルメント協議会の役員をやったことがある。日本子どもを守る会の総会に出た時のことである。会長の羽仁説子さんが貴重な時間を割てくださり、昼食の集いをもって、直接面談できる機会を作ってくださった。学生セツルメントの子どもを守る活動を熱心に聞いてくださったことが印象に残っている。その後、羽仁さんが関わっている自由学園について学ぶことができた。昭和大恐慌で大凶作の東北農村に当時(1930年代)、「農村セツルメント」を作ったのがお母様の羽仁もと子さんである。私が生活保護を担当した秋田県田沢湖町生保内にその農村セツルメントがあった。奥羽山脈の村々を生活保護で8年間担当し、中山間地域の貧困問題に取り組んだ。そこに自由学園の足跡が残っていた。
〇全学連電車(通称、往復とも夜行で各停)に乗り、氷川下セツルメントハウスに全国学生セツルメント連合の会議で通った時期がある。『太陽のない街』(徳永直)の地域であり、下町の風景、全セツ連のメンバーの生き生きとした姿から励まされるものがあった。
〇浦辺史先生、浅賀ふさ先生、高島進先生をはじめ、セツルメントとご縁のあった先生方と研究・教育交流ができ、研究者の社会的位置と役割について学んだ。
〇在学中に、社学連(全国社会福祉系学生ゼミナール連絡協議会)分科会において、日本福祉大学を代表して研究発表を行った。セツルメントの活動で、貧困の分析視点を学んだことが役に立ったものと考えている。
〇卒論は、朝日訴訟や結核政策の歩みを研究し、約6万字の長文を書いた。日本福祉大学に当時(1965年)、大学院はなかったこともあるが考えたことはなかった。当時考えていたのは、卒論で研究方法を学ばなければ、人生で再び学ぶ機会はないのではないか。そのため、卒業後、一人で実践に立ち向かえる基礎的な研究方法を身に着けようと考え、長文の卒論を考えた。長文は研究計画、研究方法をしっかり組み立て、先行研究や仮説の実証が必要であり、研究の仕方について基礎的な力量を形成しておかないと書けない。また、何のための卒論か。政策の代弁や受け売りをするのではない。社会問題を社会的に追求するような方向でなければ意味がない。社会問題を当事者の目線から見るために、日本患者同盟、朝日訴訟原告団を訪問し、専門的な動向は結核予防会、政策動向は厚生省(結核予防関連部署)に足を運んだ。全セツ連で、東京への出張やフィールドワークの手続きに少し慣れていたのが幸いしたと考えている。また、生活相談部の試行錯誤で、事前準備が必要なことも少しはわかっていた。セツルメントは先輩との議論で先行研究、実践記録、政策研究は事前にチェックしておかないと太刀打ちできないことから、自立的に研究する姿勢がセツルメントで形成されたとすれば、それが役立ったのかもしれない。
〇セツルメントでの成功談はないといった。1983年、名古屋南部で生活問題研究会(事務局、日本福祉大学)が被保護母子世帯調査を実施した。そのとき、偶然、ヤジエセツルメントで担当したAさんが調査対象に入っていた。貧困の世代間継承を断ち切ろうと実践していたが、厳しい生活の歩みを余儀なくされていた。AさんはDVを何とか乗り越えて心身の落ち着きを取り戻し克服への努力も始めていた。子どもさんへの教育計画を話している姿を見て、少し遠回りをしたが母子が健康でこの困難を乗り切ってくれるだろうと祈った。貧困の世代間継承を断ち切ることがどんなに難しいことか。主体的に学ぶ力、なぜ学ぶのかという人生の志や希望、学ぶための条件や環境等、いろいろなことが頭を駆け巡り、セツルメントの活動を反省させられることしきりであった。

終わりに
〇セツルメントで何を学び、多少とも身に着けたのであろうか。卒業後、郷里の秋田県庁民生部の職員となり、生活保護行政を担当した。担当地域の保護率を1年未満で秋田県で最も高い水準に引き上げたようであった。直ちに、厚生省の特別監査の対象になった。福祉事務所は国の特別監査に緊張した。査察指導員は「悪いことをしたわけではない」。「なぜ保護率が高いのか。実証できるデータを作成するように」という指示を出した。担当地域の「貧困問題の一考察」を約4万字でまとめた。国有林事業の衰退、鉱山の閉山、地域経済の不振、が重なる社会経済的要因による貧困が要因とまとめた。この資料は、特別監査で役に立ち、大きな指摘は出されなかった。また論文として、日本福祉大学社会福祉学会の学術奨励賞を受けた。セツルメントの経験、卒論作成が参考になった。セツルメントから何を学んだのであろうか。最も大事な学びは、利用者・当事者視点からみて、そこにより添える事。そのために社会正義が求められる。社会問題を地域・住民生活から見る社会科学的な視点、セツルメントの運営・実践に持ちこまれる問題に対して、開拓的・創造的に困難に立ち向かう姿勢だったのではないか。
〇セツルメントをやって「成功した」、「楽しかった」という思いでは殆どない。貧しい境遇であっても、人が生きるということの意味、どう生きたいかを考えさせてくれる源泉がセツルメントにある。在日コリアンの中心になっている方を訪問したことがある。質素な生活、災害や社会的偏見にさらされてきたというのに、子どもの学習支援へのお礼、落ち着いてインタビューに答える姿勢、品性から人間としての生き方や誠実さが伝わってくる。社会的地位、権力、お金がなくても庶民は子どもを守り、家族を守り、同胞を大事にして悲しみや苦しみを乗り越えて人間として生きている。使命感をもって、社会の底点に立って物事を考え、魂を磨くことがセツルメントから得られる価値ではないか。ヤジエの人々が置かれている社会的位置と環境、ここからどう生きていくか。そこからセツルメントは何を学び、自分たちは社会の底点に目線の標準を置き、そこからどう生きるかを貫くことではないか。
〇セツルメントは「福祉の思想」を形成する豊かな源泉だった。自助、互助(共助)が言われる地域福祉の中で、セツルメントはオルタナティブとして利用者・当事者の自主性とエンパワメント、共生と多様性の意味をいつも考えさせてくれる。子どもたちに人生の夢と希望、生きる目標と喜びをどう育てていくか。新自由主義の下で、もう一つの価値を掘り下げ、構築するように迫ってくる。
〇今回の講演依頼からいうと、一つ、大きな課題を残している。名古屋キリスト教社会館との比較を理論的にしていないことである。キリスト教関係者が全国から被災者支援に集まり、多くの社会貢献をした。その中で、名古屋キリスト教社会館は拠点を早く形成し、専門職を配置し、地域に根差し、専門性、継続性、発展性を示した実践を積んでおられる。名古屋キリスト教社会館から何を学ぶか。その点が課題として残されている。

資 料