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阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―その文化的・芸術的視点からのアプローチに関する研究メモ―

「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて
―その文化的・芸術的視点からのアプローチに関する研究メモ―

阪野 貢/市民福祉教育研究所

 


はじめに


本稿は、「文化と芸術」「アートとデザイン」「自己表現と問題解決」などの視点から「まちづくりと市民福祉教育」に関して草してきた拙稿(論点や言説についてのメモ)の一部を集成したものである。

 


Ⅰ 「時間」と「空間」の座標  ― 内藤廣(建築家)から学ぶ  ―


<文献>
(1)内藤廣『建築のちから』王国社、2009年7月、以下[1]。
(2)内藤廣『場のちから』王国社、2016年7月、以下[2]。
(3)内藤廣『空間のちから』王国社、2021年1月、以下[3]。

〇「文章を書く建築家」と評される内藤廣が上梓した3部作の本には、その時々の信条や心象を言葉にした、哲学的で、専門的知識に裏打ちされた玉稿が収められている。内藤は[1]で「建築の本懐(本意)は、その誕生にあるのではなく、その後、時代と共に生きていく時間の中にこそある」(18~19ページ)。「大衆が心から望むものと建築家が実現しようとするもの、そのベクトルが一致する時、建築は街を変え、人びとを変えていく力となる」(20ページ)、と説く。[2]で「建築の依って立つところ、それは大地だ。大地とその場所に生きる人間だ」(12ページ)。いま、建築という価値が大きく毀損(きそん)され、本質的な意味で「建築の冬の時代」(12ページ)が到来しつつある。そんななかで必要とされるのは、「場所の持っている内在的な力、人を生かしめる内発的な力」(20ページ)である「場のちから」であり、それを全身で受け止めるような体験である(12ページ)、という。[3]で「空間の本性は、『和解の場』のことなのかもしれない」。「建築や環境が内包する空間とは、(「人と自然」、「生と死」、「過去と未来」、「復興と街造り」など)全てのものが流れ込み、もつれあい、そしてその和解を用意する場のことなのではないか」(34ページ)、と問う。そして、建物の空間や街の空間を豊かなものにするのは、可能な限り「時間が生まれ育っていくような空間」をつくることだけである(236ページ)、と言い切る。
〇3冊の本に通底する基本的な言説のひとつは、次のようなものである。すなわち、「建築」(architecture)は「人間」の「身の置き所」([3]206ページ)を「構築する意志」であり、「建物」(building)はそのための道具、具体的なモノである([3]232~233ページ)。大切なのは(守るべきは)、「空間」と「時間」によって織りなされている「建築」という名の意志である。本来の建築の価値は、「人の生きる長さを越えて何事かを伝える」([3]5ページ)ところにあり、メッセージを伝えることによって建築は生命を与えられる。その際の(本当の)価値は、「生み出すものではなく、生まれてくるものであり、なおかつきわめて個人的なもの」([3]89ページ)である。
〇そして、内藤にあっては、建築について自分の思考を磨き、建物が生み出された内実について(技術や経済や制度の側から)説明するためには、言葉の助けが必要となる。「文章を書く」ひとつの所以でもある。内藤はいう。「建物を建てる際の現実的な体験は、建築に対する思い込みに修正を迫る。現実と思考、そのやりとりの試行錯誤が言葉になり文章になる」。「建築と文章とは切っても切れない関係にある」([1]82ページ)。
〇ここでは、[1][2][3]における論点や言説から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して「使える」であろう・留意したい一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。1

[1]『建築のちから』
「建築の力」は空間や時間と人びととの開放的な共感のなかに現れる
われわれは、建物の完成にこだわり、品質にこだわり、意図したものができ上がる作品性に神経質になり、その結果、いちばん大切なことを見失ってはいまいか。社会制度の命ずるところ、資本主義経済が望むところ、そうしたものに対する律儀さが建物の質に無意識のうちに現れているのなら、人びとは建物から距離を置くだろう。なぜなら、建物が社会や資本に顔を向けて、人びとに背を向けているからだ。
「建築の力」(建築のなかに生まれてくる価値:筆者)はそういうところには現れない。「建築の力」は人びととの共感の中に現れる。それは、発注者、建設関係者、設計者、住民、不特定多数の人びと、よりよい社会を目指すそうした人たちの運動体、そうしたものの中で初めて兆(きざ)すはずだ。そのためには建築という価値は「完結的」であってはならない。開かれていなければならない。空間的に開かれている、あるいは時間的に開かれている必要がある。いちばん望ましいのは「空間にも時間にも開かれている」ということだ。そう誰もが感じられるような状況となった時、「建築の力」は熱湯がいきなり泡立つように内側から湧き上がってくる。([1]19ページ)

建築には空間に身を置き時間のなかに生きる人間に対する洞察が不可欠である
おそらく建築の中には、「わかりやすい価値」と「わかりにくい価値」が存在する。「わかりやすい価値」はわかりやすいのだから容易に広まる。([1]233ページ)
一方、「わかりにくい価値」は伝わりにくいから、いくら声を大にしてもなかなか広まらない。建築に時代を超えていく本質的な生命力というようなものが存在するとしたら、それはこの中にしかない。多くの場合、「わかりにくい価値」は空間の中にある。空気の肌触り、陰影の深さ、音、匂い、そうした目に見えない空間の質に価値の重点が置かれた場合、そこに表現されたもの、建築家が精魂込めて託したもの、それはきわめて高度でわかりにくいものになる。その空間に身を置き、時を過ごし、体験しなければわからない。メディアも写真家もこうした価値には不親切であり続けた。
しかし、このあり方は、誰にでも開かれているわけではない。これを現実のものとするには、才能が要る。たくさんの要素を同時に想像し、それを空間の中に結び合わせなければならないからだ。経験と直観が必要なことはいうまでもないが、それが一級のものになる
ためには、何より、その空間に身を置く人間というものにたいする深い洞察が不可欠で、
それだけのものを身につけた建築家はめったにいない。([1]233~234ページ)

[2]『場のちから』
建築は空間の「湿り気」・人の感情の総体と向き合わなければならない
モダニティ(近代性、近代的なもの:筆者)は、わたしたちの身の回りを覆い尽くしつつある。それは、世界的な経済構造や社会構造と連動して、いまだに生活の隅々にまで浸潤し続けている。便利さ、明るさ、速さ、安さ、そしてなによりわかりやすさ、この力には抵抗し難いものがある。しかし、人という存在は、それだけでは遥(はる)かに足りない。人の感情を受け止め、人が尊厳を保持しうる空間とは、そんなものに支配された空間ではないはずだ。
モダニティがもたらす空間は何故か乾いている。現代建築も乾いている。雑誌で目にする様々な作品には、明らかに「湿り気」が欠落している。([2]123~124ページ)
空間に「湿り気」を求めたい。ここで言う「湿り気」とは、感情の襞(ひだ)や心の陰影を受け止める空間の質のことだ。([2]124ページ)
建築という価値も、本来はそうした人の感情に生起する様々な質に内包すべきである。そのためには設計は、喜び、夢、希望、愛着、悲しみ、打算、矛盾、裏切り、葛藤、追憶、といった人の感情の総体と向き合わねばならないだろう。この態度は設計者に多大の忍耐を強いるが、結果として、出来上がる空間に「湿り気」をもたらすはずだ。この困難さに耐えることは、それ自体が「建築に感情を取り戻すための戦い」なのだ。([2]124ページ)

都市計画は終わりも完成もない物語(物語ること)のプロセスである
誰であれ志のある都市計画家を思うとき、その職業の難しさと悲しさを思わずにはいられない。彼らは100年を夢想し、理想を思い描き、今日の日常的な無理難題を扱う。それでいて、都市の時間に終わりのないこともよく知っている。華々しくテープを切るようなゴールなどない。すなわち、すべてはプロセスであって、目の前の現実は過ぎ去る一側面でしかない。そのことを誰よりも熟知している。また同時に、自らが夢想する未来もまた過ぎ去る一側面でしかないことも知っている。人間のそして人間社会の性(さが)を嫌というほど見ながら、それでも社会の改良を諦めない。都市計画家とはそういう存在なのだ。難しさと悲しさが浮かぶのはそれ故だ。([2]183ページ)
終わりのない都市の物語は、たとえそれがプロセスであったにせよ、そして、それがたとえ見果てぬ夢であったとしても、空間デザインを旋律(メロディー)に、そして社会システムを通奏低音に、より美しい韻律(リズム)を奏でることが出来るはずだ。ソフトウェアとはその韻律のこと。その韻律にこそ人間社会の希望がある。([2]186ページ)

[3]『空間のちから』
建築は「つまらなくて価値のあるもの」「生き生きと生きる」を価値の中心に据える
建築が本来担わなければならない長い時間からすれば、「面白さ」は初期に求められる付加的な要素に過ぎない。([3]83~84ページ)
建築に「面白さ」を求めることは危険だ。一発芸と同じで、「面白さ」は一時もてはやされるが、すぐに「時代遅れ」になる。「面白さ」があったにしても、それはやはり建築の原理原則に適ったものでなくてはならないはずだ。しかし、それはそうたやすく手に入る類のものではない。昨日目新しく話題になった建物が、見る間に日常風景の中に飲み込まれ、忘れ去られていく様をいくつも見てきた。だから、「面白さ」を建築という価値の中心に据えていいはずがない。
世の中の公共建築を見渡してみると、「面白くて価値のないもの」ばかりが目立つようになってきている。そこで、逆説的なようだが、あえて「面白さ」を捨てて、「価値のあるもの」を目指してはどうか、また、多くの人が「生きること」、「生き生きと生きること」を価値の中心に据えてはどうか。
「面白さ」はわかりやすく、それ故伝わりやすいから流布しやすく、それ故に容易に消費されていく。とかく人の心は飽きやすい。それに対して、建築的体験の中に留まるような「わかりにくさ」は言葉になりにくい。それ故、伝わりにくい。この矛盾を乗り越える必要がある。([3]84~85ページ)

〇ここで、評論家・加藤周一(1919年~2008年)の『日本文化における時間と空間』(岩波書店、2007年3月。以下[4])を思い出す。確認しておきたい。加藤はいう。日本文化のなかには3つの異なる「時間」が共存している。①(『古事記』にみられる時間のような)始めなく終りない直線=歴史的時間、②(四季を中心とした)始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、③(人生の)始めがあり終りがある普遍的時間、である。そして3つの時間のどれもが、「今」に生きることを強調する([4]28~36ページ)。日本における(閉鎖的な)「空間」の特徴は3つある。①(神社の建築的空間がそうであるように)空間の秘密性と聖性が増大する(人に見せず、大事にする)「オク」(奥)の概念、②(神社には塔がないように)建築は平屋または二階建てで、地表に沿って広がり、天に向かって伸びていくことはない「水平」面の強調、③(武家屋敷や都会の地下的のように)時とともに変わる必要に応じて家屋などを増やしていく「建増し」思想、である([4]164~174ページ)。これらによって「私の居る場所」、すなわち「ここ」を重視する。要するに、日本文化に内在する時間と空間の概念は、自分がいる「今=ここ」に集約され・強調される。それは「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程をたどるものであり、日本文化の基本的な特徴(「今=ここ」の文化)である。その時間における典型的な表象・表現が現在主義であり、空間におけるそれが共同体集団主義である([4]233~238ページ)。
〇このような加藤の言説に対して内藤は、[2]において次のように要約して持論を展開する(抜き書きと要約。見出しは筆者)。留意しておきたい。

建築の本質は「今・ここ」を確かなものにするために「待つ」ことにある
加藤周一の「今・ここ」論を要約すると、「今・ここ」という時空の中の一点から世界の認識を広げていくという癖のようなものが(日本)文化の基層に根強くあるのではないか、という提示だ。西欧の時間と空間とは、個人という存在の外部に普遍的な尺度を設定し、自分と世界を定位しようとするが、この国の文化はそれとは違って、「今・ここ」という内部化された座標のもとに育まれてきたのだが、これがかつて戦争へと向かう精神を生み出した、というのである。([2]112~113ページ)
建築や都市に課せられた大きなテーマは、「今・ここ」の確かさではなかったか。しかし、情報化社会の出現と共にこれが急速に希薄になりつつある。今問題にすべきは、失われつつある「今・ここ」が生命を持つためにはどのようにすれば良いのかということだ。つまり、現在を起点に、時間と空間の幅を広く捉えること、それが建築や都市に課せられた大きなテーマなのではないか。([2]113ページ)
近年、建築が育んできた文化は、あまりにも一足飛びに未来を志向しすぎてはいまいか。そこには、その未来に至る持続的な時間が消去されている。どこかの時点で、建築は「待つ」ことを辞めたのである。([2]114ページ)
「待つ」という行為を通して、人は広がりのある「今・ここ」を引き出すことが出来る。([2]113ページ)
「待つ」ためには、未来を想起し、そこから現在を逆照射する逆立ちしたような意識が必要だ。「待つ」ことは建築にふたたび持続的な時間概念を導き入れることである。おそらく、「待つ」ことを想起することは、建築に新たな質をもたらすはずだ。([2]115ページ)

付記
阪野貢「『時間』と『空間』の座標―内藤廣(建築家)から学ぶ―」『ワンポイントメモ13+3 まちづくりと教育づくり、周辺領域からのアプローチ―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、1~5ページ所収。一部加筆修正。

 


Ⅱ 「塑する」ことと「繋ぐ」こと  ―佐藤卓(グラフィックデザイナー)から学ぶ  ―


デザインの本質は、物や事をカッコよく飾る付加価値ではありません。あらゆる物や事の真の価値を、あらゆる人間の暮しへと繋ぐ「水のような」ものなのです。(下記[1]「帯」)

<文献>
(1)佐藤卓『塑する思考』新潮社、2017年7月、以下[1]。

〇日本を代表するグラフィックデザイナーの一人である佐藤卓が書いた[1]は、デザインのノウハウ本ではない。佐藤がデザインに関する「仕事」を高く積み上げ、それを深く掘り下げることによって体得した「思考」について論じたものである。その際の重要なキーワードは「塑(そ)する」である。また、注目したいキーワードに「繋(つな)ぐ」がある。「1」はつまりは、人間の「生き方」すなわち「哲学」の書である(筆者にとって「塑する」とは馴染みのない言葉である。連想するのは「粘土・彫塑」「木材・彫刻」といった程度である)。
〇佐藤は[1]でいう。「人の営みの中で、デザインが一切関わっていない物(モノ)や事(コト)など一つもない。政治、経済から医療、福祉、衣食住、教育、科学、技術、エネルギー、社会活動、等々まで、どんな分野のどんな物事にも、すでにデザインがある」(74ページ)。「人がなし得る全ての企てには、計画的であるか否かにかかわらず、必ずデザインが及んでいる」(75ページ)。「デザインは全ての人間の営為を成り立たせるために必要なもの」(77ページ)である。
〇ここでは、佐藤のこのような視点を首肯したうえで、留意したい言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「人の営み」とデザイン
デザインは日常ありとあらゆるところに隠れている。意識化されるデザインなど、そのごく一部にすぎず、ほとんどのデザインに対して我々は無意識である。(8~9ページ)
どんな技術にせよ情報にせよ、人に届けるためには何かしらのデザインを必ず経なければならない。これは、それぞれの人の思想や好き嫌いの問題ではなく、人が人として生きていく上でどうしても避けられない事実である。(9ページ)

「弾性」と「塑性」
「柔(じゅう)よく剛(ごう)を制(せい)す」という言葉がある。しなやかな柔軟さが一見強そうな堅さを結果的には負(ま)かしてしまうものだ、を意味する。この「柔」という言葉は、さらに「弾性(だんせい)」と「塑性(そせい)」の二つの性質に分けられる。(47ページ)
弾性とは、例えば釣り竿のように、外部から力が加わって形を変えても、その力がなくなれば元の形に戻ろうとする性質である。塑性とは、例えば粘土のように、外部からの力で凹(へこ)むと、そのままの形を保つ性質である。それは、加わった力次第でそのつど形状を変化させる。(47ページ)

「自分らしさ」と「ありのまま」
人生訓上の「柔」は、これまでは「弾性」をイメージして語られてきた。いかなることに当っても自分を見失うな、常に自分の形を忘れず、自分に戻れ、といった具合にである。(48ページ)
これに対して「塑性」は、自分の形などどうでもよく、そのつど変化してもかまわないのだ、となる。しかし、そもそも自分とは何か、自己意識はどこから来て、なぜ自分は今ここに存在するのか。人生のそんな基本についてまるで分かっていない自分に、どんな形があるものなのか。自分を分かっていない自分が、自分の形をどう決めるというのか。何を考えているにしても、すでに考えている自分が存在するのだから、「自分らしさ」を気にかける必要はなく、そのつど与えられた環境で適切に対応している自分のままがいいのではないか。(48~49ページ)
自分のままであるかどうか(自分を強く意識していないかどうか)を自覚するためには、折あるごとに自分を疑ってみなければならない。何かよい案を思いついても、その直後に、これは第三者にもちゃんと伝わるのだろうか、と自分を疑ってみる。(51ページ)

「やるべきこと」と「やりたいこと」
塑性的であるとは、社会の流れにただ身を委(ゆだ)ねることでも、無闇(むやみ)に付和雷同することでも、ましてや世の中に媚(こ)びて流行を追うことでもなく、置かれた状況を極力客観的に受け止め、適切に対応できる状態に自分をしておくことである。それは、世の中に流されない冷静な判断の下、自分が今なるべきものになる、「やるべきこと」をやる姿勢である。塑性的であれば、やるべきことが、まさに「やりたいこと」になる、と言い換えてもいい。(60ページ)

「表現」と「個性」
デザインの仕事では、とかく個性的な表現を求められる傾向がある。そこで、自分らしさとは何かと考えざるを得なくなる。(49ページ)
本来、個性は誰にでもあって、個性のない人など、この世に存在しない。表現以前の思考の段階がすでに充分個性的なので、個性は、それと意識していない状態のほうがむしろ出やすいのではないか。(54ページ)
なすべきこと(「やるべきこと」)についてできるだけ客観的に思考し、見極めるところに、その人ならではの個性が出る。一般には、目に見える表現に個性があるとされがちであるが、それは違う。表現以前のその人その人の思考、ひいては生き方や思想に個性は確実に潜んでいる。(54ページ)

「発想」と「繋ぐ」
未知の事象が突如現れたかのように、「無」から何かを発想するなど、絶対にあり得ない。必ず「それ以前」が存在する。つまり発想とは、ある目的のために今まで繋がっていなかった事物同士を繋げる試みであり、自分が「無」から純粋に生み出すのではけっしてない。すでにあるのに気がつかずにいた関係を発見して繋ぐ営為が、発想である。(55ページ)

「仕事」と「塑性」
全ての仕事は「これから」のためにある。将来のために、今、何をしておくべきかを考え、事を為すことである。(168ページ)
あらゆる仕事という仕事の基本は、「間に入って繋ぐこと」である。(57ページ)
何かと何かの間に入って両者を繋ごうとすると、当然、繋ぎ方はそのつど異なる。臨機応変な繋ぎ方を可能にするため、一定の形を持たずにおく、それこそが塑性による「柔」の姿勢である。自分の形を持っていると、帰巣本能のようにそこに帰っておけば安心であり、その形が自分が社会的に認知される効力にもなる。(58ページ)
しかしながら、一つの自分の形を持ってしまえば、それ以外のあまたの可能性を狭めるのだと知っておくべきである。(58ページ)

「感性」と「仕事」
デザインは「感性の仕事だ」と言われる。それは、感性は特別な人にしか備わっていないといったニュアンスさえ感じられる。(62ページ)
そもそも感性とは何なのか。それが外部からの刺激、あるいは情報を感受する能力だとするなら、周囲の環境から何らかを感じ取る力に差はあれど、感性がまったくない人などいるわけがない。(62ページ)
誰にでもふつうに備わっている感性をさらに活かす能力、すなわち感じ取った内容を世の中に役立つなにものかに変換していく能力を技術として身につけているのがデザイナーの本分である。(64ページ)
感性が必要ない仕事などあり得ないのだし、感性を持たない人などいない。感性を活かすための技術が、それぞれの仕事でそれぞれに必要なのである。その技術とは、聞き・話し・見せるコミュニケーション能力であり、発想する能力であり、具体的な形にする能力である。(65ページ)

「ほどよい関係」とデザイン
昔から普段よく言われてきた「ほどほど」や「いい塩梅(あんばい)」などの言葉が、実は日本人が忘れてはならない大切な感性をしかと伝えている。(115ページ)
度が過ぎない、ほどのよいところを見極める(「ほどほどを極める」114ページ)、そこにこそ、デザインを考える、ひいては人の営為を考える上での大切なヒントがある。(258ページ)
秩序と無秩序、国と国民、伝統と現代、人と人、人と物事‥‥‥。それらのほどよい関係を見つけるためにこそ、人の営みにはデザインがあり続けるのである。(259ページ)

〇以上から、冒頭に記した[1]「帯」の一節に注釈を加えるとすれば、次のようになろうか。すなわち、デザインの本質は、物や事をカッコよく飾るために外から価値を付け足すこと(「付加価値」)ではない。あらゆる物や事がもともと持っている真の価値を見出し、その価値をあらゆる人間の暮しへと繋ぐ、われわれが生きる上でなくてはならない(「水のような」)ものである。デザインの本質は自己表現ではなく、何かと何かを「繋ぐ」ことである。デザイナーの仕事は、あらゆる物事を社会や不特定多数の人の間に入って、ほどよく繋ぐことであり、装飾を施す(デザインする)ことが目的ではない。
〇ここで、山崎亮の「コミュニティデザイン」(community design)の言説を思い出す。確認しておきたい。山崎によると、コミュニティデザインとは、地域コミュニティの課題をその地域の人たちが自ら解決できるよう、「場」や「しくみ」をデザインすることである。コミュニティデザイナーの仕事は、住民主体の内発的な「まちづくり」すなわちコミュニティデザインを進めるために、人と人を結びつけ、なさすぎでも、ありすぎでもない「いいあんばいのつながり」(山崎亮『コミュニティデザインの時代』中央公論新社、2012年9月、10~11ページ)をデザインすることである。佐藤の言説と通底するところである。
〇改めて佐藤は、「(政治・経済や医療・福祉、科学・芸術など全ての)人の営みの中でデザインと関わりのない物事は何ひとつないのだとすれば、必然的にデザイン教育へと意識が向かう」(216ページ)。「デザインは、我々を取り巻く地球環境を人の営みと共に気づかい(気づいて思いやる)考えることでもある」(220ページ)、という。そこで、デザインマインドを育む「デザイン」の授業を、「英語の早期導入や道徳の成績評価化の前に、むしろ国語・算数・理科・社会・体育・デザイン」として一日も早く、小学校低学年から始めてはどうか、と提案する(220ページ)。
〇また、山崎もいう。「これからの地域福祉に必要な知恵を、『わたしたち』は、どこで学ぶのか。現場で学べばいい。地域の活動に参加して、人と人とのつながりのなかで体験し、発見し、感動し、共感しながら知恵を会得(えとく)することに勝る教育はない。その生き方(Life)こそが、21世紀を生きていく『わたしたち』にとって最高の財産(Wealth)になるであろう」(山崎亮『縮充する日本』PHP研究所、2016年11月、355ページ)。
佐藤と山崎のこの言説については、「まちづくりと市民福祉教育」について思考する筆者にとって、同感(首肯)するところである。
〇佐藤にあっては、「ある課題を深く掘り下げて行くために、場合によっては一定の枠(=形)をあらかじめ決めて(=持って)おく必要があることまで否定するつもりはない」(61ページ)。そう言いながらも、弾性的に自分の形あるいはスタイルを持つことには否定的である。「一つの自分の形を持ってしまえば、それ以外のあまたの可能性を狭める」、と佐藤はいう。
〇この点を「まちづくりと市民福祉教育」の実践・研究に引き寄せて言えば、その実践・研究をめぐる状況や課題は、歴史的・社会的に形成され変質する。その点を認識したうえで、「まちづくりと市民福祉教育」の科学的・体系的で学際的な深化・発展を期するためには、独自(固有)の分析視点・視角や枠組み、アプローチの仕方や分析方法、言語体系や論述方法などを設定・構築することが必要かつ重要となる。とは言え、すべての実践家(学術的実践家)や研究者(実践的研究者)が同一の実践・研究方法による必要はない。根源的な価値観や共通する科学的な知識・考え方を踏まえたうえで、異なった実践・研究方法を採ることによって新たな可能性や展望を切り拓くことができる。それぞれの形あるいはスタイルを持つ実践・研究の成果を、「共働」の視点に立って、如何に融合化・統合化するかが重要となる。それによってはじめて、「まちづくりと市民福祉教育」の総体としての推進が図られることになる。

付記
阪野貢「『塑する』ことと『繋ぐ』こと―佐藤卓(グラフィックデザイナー)から学ぶ―」『ワンポイントメモ13+3 まちづくりと教育づくり、周辺領域からのアプローチ―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、6~11ページ所収。一部加筆修正。

 


Ⅲ 「福祉文化」活動を通した「ゆるやかな絆」 ―今中博之(ソーシャルデザイナー)から学ぶ  ―


<文献>
(1)村木厚子・今中博之『かっこいい福祉』左右社、2019年8月、以下[1]。
(2)アトリエ インカーブ編『共感を超える市場―つながりすぎない社会福祉とアート―』ビブリオ インカーブ、2019年9月、以下[2]。
(3)今中博之『社会を希望で満たす働きかた―ソーシャルデザインという仕事―』朝日新聞出版、2018年10月、以下[3]。

〇[1]は、今中博之(社会福祉法人素王会理事長、アトリエ インカーブ クリエイティブディレクター)と村木厚子(元厚生労働事務次官)の対談本である。「自力と他力」「内閉と開放」「市場と制度」などの二項対立的なキーワードを通して、「福祉は何故、低くみられるのか」「福祉をかっこいい業界にするにはどうすべきか」を語り合う(「帯」)。[2]は、今中と松井彰彦(東京大学大学院教授)の講演と対談を中心に編んだものである。そこでは、「共感を求めすぎないこと」「閉じながら “ときどき” 開くこと」の重要性を説きながら、「市場×福祉」について論じ合う。[3]は、「あなたの『怒り』は何ですか」というフレーズで始まる。今中の怒りは、障がい者などの社会的に弱い立場に置かれている人、すなわち「ふつうではないとみなされる人」をさらに痛めつける人や社会のシステムに向けられる。
〇[1]における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

文化の市場性と福祉文化
私は、社会福祉学者の一番ヶ瀬康子氏がいう「福祉の文化化と文化の福祉化」を実践する母体としてアトリエ インカーブ(デザイン事務所)を位置づけています。彼女はそれを「福祉文化」という概念で表現しました。生活の質が問われて久しい昨今、「社会福祉の究極の目的が、自己実現への援助であり、その在り方を追求していくことであるという視点にたつならば、文化をふくみ得ない社会福祉はあり得ないといっても過言ではない」と主張します。私も同感です。ただ、文化の「市場性」については、これまであまり議論が進んでこなかった。今後の課題は、市場性を意識した福祉文化をつくっていくことです。(20ページ)

越せない溝と「かっこいい福祉」
私にとって「かっこいい」とは、クールやスマートではなく、わかりあえないと認めることだったように思います。認めるためには、たくさんの時間が必要です。私の優しさとあなたの優しさは違うってことや、私の怒りとあなたの怒りも違うってこと。共感ができなくても理解できるまで話す、聞く。ながい時間のなかでわかりあえないことがわかるようになってきます。そうして紡がれた幸せを「かっこいい福祉」、その企てを「かっこいい社会福祉」というのだと思います。(197~198ページ)

〇[2]における言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

障がい者の芸術文化活動と「市場の力」
好きな人がいれば手を組めばいいし、嫌いな人なら手を切ればいい。選択肢の多い市場では「差別をしない取引」が可能です。つまり、市場の中には社会的に弱い人だから差別をするという行動規範は薄いのです。ゆえに、しがらみも少ない。だからこそ市場は、国を超えて人と人をつなげていくのです。
問題は、どの程度の市場化(開き方)をするかです。共感的消費者だけにアプローチしていては、広がりません。狭くて逃げ場所のないコミュニティは差別がはびこります。かといって、つながりすぎ、共感を求めすぎては、綻(ほころ)びが出てきます。身の丈にあったいい塩梅(あんばい)。そこがポイントです。
近江商人の理念である「三方よし」(売り手良し、買い手良し、世間良し)の場合のみ取引をすることです。(203~204ページ)

アートを通じた自己実現と相互実現
インカーブでは、社会福祉事業として障がい者の芸術文化活動を進めていくために「閉じながら“ときどき”開く」ことを心がけてきました。(中略)インカーブの事業の目的は、知的に障がいのあるアーティストの日常が作品制作を通して平安であることです。
アートの商業的価値を慮(おもんぱか)ることは、共感を超える市場につながります。その実現のためには、つながりすぎないこと、共感を求め過ぎないことではないでしょうか。(205ページ)

〇以上のメモに関して、若干付言しておきたい。まず、「市場」についてである。市場は、需要者と供給者が出会い、契約と取引が行われ場である。松井の言によれば、「いろんな人が集まって、一定のルールのもとにお互いにプラスになるように取引する場である」([2]88ページ)。当然、そこでの人間関係は対等である。市場では、この対等な「契約関係」とともに、人と人との「信頼関係」も必要かつ重要となる。信頼関係は、相手との対等な関係を築くための人間関係であるが、それゆえに「倫理性」(「一定のルール」)が要求される。今日の市場経済社会では、契約関係だけでなく、それ以上に信頼関係が重要となる。この点を含意するのが、今中がいう「好きな人がいれば手を組めばいいし、嫌いな人なら手を切ればいい」という言説であろう。しかし、簡単に「嫌いな人なら手を切ればいい」とはいえないのも人間社会である。そこで求められるのは、「仲間をつくる営為であり、(たとえ嫌いであっても・嫌いになっても)仲間外れにしないという行動」である。それを「福祉」と呼んでいい。
〇次に、「共感的消費者」についてである。共感的消費者とは、商品の品質ではなく、「障がい者がつくった」という商品の背景に思い入れをもって購入する人たちをいう(神谷梢[2]6ページ)。「社会福祉の事業者は、『共感的消費者』にアプローチしてきた。ただ、その範囲はとても狭く、見慣れた仲間うちに限られている。共感的消費者だけに依存し続ければ、マーケットは永遠に広がることはない。これが社会福祉の市場化の限界点である」([2]200ページ)と今中はいう。周知の通り、消費には「機能的消費」「記号的消費」「共感的消費」の3つの形態がある。ブランドネームなどの付加価値を消費する記号的消費ではなく、その商品の機能や効用を消費する機能的消費と、その商品への “こだわり” や “想い” に共感して消費する共感的消費が肝要である。
〇いまひとつは、「福祉文化」についてである。前述の一番ヶ瀬がいう「福祉の文化化」に関していえば、それは、社会福祉それ自体をいかに質・量ともに豊かな、文化的なものにしていくか、文化の香りのするグレードの高いものにしていくかということを意味する。そこから、福祉文化とは、日常生活の量的拡大と質的充実を図り、人びとの健康で快適な生活と情感の安定を保証する生活の質としての文化であるといえる。別言すれば、人びとの日常生活に心の潤いや安らぎ(内面的豊かさ)、社会的・経済的・文化的豊かさなどの「平安」をもたらす文化である。そういう福祉文化を創造するためには、人と人との “であい” “ふれあい” “ささえあい” が必要かつ重要となる。
〇こうした「福祉の文化化」をより確かなものにするためには、福祉政策や行政の文化化を図ることが肝要となる。「福祉政策・行政の文化化」のねらいは、住民の参加と合意形成のもとに、障がい者などを含めたすべての住民の主体的・自律的な文化活動の推進を図り、すべての住民が文化を享受し創造するための条件整備や環境醸成をおこなうことにある。
〇「文化の福祉化」に関していえば、文化は人びとの日常的な生活行為のなかに現れ、創られるものである。そこから、障がい者などを含めた、生活主体としてのすべての人が、文化の創造主体であり、活動主体であるといえる。しかし、例えば、芸術文化についていえば、今日においてもまだ、一定の条件に恵まれた一部の人だけのものであるとか、特定の場所や機会にふれるものであるという認識が強い。こうした芸術文化状況の偏りを是正し、とりわけ芸術文化の貧困のもとに置かれてきた障がい者などに対しては、芸術文化を享受する機会の確保・拡充や芸術文化活動(創作活動)への主体的参加を促す環境醸成を図ることが肝要となる。
〇アトリエ インカーブでは、創作活動と日常生活が共存している。作品制作を通して平安(福祉)を追求している。それはまさに「福祉文化」である。その実践は、荒廃したいまの日本社会を変革し、新たな地平を開く視点や力を生み出している。
〇なお、タイトルに使った「ゆるやかな絆」は、大江健三郎(文)・大江ゆかり(画)の『ゆるやかな絆』(講談社、1996年4月)による。それは、[1]と[2]を読むなかで思い至ったものである。ただし、記号的消費(使用)ではない。「ゆるやかな絆」をめぐって大江は、次のように述べている。僕らは「ゆるやかで、人を束縛するところは少しもなく、その両端にいる同士はお互いにひそかな敬愛の心を抱いているが、それを口にしないまま時が流れて行き、……というような、真の家族についての感情教育」を受けていたのである(講談社文庫、1999年9月、111ページ)。
〇[3]の裏テーマは、「怒りと希望:社会に怒りラディカル(徹底的)に抗すること・目の前の一人を慮(おもんぱか)ること・社会的課題をデザインで解き希望に変えること」であろうか。今中は、怒りをつくり出す社会的課題に対峙し、「ソーシャルデザインという仕事」を通して「怒りを希望に変える」「社会を希望で満たす」デザイナーである。今中にあっては、デザインは「整理整頓」(今中のデザインの原点)であり、デザイナーは「社会改良者」「社会活動家」である。デザイナーには、「目の前の一人を慮(おもんぱか)る」(220ページ)、「『なんとなく、分かる』ゆらいだ状態を受け入れる」(113ページ)、「身の丈にあった組織のサイズと、目の届く活動内容にする」(117ページ)、「熱い胸と冷たい頭の態度を身につける」(126ページ)ことなどが必要かつ重要となる。一言をもってすれば、社会に対して“ しなやかに、したたかに ”であろうか。
〇今中の仕事場であるアトリエ インカーブは、知的に障がいのあるアーティストと、デザイナーであるスタッフが日常を暮らす場所(「デザイン事務所」)である。そこでは、アーティストによって制作活動が行われ、その(生活)支援活動や環境整備活動がデザイナー(スタッフ)によって展開される。インカーブの運営理念は「閉じながら開く」(48ページ)である。事業の目的は「作品制作をおこなう、知的に障がいのあるアーティストの日常が平安であること、そして彼らの作品に尊厳を取り戻すこと、それに伴って市場で正当な評価を得ること」(137ページ)にある。それ故に、「デザインと福祉」「福祉とアート」「文化と福祉」「市場と福祉」が重視される。
〇今中の人生とアトリエ インカーブの誕生と展開については、今中の著作『観点変更―なぜ、アトリエ インカーブは生まれたか―』(創元社、2009年9月)に詳しい。そこでは、例えば、次のような言説に注目したい。「アートはアカデミズムに犯されず、自らのためにつくりだしたものであり、『創造=オリジナル』である。デザインはその真逆に位置する」(89ページ)。「取材を受けた後、新聞に踊る文言は『頑張っている障害者』や『アートで生きがい作り』、『障害者アート』だった」(144ページ)。「ヒトもモノもコトも、見る角度によって、美しくも、醜(みにく)くも、優しくも、冷たくもなる。ヒトもモノもコトも、見る角度や高さを少しずつコントロールすることができるようになってきた。私はそれを『観点変更』と呼ぶ」(273ページ)。「私は彼らのクリエイティブな能力に心酔してインカーブを立ち上げた。お涙頂戴や見世物小屋として立ち上げたわけではない」(298ページ)、などがそれである。それらは筆者に、糸賀一雄の『福祉の思想』(日本放送出版協会、1968年2月)を学生時代に読んだときの感動を蘇(よみがえ)らせる。
〇[3]の論考から、福祉教育実践や研究において、筆者が注目あるいは留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。それは、「目から鱗(うろこ)」の、福祉教育論の「作品」「テクスト」でもある。

アーティストの尊厳と作品の尊厳
(インカーブのアーティストの作品は)初めから評価されたわけではないし、作品が売れたわけでもない。私は「美術館」で展覧会をすべき作品だと思っていたが、美術関係者からは「公民館や市役所のロビー」での展示をすすめられた。バザー商品と同じように展示すれば購入者も現れるかもしれないというアドバイスもいただいた。
一方で、社会福祉関係者からの風当たりも強烈だった。立ち上げてまもないインカーブの事業を講演会で説明したときだった。「あんたらは、障がい者を食い物にしてるだけや。デザインやアートみたいなもんで障がい者が食べていけるわけないやろ。知的障がい者は文句いわへんから、スタッフが好きなことやってるだけやないか」。大阪弁で罵声が浴びせられた。(35ページ)
障がいがあるというだけで彼らの作品をカテゴライズ(分類、区分)し、評価の俎上に載せることをためらったり、市場性があることを認めないのは時代錯誤といえるだろう。(37ページ)
誰もが障がい者の社会参加を当然のことと思えるようになるためには、障がい者もみんなの土俵に上がる必要がある。特別に仕立てられた土俵ではなく、市場というフラットな土俵(現代アートを扱う一般のアート市場:筆者)に上がらなくてはならない。(39ページ)
インカーブやアーティストの矜持(きょうじ。誇り)を守るために、公民館のロビーではなく、お涙ちょうだいの展覧会でもない、作品の尊厳を傷つけない「美術館」で発表し、美術の俎上に載せることを目指したのだ。(42ページ)

デザインとソーシャルデザイン
コトやモノを計画的・意識的につくる行為は確かにデザインである。しかし本来はそれだけではない。つくった先を見据えること、そしてその先の暮らしや環境にも責任を負うことがデザインである。(50ページ)
デザインは、モノの姿や形よりも、「計画」や「意図」にその本質がある。(62ページ)
インカーブのような「障がい者のための社会福祉事業」を興すことも広義のデザインである。(63~64ページ)
ソーシャルデザインとは、「社会的課題を解決」するための、「意図的な企て」を「整理整頓」することで、利益追求を第一義にせず、「社会貢献」をおこなうことだ。ソーシャルデザインの実践は「ソーシャルワーク」を重ね合わせながら考える必要があるため、二つの領域を「行ったり来たり」しながら進めていかなければならない。(58ページ)
ソーシャルデザインは、金もうけを第一義に考えるのではなく、あくまで「生活の困りごと」をデザインの思考や手段を用いて解消することが目的である。その生活は個人のミクロのレベルを起点に考えられる。つまり「市場をつくろう」と思い立つのは、あくまで目の前で「生活の困りごと」を持った個人のためであり、その個人に相対さない限り困りごとの真実は見えてこない。(54ページ)

ソーシャルデザインとコミュニティデザイン
この数年間、ソーシャルデザインと並行して「コミュニティデザイン」という言葉も頻繁に使われるようになった。(中略)ソーシャルデザインは、対象を「目的を一つとしない人々」を含めた集団で、個人から地域、さらに政策や運動などの社会的課題を射程に置く。一方のコミュニティデザインは、「目的を一つとする人々」の共同体で、その社会的課題は、個人から地域までを対象としている。(65ページ)
馴染みのある日本のソーシャルデザイン(「コミュニティデザイン」:筆者)は、過疎化する地方の再生のために、その地域の市民をエンパワーする仕組みや、事業デザインをおこなうことだ。(中略)私が話すソーシャルデザインは、ラディカル(革新的、根源的)で荒唐無稽(こうとうむけい)な物語にうつっているのかもしれない。(160ページ)

ソーシャルデザイナーと「可視化する能力」
ソーシャルデザイナーは、「社会的課題を解決するための意図的な企てを整理整頓する人間」である。彼らに必要とされるのは「社会的課題」を「発見」する能力、その社会的課題を解決するための「バランスの良い」意図的な企て、そして課題を「整理整頓」するときに必要な「狭義のデザイン」能力である。(69~70ページ)
①「社会的課題」を「発見」する能力については、自らの興味と関心、そして怒りが生まれてくる課題を発見してほしい。発見するには、哲学や宗教に裏付けされた思想が必要である。「哲学・宗教抜きのデザインと社会福祉は愛のないセックス」だと言えないだろうか。(70、71ページ)。
②「バランスの良い」意図的な企てについては、両極端な二つの道を否定することから入り、一つの計画を立てること(仏教でいう「中道」)である。(72ページ)
社会的課題にはそれぞれの暗閣(くらやみ)がある。いかんともしがたい状況に出くわすことがある。(中略)その暗闇に分け入るために、ソーシャルデザイナーの覚悟とメンタルのタフさとラフさが要求されている。(73ページ)
③課題を「整理整頓」する能力については、デザイナー独自の能力は、「可視化する能力」である。色や形をつくり、文章を書き、企画書に仕立て、プレゼンテーションをおこない、依頼者・顧客の課題を解決することである。時代が変わってもデザイナーの中核をなす基本のスキルは、可視化する能力につきる。(73~74ページ)

「公と共と私」と「閉じながら開く」
社会を希望で満たしていくために、地域やNPO法人、社会福祉法人は協働すべきである。中でも私は、社会福祉法人を使い倒すことで「公と共と私」をつなぎ直せる可能性にかけてみたい。(139ページ)
現在はおこなっていないが、インカーブの設立当初「見学会」を開いていた。(中略)毎月の見学会には多様な分野から大量の人がインカーブにやってきた。行政は「社会福祉施設は地域に開かれた存在になりましょう」と指導する。その言葉を鵜呑みにした私は、見学会を真面目に開催していた。(142ページ)
そもそもインカーブは、誰を「主体」として仕事をしているのか。それは間違いなく障がいのあるアーティストであり、彼らの制作環境を整えることが第一義である。その主体性を脅やかすモノやコトに抗していくのがわれわれスタッフの仕事であり、ソーシャルデザイン/ソーシャルワークである。開き過ぎれば彼らの精神状態はアップダウンし心の波が立つ。スタッフも見学者へのアテンド(世話、接待)が増え、本来の仕事であるアーティストとの関係が希薄になる。
その後、私がインカーブを「閉じながら開く」組織にしていこうと考えたのは、彼らを慮(おもんぱか)ることができなかった見学会の反省からだった。(143ページ)

マイノリティ(少数派)とダイバーシティ(多様性)
私は「デザイナー」の属性と「障がい者」の属性があり、二つを行ったり来たりしながら仕事をしてきた。(214ページ)
「東京2020  NIPPONフェスティバル」の「主催プログラム」を検討していた文化・教育委員会の進行台本には、「今中委員には、〈障がいを持つ当事者〉として、また、知的に障がいのある現代アーティストたちの創作活動の支援者として、ご協力いただいた」と記されていた。文章のはじめにある〈障がいを持つ当事者〉である私が、「トークンマイノリティ」だと気づいたのはそのときだった。
トークンは「証拠」という意味で、トークンマイノリティは「お飾りのマイノリティ」ともいわれる。「トークンマイノリティ」ということを否定的に捉えれば、委員会のメンバーにマイノリティ(社会的少数者)の人も含めておけばイメージが良くなるという打算であり、まさにバランスを取るために形ばかりに入れるマイノリティのことだといえる。一方で肯定的に捉えれば、多様な人々の参加によって多様性を実現しているとも、自己と他者のシームレス化(境界線を消すこと)の実現に一役買ったともいえる。(215ページ)
メガネをかけたアスリートはオリンピックに出場し、車椅子に乗るアスリートはパラリンピックに出場すると、われわれは思い込んでいないか。メガネと車椅子が同じ福祉用具なら両者はパラリンピックに出るべきである。メガネがファッションなら、車椅子もファッションである。そうであるなら、オリンピックとパラリンピックは、どちらか一方でいい。メガネも車椅子も有用性という意味では差異はない。(216~217ページ)

〇「怒りは感情的なものではなく、希望を追い求めるがゆえの態度である」(228ページ)。[3]の「あとがき」のワンフレーズである。ここに、「福祉文化」や「ソーシャルデザイン」についての今中の思想や哲学、その核心を見る。多言を要さないであろう。

補遺(1)
〇今中の著作のひとつに、『壁はいらない(心のバリアフリー)、って言われても』(河出書房新社、2020年7月)がある。デザイナーと障がい者の2つの属性をもつ今中が、自らの人生を綴った自分史であり、怒りや安らぎをその時々の心情を吐露した本でもある。
〇ここであえて、次の3点に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

(1)障壁と防壁
「壁」には、「壊すべき壁」(障壁)と「自分を守ってくれる壁」(防壁)の2つがある。壁をゼロにしたからといって共生がかなうわけではない。小さな心の壁は、他者と適度な距離感をあたえ共生には欠かせない存在である。一方で、壊すべき壁を完全にフラットにすることは不可能である。(1~2ページ)

(2)閉じながら開く
困っている人の存在やその人の悩みを「知って欲しい」と思う人が、多すぎる。その人たちは「いいひと」であり、悪意のない善意の持ち主である。しかし、開きっぱなしだと害虫が侵入し(疲弊する)、閉じっぱなしだとカビ臭くなる(脆弱になる)。そこで、壁の中に籠(こも)りながらも、つながりをもち、時が来たら壁の上から顔を出すという、「閉じながら開く」が重要となる。(89、91ページ)

(3)多様性のややこしさ
マジョリティ(多数派)には、(きっと)悪意はない。ただ、悪意のない善意ほどややこしいものはない。多様性はややこしい。初めて見る規格外は恐怖であるが、それが多様性である。つまずくことを躊躇するなら、多様性のある社会は実現しない。つまづくことを覚悟するしか、多様性のある社会は実現できないのである。(21、108ページ)

補遺(2)
〇今中の著作のひとつに、『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか―守り・守られる働き方のすすめ―』(晶文社、2022年4月)がある。そこでは、「デザインと社会福祉と仏教を行ったり来たりしながら」(24ページ)、働き方・仕事論や組織マネジメント・リーダーシップ論、そして生き方・人生論などが広く深く説かれる。
〇今中の主張はシンプルである。「弱い人はお互いを守り合いながら長く生存できる。強い人を守る人はいない、強い人は生き残れない」。極論すればこれだけである。その際のキーワードは、「弱さ」と「多様性」である。今中はいう。「チームに一番必要なのは弱さである」。すなわち、人間はそもそも、弱い存在であり、弱いからこそチームを組んで生き延びようとする。弱く矛盾した存在としての個人が有機的につながることによって、チームは機能する。チームは強い人だけでは構成できないのである(9、113ページ)。
〇そしていう。「多様性を失ったシステムは崩壊する」。すなわち、共生社会はバラツキを是とする社会(多様性のある社会)であり、その違いをひとまとめにせずお互いを認め合う。違いが交差すれば違和感も生まれるが、それ以上に異なる視点が有効に機能し、新たな希望が見つかる。弱い人も強い人も、異なるものが異なるものとして共存・協働することが肝要である(17、103ページ)。
〇「弱さ」と「多様性」に関して、いくつかの言説を紹介しておくことにする。
・高橋源一郎/「効率的な社会、均質な社会、『弱さ』を排除し、『強さ』と『競争』を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』大月書店、2014年2月、12ページ)。
・天畠大輔/「僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない」(天畠大輔『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること―』岩波新書、2021年10月、226ページ)。
・澤田智洋/「『弱さ』の中にこそ多様性がある。だからこそ、強さだけではなく、その人らしい『弱さ』を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく」(澤田智洋『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』ライツ社、2021年1月、51~52ページ)。
・熊谷晋一郎/「凡庸(ぼんよう)コンプレックス」、すなわち個性のない・どこにでもいる規格化・平準化された「ふつう」の人間が、「奇妙に多様性を奨励する社会の中で、相対的に可視化された(奇抜な)障害者への嫉妬が芽生えるという転倒した現象も起きている」(熊谷晋一郎「『用無し』の不安におびえる者たちよ」里見喜久夫『障害をしゃべろう! 上巻 ―「コトノネ」が考えた、障害と福祉のこと―』青土社、2021年10月、185ページ)。

付記
阪野貢「福祉文化活動を通した『ゆるやかな絆』―今中博之(ソーシャルデザイナー)から学ぶ―」『ワンポイントメモ13+3 まちづくりと教育づくり、周辺領域からのアプローチ―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、12~15ページ所収。一部修正。
阪野貢「『怒りと希望』:社会に怒りラディカル(徹底的)に抗すること・目の前の一人を慮(おもんぱか)ること・社会的課題をデザインで解き希望に変えること―今中博之著『社会を希望で満たす働きかた』読後メモ―」市民福祉教育研究所ブログ〈雑感〉(73)2019年1月28日アップ。一部加筆修正。

 


Ⅳ 「1984年」と「個性」と「多様性」 ―ジョージ・オーウェルと村田紗耶香(小説家)から学ぶ  ―


<文献>
(1)ジョージ・オーウェル、高橋和久訳『1984年』(新訳版)早川書房、2009年7月、以下[1]。
(2)村田紗耶香『信仰』文藝春秋、2022年6月、以下[2]。

〇[1]『1984年』は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説である。「情熱と暴力と絶望」(トマス・ピンチョン「解説」507ページ)に満ちた小説であり、読み進めると “緊張と憂鬱と恐怖” が襲う。
〇この小説の舞台は、主人公のウィンストン・スミスが住む3強国のひとつ、オセアニアである。その国では、ビッグ・ブラザーが率いるイングソックという名の政党による一党独裁体制がとられている。その党は、3つのスローガン「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」を掲げている。
〇「戦争は平和なり」(war is peace)は、戦争はその継続化によって存在しなくなる(見せかけの平和)。「真の恒久平和とは、永遠の戦争状態と同じ」(307ページ)である、という意味である。「自由は隷属なり」(freedom is slavery)は、権力に隷属(屈従)すれば、思想・良心に従って行動する真の自由ではなく、監視下の自由(錯覚の自由)が保障される。「隷属は自由なり」(409ページ)、という意味である。「無知は力なり」(ignorance is strength)は、知識のない思考は空虚であり、思考のない知識は盲目である。従属(服従)は思考停止と洗脳によって実行される。「階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、成立しえない」(293ページ)、という意味である。
〇いまひとつ注目しておきたい党のスローガンに、「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」(56ページ)というのがある。過去は記録と記憶のなかに存在するが、権力者は歴史を書き換え捏造(ねつぞう)する、という意味である。
〇筆者はここで、「洗脳」と「盲従」、「上意下達」と「統制」という言葉について思う。福祉教育も、権力や権威に洗脳され、権力や権威に盲従しているところはないか。また、上意下達や統制について「見て見ぬふりをしている」ところや、「見ぬふりをして見ている」ところはないか。今年は「2022年」である。ロシアのウクライナ侵攻が始まり、日本を取り巻く安全保障環境がより一厳しさを増している。そんななかで、「 “ふくし” は平和のシンボルであり、身近な “ふくし” を学ぶことは世界の平和を創る道に通じる」ことを改めて、心(胸)に強く刻みたい。
〇[2]『信仰』は、芥川賞作家の村田紗耶香の最新刊である。6編の短編小説と2編のエッセイが収録されている。エッセイのひとつ「気持ちよさという罪」では、「個性」と「多様性」という言葉との出会いや、そのときの率直な思いが述懐され、その言葉の暴力性が述べられる。メモっておくことにする(抜き書き)。

●確か中学生くらいのころ、急に学校の先生が一斉に「個性」という言葉を使い始めたという記憶がある。今まで私たちを扱いやすいように、平均化しようとしていた人たちが、急になぜ? という気持ちと、その言葉を使っているときの、気持ちのよさそうな様子がとても薄気味悪かった。(中略)「さあ、怖がらないで、みんなももっと個性を出しなさい!」と言わんばかりだった。そして、本当に異質なもの、異常性を感じさせるものは、今まで通り静かに排除されていた。(110ページ)
●当時の私は、「個性」とは、「大人たちにとって気持ちがいい、想像がつく範囲の、ちょうどいい、素敵な特徴を見せてください!」という意味の言葉なのだな、と思った。(中略)「個性」という言葉のなんだか恐ろしい、薄気味の悪い印象は、大人になった今も残っている。(111ページ)
●大人になってしばらくして、「多様性」という言葉を最初に聞いたとき、感じたのは、心地よさと理想的な光景だった。例えば、(中略)仲間同士の集まりで、それぞれいろいろな意味でのマジョリティー、マイノリティーの人たちが、互いの考え方を理解しあって、そこにいるすべての人の価値観がすべてナチュラルに受け入れられている空間。発想が貧困な私が思い浮かべるのは、それくらいだった。(111~112ページ)
●私はとても愚かなので、そういう、なんとなく良さそうで気持ちがいいものに、すぐに呑み込まれてしまう。だから、「自分にとって気持ちがいい多様性」が怖い。「自分にとって気持ちが悪い多様性」が何なのか、ちゃんと自分の中で克明に言語化されて辿り着くまで、その言葉を使って快楽に浸るのが怖い。そして、自分にとって都合が悪く、絶望的に気持ちが悪い「多様性」のこともきちんと考えられるようになるまで、その言葉を使う権利は自分にはない、とどこかで思っている。(112ページ)
●私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。今、私はそう願っている。(117ページ)

〇筆者はここで、「障害と個性」「分離と統合」「排除と共生」「多様性と包摂」などの言葉とともに、「車椅子体験と障がい者との交流」について思う。そして、その “ぎこちなさ”  や  “危うさ”  に思い至る。これまでの福祉教育プログラムは、子どもたちやマジョリティ(多数派)に属していると思っている(思わされている)人たちに、「気持ちよさという罪」を負わせてきたのではないか、と疑心暗鬼になり、自責の念に駆られる。

付記
阪野貢「『1984年』と『茶色の朝』、そして “いま” ―読後メモ―」市民福祉教育研究所ブログ<雑感>(31)2015年9月8日アップ。一部加筆修正。
阪野貢「村田紗耶香が述懐する『個性』と『多様性』―その言葉の暴力性―」市民福祉教育研究所ブログ<雑感>(160)2022年8月27日アップ。一部修正。

 


Ⅴ 「福祉」はアートであり、デザインである  ―東京藝大と東大における体験型授業から学ぶ  ―


<文献>
(1)東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』左右社、2022年1月、以下[1]。
(2)山中俊治『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』朝日出版社、2021年11月、以下[2]。

〇[1]と[2]は、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめたものである。[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート×福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くの人たちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。

アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)

被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)

アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)

ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)

対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)

〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、人びとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)

デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)

スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)

デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)

〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。

アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。

ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)

〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓くところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、その人がその人らしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。

付記
阪野貢「福祉はアートであり、デザインである―東京藝大と東大における体験型授業から学ぶ―」『ワンポイントメモ13+3 まちづくりと教育づくり、周辺領域からのアプローチ―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、45~49ページ所収。一部修正。

 


むすびにかえて


〇「(市民)福祉教育」に固有の実践・研究方法は構築・確立されているか、ということをめぐっては、例えば、日本福祉教育・ボランティア学習学会編『福祉教育・ボランティア学習の新機軸-学際性と変革性―』(大学図書出版、2014年10月)から読み解くこともできよう。筆者は、福祉教育実践の理論化や研究の科学的体系化は言われるほどには進んでいないと思っている。ここ10年近くは、「先進的」「独創的」と評される実践事例の単なるモデル化や定型化による「福祉教育プログラム」の研究開発が進められてきた。そのうえにいま、政府主導による形式的で画一的な、財源の裏付けを欠いた、理念や理想としての「地域共生社会」づくりが強調(強制)されている。気にかかるところである。言うまでもなく、地域づくり(まちづくり)を推進するためには、そのノウハウやヒト、モノ、カネ、情報が必要である。
〇また、「地域共生社会」については、原田正樹の次の指摘を胸に刻んでおきたい。「これまで『総論賛成・各論反対』と言われてきたが、7・26(相模原殺傷)事件はこの『総論』でさえも全否定し、共生社会を実現していくことの難しさを思い知らされた」(原田正樹「7・26(相模原殺傷)事件を考える-事件が問いかける意味とは-」『ふくしと教育』第22号、大学図書出版、2017年2月、13ページ)。
〇改めていま、(市民)福祉教育の理論的・実証的かつ実践的研究のあり方が厳しく問われている。その際、「福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成」を図る「まちづくりと市民福祉教育」にあっては、本稿で提示した「文化的・芸術的視点からのアプローチ」が必要かつ重要となる。強く認識したい(筆者のいまのそれが表層的で断片的なものであることは十分に認識している)。

 


備 考 ― <文献>一覧  ―


はじめに

Ⅰ「時間」と「空間」の座標― 内藤廣(建築家)から学ぶ―
(1)内藤廣『建築のちから』王国社、2009年7月。
(2)内藤廣『場のちから』王国社、2016年7月。
(3)内藤廣『空間のちから』王国社、2021年1月。

Ⅱ「塑する」ことと「繋ぐ」こと―佐藤卓(グラフィックデザイナー)から学ぶ―
(1)佐藤卓『塑する思考』新潮社、2017年7月。

Ⅲ「福祉文化」活動を通した「ゆるやかな絆」―今中博之(ソーシャルデザイナー)から学ぶ―
(1)村木厚子・今中博之『かっこいい福祉』左右社、2019年8月。
(2)アトリエ インカーブ編『共感を超える市場―つながりすぎない社会福祉とアート―』ビブリオ インカーブ、2019年9月。
(3)今中博之『社会を希望で満たす働きかた―ソーシャルデザインという仕事―』朝日新聞出版、2018年10月。

Ⅳ「1984年」と「個性」と「多様性」―ジョージ・オーウェルと村田紗耶香(小説家)に学ぶ―
(1)ジョージ・オーウェル、高橋和久訳『1984年』(新訳版)早川書房、2009年7月、以下[1]。
(2)村田紗耶香『信仰』文藝春秋、2022年6月、以下[2]。

Ⅴ「福祉」はアートであり、デザインである―東京藝大と東大における体験型授業から学ぶ―
(1)東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』左右社、2022年1月。
(2)山中俊治『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』朝日出版社、2021年11月。

むすびにかえて

阪野 貢/新訂「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―その哲学的思考に関する研究メモ―

新訂「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて
―その哲学的思考に関する研究メモ―

阪野 貢/市民福祉教育研究所

 


はじめに


<文献>
(1)高久清吉哲学のある教育実践―「総合的な学習」は大丈夫か―』教育出版、2000年4月、以下[1]。

〇2019年11月、日本福祉教育・ボランティア学習学会第25回北海道大会が北星学園大学(札幌市)で開催された。大会テーマは、「未来へつなぐ、みんなでつなぐ。~多文化共生社会を育む福祉教育とボランティア学習~」であった。圧巻で感動的だったのは、本田優子による「アイヌ文化からみる多文化共生社会の創造」と題する「基調講演」であった。アイヌ語に「ヤイコシラㇺスイェ」という言葉がある。「ヤイ」は「自分」、「コ」は「に対して」、「シ」は「自分」、「ラㇺ」は「心」、「スイェ」は「を揺らす」、「ヤイコシラㇺスイェ」で「自分に対して自分の心を揺らす」となる。それは日本語の「考える」という意味である。「考える」とは「心を揺らす」こと、筆者にとって目から鱗(うろこ)が落ちる一言であった。
〇「自由研究発表」や「課題別研究」報告などでは、ひとえに筆者の浅学菲才によるものであるが、「心を揺らす」報告はさほど多くはなかった。新味のない(使い古された)テーマについて、場所や組織、人を替えただけの、あるいは横文字や権威づけられた(古めかしい)過去の言説を多用した議論では、福祉教育実践や研究の推進は望むべくもない。歴史的・社会的・文化的実践であるはずの福祉教育実践をめぐって、その現場から乖離(かいり)した抽象的な言葉・概念や思考をこねくり回すのも、然りである。そこからは、原理や理論のない、視野が狭く定型化され、矮小化された実践が生み出されるだけである。そうした福祉教育実践さえも、厳しい時代状況に押しつぶされようとしている(されている)。意図的にか無意識的にか、それを理解・認識しない実践者(あるいは実務家)や研究者がいる。また、そうした状況に抗することなく早々に諦め、受け入れ、慰め合っている人たちもいる。そこからは、福祉教育実践や研究の「展望」や「未来」は見出せない。
〇そこで、いま求められるのは、歴史的視点や哲学的思考を重視しながら、福祉教育とは「そもそも何か」、それは「いかにあるべきか」「いかに取り組むべきか」を、危機的な現場や生々しい実践とのかかわりのなかで本質的・根源的に問い直すことである。「理論と実践」の関係性について探究することなく、単なる「実践(事例)」研究にとどまりがちな福祉教育研究の現状も気にかかる。
〇そんな思いのなかで、高久清吉の[1]で、筆者なりに再確認・再認識しておきたい論点と言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「哲学のある教育実践」という言葉
「哲学のある教育実践」という言葉に接した時、ある人は、教育についての確固とした信念や信条をもった教師による実践とか、教育の理念や理想に基づく明確な思想に貫かれた実践を思い浮かべるかも知れない。また、人によっては、考え方や判断の筋道がすっきりとした実践、教師の体系的な見方や考え方が際立っているような実践をイメージするかも知れない。いずれにしても、「哲学のある教育実践」が意味するものは、だれにも共通一様に理解されるというのはあり得ないようである。(108~109ページ)

「哲学」の意味
「哲学」の意味は、通常、大きく次のような二つに分けられる。一つは、「哲学すること」(Philosophieren)、もう一つは、「哲学」(Philosophie)である。
「哲学すること」とは筋道の通った知的活動そのもの、この活動の「過程」にこそ哲学の本質があると見る立場である。それに対し、「哲学」とは知的活動の「結果」または「所産」として導き出された内容の体系、それが本来の哲学であるとする立場である。この二つの意味は、よく「過程としての哲学」と「結果としての哲学」という言葉で表現されている。この二つを切り離して別々のものと見なすことはできないが、「哲学」の意味を、一応、この二つに分けるのは妥当である。(109~110ページ)

「哲学のある教育実践」の意味
「哲学」の意味を二つに分けるとすると、これに対応して、「哲学のある教育実践」の意味も二つに分けられる。「哲学のある教育実践」の「哲学」を「過程としての哲学」と理解すれば、「哲学のある教育実践」とは、哲学的な見方や考え方が大きく作用する教育の実践、言い換えれば、教育実践上のさまざまな問題や事柄が哲学的な見方や考え方に基づいて吟味され、判断され、構想される実践ということになる。これに対し、「哲学」を「結果としての哲学」と理解すれば、「哲学のある教育実践」とは、哲学的な思考から生まれた内容、つまり、教育に関する明確な「思想」に基づく実践ということになる。
「哲学のある教育実践」のこのような二つの意味は、実は、一方がなければ、他方も成り立たないという表裏の関係にある。哲学的な考え方によって明確な思想が導き出されるし、明確な思想が前提となって、実践上のさまざまな問題や事柄についての哲学的な考え方も行われることになるわけである。(110ページ)

〇以上を簡潔に言えば、高久にあっては、「哲学」とは「いわゆる学問領域としての哲学やその学説内容ではない。いつでも、全体的・根本的なものを踏まえながら、実践や実際上の個々の問題を筋道立てて主体的・構造的にとらえていこうとする思考の働きそのもの」(まえがき、ⅵページ)をいう。そして、「哲学のある教育実践」は、「教育の理論または哲学と結び付き、これによって支えられ、方向づけられた教育実践」(97ページ)と定義づけられる。
〇そのうえで高久は、教育現場と教師について、次のように指摘する。「哲学をもたないで教育の実際の仕事に従事している教師たちに共通して認められる欠点は、本質と現象、全体と部分、本と末、重と軽との間の区別がはっきりせず、これらを簡単に混同してしまうことである」。「さまざまな問題や事柄への対応に追いまくられる教育現場において、教師のものの見方や考え方は強力に狭められてしまい、現象に振り回される本末軽重の見分けもできなくなってしまう」(112ページ)。そこで、現場教師に求められるのは、「教育の理論または哲学と、教育実践との生きた結び付きを求める問題意識」である(97ページ)。「教育現場にとって何よりも必要なのは、『普遍的理念』、つまり、教育の本質的・原理的なものをしっかりと踏まえ、これに基づく哲学的な考え方を展開していくことである」(112ページ)。
〇こうした指摘は、学校現場を含めた地域・社会における福祉教育(「市民福祉教育」)にも通底する。福祉教育学界(学会)が探究すべきものは、福祉教育の場当たり的な、対処療法的な方法・技術ではない。哲学的思考によって生み出される「福祉教育思想」(「福祉教育哲学」)と、それに貫(つらぬ)かれた福祉教育の「理論と実践」である。その際の哲学的思考は言うまでもなく、自律的で理性的、批判的な思考であり、その論理化と体系化が「哲学する」ということでもある。
〇今日、行政主体のまちづくりや福祉の公的責任の縮減、教育の国家統制の強化などが進むなかで、市民の要求や構想に基づく「まちづくり改革」や高齢者や障がい者などの真のニーズに基づく「福祉改革」、子ども・青年から出発する下からの「教育改革」が強く求められている。そこで何にもまして必要なのは、それらに関する思想と哲学である。筆者は、「まちづくりと市民福祉教育」について思考する際、歴史的視点とともに哲学的思考が必要かつ重要であることを指摘してきた。その際とりあえず、大雑把であるが、「思想」を物事についてのまとまった思考、「哲学」を物事の根源のあり方についての探究、そして「倫理」を社会において人が守るべき物事の規範、と考えてきた。本稿は、その点に多少なりとも留意しながら草してきた拙稿(論点や言説についてのメモ)の一部を集成したものである。

付記
阪野貢「歴史的視点や哲学的思考を欠いた福祉教育の未来―高久清吉著『哲学のある教育実践』から考える―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、42~45ページ。一部加筆修正。

 


Ⅰ  「ふくし」の思想と哲学


<文献>
(1)三谷尚澄『哲学しててもいいですか? ―文系学部不要論へのささやかな反論―』ナカニシヤ出版、2017年3月、以下[1]。
(2)広井良典『福祉の哲学とは何か―ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想―』ミネルヴァ書房、2017年3月、以下[2]。
(3)糸賀一雄『福祉の思想』日本放送出版協会、1968年2月、以下[3]。
(4)阿部志郎『福祉の哲学』誠信書房、1997年4月、以下[4]。
(5)伊藤隆二『この子らは世の光なり』樹心社、1988年9月、以下[5]。
(6)仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―<贈与のパラドックス>の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月、以下[6]。
(7)大橋謙策『社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月、以下[7]。

〇文部科学省によって、「大学改革」という名のもとで、教員養成系・人文社会科学系「学問」の「不要論」が謳(うた)われている。また、「学問」ではなく、「実践力」の養成に特化した職業訓練機関(「専門職大学」)や資格取得機関への転換が図られている。それは、「社会」的要請によるものであるというが、その際の「社会」は(政治に大きな影響力を持つ)「財界」のことを意味する。ちなみに、2023年度開学予定を含む専門職大学・短期大学は22校(大学19校、短期大学3校)、専門職学科は1学科を数えている。
〇こうした潮流に対して、[1]で三谷尚澄はいう。「頼るもののない時代のただなかに、拠って立つべき足場をもたないままに放り出された人間は、どうやって日々をしのいでいけばよいのだろう。(中略)そんなときだからこそ、それほど立派でも力強くもない人間にも届くことのできる倫理の言葉を探しておく必要があるのではないか。そして、その点において、(中略)哲学と呼ばれてきた知的営みがきわめて大きな知的貢献を行なうことができるのではないか」(81~82ページ)。「論理的・批判的に思考する」能力と「箱の外に出て思考する」能力の育成(120、151ページ)、「市民的器量(civic virtue)」すなわち「哲学の器量を備えた市民」の育成(105、195ページ)などを目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならない、と。「まちづくりと市民福祉教育」のあり方を問う際の根源的な問題のひとつでもある。強く認識したい。なお、「箱の外に出て思考する」能力とは、「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」、さまざまな状況に柔軟に対応するために必要とされる「器量」をいう(151ページ)。
〇政治と社会の右傾化、福祉の私事化と教育の国家統制が進んでいる。こうした現在の社会情勢のなかで、「いつか来た道」論が唱導される。しかし、その「危機」は、「時代の繰り返し」であり、歴史の繰り返しではない(吉田久一『日本社会事業思想小史―社会事業の成立と挫折―』勁草書房、2015年10月、はしがき、ⅴページ)。新しい歴史をつくるのは、草の根の民主主義であり、歴史的で社会的な内容を失うことのない「市民」による組織的・体系的な実践(援助・支援、活動)や運動である。
〇[2]の広井良典にあっては、「ポスト成長時代」の日本社会は、(1)政府の借金の際限なき累積と将来世代へのツケ回し、(2)人々の「社会的孤立」の高さ(「無言社会」)、の “危機” 状況にある。と同時に、「新たなつながり」やネットワーク化を志向する動き(「関係性の進化」「関係性の組み換え」)がみられる。このような状況においてこそ、「人々の行動や判断の導きの糸となるような、新たな価値原理や社会構想が求められている」。いま、「福祉の哲学とは何か」が問われるところである(まえがき、ⅱ~ⅲページ)。
〇なお、[2]では、「福祉」を積極的ないしポジティブな営みとしてとらえ、「幸福」や「公共性」「宗教」「コミュニティ」「生命」などとのかかわりについて多面的・多角的な思考を展開している。それは、これまでの「福祉思想」や「福祉思想研究」とは異なる「新たな視点」からのアプローチであり、「独自の考察と構想」を提起するものでもある。
〇ところで、「福祉の思想や哲学」といえば筆者はまず、「この子らを世の光に」「発達保障」の糸賀一雄と、「ボランティアの互酬性」「コミュニティ重視志向の地域福祉」の阿部志郎を思い出す。糸賀は、「福祉の実現は、その根底に、福祉の思想をもっている。実現の過程でその思想は常に吟味(ぎんみ)される。(中略)福祉の思想は行動的な実践のなかで、常に吟味され、育つのである」([3]64ページ)という。阿部は、「福祉の哲学は、机上の理屈や観念ではなく、ニードに直面する人の苦しみを共有し、悩みを分ちあいながら、その人びとのもつ「呻き」(うめき)への応答として深い思索を生みだす努力であるところに特徴がある」([4]9ページ)と主張する。二人はともに「実践的思想家」であり、それは、先駆的な現場実践(キリスト教福祉実践)を通して形成された幅の広い、奥行きの深い「福祉の思想」であり「福祉の哲学」である。なお、周知のように、「世の光」とは新約聖書(「マタイによる福音書」)の「山上の垂訓(説教)」のひとつである(「あなたがたは世の光である」)。「互酬」とは「贈与と返礼」の社会的相互行為を意味する。
〇ここでは、糸賀の「この子らを世の光に」と阿部の「ボランティアの互酬性」について、その論点と言説を改めて[3]と[4]から確認することにする(抜き書きと要約)。

糸賀一雄:「この子らを世の光に」([3])
(精神薄弱児の教育は)彼らについて何を知っているか、彼らにたいして、また、彼らのために何をしてやったかということが問われるのでなく、彼らとともにどういう生きかたをしたかが問われてくるような世界である。(51ページ)

この子らはどんなに重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。「この子らに世の光を」あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。「この子らを世の光に」である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである。障害をもった子どもたちは、その障害と戦い、障害を克服していく努力のなかに、その人格がゆたかに伸びていく。3才の精神発達でとまっているように見えるひとも、その3才という発達段階の中味が無限に豊かに充実していく生きかたがあると思う。生涯かかっても、その3才を充実させていく値打ちがじゅうぶんにあると思う。(177ページ)

この子たちは、自己実現という生産活動ばかりではなく、もうひとつ別な新しい生産活動をしている。心身障害をもつすべてのひとたちの生産的生活がそこにあるというそのことによって、社会が開眼され、思想の変革までが生産されようとしているということである。ひとがひとを理解するということの深い意味を探究し、その価値にめざめ、理解を中核とした社会形成の理念をめざすならば、それはどんなにありがたいことであろうか。(178ページ)

阿部志郎:「ボランティアの互酬性」([4])
哲学という言葉は、「知恵の探求」という意味である。哲学は、答えそのものによってよりも、むしろ問いによって性格づけられる。哲学は学問の一分野であるが、「学問」が「問いを学ぶ」「問われて学ぶ」という字で構成されているのは興味深い。(9ページ)

福祉の哲学とは、福祉とはなにか、福祉はなにを目的とするか、さらに人間の生きる意味はなにか、その生の営みにとって福祉の果たすべき役割はなにかを、根源的かつ総体的に理解することであるが、それには、福祉が投げかける問いを学び、考えることである。それはニードの発する問いかけに耳を傾けることからはじまる。(9ページ)

互酬は、親族・地域共同体を維持するための不可欠な行為で、今でもアジアの共同体は互酬で成り立っている。戦後の日本社会では、共同体は封建遺制として否定され崩壊の途をたどったのに、目標とするコミュニティは未だつくられていない。でも、互酬は生き続ける。香典、

香典返し、結婚祝い金、引き出物、中元、歳暮の風習は、ヨーロッパ社会ではまったくみられない。しかし、共同体を維持する機能としての互酬は失われ、かつアジアの互酬を支える宗教性も日本社会にはないのが実態だ。(92ページ)

互酬制と近代型福祉、さらに伝統的ボランティアと有償型サービスとのあいだに深いギャップがあり、ときおり、雑音が聞こえぬわけでもない。アジアの共同体のなかにたくましく息づいている互酬制――分かち合いの相互扶助――に今ひとたび目を向け、そして日本の地域社会の現実を見直したうえで、自立と連帯の福祉社会を創出する発想に切り換えるのが望ましいのではないか。時代とともにニードが変わるから対応が多様化するのは当然である。その態様はどうであれ、住民が福祉を学習し、理解し、実践に参加するまちづくりを推進する必要を痛感せずにはいられない。(126~127ページ)

〇「福祉の思想や哲学」の探究は、実証的・実践的なものでなければならない。それによってその思想や哲学は広め、深められ、また新たな思想や哲学の形成が図られることになる。ここでは、筆者の姿勢が評論家的なそれであることを承知のうえで、糸賀の「この子らを世の光に」に対して伊藤隆二の「この子らは世の光なり」、阿部の「ボランティアの互酬性」に対して仁平典宏の「贈与のパラドックス」についての言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

伊藤隆二:「この子らは世の光なり」([5])
糸賀一雄氏は戦後、最初の公立福祉施設「近江学園」をつくり、この子らの教育福祉に邁進(まいしん)し、ついに「この子らに世の光を」を「この子らを世の光に」に転回させたのである。「この子らを」というとき、われ(または、われわれ)は主体で、「この子ら」は客体になる。主体が客体に働きかけ(あるいは操作し)、「世の光に」まで高めてやるのだという発想には、ある種の傲慢(ごうまん)さがあるし、「この子ら」の本質への誤解がある。また、「この子らを世の光に」というとき、まだこの子らが「世の光」であることを認めていない。そこで教育し、きたえ、みがきをかけて、やっと世の光になりうるのだという見方である。わたくしは、この子らと長く深くかかわっているが、この子らは生まれながらにして「世の光」だと知った。正確にいうと、生まれたときから死ぬときまで、いや死んでもなお世の光でありつづける。「この子らは(そのままで)世の光である」。「この子ら」は主体であって、世を照らしつづけているのである。(223~224ページ)

仁平典宏:「贈与のパラドックス」([6])
阿部志郎も「互酬性」を基盤に据えたボランティア論の担い手の一人である。阿部は1973年の時点では、ボランティアの報酬性を明確に否定していたが、1994年には態度を180度と言ってもいいほど「軟化」させている。彼はまず、共同体や地域社会において不可欠な行為として「互酬性」を取り上げ、「香典―香典返し、結婚祝い金―引き出物、中元、歳暮の風習」を例示する反面、その基盤は失われてきているという。その一方で、新たに登場してきた「相互に有料で利用し、有償でサービスを提供する」「市民参加型福祉サービス」に、「互酬の近代化・組織化」を見る。彼によると、これらは「(1)会員の自主性にもとづく、(2)友愛・協同の思想にたつ、(3)有償とはいえ実費弁償的性質のもので収益を目的としない、(4)グループとして、ボランタリー・アソシエーションの性格を保つ」ことから「広義のボランティアの原則からはずれていない」と述べる。このように、ここで「互酬性」という思想財を獲得することによって、「ボランティア」という言葉は高い汎用可能性を配備することが可能になった。担い手にとって効用があると言えるなら、経験・楽しさ・友達づくり・評価・金銭的対価などを、区別なく堂々と「ボランティア」として肯定できる。<贈与のパラドックス>は、このような形で「解決」されるべきこととなった。(381~382ページ)

〇仁平の「贈与のパラドックス」(paradox、逆説・矛盾)とは、贈与は行為者の真の意図とは別に、交換や見返り、偽善や自己満足などとして外部観察されがちである、という意味であろう。平易に言えば、「贈与の偽善性」「贈与の疑わしさ・怪しさ」である。ボランティアについての言説の歴史は、こうした「贈与のパラドックス」を如何に解決するかの歴史であった、と言ってよい。
〇いま改めて「福祉の哲学」の必要性を強調する一人に、「実践的研究者」である大橋謙策がいる(注①)。大橋は[7]で、「住民と行政との関係を上下の関係で捉えるのではなく、住民の自立と連帯を前提にし、対等の立場で問題解決を図る新たな社会哲学、社会システムが求められ、社会福祉のような歴史的に国の『社会の制度』として発展してきたものも従来にない発想が求められている」(30ページ)として、次の3つの「思想」を取りあげる。(1)フランスの近代市民革命の際にうたわれた「博愛」の思想(自由と平等を担保する「博愛」)。(2)ノーマライゼーションやソーシャルインクルージョンといった思想(「社会的包摂」)。(3)自分たちで相互扶助組織をつくり、対応しようとする考え方(「協同組合方式」)、がそれである(28~30ページ)。そして大橋はいう。「ソーシャルワークを展開する際の価値の1つは、人間性を尊重し、社会正義と公正を守ることであり、人々の自由と平等を保障することであるが、それらを標榜すればするほど、人々が社会的にも、個人的にも “博愛” という社会の神聖な責務を遂行することが求められる。(そのためには)伝統的な意識と行動を尊重しつつも、新たな社会システムに必要な価値、意識として “博愛” の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(227ページ)。再認識したい。
〇なお、大橋は、全国各地における草の根の地域福祉実践の向上と「バッテリー型研究」に取り組んでいるが、最近の政策動向に関して、「地域福祉が“我が事”になり、その危険性を警鐘すべきである。戦前の歴史を忘れた政策は恐ろしい」という(筆者への書簡)。地域共生社会が「上から」の押しつけ(「教化」)によるものであってはならない、という指摘である。「バッテリー型研究」については、大橋謙策『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク―』中央法規出版、2022年4月、ⅱページを参照されたい。
〇また、「博愛」に関しては、次の諸点にも留意しておきたい。(1)フランス革命は、新興の「ブルジョワジー」(有産階級、中産階級)による革命である。(2)その理念は、「自由、平等、友愛」であり、「自由、平等、博愛」ではない。(3)「自由」は、多様性を保障するが、不平等を生むことにもなる。(4)「平等」は、突き詰めれば全体主義や不自由を生む。(5)「友愛」とは、他者を自分の本当の兄弟のように愛すること(社会秩序)を意味する。(6)「博愛」には、「慈善」と同様に、階級差別的な意味合いがある、などである(注②)


①「福祉を哲学する」ひとりに秋山智久がいる。秋山は、「福祉哲学の必要性」を次の8点に要約している。(1)平和・人権・安全の希求、(2)人間尊重の確認、(3)社会福祉の進む方向の示唆、(4)社会福祉的人間観の確立、(5)「倫理綱領」の検討、(6)実践の価値観の探求、(7)社会福祉利用者の人間としての不幸、人生の不条理の解明、(8)実践の拠り所としての価値観・人生観の提供。これらの必要性は、秋山にあっては、将来より広義の「福祉哲学」が体系化されるときに、その主要な「構成要素」ともなるものである(秋山智久・平塚良子・横山穫『人間福祉の哲学』ミネルヴァ書房、2004年6月、45~47ページ)。
②フランス革命の理念は「自由、平等、友愛」である。「自由」は放置すればアナーキズム(無政府主義)に行き着く。「平等」は突き詰めたら全体主義や共産主義になる。「友愛」は友を愛するであり、他の宗教や民族は除外される。「博愛」とは違う(中川淳一郎・適菜収『博愛のすすめ』講談社、2017年6月、35、98ページ)。

付記
阪野貢「福祉教育を哲学するための初学―糸賀一雄・阿部志郎・大橋謙策の言説から―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、1~7ページ。一部加筆修正。

 


Ⅱ  「正義感覚」の育成


 さもしい:①見苦しい。みすぼらしい。②いやしい。卑劣である。心がきたない。
正義:①正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。②正しい意義または注解。③(justice)㋐社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正とを軸とした「公正としての正義」を提唱。 ㋑社会の正義にかなった行為をなしうるような個人の徳性。(新村出編『広辞苑』(第六版)岩波書店、2008年1月)

<文献>
(1)伊藤恭彦『さもしい人間―正義をさがす哲学―』新潮新書、2012年7月、以下[1]。

〇周知のように、2015年6月、選挙権年齢を満18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が成立した(施行は2016年6月)。そしていま、高校生らの政治や選挙への関心を高め、政治的教養を育む教育のあり方が問われている。
〇「まちづくりと市民福祉教育」について考えてきた筆者は、これまで、「政治」(とりわけ地方政治)を重要な検討課題のひとつとして位置づけてきた。また、各地のまちづくりにかかわるなかで、地域における政治的・社会的権力や地元住民(「有力者」)の言動に戸惑ったこともあった。そのとき、正義感をひけらかすわけではないが、「さもしい」や「正義」という言葉が脳裏に浮かんだのも偽らざる事実である。
〇[1]で伊藤恭彦は、政治「哲学的思考を思い切り『低空飛行』させ」(18ページ)、わかりやすく、ユーモアを交え、ときには自虐ネタをふりかけながら「さもしさ」の正体を追う。そして、伊藤の主張(結論)は、シンプルでクリアである。「私はいろいろな考え方や生き方をする人々が、ゆるやかに共存している社会が望ましいと思う。正義という言葉を使って一人一人をお説教するのではなく、最低限の正しい制度についてみんなで考え、合意し、それを形作ることを目指した方がいい。正義は制度を通して実現される。制度とは、すべての人間を架け橋でつなぐ最低限の絆でもある」(205ページ)、というのがそれである。
〇以下に、(1)「さもしさ」と「正しさ」、(2)「お互い様」の倫理と制度化、(2)「私憤」と「公憤」、という項目を設けて、伊藤の論点や言説の要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

(1)「さもしさ」と「正しさ」
私たちは既に十分豊かであるにもかかわらず、他の人をさしおいて貪欲に利益を追求しているかもしれない。さらには誰かの不幸の上に自分の豊かな生活を作り上げているかもしれない。こうした態度を「さもしい」と呼びたい。(14ページ)

「さもしさ」が人と人との関係を意味しているとするならば、その反対語は「正しさ」になる。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは倫理の体系の中に「正しさ」(正義)を位置付け、それが人間関係においてとても重要であることを説いた。「不正な人と思われているのは、(1)法律に反する人と、(2)貪欲な人、すなわち、不平等な人である」という。(57ページ)

「さもしい」とは倫理的に言うと不正な人間関係を意味している。不正だと言う理由は、自分の「分」を超えて何かを得ようとするからである。一人一人が「分」を超えて欲望を追求すると、すごく不平等な人間関係ができあがってしまう。これを押さえ込むためには、一人一人の「分」を確定する基準が必要だ。しかし、この基準を確定できるほど、私たちの社会は単純ではない。そこで生きている人間はみな違い、おかれた環境もみな違うからである。(71~72ページ)

「分」とは、ある人がもっている価値であり、その人の必要性や功績や長所などにあったその人にふさわしいものをいう。不正とは自分の「分」を守らないことであり、正義とは「その人にふさわしいものを与える」ことを意味する。各人の「分」を決めるにあたり、分かりやすい基準は、自由な行動と自己責任である。(59~62、72ページ)

自由社会(市場社会)は、競争社会である。市場社会の競争は全員に参加を強制する。競争である以上、順位がつく。かくして市場競争は必然的に不平等を生み出す。不平等の発生を必然と捉えた上で、問題を含んでいない不平等とは何か。別の言い方をすれば、許される(倫理的に許される)不平等とは何か。これが不平等と格差(不平等が、ある限度を超し、問題を含んでいる場合の表現)を検討するときに中心に据えられなければならない問いだ。不平等に対してこうした問いを『正義論』の著者ジョン・ロールズも立てている。ロールズは現代社会にふさわしい正義として、①「基本的な自由を全員に保障すること」、②「機会(ライフチャンス)の実質的平等をはかること」、そして、③「それでも残る不平等は社会の最も不利な人々の利益になること」、という三点を指摘している。不平等はあってもよいが、社会で最も不遇な人々の状況改善に役立たなくてはならないというわけだ。
不平等や格差を捉えるときには、視点を不平等の底辺にいる人々に定めなければならない。もし、不平等の底辺にいる人々が過酷な状態に放置されているならば、その不平等は問題だと言える。(98~99、101~102ページ)

(2)「お互い様」の倫理と制度化
共同体社会の名残として、私たちの社会には「お互い様」という考えが残っている。「困った時はお互い様」である。(106ページ)

「お互い様」は、日本的共同体関係に源をもつ言葉だと思われる。共同体的なもたれ合いという互酬性がここには含まれている。ただ、同時に「お互い様」には、相手の立場になってみるという大切な洞察が含まれている。つまり、自分の視点と他人の視点を入れ替えてみるわけだ。共同体的な倫理と正義は異なるかもしれないが、「お互い様」の倫理には公平さや正義につながる視点が含まれている。そう考えてみると、「お互い様」という美しい発想を、制度の中に組み込んでいくことは正義を満たす一つのルートになるだろう。できることなら困っている人を助けたいとほとんどの人は思うだろう。ただ、助けることを個人に任せると、同じ苦境に立ちながらも、助けられる人と助けられない人という不公平が生じる。だから、市場社会の底辺で苦しむ人々を助けるための基本的な仕組みは、社会制度にした方がよい。(113~114ページ)

お互いに助け合うという制度は、自己責任を曖昧にするものではない。不運な人を助けることは、その人がまた自己責任に基づいて行動していく途を確保することでもある。つまり、自由な選択とか自己責任とかいった価値を、助け合いの制度は損なうのではなく、逆に輝かすことになるのだ。(123ページ)

不平等の底辺で苦しむ人々を助けることは、最低限の正義だと思う。私たちはこのような正義感を制度にきちんと組み込む必要がある。そして、そんな制度をつくり、制度の維持に貢献したならば、後は自由に自分の欲望を追求しても「さもしい」とは言われない。(137ページ)

(3)「私憤」と「公憤」
正義は、人を苦しめる構造、人を食い物にして利益を得てしまう構造、この構造を改革することである。正義が求めるのは、構造を規制する制度の形成や制度の改革である。(159~160ページ)

社会の中で苦しんでいる人を助けることが、正義の優先課題である。正義という規範に従って社会を構想してみること、これが今、私たちに求められることだ。正義はそれを支える感情も必要としている。それは「むかつき」といった私憤ではない。「私が公平に扱われていない」という怒りを、同じように社会で不公平に扱われている人々の境遇と重ねあわせることで生じる「これはおかしいだろう」という感情だ。私的なむかつきではなく、社会の不正を訴える怒りである。それは私憤ではなく、またバラバラな私憤の寄せ集めとしての興奮でもない。社会全体の不公平や不正義に対する憤り、つまり公憤だ。不公平に対する公憤を紡ぎ合わせ、それを社会的な公平感に高めていくこと、これが現実社会に生きる私たちの正義感になる。そしてそれが制度改革を導くだろう。(197~198ページ)

〇以上から分かるように、伊藤は、社会の不公平や不平等の「さもしい」問題を解決するのは、「正しさ」(正義)にかなった公平な「制度」である。先ずは政治による制度の形成が肝要である、と説いている。そういうなかで、次の一節は大いに首肯するところである。それに関して、福祉教育の実践・研究における似たような姿勢・態度を律したい。

政治家の中にもやたら道徳的お説教をしたがる人がいる。「親を敬え」「郷土を愛せ」「公共心をもて」などと。そのメッセージ自体には問題がないとしても(本当は問題の多い道徳を語っている場合も多いが)、お説教は政治家の仕事ではない。政治家は全身全霊をかけて制度の再構築に取り組むべきだ。そのために税金で雇われている。上から目線で道徳を語るヒマがあったら、制度構築のために政治学、政治哲学、公共政策学などを学ぶべきだ。(205~206ページ)

〇ただ、制度の構築は政治(政治家)の役割であるが、そのすべてを政治に任せておけばよいというものではない。国政であれ地方政治であれ、政治をつくるのは国民・市民の一人ひとりである。すなわち、制度(法規、仕組み、きまり)の形成や運営、またその改革に直接的あるいは間接的に参加(参画)して公平・公正で平等な社会を創り、それを保持するのは、国民・市民一人ひとりである。その際、「私憤」や「公憤」を感じる能力、「正」や「不正」を判断する能力、すなわち「正義感覚(the sense of justice)」が問われることになる。
〇人は、親子の愛情や信頼関係に基づく親の指示や命令、禁止などを通して、道徳的な感情や態度を習得する。また、自分の身の回りや日常生活における仲間との関係で、正義や不公平(不正義)の感覚や感情を持ったり、表出したりする。それはより広い地域・社会における正義を求め、さらには政治的あるいは法的な正義を求める感覚や感情を醸成することになる。そして社会での正義感覚は、制度を遵守することに向けられ、また必要に応じてそれを改革することによってより一層の「秩序だった社会」が形成・保持されることを要請する。
〇このように、社会における正義や制度による秩序は、家庭での親子関係や集団での仲間関係における正義感覚によって基礎づけられる。そして、その正義感覚は、子ども・青年が地域・社会のなかで成長するにつれて徐々に習得されていく。
〇そうだとすれば、子ども・青年から大人までの正義感覚をいかに育成し、発達させるかが重要な問題となる。それを「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて言うとすれば、市民福祉教育を通じた正義感覚の育成が、(子ども・青年から大人までの)市民の人権意識や地域における助け合いの意識を高め、市民的資質や能力(シティズンシップ)を形成し、それに基づいたまちづくりの社会的実践(援助・支援、活動)や運動を促すことになる。別言すれば、正義感覚は、市民的資質や能力の重要な構成要素であり、市民によるまちづくりはそうした正義感覚に基づいた理解力と判断力、実践力を欠いては機能しない、ということである。その意味では、市民福祉教育における正義感覚の育成という課題は、シティズンシップやその教育のあり方を追求するなかでより明確なものとなる。筆者が市民福祉教育の基本的概念として「シティズンシップ教育」を重視する所以である。
〇「まちづくりと市民福祉教育」はこれまで、「共生」の理念のもとで、政治や社会への参加(参画)や協働(共働)を重視してきた。しかし、「正」「不正」を判断するのに必要な正義感覚の育成・形成については、必ずしも十分に関心を払ってきたとは言えない。まちづくりの実践や運動に向けた、またその実践や運動における(子ども・青年から大人までの)市民の正義感覚の育成・醸成が大きな課題になる。

補遺
〇 不平等や格差を肯定する立場に立つと、不平等や格差そのものを解消するための取り組みは消極的なものにならざるを得ない。その際の取り組みは、いわゆる勝ち組と負け組のうち、負け組の人びとに「再チャレンジ」の機会を用意することになるが、結果的には勝ち組と負け組の入れ替えをするだけに過ぎない。しかも、その機会をとらえて努力する限りでは支援(「助け合いの制度」)の対象とされるが、努力の質量によって支援の対象から外されることになる。そこにあるのは排除の論理(排除の正当化)である。
〇そこで求められるのは、個人の「意欲」「能力」「努力」などの有無や質量を個人的・内面的なものに押しとどめるのではなく、それを下支えする多面的・重層的な社会システムをどう構築するかということである。すべての人が、その属性や帰属にかかわりなく、「自立と連帯」「自律と共生」の社会的な互恵的信頼関係のなかで平等に扱われ、共に支え合い、それを通して社会への完全参加を果たすことが強く求められる。

付記
阪野貢「福祉教育における『正義感覚』―伊藤恭彦著『さもしい人間』に学ぶ一」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、55~60ページ。一部加筆修正。

 


Ⅲ  「人間的連帯」の言説


「人間の尊厳と存在意義―生の無条件の肯定と豊かに生きるということ―」について筆者は、次のように考えている。すなわち、人がそれぞれ、みんなと豊かに生きるためには、「 “ただ生きる” ことの保障」と「 “よく生きる” ことの実現」、そして「 “つながりのなかに生きる” ことの持続」が必要かつ重要となる。

「 “ただ生きる” ことの保障」は、人はそれぞれ、いま、ここに生きているというそのことに本源的な価値がある、という考えに基づいている。
「 “よく生きる” ことの実現」は、人にはそれぞれ、やりたいこと・やれること・やらなければならないことがある、という考えに基づいている。
「 “つながりのなかに生きる” ことの持続」は、人はそれぞれ、社会や歴史・文化・環境などとのつながりのなかに生きている、という考えに基づいている。

<文献>
(1)馬淵浩二『連帯論―分かち合いの論理と倫理―』筑摩書房、2021年7月、以下[1]。
(2)齋藤純一『不平等を考える―政治理論入門―』ちくま新書、2017年3月、以下[2]。

〇馬淵浩二は[1]でまず、(1970年代以降の)新自由主義の影響のもとで消費主義をはじめ個人主義や能力主義が強化され、多元化や多様化が進み、格差や分断が拡大した現代社会にあって、「連帯」という言葉はすでに「賞味期限」が切れているのだろうか、と問う。その答えは「否」である。そのうえで馬淵は、「連帯(solidarity)」概念の類型化と最大公約数的な定義を試みる。具体的には、代表的な「社会的連帯(social solidarity)」、「政治的連帯(political solidarity)」、「市民的連帯(civic solidarity)」、「人間的連帯(human solidarity)」についての主要な論者の連帯論を辿り、自身の「人間的連帯論」を構想する。その基底にあるのは、人間は連帯的存在であり、相互扶助的な関係のなかでしか生きられないという人間観である。すなわち、[1]の基調を成すのは「連帯は人間存在の基本構造である」(313ページ)というテーゼである。
〇馬淵は「連帯」を次のように定義する。

連帯とは、共通の性質・利益・目的を共有する複数の者たちが、あるいは他者の利益・目的の実現に関与する複数の者たちが、協働や扶助(の責任)を引き受けることで成立する結合のことである。この結合は、自然発生的であったり、目的意識的であったり、制度的であったりする。この結合には、一体感の感情が伴うことが少なくない。(50ページ)

〇連帯とは、人々が結合し、互いに協力し支え合うことであるが、それは様々な場面や文脈において成立する。この定義には上述した連帯の代表的な類型が包摂されている。「社会的連帯」は、「接着剤のように人々を繋ぎ止め、社会の成立に資する結合関係」、「同じ社会の成員であるという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「政治的連帯」は、「政治的大義(共通の目標)の実現をめざす者たちのあいだに成立する協力関係」、「同じ政治的大義に関与しているという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「市民的連帯」は、「福祉国家の制度を介して市民のあいだに成立する相互扶助関係」、「同じ福祉制度を支えているという条件のもとで成立する連帯」を意味する。「人間的連帯」は、「人類の一員である個人のあいだに成立する普遍的な道徳的関係」、「人間であるという理由で成立する連帯」を意味する(42、280ページ)。
〇馬淵が構想する「人間的連帯」について加筆すれば、それは「国家、社会、政治集団といった特定の集団のなかで成立する連帯ではなく、人間あるいは人類という集団の内部で成立する連帯」(281ページ)である。それは、「全人類が結合している」ということを意味し、「人間は本来的に連帯的存在であるという人間の存在様式を表現するもの」(296ページ)である。別言すれば、「人間の存在構造」を指し示す・形容する言葉(302ページ)である。その意味において、馬淵にあっては、「人間的連帯」は他の様々な種類の連帯に通底する共通の「分母」(303ページ)であり、「母体」(312ページ)となる。
〇ここでは、馬淵の論点や言説のうちから、市民福祉教育の実践・研究に「使える」あるいは「使いたい」次の5点に限ってメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。それは、冒頭に記した管見に新たな視点や思考を加味したいという思いによる。

人間は本来的に「連帯的存在」である/人間の生は相互扶助や連帯によって成立している
新自由主義の過去数十年にわたる影響のもとで、自助努力や自己責任という発想が持て囃(はや)されてきた。自助努力や自己責任の主張は一面では正しい。しかし、この主張を不当に全面化することは避けなければならない。なぜなら、そのことによって、人間に関する一個の真理が覆い隠されてしまうからである。それは、他者たちに支えられなければ、人は生きられないという真理である。新自由主義は、この連帯の真理を抑圧し隠蔽(いんぺい)してきた。だが、自助努力や自己責任という発想が妥当する領域など高が知れている。それは、人間の生という氷山の一角にすぎず、その下には分厚い連帯の層が存在し、その山頂を支えているのである。新自由主義の狭隘(きょうあい)なイデオロギーに抗して、人間は連帯的存在として見出され、思考されなければならない。(15ページ)

連帯はそれ自体では「正当性」を保証しない/連帯は「共同性」以外の価値や尺度を必要とする
連帯は、ある集団に属する者たちを結合させ、支え合いを実現する。だが、連帯はそれが働く集団の性格に応じて、「悪のための連帯」として実現される可能性も残される。その意味で、連帯が成立しているという事実だけで連帯の正当性や倫理的正しさが保証されるわけではない。(318ページ)連帯論には人間の共同性や利他性を強調する傾向があるが、人間はいつも共同性や利他主義にもとづいて生きているわけではない。(211ページ)
個々の連帯が正当化されうるものであるためには、連帯が帯びる共同性の価値とは別の価値や別の尺度が必要になるだろう。たとえば正義という尺度が必要になるかもしれない。連帯する者たちの一部に犠牲が強いられ、一部が特権を享受する事態が生み出される場合、その連帯は正義に悖(もと)る可能性がある。あるいは、連帯がどのような目的を実現しているのか、どのような価値を促進しているのか、集団の外部に悪しき影響を及ぼしてはいないか――そうした事柄についての思考が連帯論には必要となる。そのような事柄を思考するためには、正義以外にも自由、平等、差異、人権といった他の価値や尺度が考慮されなければならないかもしれない。(318~319ページ)
しかし他方で、連帯が他の価値を支えているという一面を忘れてはならない。人々の自由や平等が毀損(きそん)された状況を変えようとするとき連帯が生起する。自由を行使する人物の生存が危ういとき、それを支えるのも連帯である。(325ページ)

連帯は「排除の論理」を内包する/連帯は包摂と排除という両義性を持っている
連帯が連帯であるがゆえに自身の内部に生み出してしまう負の要素のひとつとして、「排除」が挙げられる。(319ページ)
集団は、集団に属する者たちと、そうでない者たちとのあいだに境界線を引くことによって成り立つ。あるいは、境界線が引かれることによって、集団が立ち上がる。「彼ら」とは異なるものとして、「われわれ」集団が生み出されるのである。その集団の連帯が機能するとき、それは一方で当該の集団の結合を強化するが、その結合の強化が他方で排除を生み出すことに貢献する。すなわち、集団の外部に敵を作り出してそれを攻撃したり、集団の内部から「不純」な分子を排除して外部に放逐(ほうちく)する。(319、320ページ)
そうであるなら、連帯をめぐって次のような論点が浮上する。誰が連帯によって結合するのか、誰がその結合から排除されるのか、包摂されたり排除されたりする場合の条件はどのようなものか。その線引きは正当なものか。これらの問いは、連帯の「正しさ」を判定するうえで、欠かすことのできない参照事項となるだろう。いずれにせよ、ある場面で連帯を主張するとき、かならずそこから排除される者たちが存在するという構造的事実に、連帯論は敏感でなければならない。(320、321ページ)

連帯は「感情」によって成立する/連帯は人間の感情の及ぶ範囲や程度に左右される
連帯感という言葉が存在することからも分かるように、連帯の成立にとって感情は重要な要素である。集団の成員たちによってある種の感情が共有されていなければ、連帯が成立し持続することは困難だろう。連帯と親和的な感情は、共感や親近感や一体感といったものであろう。こうした感情が共有されず、成員たちが憎しみ合っていたり、利己主義が支配的であったりするような集団においては、連帯は成立し難いはずである。(321ページ)
だが、感情は、連帯にとって諸刃の剣である。ひとつには、感情が及ぶ範囲の問題がある。人間の感情の及ぶ範囲は狭い。規模が比較的小さな集団の内部でなら連帯は容易に成立するだろう。だが、感情が及ぶ領域を超えたところに存在する者たちとのあいだに連帯が成立することは困難になる。(321、322ページ)
人は、感情の及ぶ範囲にいる者たちだけと結び付いているわけではない。このような世界にあっては、見知らぬ者たちとの連帯がひとつの焦点となる。そのような連帯はいかにして可能になるのか。感情の広がりと関係の広がりが大きくずれてしまう世界にあって、感情の広がりの外部に存在する者たちとのあいだに、どのようにして連帯を立ち上げることができるのだろうか。連帯に刻まれた包摂と排除の問題、「われわれ」と「彼ら」を分かつ境界線の問題は、感情という問題の地平においても未決の問題なのである。(322ページ)

連帯には「水平的連帯」と「垂直的連帯」がある/連帯は権力性・階層性を排除できない
連帯の現象形態として、水平的連帯と垂直的連帯がある。水平的連帯では、(相互依存関係にある)個人が横に連なる。これに対して、連帯する個人のあいだに、垂直的な位階秩序が生み出されることがあるかもしれない。そのような垂直的な権力関係によって規制されている連帯が、垂直的連帯である。たとえば、一国の指導者が危機を乗り越えるためだと称して、国民に団結や自己犠牲を訴えることがある。それは、権力者によって組織され、動員される連帯である。(323ページ)
連帯をひとつの理念として捉え、階層性が廃棄され平等性によって特徴づけられる結合だけを連帯と呼ぶこともできる。ただし、そこでは、階層性が廃棄され、あまねく平等性によって特徴づけられる連帯が現実にどれほど存在するかという疑問が生じる。また、連帯から階層性を完全に排除できるかという問題も存在する。(323、324ページ)
かりに垂直的権力が連帯に伴うことが避けがたいことなのだとすれば、その事態にどのように対処すべきかを考えなければならない。その場合、許容される権力とそうでない権力とを識別すること、つまり、垂直的権力の許容される範囲を確定することが、ひとつの論点となる。(324ページ)

〇人間は身体と不可分な「身体的存在」(297ページ)であり、人間はその生(生存や生活)を自足できない「非自足的存在」(299ページ)である。それゆえに人間は、外部の物質(とりわけ自然)や他者に依存せざるを得ない。すなわち、人間は本来的に、他者との相互扶助や連帯の関係のなかでしか生きられない存在である。これが、馬淵が説く人間観の核心のひとつである。そして、(社会福祉における)自助努力や自己責任を前提とした「自立生活支援」や「依存的自立」などの言説とは異なる評価を得るところである。自助努力も自己責任も社会的レベルの連帯を通じてなされ、果たされるのである。馬淵が[1]の「あとがき」で、「私が述べたかったのは、連帯によって私たちの生が成立しているという、その事実だけである」(376ページ)という意味はここにある。
〇「人間の存在構造」に刻まれた支え合いと「分かち合いの論理と倫理」(333ページ)は、人々が連帯するときに立ち上がる。その連帯は、私と他者との相互依存関係を重視する際、「自律」や「自由」の価値を不可欠とする。人間は自律し、自由であることによって「相互に排他的であるのではなく、むしろ相互に結び付き連帯する」(108ページ)。私だけの自律や自由は、他者を支配したり、他者からの信頼や承認が得られなくなったりする。すなわち、連帯は、単なる道徳的規範や国家などの介入(強制)によるのではなく、個々人の主体的・能動的な思考や行動による自律や自由によって支えられる。同時に連帯は、個々人の自律や自由を実質化し、その実現を図るのである。さらにそれを支えるのは「平等」という価値である。
〇齋藤純一は[2]で、格差や分断、不平等が拡大・深化する現代社会にあって、人々の「平等な関係」とは何かを根底から問いなおし、その関係を再構築するための「制度」について考える。すなわち、市民の間に平等な関係を維持するための生活条件を保障する(広義の)社会保障制度と、市民を政治的に平等な者として尊重する(熟議)デモクラシーの制度のあり方等について考察する。その際、「不平等」とは、その人に「値しない」(「ふさわしくない」「不当である」)「有利-不利が社会の制度や慣行のもとで生じ、再生産されつづけている事態」(17ページ)をいう。「熟議デモクラシー」とは、「数の力」(「選挙デモクラシー」)ではなく、「理由の力」を重んじ、「質的に異なった意見や観点を、たとえそれがごく少数の者が示すにすぎないとしても、尊重すること」(175ページ)をいう。
〇齋藤にあっては、社会保障の目的は、「たんに貧困に対処し、すべての人が人間らしいまともな(decent)暮らしが送れるようにする(事後的な保護・救済:筆者)だけではなく、深刻な社会的・経済的不平等をも規制し、平等な自由を享受しうる条件をすべての市民に保障すること(事前の支援:筆者)にある」(134ページ)。こうした「社会保障の制度を支持し、それを介して互いの生活条件を保障しようとする市民間の連帯」が「社会的連帯」である(94ページ)。その社会的連帯は、次のような理由によって必要とされ、市民によって受容されなければならない。①国力(戦力・生産力等)を増強するための「生の動員」、②人生に起こりうる病気や事故などの「生のリスク」の回避、③生まれ持った能力や境遇の「生の偶然性」がもたらす不当な格差の改善、④生・育・老・病・死という「生の脆弱性」によって生まれる支配-被支配関係の阻止、⑤人々の多様な生き方を促す「生の複数性」の尊重、がそれである(98~104ページ)。
〇そして齋藤はいう。「生の動員」を除く4つの理由はいずれも、「生きていくために人々が他者の意思に依存せざるをえない状態に陥るのを避け、市民の間に平等な関係を保つことを重視している。他者に依存しながらも、その意思に服することを強いられない自律が可能となるのは、依存とそれへの対応が人々の間に支配-被支配を生みださないようにする制度化された保障が確立されているときである」(105ページ)。すなわち、齋藤にあっては、誰もが避けられない「他者に依存すること」と、「他者の意思に依存すること」を区別し、特定の他者の意思に依存せずに生きることすなわち「自律」を可能にするための制度が(「事前の支援」としての)社会保障である(107ページ)。「私たちの生において依存関係が避けられないからこそ、『自律』が価値をもつのである」(107~108ページ)。留意したい。

付記
阪野貢「『連帯』:人間の本来的な存在を問う―馬淵浩二著『連帯論』にみる論理と倫理―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、100~105ページ。一部修正。

 


Ⅳ  「自己決定」の実相


<文献>
(1)小松美彦『「自己決定権」という罠―ナチスから相模原障害者殺傷事件まで―』言視舎、2018年8月、以下[1]。
(2) 吉崎祥司『「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学―』学習の友社、2014年12月、以下[2]。
(3) 高橋隆雄・八幡英幸編『自己決定論のゆくえ―哲学・法学・医学の現場から―』九州大学出版会、2008年5月、以下[3]。
(4) 湯浅誠『どんとこい、貧困!』イースト・プレス、2011年7月、以下[4]。

〇1990年代後半以降、財界の要望に応える「小さな政府」を実現するために、「措置から契約へ」という社会福祉基礎構造改革の推進が図られた(1998年6月:中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」等)。そのなかで、「自己選択」「自己決定」すなわち「自己責任」が声高に叫ばれるようになった。また、「市場原理の導入」などの新自由主義的教育改革の推進が図られた(1996年7月:中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」等)。そこでは、子ども・青年が抱える困難や不利益を、「自己責任」として個々人が引き受ける「生きる力」の育成が強調されるようになった。周知の通りである。
〇「自己決定」と「自己責任」は口当たりのよい言葉である。しかし、その言葉に関して、「自己」すなわち「個人」「ひとり」については曖昧であり、「共に」決定する、「共に」責任を取るなどとはあまり言わない。また、「自己決定」と「自己責任」の実相は、外見だけを飾り(虚飾)、人目をあざむき、だます(欺瞞)という危険性がある。
〇小松美彦の[1]は、『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書、2004年7月)の増補改訂版である。旧版では、「自己決定権」の概念それ自体や「自己決定権」への無条件の信頼は非常に危ういことを論じている。旧版のインタビュー(2003年)から15年後のこんにちでは、主に医療や福祉の分野において「自己決定権」「自己決定」という言葉と概念は当たり前のものになっている。しかし、その問題性は見えにくい形でますます拡がっている。「自己決定権」に加えて、「人間の尊厳」という言葉と概念も巧妙に作用し、差し迫った状況にある(3~4ページ)。小松は、その問題状況をダイナミックに論考する。
〇[2]で吉崎祥司はいう。小泉政権(2001年4月~2006年9月)によって、競争原理を基本理念とする規制緩和の推進が図られた。そのなかで、1990年代以降の「自己責任論」が、政財界においてより一層強調されるようになった。また、経済の低成長下における社会保障費の削減を理由づける考え方として、「自立・自助論」が展開された。ヨーロッパなどと比べて、日本では、社会的責任の観念が必ずしも十分に定着しているわけではない(6~13ページ)。こうした特殊「日本型自己責任論」(13ページ)について吉崎は、その内容と特質を批判的に検討し、それを克服するための課題と道筋を明らかにする。
〇高橋隆雄・八幡英幸らは[3]で、生命倫理における基本的概念のひとつである「自己決定」をめぐって、その歴史的由来や概念の意味、法的観点からの問題、医師や看護師の専門職の自律性とのかかわり、等々について多面的に論考する。そのなかで、小柳正弘は、「『自己決定』の系譜と展開」(22~42ページ)において、「『私たち』の自己決定」について次のように述べている。自己決定の主体である「自己」は、理念としては「強い個人」が前提とされている。しかし、現実には「弱い個人」が主体として困難を引き受けているのが現状である。それでも「私」が自己決定しなければならないとすれば、私は他者によって支えられなければならない。すなわち、私が他者とともに「私たち」として決定することが必要となる。「自己が自己のことを決定する」という自己決定には、もうひとつ、「私たちが私たちのことを決定する」という自己決定の理念型が存在することを思い起さなければならない、と(38~40ページ)。
〇[4]は、現代日本の貧困問題を現場から訴え続け、社会的包摂を説く湯浅誠が子どもたちに書き下ろした自己責任論である。そこでのキーワードのひとつに、「溜め(ため)」がある。湯浅にあってはそれは、「がんばるための条件」「その人が持っている条件」を意味するが、基本的な「溜め」となるのは「お金」「人間関係(親や友達など)」「精神(的なもの)」の3つである。「家にお金がなくて、人間関係に恵まれないなら、社会がその人の “ 溜め ” になればいい」(49ページ)。また、自己責任論をふりかざす人たちに共通しているのは、「上から目線」である。自己責任論は「問い」を外に、社会に出てこないように封じ込めること、自己責任論の一番の目的、最大の効果は、相手を黙らせることである。自己責任論は、弱いものイジメが横行し、生きづらい、誰も幸せでない、満ち足りない社会をつくる(153~157ページ)。
〇さて、ここではまず、[1]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

自己責任論と「自己決定」「自己決定権」
政府の言う自己責任論は、国家や支配権力が、基本的に人々を強制したいと考えている事実の裏返しの表現にすぎない。自己決定をするのなら自分で責任をとれという、身の蓋もない態度の裏側には、文句を言わずに言うことを聞けという、国家の冷徹で傲慢な態度が透けて見える。(18ページ)
自己決定と自己決定権とはまったく違うものである。自己決定イコール自己決定権だと単純に考えていると、権利という制度的な思弁の土俵の上で、思わぬ落とし穴にはまってしまう危険がある。(19~20ページ)
私たちの行動には、「思わず~する」という無意識の行動、すなわち言葉で考えるというよりも身体全体で考えると言ったほうがよいようなものがあり、自己決定には、そういった具体的な生の実相が、まるごと含まれている。これに対して、自己決定権にはこのような自ずからなる要素はない。自己決定権は、言葉によって普遍化された人為的な権利であり、思弁によって客観化された制度であり、さらには個別の実相を他人事に変えてしまう装置であり、したがって、いつでも政治的な恣意によって道具にされるという危険性をもったものである。(20ページ)

自己決定権批判の根拠
自己決定権という考え方には、根本的に問題がある。
①人が生きていくすべての場面において、個人が何かを決めるということは、決して個人の問題にとどまらない。自己決定権という言葉によって、人間関係の尊重すべき貴重な機微(微妙な事情・おもむき)が覆い隠されてしまっている。
②「本人の意思による」という自己決定権という言葉が謳(うた)われ、その美しい響きが無為に受け入れられてしまったことによって、(政府や政治に対する)人々の抵抗が鈍ってしまった。
③いったん自己決定権を盾(たて)にしてしまうと、さまざまなことに関して、自分のことは自分で決めればよいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまう。その結果として、自己決定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧がある。
④死は果たして自己決定できるのか。死は一個人に閉じ込められたものではなく、家族や医師、看護師など実に多くの人がかかわる。死は、周囲の人々すべてにまたがる、人間関係のなかでおきる事柄である。(40~49ページ)

自己決定・自己決定権と「共決定」
自己決定とは、起こっている事柄それ自体のことである。あるいは生の具体的な局面で私たちが絶えず行っている個々の判断や選択や行為そのもののことである。その意味では、人間が自己決定なしに通常の社会生活を送ることは、とてもできないと言ってよい。自己決定権とは、自己決定することを社会や国家が、個人の権利として認めるということである。「する」あるいは「せざるをえない」のが自己決定であるのに対して、「認められる」あるいは「するために使う」のが自己決定権であると言ってよい。(98ページ)
私たちは、いつも他者とのかかわりのなかで自分の行動を決定している。同じように、自分が決定した行動は、いつもまわりの他者たちに少なからぬ影響を及ぼしている。決定すればそれで終わりということは本来的にない。自己決定とは、他者との複雑な網の目のなかで行われるしかないものであり、そういう意味では、純粋な自己決定はない。私たちの行う決定は、好むと好まざるとにかかわらず、いつも本質的に「共決定」であることを強いられているといえる。(98ページ)

「共決定」と関係性・共同性
共決定とは、猶予のある場合にそうすべきだというモデルである。そのモデルを不毛なものにしないためには、それぞれがそれぞれの立場から努力し、徹底的に話し合いながら決めていくことである。(102ページ)
関係性を大切にする立場は、まず内と外を区別しない。個々の人間的な交渉から目をそらさないことを原則として、これを守ることができるのであれば、どこまでも外に広がっていこうとする態度のことである。(103ページ)
共同性を重視する立場は、私たちは私たち、あなたたちはあなたたちというように、そもそも内と外に縁取りをこしらえておいて、二つを区分けし固定していこうとする態度のことである。(103~104ページ)
だから、関係性を重視する立場は相互の異質性を厭(いと)わないし、共同性を重視する立場では自分たちのなかにある同質性に、まず目を向けるということになる。(104ページ)
個々の人間の具体的な実存を前にすれば、抽象的な同質性などというものは、はじめからどこにもない。共同体の掲げる同質性は、いつも避けがたい抽象性を帯びてしまい、個々人の具体的な個別性にあるかけがえのなさを、共同体の意思の名をもって、裏切っていくことになる。(105ページ)

「人権」と「存在」
「人権」とは、結局、国家や社会によって与えられる人為的なものである。しかし、それ以前に、障害者にせよ健常者にせよ、その人がいるということ、「存在」していること自体が第一次的なもののはずである。これ自体は絶対に否定できない。(311ページ)
仮に、心や意識が本当に絶無のまま生きている人がいるとして、それをどう考えたらよいのか。それでもその人が “ そこにいる ” という厳然たる事実が、その人から被(こうむ)る迷惑と呼ばれることまで含めて、私たち自身が “ いる ” ことを何らかの形で支えてくれているのである。「迷惑をかける―かけられる」という関係をもてることは、実は人間の豊かさに思われる。(316ページ)
「自己決定権」にせよ、「人間の尊厳」にせよ、検討にあたって必須のことは、型どおりの「人権」的な思考ではなく、誰々がいた、あるいは誰々がいるという「存在」ベースで考え直すことである。(319ページ)

〇次に、[2]において留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「自己責任論」の機能
「自己責任論」の機能とは、さしあたり、①競争を当然のこととし、②競争での敗北を自己責任として受容させ(自らの貧困や不遇を納得させ)、③社会的な問題の責任をすべて個人に押しつけ(苦境に立たされた “ お前が悪い ” )、④しかもそうした押しつけには理由がある(不当なものではない)と人びとに思い込ませることによって、⑤抗議の意思と行動を封殺する( “ だまらせる ” )、というものである。そのようなものとして、「自己責任論」は、新自由主義的支配の合理化・正当化のためのイデオロギー(支配層の思想形態)であることを本質としている。(11ページ)

「自己責任論」の特徴
「自己責任論」は、次のような特徴をもっている。
①「自己責任論」は、「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に混同したうえで、「社会的責任」を否定する、あるいは相対化する。
②「自己責任論」は、社会的責任の否定にとどまらず、社会的な問題をすべて「個人」のうちに押し込め、個人的な解決を迫る。
③「自己責任論」は、個人が抱える困難は、誰のせいでもなく、当の本人の努力や能力の不足によるもので、その事実を受け入れよと強く迫る。一生懸命努力していても報われない場合は、そもそも「能力」が不足しているからだ、と個々人の「能力」の有無・高低をあげつらう。
④「自己責任論」は、本質的に「社会問題」であるのにもかかわらず、社会的責任に蓋(ふた)をして、問題をもっぱら個人的なものに還元し、しかも困難の最終的な原因を個人の能力に求めることで、「責任」を自認させ、抗議の意思も封じる。
⑤「自己責任論」は、それが流布しやすい理由の一つに、「一人前」の人間は、他人に頼らずに自立すべきもの・自ら助けるべきもの、という「自立・自助」の世間的常識がある。誰にも頼らずにちゃんと生活をたてていけないような人間は一人前ではない、といった「自立」観を前提としている。
⑥「自己責任論」では、何にせよ、自分で決定し、選択したことの結果について自分で責任をとるのは当然であり、ある人がおかれた状況・境遇は、そうした決定・選択の結果なのだから「自己責任」であるという一見もっともらしい理屈のもとで、「自己決定=自己責任」が説かれる。
⑦それらの結果として、「自己責任論」は、人びとの間に、多重的な分断をもたらし、個人を孤立化させるにとどまらず、たがいを敵視するように仕向ける。
これらの諸特徴をもつ「自己責任論」が通用しやすい特有の土壌(「社会文化」)が日本社会にはある。(16~17ページ)

自己決定の前提と条件
自己決定には、それを簡単に許さない前提や条件(困難性)がある。①自己決定は、社会制度や時代の支配的な社会的観念や意識、社会の風潮や趨勢、慣習や風俗などの「状況」の「圧力」や「傾向性」のもとで行われる。②「状況」の圧力や傾向性に対して自覚的・批判的であるためには、十分な情報の獲得と、「選択」の結果についての適切な判断が必要とされるが、それが困難である。③「状況」や「選択」にかかわる基本的な情報が獲得されているとしても、従属的位置にある労働者に、その特定の社会関係において自由な選択を行うことは許されない。(55~58ページ)
こうして、「自己決定」は多くの場合、疑似的で、決定者の「自己責任」を問えるようなものではない。つまり、「自己決定」は、個人の「自己責任」に直結させることができるようなものではない。真に自由な自己決定・選択が可能になる前提・条件の周到な吟味なしに、自己決定を自己責任に直結させるような「自己決定論」は、多く欺瞞をかかえるものである。(58ページ)
そこで、労働者が自己決定する際の鍵になるのは、個人が他者と「共にする決定」の場と仲間、連帯する組織を作り出すことである。(60ページ)

〇筆者はかつて、『みんなのなかにわたしがいる みんなとともにわたしがいる』(三重県社会福祉協議会、2004年3月)というタイトルの「小学生からの福祉読本」の作成にかかわったことがある。そこでの根本的な考え方は「実存」「自立」「共生」「まちづくり」「参画」「共働」などであった。
〇そのことを思い出しながら、改めて[1]における小松の言説を要約する。「自己決定」は、実際には、社会的広がりや他者との関係性(「関係としての私」「われわれのわれ」198ページ)のなかで行われる。「自己決定権は、個人主義を擬装しながら、実際には抽象化され、普遍化されることによって、いつでも国家共同体に転化・悪用されかねない危険性をもったもの」である。その意味で、「自己決定権を個々人の具体的な実存の側から見てみれば、そんなものは、はじめからないのだと極論してもよい。それをあるのだとなお言い募るのであれば、幻想としてあるのだと言うしかない」(106ページ)。これが、小松が最も強く主張する「自己決定権の欺瞞性」、すなわち「自己決定権という罠」である。加えて、小松の「共決定」(「相互決定」:筆者)という言説にも留意したい。

補遺
〇筆者の手もとに、桜井智恵子の『教育は社会をどう変えたのか―個人化がもたらすリベラリズムの暴力―』(明石書店、2021年9月)という本がある。
〇生存のための「自立」を必要条件とする資本主義社会は、能力と所有の論理に基づいている。現代社会のルールであるリベラリズム(自由主義)は、個人の尊厳や自由、多様性、自己決定(自己責任)などを最も重要な価値とみなしている。そこでは、環境や状況の劣悪は横に置いて、「生きる上での困難」を乗り越えられないことが個人の問題に矮小化される。その傾向を桜井は「個人化」という。そういう社会の政治経済的構造が生み出す排除や差別などの諸困難に対する桜井の主張は、明快である。「能力主義」の価値観を是認し、それを国家や社会の支配層と共有している限り、排除や差別は助長され正当化される。すなわち、個人が「自立」能力で生き延びるために自己中心的に生きることは、排除や差別する社会を自分自身が支えていることになる。そこで考えるべきは、現代社会の根底にある能力主義=業績承認の解体、である。
〇桜井の主張は脱個人化と能力主義の解体である。それによって、「自由で平等な社会への書き換え」(257ページ)が可能となる。その際、桜井にあっては、新しいしくみを構築するのではなく、現在の社会を覆う個人化や能力主義に基づく仕組みや制度を「脱構築」(既存のものを問い直して一度解体し、新たなものに再構成)し、非資本主義的な生活様式による社会を構想することが肝要となる。そこに求められるのは、「能力が個人のものではなく、いつも共同ではたらいていて、競争をしなくても必要に応じて分かち合う論理」(252ページ)である。それは、「私のなかにみんながいる」ことを意味し、個々人の「能力に応じて」から「必要に応じて」への転換である。
〇桜井の言説を「市民福祉教育は地域・社会をどう変えたのか」と読み替えると、汗顔の至りである。福祉教育は、子どもが自主的に、そして自由かつ平等に学ぶ場としての学校や学校教育の根源的・社会構造的な問題状況やその要因を厳しく問うてきたか。支配的な価値観のままに物事を承認し提案することは現状肯定につながるが、人間・社会の現実を主導する価値観やその枠組みにあてはめることに終始し、枠組みそのものを問うてこなかったのではないか。仮に桜井の言説に依拠するとすれば、個人化や能力主義、「業績承認」や「存在承認」などについて深く問うことなく、自立(自律)や連帯(共生)、まちづくりなどについて理念的・表層的に言及するだけではなかったか。その際の業績承認は、「できること」(成果や業績)を承認することをいい、存在承認は「在ること」をありのままに承認することをいう。それらを問うてこなかった「成果」は、資本主義システムにおける教育や福祉を下支えし、補完することにある。個人化や能力主義に基づく教育や福祉の拡大再生産(個人の自由と分断と多様化による管理・統治)である。

付記
阪野貢「自己決定と自己責任:その虚飾と欺瞞―小松美彦と吉崎祥司の言説から―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、121~126ページ。一部加筆修正。
阪野貢「『私のなかにみんながいる』ということ―桜井智恵子著『教育は社会をどう変えたのか』読後メモ―」市民福祉教育研究所ブログ〈雑感〉(155)2022年7月18日アップ。一部加筆修正。

 


Ⅴ  「世間」からの解放


<文献>
(1)阿部謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書、1995年7月、以下[1]。
(2)阿部謹也『学問と「世間」』岩波新書、2001年6月、以下[2]。
(3)佐藤直樹『「世間」の現象学』青弓社、2001年12月、以下[3]。
(4)山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、1983年10月、以下[4]。
(5)鴻上尚史・佐藤直樹『同調圧力―日本社会はなぜ息苦しいのか―』講談社現代新書、2020年8月、以下[5]。
(6)岡檀『生き心地の良い町―この自殺率の低さには理由がある―』講談社、2013年7月、以下[6]。

〇筆者はこれまで、いくつかの地域で、「まちづくり」や「市民福祉教育」の実践「活動」にかかわってきた。正直に言えば、自分が現に居住する地域での取り組みには、ある種の“息苦しさ”や閉塞感を感じてきた。その息苦しさを和らげるためには“酸素”を吸入し、いま一度呼吸を整えることが必要である。以下の[1]から[4]の「世間」と「空気」に関する抜き書きは、過去に吸ったことのある空気よりも高濃度の酸素である。筆者には、いま所属する世間で、その流量や濃度、吸入方法を如何に考えるかが問われることになる(抜き書きと要約)。

[1]阿部謹也『「世間」とは何か』
西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。(13~14ページ)
私達は世間という枠組の中で生きているのであって、誰もが世間を常に意識しながら生きているのである。いわば世間は日本人の生活の枠組となっている。敢(あ)えていえば日本人は皆世間から相手にされなくなることを恐れており、世間から排除されないように常に言動に気をつけているのである。(14、15ページ)
世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。世間には、形をもつものと形をもたないものがある。形をもつ世間とは、同窓会や会社、政党の派閥、短歌や俳句の会、文壇、囲碁や将棋の会、スポーツクラブ、大学の学部、学会などであり、形をもたない世間とは、隣近所や、年賀状を交換したり贈答を行う人の関係をさす。(16、17ページ)
世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。一つは長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。世間の掟にはもう一つ重要なものがある。それは世間の名誉を汚さないということである。(17、18ページ)
「世間」の構造に関連して注目すべきことがある。西欧人なら、自分が無実であるならば人々が自分の無実を納得するまで闘うということになるが、日本人の場合は、自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、世間を騒がせたことについて謝罪することになる。このようなことは、世間を社会と考えている限り理解できない。世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。(20~21ページ)

[2]阿部謹也『学問と「世間」』
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間」を変えるという発想はない。明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西欧ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。したがって「世間」を変えるという発想は生まれず、改革や革命という発想も生まれえなかった。(111~112ページ)
「世間」は差別的で排他的な性格をもっている。仲間以外の者に対しては厳しいのである。「世間」には序列があり、その序列を守らない者は厳しい対応を受ける。それは表立っての処遇ではないが、隠微な形で排除される。「世間」の中では個性的な生き方はできない。常に「世間」の枠を意識していなければならないからである。自分と「世間」とは一体として意識されている。自分が落ちこぼれないように努力している反面で、「世間」の外に特定の対象を設定して、その対象に対して自分の優位を確認しようとする。「世間」の外にそのような対象を設定することによって、自分自身の恐れや不安を転嫁するのであり、「世間」に対する恐怖を和らげるのである。私たち自身が「世間」の中で生きている不安を転嫁する過程で差別意識が発生してくるのである。その意味で差別意識は「世間」の産物である。(151~152ページ)

[3]佐藤直樹『「世間」の現象学』
社会という言葉はわが国の「近代化」と一体となったかたちで、つまり「近代化」のシステムとして展開された。ジャーナリズムや学問の世界では、あたかも西欧流の社会が実在するかのように、社会という言葉があたりを席巻した。しかしそれは、蜃気楼のようなものだった。おおかたの見方に反して、「世間」は消滅するどころか、実際に明治以降私たちの<生活世界>に実在したのは、「近代化」のシステムとしての社会ではなく歴史的・伝統的システムとしての「世間」のほうであった。(98ページ)
西欧流の「社会」と日本の「世間」のちがいを簡単にまとめると表1のようになる。(97ページ)


[4]山本七平『「空気」の研究』
「空気」は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である。われわれは「空気」に順応して判断し決断しており、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではない。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(22ページ)
「空気」の基本にあるのは臨在感的把握である。それは、物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けることをいう。(32、33ページ)
臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。(38ページ)
臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起ってしまうのである。(40ページ)
われわれは、「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基である。そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない。(129、172ページ)
ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば「現実」であって、しとしとと降りつづく “ 現実雨 ” に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。従ってこれが口にできないと “ 空気 ” 決定だけになる。(91、92ページ)

〇「世間」と「空気」は過去の遺物ではない。「世間」は今日も、解体・消滅することなく、そこに所属する人々の行動原理として働いている。そこで醸成される「空気」は、人々を支配し、ときには議論を否定し、思考を停止させる。日本の現代社会においては一面では、「世間」が膨張し、「空気」が意思決定の主役のようにもなっている。
〇「まちづくり」や「市民福祉教育」の世界ではこれまで、「世間」と「空気」の存在を前提にした議論が十分に行われてきたとは言えない。もっぱら、「地域社会」「市民社会」「共生社会」などの、翻訳語としての「社会」(society)を舞台にした議論が行われてきた。「社会」は観念的な世界であり、人はそのなかで生きているとはいえ、一定の心理的距離を置くこともできる。「世間」は日常生活における具体的な人間関係であり、一面では本音(ほんね)の世界でもある。右傾社会や格差社会、そして監視社会すなわち管理社会が進展するなかでいま、その趨勢を押しとどめ、真の市民社会や共生社会の実現を図るために、日常語としての「世間」と「空気」について探究する必要がある。「世間」と「空気」を対象化し議論することは、「社会」について論究する際のひとつの前提である。それはまた、自分の存在を意識し思考することであり、「社会」や「世間」の「息苦しさ」から自分や他の人々を解放することに通じる。
〇[5]は、鴻上尚史(作家・演出家)と佐藤直樹(評論家)の対談本である。「人を苦しめているものは『同調圧力』と呼ばれるもので、それは『世間』が作り出しているもの」である。新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本特有の「世間」が強化され、「同調圧力」が狂暴化・巨大化している。自粛の強制や監視、感染者に対するバッシングなどがそれである。「世間」の特徴は、「所与性」(変わらないこと・現状を肯定すること)にあり、「今の状態を続ける」「変化を嫌う」ことにある(鴻上:6、7ページ)。[5]は、新型コロナがあぶり出した「世間」のカラクリや弊害について追求する。
〇[5]で筆者が留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

[5]鴻上尚史・佐藤直樹『同調圧力』
「同調圧力」を生む「世間」:鴻上
「同調圧力」とは、「みんな同じに」という命令である。同調する対象は、その時の一番強い集団である。多数派や主流派の集団の「空気」に従えという命令が「同調圧力」である。数人の小さなグループや集団のレベルで、職場や学校、PTAや近所の公園での人間関係にも生まれる。日本は「同調圧力」が世界で突出して高い国なのである。そして、この「同調圧力」を生む根本に「世間」と呼ばれる日本特有のシステムがある。(5ページ)

「世間」と「社会」の違い:鴻上
「世間」というのは、現在及び将来、自分に関係がある人たちだけで形成される世界のことである。分かりやすく言えば、会社とか学校、隣近所といった、身近な人びとによってつくられた世界のことである。「社会」というのは、現在または将来においてまったく自分と関係のない人たち、例えば同じ電車に乗り合わせた人とか、すれ違っただけの人とか、知らない人たちで形成された世界である。つまり、「あなたと関係のある人たち」で成り立っているのが「世間」、「あなたと何も関係がない人たちがいる世界」が「社会」である。日本人は「世間」に住んでいるけれど、「社会」には住んでいない。(31、32ページ)

「世間」と「社会」の二重構造:佐藤
「社会」というのは、「ばらばらの個人から成り立っていて、個人の結びつきが法律で定められているような人間関係」である。法律で定められている人間関係が「社会」である。「世間」というのは、「日本人が集団となったときに発生する力学」である。「力学」とはそこに同調圧力などの権力的な関係が生まれることを意味する。日本人は「世間」にがんじがらめに縛られてきたために、「世間」がホンネで「社会」がタテマエという二重構造ができあがっている。おそらく現在の日本の社会問題のほとんどは、この二重構造に発していると言ってもいい。(33~35ページ)

「世間」を構成するルール:佐藤
「世間」を構成するルールは四つある。①お返しのルール/毎年のお中元・お歳暮に代表されるが、モノをもらったら必ず返さなければならない。②身分制のルール/年上・年下、目上・目下、格上・格下などの「身分」がその関係の力学を決めてしまう。③人間平等主義のルール/「みんな同じ時間を生きている」、すなわち「みんな同じ仲間である」と考えている。そこから、「出る杭は打たれる」ことになり、「個人がいない」ということになる。④呪術性のルール/「友引の日には葬式をしない」といったように、俗信・迷信に逆らうことができない。こうした四つのルールからできあがったのが「世間」である。そうした人間関係のつくり方をしている国は日本しかないのではないか。(35~50ページ)

「世間」の特徴:鴻上
「世間」には五つの特徴がある。①「贈り物は大切」、②「年上が偉い」、③「『同じ時間を生きること』が大切」、④「神秘性」(佐藤がいう「呪術性」)、佐藤の言説と同じである。加えて⑤「仲間外れをつくる」がある。それは「排他性」を意味し、仲間外れをつくることが、自分たちの「世間」を意識し、強固にすることになる。この五つの特徴(ルール)のうち、一つでも欠けた場合に表れるのが「空気」である。「世間」が流動化したものが「空気」である。「空気」に支配されるのは、それが「世間」の一種だからである。(50~53ページ)

〇要するに、「世間」の本質は、その暗黙のルールに従うこと、みんなと同じことをすることにある。「世間」のルール(その強さ)が、「みんな同じ」すなわち「違う人にならない」という同調圧力を生み出し、個人の行動を抑制するのである。
〇「同調圧力」とは、「少数意見を持つ人、あるいは異論を唱える人に対して、暗黙のうちに周囲の多くの人と同じように行動するよう強制すること」である。すなわち、「何かを強いられること」「異論が許されない(封じられる)状況」(16ページ)をいう。こうした同調圧力や相互監視を生み出す、別言すればそれによって支えられるのが「世間」である。この「世間」と「同調圧力」が、いまの日本社会の「息苦しさ」や「生きづらさ」の正体である。それを緩和あるいは除去するためには、「世間のルール」を漸進的に変革するしかない。そのためのひとつのヒントを与えてくれるのが岡檀の[6]である。
〇[6]は、「地域の社会文化的特性が住民の精神衛生にあたえる影響、特に、コミュニティの特性と自殺率との関係」(10ページ)を明らかにしている。徳島県南部に位置する旧・海部町(現・海陽町)は、太平洋に臨む、人口3000人前後で推移してきた小規模な町である。その町は、全国でも極めて自殺率の低い「自殺 “最” 稀少地域」である。[6]は、そこに暮らす町民たちの、「生きづらさを取り除く」ユニークな人生観や処世術を、2008年から4年にわたる現地調査によって解き明かす(「帯」)。
〇[6]で筆者が注目したいひとつの言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

[6]岡檀『生き心地の良い町』
5つの自殺予防因子
旧・海部町ではなぜ、自殺者が少ないのか。「自殺予防因子」として次の5つが考えられる。
① いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい
多様性を尊重し、異質や異端なものに対する偏見が小さく、「いろんな人がいてもよい」と考えるコミュニティの特性がある。それだけではなく、「いろんな人がいたほうがよい」という考え方が町に浸透している。
② 人物本位主義をつらぬく
職業上の地位や学歴、家柄や財力などにとらわれることなく、その人の問題解決能力や人柄によって判断するという考え方が重んじられている。
③ どうせ自分なんて、と考えない
町民には、自分たちが暮らす世界を自分たちの手によって良くしようという、基本姿勢がある。「どうせ自分なんて」と考える人が少なく、主体的に社会にかかわる人が多い。
④ 「病(やまい)」は市(いち)に出せ
病気のみならず、生きていく上でのあらゆる問題をひとりで抱えるのではなく、みんなで解決しようという考え方がある。町民の、援助を求める行為への心理的抵抗が小さい。
⑤ ゆるやかにつながる
人間関係が固定していない。町民はそれぞれが、息苦しさを感じない距離感を保ちながら、「ゆるやかな絆」のもとで連携している。(29~92ページ)

〇岡はいう。旧・海部町は江戸時代の初期、材木の集積地として飛躍的に隆盛し、「多くの移住者によって発展してきた、いわば地縁血縁の薄いコミュニティだった」(88ページ)。「人の出入りの多い土地柄であったことから、人間関係が膠着(こうちゃく)することなくゆるやかな絆が常態化したと想像できる」(90ページ)。こうした歴史的背景のもとで培われ維持されてきた「ゆるやかな絆」が、自殺予防を促している。「ゆるやかな絆」という住民気質に注目しておきたい。
〇ここで、世論がどのようなメカニズムで形成されるかを検討したE.ノエル=ノイマン(1916年~2010年、ドイツの政治学者)の「沈黙の螺旋理論」についてメモって(紹介して)おきたい。その概要はこうである。人間はその社会的天性として、仲間と仲たがいして孤立することを恐れる(「孤立への恐怖」)。人間には意見分布の状況(「意見(の)風土」)を認知する能力がある(「準統計的感覚(能力)」)。そこで、自分の意見が多数派であると判断したときは、自分の意見を公然と表明する。逆に自分の意見が少数派であると認識した場合は、孤立を恐れて沈黙を促す(守る)。この循環過程によって意見の表明と沈黙が螺旋状に増幅し、多数派意見への「なだれ現象」(同調)が引き起こされ、多数派意見が「世論」(「論争的な争点に関して自分自身が孤立することなく公然と表明できる意見」)として公認されるようになる。そして、少数派はますます孤立の度を深めていく。なお、ノエル=ノイマンは、少数派でありながら、孤立の脅威をものともしないで意見表明する、「ハードコア(固い核)」と名付ける活動層についても言及する。「沈黙の螺旋研究」の詳細については、E.ノエル=ノイマン、池田謙一・安野智子訳『沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学―』(改訂復刻版、北大路書房、2013年3月)と、たとえば時野谷浩の『世論と沈黙―沈黙の螺旋理論の研究―』(芦書房、2008年3月)を参照されたい。

補遺
・歩いて2、3分の所に住むおじいちゃんが入院された。「にわか百姓」の私に、いつも優しくまた丁寧に、農作業を指南してくれた方である。早速お見舞いに伺ったが、一週間ほどたってご子息からお礼の連絡が入った。電話で、である。
・我が家には2002年3月生まれの犬(柴犬)がいた。目が見えず、耳も聞こえず、認知症の症状が顕著にみられた。ある夜、大きな声で鳴き始めた。すぐに対応したが、近所からお叱りの連絡が入った。深夜23時30分、無言電話で、であ。
・私は数年前、地元の老人クラブの役員を仰せつかった。ある役員との連絡は、時にはメールで行うことがあった。いま思えば、その時の話題は少々厄介なものばかりであった。メールは、お互いの「繋がり」を深化させない、「摩擦」を避けるためのツールとして活用されたのだろうか。
・3年前、隣の家が火事になり、大騒ぎになった。翌日、お見舞いと後片付けにお邪魔したが、その作業に参加したのは私だけであった(2日目には丁重に断られている)。今年になって、近所に住む二人のおばあちゃんが他界された。それを知ったのは1か月後のことである。「村八分」の二分はどこへやら、である。

付記
阪野貢「『世間』の膨張と『空気』の支配―その『息苦しさ』からの解放―」『ワンポイントメモ23+3 日本社会・まちづくり・教育づくり―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、41~45ページ。一部加筆修正。
阪野貢「同調圧力の強い『世間』―求められる『ゆるやかな絆』―」『ワンポイントメモ23+3 日本社会・まちづくり・教育づくり―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、30~35ページ。一部加筆修正。

 


Ⅵ  「しょうがい」という言葉


<文献>
(1)荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』柏書房、2021年5月、以下[1]。
(2)荒井裕樹『車椅子の横に立つ人―障害から見つめる「生きにくさ」―』青土社、2020年8月、以下[2]。
(3)荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』ちくま新書、2020年4月、以下[3]。
(4)荒井裕樹『障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ―』現代書館、2011年2月、以下[4]。
(5)荒井裕樹『差別されてる自覚はあるか―横田弘と青い芝の会「行動綱領」―』現代書館、2017年1月、以下[5]。

〇1970年代から80年代にかけて、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会の横田弘や横塚晃一らは、「障害者は不幸」「障害者は施設で生きるしかない」「障害者は殺されてもやむを得ない」といった固定的な価値観(常識)と闘った([3]134ページ。注①、②)。その後、「完全参加と平等」(1981年の「国際障害者年」)をはじめ「バリアフリー社会」「自立生活」「地域生活支援」「地域共生社会」、あるいは「共生共育」(インクルーシブ教育)などの実現をめざした障がい者運動が展開された。2016年4月に「障害者差別解消法」(「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」)が施行され、同年7月にはその対極に位置する「相模原障害者施設殺傷事件」が起きた。「差別を解消するための法律を作れば、そのうち差別は克服される」といってしまえるほど、この社会は単純な仕組みにはなっていない([3]13ページ)。元施設職員の犯人・植松聖は「重度障害者は不幸をばらまく存在であり、絶対に安楽死させなければいけない」と断言した。そして早々に、事件の風化が進んだ。ここに障がい者差別の「現在」があり、青い芝の会の「過去」の闘争やその思想が浮かび上がる。
〇荒井裕樹は、「この社会に存在する数々の問題について『言葉という視点』から考えること」を仕事にする気鋭の「文学者」である。専門は、厳しい境遇に追いやられている「被抑圧者の自己表現活動」([1]20ページ)である。主な研究対象(テ―マ)は、障害や病気と共に生きる人たちの「言葉」であり、障がい者運動や患者運動にかかわる(かかわった)人たちの表現活動である。荒井はいう。1970年代に、障がい者の苦労をわかってもらうのではなく、世間の障がい者差別と闘った「青い芝の会」神奈川県連合会の横田は、「障害者は不幸」「障害は努力して克服すべき」という考えが常識だった時代に「なんで障害者のまま生きてちゃいけないんだ?!」と言った([1]151ページ)。障がい者運動家たちからもらった最大のものは、「『正しい』とか『立派』とか『役に立つ』といった価値観自体を疑う感覚」([1]244ページ)である。「ある人の『生きる気力』を削(そ)ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても『生きようとする意欲』が湧(わ)かない社会になる。そんな社会を次の世代には引き継ぎたくない」([1]29ページ)。荒井が依拠する基本的な視点や認識のひとつであり、ひとりの「学者」としての覚悟(姿勢)である。
〇[1]は、「言葉」に潜む暴力性を明らかにし、その息苦しさ(「言葉の壊れ」)に抗(あらが)うための18本のエッセイ集である。荒井は、「言葉の殺傷力」、特に2010年代以降に顕著になった「言葉が壊されている」現実に、猛烈な危機感を持つ。「言葉というものが、偉い人たちが責任を逃れるために、自分の虚像を膨らませるために、敵を作り上げて憂(う)さを晴らすために、誰かを威圧して黙らせるために、そんなことのためばかりに使われ続けていったら、どうなるのだろう」(247ページ)。これが[1]の各エッセイに通底する問題意識である。空虚なスローガンやキャッチフレーズとともに、質疑や質問に向き合わず、討論やコミュニケーションを遮断した安倍政権の汚く卑劣な言葉やフレーズを思い出す。
〇[2]は、学術誌に掲載した論文と文芸誌やネットジャーナルに寄稿したエッセイの14本の論考から成っている。荒井の研究者人生「最初の10年間の総括」(222ページ)である。ほとんどの人が「車椅子の横に立つ人」を障がい者の「身内」か「介護者(福祉職)」と決めつけてしまう。障害や障がい者をめぐるある種の固定観念や思い込み(ステレオタイプ)にとらわれ、それを定型的・限定的に捉えてしまう狭い範囲での想像力は、何から生み出されるのか。障がい者が経験する現代社会における「生きにくさ(生きづらさ)」や、それをめぐる「語りにくさ(語られにくさ)」を言葉でどうとらえるのか。こうした「にくさ」が交錯(こうさく)する問題について考える端緒を開こうとするのが[2]である。そして荒井はいう。「いつか(その)正体を見極めて、ぶち壊したいと思う」(34ページ)。
〇[3]は、1970年代から80年代にかけてさまざまな抗議行動(闘争)を繰り広げた「青い芝の会」神奈川県連合会の問題提起を、その運動に参加した障がい者たちの言葉やフレーズ、思想や価値観などを通して丹念に振り返り、「障害者差別を問い直す」。たとえば、青い芝の会が「障害者と対立関係にある健康な者」「障害者を差別する立場にいる健康な者」を「健全者」(73ページ)と呼んだ。あるいは、憲法第25条に規定された「生存権」を「生きる権利」「この世に存在する権利」(194ページ)という意味で使ったことなどに言及し、そこに青い芝の会の思想をみる。そして荒井はいう。「障害者本人たちが、障害者抜きに作られた『常識』に対して、異議申し立てを行なってきた経緯」(22ページ)について、その具体的な事例を一つひとつ調べていくことが重要である。障がい者差別についてあまりにも早急にあるいは短絡的に「解決」を求める発想は、「弱い立場の人に我慢や沈黙を強いたり、そうした『解決』に馴染(なじ)めない人たちを排除したりする方向へと進みかねない」(252ページ)。複雑に入り組んだ障がい者差別の問題について考える荒井のスタンス(立場)である。
〇ここでは、福祉教育(とりわけその実践)に関してしばしば見聞きする言葉やフレーズのいくつかを[1][2][3]から抜き出し、荒井のその論点や言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「障害」という言葉と定義([2])
これまで「障害」は「不幸の代名詞」「生きにくさの象徴」のように考えられてきた側面がある。「障害」は立場や見方によって定義がさまざまに変化し得る相対的なものである。(189、192ページ)
人は程度の差こそあれ、何らかの障害を抱えながら生きていると考えた方がよい。
自分には何ができて、何ができないのか。どこからが自分の手に負えない状況になってしまうのか。何かできないことに直面した際、誰に、どれだけのサポートを求めれば良いのか。自分のなかに「障害」を見出すというのは、こうした点について考えることでもある。ここでいう「障害」とは、「ある特定の文脈や状況のなかで、他の多くの人がそれほど苦労せずにできることができず、そのことで日常生活に支障をきたすこと」という意味である。人は誰しも「障害的要素」や「障害者的側面」をもっているはずであり、そうした内省(リフレクション、reflection)を通じて、社会を捉え返すことが大切である。(190~195ページ)

「障がい者」に対する紋切り型の表現([2])
障害者に対する紋切り型の表現は、これまでも繰り返し批判されてきた。記憶に新しい例で言えば、Eテレの情報バラエティ番組「バリバラ(Barrierfee Variety Show)」が、日本テレビ系列の有名チャリティ番組「24時間テレビ」にぶつけて「障害者×感動の方程式」と題した番組を組み、障害者が感動や勇気を与える存在として描かれることを「感動ポルノ」(Inspiration porn)と批判したことが話題になった。(24ページ)
もともと「感動ポルノ」という言葉は、豪州(オーストラリア)のジャーナリスト、ステラ・ヤング(Stellar Young)のものとされている。Eテレの同企画を詳細に報じた『朝日新聞』(2016年9月3日)の記事は、当日の番組の様子を次のように伝えている。<番組では冒頭、豪州のジャーナリストで障害者の故ステラ・ヤングさんのスピーチ映像を流した。ステラさんは、感動や勇気をかき立てるための道具として障害者が使われ、描かれることを、「感動ポルノ」と表現。「障害者が乗り越えなければならないのは自分たちの体や病気ではなく、障害者を特別視し、モノとして扱う社会だ」と指摘した。>(27ページ)
「不幸」や「悲劇」を健気(けなげ)な努力によって乗り越える障害者の姿が涙とともに「消費」されることは珍しくない。(113ページ)

障がい者の「役に立たない」という烙印([1])
戦時中の障害者たちは、「お国の役に立たない」ということで、ものすごく迫害された。「国家の恥」「米食い虫」という言葉で罵(ののし)られた。そうした迫害に苦しんだ人たちだからこそ、「障害者を苦しめる戦争反対!」とはならない。むしろ、なれないのだ。迫害されている人は、これ以上迫害されないように、世間の空気を必死に感じ取ろうとする。どういった言動をとればいじめられずに済むか、自分をムチ打つ手をゆるめてもらえるかを必死になって考える。(104~105ページ)
誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。特に、その「何か」が、(「国家」「世界」「人類」などの)漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ。「誰かの役に立つこと」が、「役に立たない人を見つけて吊るし上げること」だとしたら、断然、何の役にも立ちたくない。(107ページ)

「障がい者はもっと遠慮するべきだ」という暴力([1])
老若男女、障害や病気の有無にかかわらず、「遠慮」をまったく感じないでいられる人は現実的にはほとんどいない。だから、みんなが、どこかで、誰かに「遠慮」している。それでも、障害や病気がある人の「遠慮」は、場合によっては命に関わる。(178ページ)
日本の障害者運動が最初に闘ったのは、「遠慮圧力」だった。<生きるに遠慮が要るものか>というフレーズは、障害者運動の神髄だとさえ言える。「みんな、それなりに遠慮しているのだから、障害者も弱者なんていう言葉にあぐらをかかず、もっと遠慮するべきだ」。いまでも、こうした意見を持つ人がいる。でも、この世の「遠慮圧力」は、みんなに等しく均一にかかっているわけではない。やはり、どこかで、誰かに、重くのしかかっている。自分たちが生きる社会のなかで、「生きること」そのものに「遠慮」を強いられている人がいることを想像してみてほしい。「遠慮圧力」が、ときには人を殺しかねないことを想像してみてほしい。確かに、ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけれど、誰かに「命に関わる遠慮を強いる」のは暴力だ。(183~184ページ)

「障害は個性」「みんな違ってみんないい」という言葉([3])
1990年代以降、「障害は個性」や「みんな違ってみんないい」といった言葉が、障害者との共生をめざす文脈でしばしば見かけられるようになった。しかし、これらの言葉は、どちらかというと「障害者と仲良くするための言葉」であり、障害者差別という人権侵害を抑止したり糾弾したりする「闘う言葉」ではないようである。(231~232ページ)
ある差別について語る言葉がない(少ない)ことは、その社会に差別が存在しないことを意味しない。むしろ、差別について語る言葉が少ないほど、その社会が差別に対して鈍感であることを意味している。(232ページ)

「障がい者も同じ人間である」というフレーズ([3])
障害の有無にかかわらず、人は皆、等しくかけがえのない存在であり、等しい尊厳を有した存在であるという意味において、「障害者も同じ人間」というフレーズはまったく間違ってもいなければ、無力なきれいごとでもない。(235ページ)
「人間」とは極めて普遍的で抽象的な言葉だからこそ、ともすると、個々人の抱えた事情を一切無視して、少数者を多数者の論理に従わせたり、多数者の価値観を少数者に受け入れさせたりする抑圧的な言葉として、いかようにも転用できてしまう。つまり、「障害者も同じ人間なのだから」という表現は、障害者に対して我慢や自制を強いる表現としても使われかねないのである。(236ページ)
障害者たちが障害者運動のなかで叫んできた「障害者も同じ人間」というフレーズは、「障害者も生物学上『人間』に分類される存在である」などといった意味ではない。運動の蓄積に鑑(かんが)みるならば、この言葉は「障害者も社会のなかで共に生活する者である」といったメッセージとして育て上げられてきたフレーズである。「障害者も同じ人間」というフレーズは、「他の人々に認められている社会参加への機会や権利は、障害者にも等しく認められるべきである」といった意味内容で使われなければならない。(239ページ)

障がい者の「差別と区別は違う」という定型句([1])
「差別と区別は違う」というのは、障害者差別が起きたときにも出てくる定型句である。「差別」は不当に「されるもの」であり、「区別」は不利益が生じないように「してもらうもの」である。「不利益の生じる区別」は「差別」だし、そもそも属性を理由に「不利益」を押しつけることは許されない。「差別と区別は違う」というフレーズは、「それは差別だ!」と批判された側が思わず口走るというパターンが多かったように思う。(124~125ページ)
この社会は「権利」という概念に鈍(にぶ)いけど、それと対になって「差別」への感性も鈍い。「差別」への感性を鈍らせないためにも、「権利」に敏感でなければならない。(126ページ)

「隣近所」で生きる障がい者との「闘争(ふれあい)」([2])
障害者が排除されるのは抽象的な「地域」ではなく、具体的な「隣近所」であることから、横田は「障害者は隣近所で生きなければならない」と言った。これは、「障害者は、目に見えて、声が聞こえる距離で生きなければならない」ということだ。障害者が身近にいない社会では、障害者はどんな人なのかといった想像力が希薄になる。逆に、障害者にとっても、様々な人たちが混在している社会のなかで生きなければ、「自分とは何者か」「自分と社会はどのような関係にあるか」について考える機会を失う。「障害者が遠い社会」や「障害者にとって遠い社会」では、障害者について語る言葉も、障害者と語らう言葉も貧困になる。言葉が貧困なところに想像力は育まれない。(77~78ページ)
横田は、障害者は周囲の人々と軋轢を起こしながら・起こしてでも(「隣近所」で)生きなければならないと言った。小さな諍(いさか)いは、相手と言葉を交わし、相手が何者なのかを考える契機になる。横田が「闘争」という言葉に「ふれあい」というルビを振ったことは有名なエピソードだ。(78ページ)

「自己責任」という言葉とその不気味さ([1])
「自己責任」という言葉に、おおむね次の三点において不気味さを覚えている。
一つ目は、2004年の「イラク邦人人質事件」で騒がれた時から、「自己責任の意味が拡大し過ぎている」という点だ。これまでも、病気・貧困・育児・不安な雇用などで生活の困難を訴える人が、「甘え」「怠(なま)け」といった言葉でバッシングされることはあった。近年では、こうした場面にも「自己責任」が食い込んできた。二つ目は、「自己責任」が「人を黙らせるための言葉」になりつつある、という点だ。社会の歪みを痛感した人が、「ここに問題がある!」と声を上げようとした時、「それはあなたの努力や能力の問題だ」と、その声を封殺(ふうさつ)するようなかたちで「自己責任」が湧き出してくる。三つ目は、この言葉が「他人の痛みへの想像力を削(そ)いでしまう」という点だ。「自己責任」という言葉には「自らの行ないの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力でなんとかするべき」「他人が心を痛めたり、思い悩んだりする必要はない」という意味が込められている。(189~191ページ)
「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。「従順でない国民の面倒など見たくない」という考えを持った権力者は、今後も「自己責任」という言葉を使い続けていくだろう。国民が分断されていることほど、権力者にとって好都合なことはないからだ。(195ページ)

人が「生きる意味」について議論すること([3])
人が「生きる意味」について、軽々に議論などできない。障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできない。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡潔な言葉でまとめられるような、浅薄なものではないからである。私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはない。また、社会に対して、それを論証しなければならない義務も負っていない。もしも私が第三者から「生きる意味」についての説明を求められ、それに対して説得力のある説明が展開できなかった場合、私には「生きる意味」がないことになるのか。だとしたら、それはあまりにも理不尽な暴力だとしか言えない。(234ページ)
この社会のなかで、誰かに対し、「生きる意味」の証明作業を求めたり、そうした努力を課すこと自体、深刻な暴力であることを認識する必要がある。重度障害者に対し「生きる意味」の証明作業を求めるような価値観は、必ず、重度障害者以外に対しても牙(きば)を剥(む)く。(235ページ)

〇[4]は、「障害者によって描かれた文学」作品を研究対象に、それらの作品が生み出された文学活動の歴史と意義について考察する。具体的には、俳人で運動家の花田春兆と文芸同人団体「しののめ」、詩人で運動家の横田と「青い芝の会」神奈川県連合会をとり上げる。そして、「障害者自身がいかに自己の存在意義について悩み、いかに自己と社会との関係性について折り合いをつけてきたのか、その内省的な思索の変遷過程を、可能な限り同時代の障害者自身の文学表現から読み解いていく」(8ページ)作業を行う。それは、障がい者や障がい者運動の「内面史」を語ることでもある。荒井はいう。戦後日本の障がい者運動のなかでは、「文学は決して周縁的・副次的な存在ではなく、人脈を繋ぎ、思想を練磨していく上で、むしろ中心的な役割を果たしていたとさえ言える」(8ページ)。
〇[5]は、横田が1970年5月に書き上げた「青い芝の会」の「行動綱領 われらかく行動する」(「補遺」参照)の解釈を通して、その歴史や思想、その意義について考察する。「行動綱領」は、「一人の重度脳性マヒ者が、この社会に厳然と存在する障害者差別に頽(くずお)れてしまわないために、自分を鼓舞し支えようとして綴った言葉」(299ページ)である。「青い芝の会」の活動には、「『自分たちの苦労と悲しみをわかってもらいたい』という迎合的な姿勢や、『障害のある人もない人も、共に手を取り合ってがんばろう』といった朗(ほが)らかな雰囲気は微塵もなかった」(14ページ)。彼らは、差別者を容赦なく徹底的に糾弾し、非妥協的で戦闘的な姿勢を貫き通した。荒井によると横田は、差別者と対峙して自覚的あるいは無自覚な差別を問いただし、その壁を乗り越えて明日を切り拓き、自分自身を解き放つためには「差別されてる側の自覚から湧き上がる怒りが必要だ」(299ページ)とした。障がい者(被差別者、被抑圧者)の「自覚」がキーワードである。ここに、「差別されている自覚はあるか」というタイトルの意味をみる。

社会のすべてが、障害者と共生する時が来るとは私には考えられない。/私たち障害者が生きるということは、それ自体、たえることのない優生思想との闘いであり、健全者との闘いなのである。(横田:[4]225ページ)

私達は生きたいのです。/人間として生きる事を認めて欲しいのです。/ただ、それだけなのです。(横田:[5]103ページ)


①1970年5月に起きた実母による障がい児殺害事件に対する減刑嘆願反対運動をはじめ、優生保護法改悪反対運動および「胎児チェック」反対運動(1972年から1974年)、川崎バス闘争(1977年から1978年)、養護学校義務化阻止闘争(1975年から1979年)などがそれである。その概要と詳細は[3](41~47、128~145、150~176、188~220ページ)を参照されたい。
②横田と横塚の言説(思想)については、次の著作を参照されたい。
横田弘『障害者殺しの思想』JCA出版、1979年1月。
横田弘、立岩真也解説『障害者殺しの思想(増補新装版)』現代書館、2015年6月。
横塚晃一『母よ!殺すな』すずさわ書店、1975年1月。
横塚晃一、立岩真也解説『母よ!殺すな(増補復刻版)』生活書院、2007年9月。

補遺
横田の手になる「行動綱領 われらかく行動する」は、次の通りである([5]29~30ページ)。

荒井による各項目の解説文(「注釈めいたもの」)をメモっておくことにする([5]121~142ページの抜き書きと要約)。

一、われらは自らがCP者である事を自覚する
障害者運動は障害者が主体となり、障害者の主体性が発揮されるかたちでなされなければならない。そのためには自分がCP者(脳性マヒ者)であることを自覚し、CP者としての思考や考え方がなければならない。それがすべての原点である。
一、われらは強烈な自己主張を行なう
障害者が障害者のまま生きていくために、障害者としてしか生きられない自分の存在を「自己主張」すべきである。この社会の常識自体が障害者の存在を否定的に捉えている。そんな常識を<健全者エゴイズム>として捉え直さない限り、障害者は<自己解放>の道を歩むことはできない。
一、われらは愛と正義を否定する
母親がわが子を愛するが故に障害児を殺した事件が起きた。その愛を圧倒的多数の人たちが支持すれば、それは正義になる。その「愛と正義」の名のもとに、障害児は殺され、あるいは施設へと送られた(送られている)。「障害者のためを思って」という健全者だけに都合のよい「愛と正義」について、人間の心を凝視しなければならない。「福祉は思いやり」という発想も怖い。非常時に真っ先に犠牲になるのは障害者である。
一、われらは問題解決の路を選ばない
障害者が成し得ることは、「不満があるなら何か具体的な対案や代替案を示せ」という発想に応えることではなく、次々と問題提起を起こす以外にない。安易な問題解決は<安易な妥協>を生む。安易な妥協は、「正義」として受け止められ、「誰」が「何」を考えなければならないのかという点を曖昧にしてしまう。妥協は、弱い立場の者がしぶしぶ折れる(折られる)ことになる。

付記
阪野貢「『障がい者』:言葉とフレーズと福祉教育―荒井裕樹を読む―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、78~87ページ。一部加筆修正。

 


Ⅶ  「生」の倫理


<文献>
(1)野崎泰伸『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』白澤社、2011年6月、以下[1]。
(2)野崎泰伸『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』筑摩書房、2015年3月、以下[2]。

〇[1]は、「障害学」の視点から、障がい者にとって「正義」とは何かを問い、生を肯定する「倫理」を新たに構想しようとしたものである。野崎泰伸はいう。この社会で障がい者が「生きづらい」のは、軽減・克服すべき個人の身体(障害)に問題があるのではなく、健常者を「正常」とする価値観にとらわれている社会に責任がある。したがって、その「生きづらさ」を解消するためには、障がい者を分断・排除している社会が負担を負わなければならない。また、「障害はないほうがよい」という言説がある。その多くは「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまう。その「すりかえ」は、社会的負担の拒否を表明するものである。1970年代の「青い芝の会」などの障がい者運動は、「障害からの解放」ではなく(障害によってこうむる)「差別からの解放」を求めた。それらの運動は、「障害者の生存を無条件に肯定する」という「当たり前のことを当たり前に」要求したものであり、その主張に「学問」は学ぶべきである。改めて確認しておきたい野崎の言説のひとつである。
〇[2]は、「犠牲」という視点から、障がい者が抱える諸問題(「生きづらさ」)を検討することによって、「生の無条件の肯定」という思想の構築を図ろうとしたものである。野崎はいう。この社会では、経済成長至上主義や功利主義(「最大多数の最大幸福」)の考え方のもとで、貧富の格差や少数者の犠牲が前提・容認されている。そうしたなかで、障がい者が抱える「生きづらさ」の問題が私事化・矮小化され、障がい者やその家族、支援現場は犠牲を強いられ、追い詰められる。そして、閉鎖的な関係性が形づけられ、そこでのみ「生きづらさ」が共有されることになり、「共倒れ」が引き起こされていく。そしてまた、「何を言っても」「どうせ」この社会は変わらないという諦(あきら)めが、自分の暮らしを守ることに傾注させ、異質な存在(他者)を排除することを促す。こうした「犠牲の構造」のもとに障がい者を差別・抑圧し、捨て置くこの社会に抗するには、「生の無条件の肯定」という正義が問われ、倫理が求められなければならない。改めて押さえておきたい野崎の言説のひとつである。
〇ここでは、福祉教育実践や研究に思いをいたしながら、留意したい論点や言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

[1]『生を肯定する倫理へ』
障がい者問題の本質と「障害をもつ者ともたざる者との断絶」
障害者問題は特殊な問題ではなく、みんなの問題である。そのことを説明するために、次のようなことが言われる。みんな老いていくし、不慮の事故で障害者になったりする。あるいは、昨今では精神的な病になってしまう者も多い。このことから、誰もが障害や老いによっていつしか自分の身に社会的なハンディを背負わされるようになる。(8ページ)
こうした理解は「いま障害をもっていない者への説明」としては適切だ。だが、現に障害を有する者にとっては、こうした言われ方が生ぬるいと感じられるのもまた事実である。実際に「明日障害をもつかもしれない人」にとって「いままで障害を有してきた身体/精神がこの瞬間感じるもの」を感じ取ることは不可能である。障害をもつ者ともたざる者との間のこの断絶は、あなたと私が違う人間である以上、けっして完全に埋めることなどできないはずである。まずは、この断絶の存在を深く認識しなければ、なにも始まらない。それでは「どのように」障害者の問題は〈私たち〉の問題であるということができるのであろうか。それは次のように考えることができる。現在の私たちの社会が、障害者を生きにくくさせていること、障害があるだけで人間扱いされないような社会に、あなた自身も、私も住んでいることを、あなたや私はどう考えるのか、を問わなければならないのである。そして、これこそが、障害者問題が〈私たち〉の問題であるという理由のもっとも基本的な部分なのである。(9ページ)
障害者を排除する社会にあなたや私が住むということ、そしてそのことをあなたや私はどう考えるのか、というところに問題の本質があると述べた。この問題には、2つの側面があると思われる。1つは、社会の正しさの問題、つまり正義の問題であり、もう1つは、こうした問題を自身から引き離さず、棚上げすることなく考えるという要素である。(10ページ)

障害学と「障害はないほうがよい」という言説
障害学は、多くの健常者が考えるような発想、すなわち障害はなおしたり、克服すべきものだという視点を基本的にはもたない。そうした視点は、障害を「異常なもの」と考える発想であり、この社会で生活したければ、健常者のように「正常」になるように努力しなさい(障害の医学モデル・個人モデル)、という結論を導きやすい。なぜならば、この社会が健常者中心で回っているからである。これに対して、障害学の視点とは、まず「この社会で障害者が〈人間らしく〉生きていくためには、(障害者のほうではなく)社会はどのようにあるべきか」を考えるのである(障害の社会モデル)。(19ページ)
障害を社会的文脈において理解するということは、障害者の〈生きづらさ〉を誰が負担すべきか、つまり「帰責性の問題」が中核的な議論となる。(26ページ)
「障害はないほうがよい」という言説は、その多くが「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまうことに注目すべきである。社会モデル的に考えれば、「障害はないほうがよい」という問いに対する答えは定まらないはずである。「障害はないほうがよい」が「障害者は存在しない方がよい」にすりかわってしまう背景には、社会的負担の問題がある。つまり、「障害はないほうがよい」を「障害者は存在しないほうがよい」にすりかえるのは社会的負担の拒否を表明しているのである。そのように考えたとき、「障害はないほうがよい」を問わせる場自体が、「すりかえ」も含めて、私たちが構築したものにすぎないとも言えるはずである。(27ページ)

障がい者運動と「障がい者の生存を無条件に肯定すること」
1970年前後に、重度障害者が個々の場面において声をあげ始めた。(中略)(そうしたなかで)特に注目されるのが、脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」の活動であろう。(「青い芝の会」の)障害者本人が訴え、求め続ける障害者解放とは、障害からの解放ではなく、(障害によってこうむる)差別からの解放なのである。これは障害学でいうところの「医学モデルから社会モデルへ」というパラダイムシフト(支配的な考え方の劇的な変化:筆者)に符号している。(36、37ページ)
日本における戦後障害者運動を(中略)思想的に見ていけば、とりわけここ40年間の障害者本人による運動に胚胎(はいたい。芽生え)するのは、障害者の生存を無条件に肯定することであると言える。私は、この運動が面白いのは、当たり前のことを当たり前に言っていることにあると思っている。彼らの主張はしばしば非論理的であると言われたりもするが、私は明快な筋が通っていると考えている。障害者によって主張されたから意味があるのではなく、障害者によって主張された数々の主張が、社会において普遍性を帯びるからこそ、この運動には意味があると私は考えている。まず学問がなすべきことは、障害者運動の主張を学ぶことであり、それによって学問自身をとらえ返すことにあると、私は考える。(45~46ページ)

「当事者研究」と当事者が語ること
近年、「当事者研究」というものがなされている。それは、当事者自身の手によって、当事者が直面する問題を、当事者内部にとどまらず、当事者と(当事者を捨て置く)社会との関係によって考察していこうとするものである。(166ページ)
当事者が語り出すとき、さまざまな点で考えるべきことがある。まずは、そこに行きつくまでにその当事者がいかなる困難を経験してきているかは、想像すべきであろう。語り出した当事者を勇気があると賞賛することも問題である。まず、誰が、何がそこまで当事者を語れなくさせてきたのかが問われるべきである。(中略)語り出す当事者を英雄化してしまうのは、「語ることのできる主体」を期待するだけの非当事者であると言わずに、他になんと言えようか。それはまた、いまだ沈黙せざるを得ない当事者たちへ向けた無言の圧力でもあるのだ。(167ページ)
そもそも、語り出す当事者の主張が、当事者一般の意見を代表するわけでもない。また、いったん語り出した当事者の主張の内容が、当事者であるというだけで正しさを担保されるわけでもない。ではなぜ、当事者の主張が大切になってくるのか。ここまでの理路をたどってくれば、当事者の(生きづらさ)を捨て置く学問体系や私たちの社会が不正義であるからだ、ということができる。それを正すためには、これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者の主張をつけくわえたもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう。(167~168ページ)

正義と倫理的命令としての「生の無条件の肯定」
正義というものが存在するのであれば、それはどのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない。生の無条件の肯定が、倫理的命令である。(193ページ)
(1)「生の無条件の肯定」は、感情や気持ちの問題ではない。「生の無条件の肯定」は、広く社会構造の問題をも問うものであり、条件をつけながら特定の存在だけを「生きる価値がある」とする社会構造に反対するものだと言える。(2)「生の無条件の肯定」は、生命の神聖性原理ではない。生命の価値を、他の価値と比べて絶対で最高の価値であるとする「生命の神聖性」という原理とも一線を画し、それがなければ他の、自由や平等などといった価値が実現しないという意味で、基本的かつ原初的な価値であると言える。(3)「生の無条件の肯定」は、スティグマを与えるものではない。当事者にスティグマを与えたり、スティグマを黙認する社会のようなものが、「生の無条件の肯定」を体現するはずもない。(4)「生の無条件の肯定」は、現前するものではない。「生の無条件の肯定」は、いまだ達成されたものでもないし、将来達成されるものでもないからこそ、正義なのである。(194~198ページ)

[2]『「共倒れ」社会を超えて』
「生きづらさ」と共依存による「共倒れ」の社会
困っているとき、弱っているときに、誰かに何かをお願いしたり頼ったりすることを妨げてはならず、誰かにSOSを発信すること自体はけっして悪いことではない。(中略)〈生きづらさ〉をひとりで抱え込む必要などないからである。他方で、ある特定の相手と閉じた関係性が形づくられ、そこでのみ〈生きづらさ〉が共有されるような場合、「共倒れ」の危険性が出てくる。というのも、弱っている相手、支えが必要な相手を支えたくても支えきれなくなった場合、もはやそれは「共に生きる」状態ではなく、「共倒れ」と呼ぶにふさわしい状態だからである。(75ページ)
Xという条件を満たしていなければ生きる価値などないと思わせるような構造や価値観がこの社会に存在しているからこそ、共依存による「共倒れ」が起こってしまうのだと私は考えている。(中略)であるから私は、共依存による「共倒れ」を防ぐには、家族や近親者だけに責任を負わせてはならないと考えている。誰もが無条件に生きてよいというメッセージを社会が発し、それを可能にするような制度を整えることが、より根本的な解決法であろうと思うのである。(76~77ページ)

「犠牲のシステム」と「豊かに」生きられる社会
犠牲とは、交換や譲渡ができないもの、しないものを、その社会において、それができるようにする力のことである、と言ってよいのではないか。そして、真の「豊かさ」とは、交換不可能性、譲渡不可能性を源泉とする価値のことなのである。であるなら、交換不可能性、譲渡不可能性に基づく価値を、自発的にせよ強制的にせよ、社会に差し出してはならないのであり、それらの価値を守るために、交換可能な価値は存在すると考えることもできるのではないか。ここで私は、(中略)交換不可能な価値を差し出さなくてもすむような社会を創出するためにこそ、交換可能な価値を使う必要があると述べているのである。交換可能な価値の代表が貨幣であり、交換不可能な価値の代表が身体や生命、環境、尊厳である。交換可能な価値は、使用することによって価値が生まれ、交換不可能な価値は、そこに存(あ)るだけで本源的な価値を有していると言えるかもしれない。(96ページ)
「豊かに生きる」とは、すべての生が、先述のような意味において犠牲にならないことであると私は考えている。人の生命や尊厳など交換不可能なものを、貨幣など交換可能なものに「交換」させ、それを「美談」に仕立て上げ、そうした「交換」を社会に埋め込んでいく装置が、「犠牲のシステム」なのである。他者を犠牲にしない、そして私という存在も犠牲にされない社会(「犠牲のない社会」:筆者)こそが、他者と共に「豊かに」生きられる社会であると言えるのではないか。(96~97ページ)

障がい者の「生そのもの」を選別する「教育」と「観念」
日本の道徳教育においては、「生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する」(中学校学習指導要領)などと、生きることや生命を尊重することの大切さを児童・生徒に理解させることが重視されている。(190ページ)
(分離教育を前提とするこの国の:筆者)学校教育においては、障害のある「生そのもの」が、「学校教育に順応できる(順応させるに値する)」かどうかが、当人および家族の意向よりも優先的に問われることになるのである。つまり、障害のある「生そのもの」は、「この社会で生きるに値する/生きさせるに値する」かどうかが問われることになるわけである。こうして、障害をもつ子どもの「生そのもの」は、一般化・抽象化された「生命」観に基づく価値序列によって選別の対象となっていくのである。こうした動きを、根本のところで推し進めているのは、政治や法律であるというよりはむしろ、「障害者の『生そのもの』は、生きるに値する/生きさせるに値するかどうかが問われても仕方がない」という、広く私たちを覆う観念なのではないか。そして、そのような観念は、世論によって強化され押し広げられ、私たちを、障害をもつ人を、「犠牲の構造」へと巻き込んでいくのである。(194~195ページ)

「生の無条件の肯定」と「権力に抗する倫理の姿」
一般化・抽象化された「生命」ではなく、個別・具体的な「生命」に目を凝らしてみると、ただそこに存在しているだけで、それは絶対的なのである。個別・具体的な「生命」は、ある空間と時間において間違いなく存在している。だからこそ、それは比類がないのであって、絶対的なのである。(中略)この「生きているということそのもの」(「生そのもの」)こそ、あらゆる生の原形であって、私たちはこうした「生そのもの」を無条件に肯定しなければならないのではないか。なぜなら、「生そのもの」の否定は、原理的な水準において、すべての生の否定を意味するからである。こうした理由によって「生命の価値」「生命の尊厳」といった一般的・抽象的な次元よりもいっそう深い水準において、「生そのもの」を無条件に肯定する必要があるのではないかと私は考えているのである。(191~192ページ)
権力は「生そのもの」を、一般化・抽象化された「生命」に基づく価値序列に当てはめ、「生きるに値する生/生きさせるに値する生」であるかどうか選別していく。その過程で権力は、「生そのもの」に「尊厳」を付与することで、「生そのもの」を肯定する回路を絶ってしまう。だからこそ私たちは、そうした力に抵抗しなければならないのである。「生そのもの」を、それ自体として受け取ること、したがって、一般化・抽象化された「生命」として受け取ってはならないということ、「生そのもの」を無条件に肯定すること。それこそが、「生の無条件の肯定」が指し示す倫理の地平なのである。(200ページ)

社会運動と「民主的アプローチ」
多くの社会運動は、「他者と共に豊かに生きられる社会」の実現を目指している。裏を返せばそれは、この社会が、まだそうなっていないことを意味している。(中略)現安倍政権は、異質な人間を排除し、同質な人間をのみ成員とする社会を作ろうとしているように思えてならない。異質な人間を異質なまま、この社会のメンバーとして受け入れようとせず、同質化を強要し、それに従わない人は構成員とみなさず、放遂しようとしているのである。それによってこの社会は、他者と出会う機会を失っていき、同質な人間だけで完結した、閉じた社会になっていくのではないか。(180ペジ)
社会運動にかかわる上で肝要なのは、ある属性をもつ人びとを差別し、見殺しにするこの社会を、「犠牲の構造」の上に成り立つこの社会を絶対に許さないという思いと、いつの日か、そうした社会を変革することができるという信念ではないかと私は思うのである。(215~216ページ)
いくら「来るべき社会」について議論をしても、その基底に「正しさ」がなければ、何の意味もない。人びとがもし、「政治的な力による調整」によって多数派を形成することこそ民主主義の実践だと考えているとすれば、端的に言ってそれは誤りである。結局のところそれは、政治的に力の強いものこそが「正しい」と言っているのと同じである。複数あるプランのうち、もっとも論拠が確かで妥当性が高いのは何かをめぐって、意見交換をしながら合意を形成し、それに基づいて社会を運営していくというのが、あるべき民主主義の姿ではないか。(222ページ)

〇野崎の言説の核心は、「『生の無条件の肯定』は正義であり、倫理的命令である」という点にある。それを[1]では「障害者」の視点に立って、[2]では「犠牲」という視角から論究するのであるが、その主張を際立たせようとするあまり、論理の飛躍や混乱、不整合が散見される。例えば、野崎は「負け惜しみではなく、障害がないほうがよい、とは思わない障害当事者も存在する」ことから「『障害はないほうがよい』という問いに対する答えは定まらない」([1]27ページ)という。その意見については、筆者にも「自分がCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)であることを誇りに思っている」という知人がいるが、一般論としては全面的には首肯しかねる。「障害はないほうがよい」。ただし、それが即、障がい者の存在を否定することにつながらない論理の展開が強く求められる。そこでは、障がい者に対する意識・態度や個別具体的な支援のあり方などが厳しく問われることになる。多言を要しない。
〇野崎の言説は必ずしも新味性があるとは言えないが、そこから福祉教育実践や研究が学ぶべき論点や主張も多い。例えば、「身体や生命は、そこに在るだけで本源的・絶対的な価値を有している」。「一般化・抽象化された『生命』ではなく、個別・具体的な『生命』に目を凝らすことが重要である」。「学校教育においても、障害のある『生そのもの』は価値序列によって選別の対象となっている」。「生きる・生きさせるに値するかどうかを問うという考え方は、世論によって強化・拡大されていく」。「これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者(障がい者)の主張をつけくわえるもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう」、などがそれである。

補遺
野崎泰伸は、「倫理」と「倫理学」そして「哲学」について次のように述べている。
「倫理」とは、「人としてあるべき道についての掟」のようなものである。「倫理学」とは、「いかに生きるべきか」について考える学問である。「哲学」とは、人生のあらゆる出来事について、その根源にさかのぼって探究する学問である。倫理学は哲学のひとつの領域である([2]49ページ)。「障害とは何かを問うていく営為は哲学的であり、障害者とともに生きる社会はどうあるべきかを考える営為は倫理学的でもある」([1]21ページ)。

付記
阪野貢「障がい者差別と『生の無条件の肯定』―野崎泰伸の思想から―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、230~238ページ。一部加筆修正。

 


Ⅷ  「しんがり」の姿勢


<文献>
(1)鷲田清一『しんがりの思想―反リーダーシップ論―』角川新書、2015年4月、以下[1]。
(2)駒村康平編『社会のしんがり』新泉社、2020年3月、以下[2]。

〇[1]で鷲田清一はいう。「縮小社会・日本に必要なのは強いリーダーではない。求められているのは、つねに人びとを後ろから支えていける人であり、いつでもその役割を担えるよう誰もが準備しておくことである」。いま、「新しい市民のかたち」「自由と責任の新しいかたち」が問われている(カバー「そで」「帯」)。
〇鷲田の論はこうである。日本は、高度経済成長の「右肩上がり」の時代から「右肩下がり」の時代に移行し、人口減少や少子高齢化などによる「縮小社会」が進行している。しかしいまだに、この国の政治・経済は「成長」を至上命題として考え、多くの人は拡大思考から解放されないでいる。
〇かつて出産から子育て・教育、看護や介護、看取りと葬送(そうそう)、もめ事解決、防犯・防災などの基本的な生活活動(生命に深く関わる「いのちの世話」)は、地域社会で住民が共同で担ってきた。しかし、高度消費社会の進展が図られるなかで、それらの活動も、納税やサービス料を支払うことによって、行政や専門家、サービス企業に責任放棄・転嫁(「押しつけ」)され、委託(「おまかせ」)されている。別言すれば、市民が「顧客」や「消費者」という受け身の存在に成りさがっている(「市民の受動化」)。それは、「責任を負う」ということをめぐっての、この社会の「劣化」であり、市民の「無能力化」を意味する。
〇いま、こうした「右肩下がり」の時代を見据えて、いかにダウンサイジング(downsizing、縮小化)していくかが問われている。そこで求められるのは、人や組織を引っ張っていく強いリーダーシップ(リーダー)ではなく、社会全体への気遣い・目配りや周到な判断ができ、「退却戦」もいとわないフォロワーシップ(フォロワー)である。それが「しんがりの思想」である。これこそが、市民が受動性から脱して「市民性」(シティズンシップ)を回復させ、それを成熟させる前提になる。「市民性」とは、「地域社会のなかで、みなの暮らしにかかわる公共的なことがらについてともに考える、そしてそれぞれの事情に応じて公共の務めを引き受ける、そんな市民・公民としての基礎的な能力」(88ページ)をいう。
〇そして、鷲田にあっては、「市民性の回復」すなわち(対抗的な)「押し返し」の活動は、たとえばボランティアやNPOの活動、Uターン、Iターンの動きなどに見ることができる。リーダーや市民にはいま、「しんがり」の務めと「押し返し」のアクションを行なうことが求められている。その際に重要なのは、リーダーシップではなくフォロワーシップである。
〇鷲田は[1]で、民俗学者の梅棹忠夫の「請(こ)われれば一差し舞える人物になれ」(215ページ)という一言を引いて本文を閉じる。「成熟した市民」「賢いフォロワーとなる市民」の姿である。
〇[2]は、2014年度から2018年度まで慶應義塾大学で行われた全労済協会寄附講座「生活保障の再構築―自ら選択する福祉社会」をもとに、さまざまな分野や地域で、変化する社会経済が引き起こす諸課題を克服すべく格闘している「しんがり」たちの活動をまとめたものである(8ページ)。
〇[2]での駒村康平の思い・願いは、すなわちこうである。「しんがり(殿軍:でんぐん)」とは、戦いに敗れて撤退する本隊を守るために最後まで戦場に残り、敵を食い止める部隊のことである。社会や地域が大きく変化し、その対応に既存の諸制度が対応できないときに、起きている問題に格闘する人や組織は必ず必要である。そうした人々や組織を「しんがり」と呼び、「先駆け(先駆者)」だけが褒(ほ)めそやされる時代に、「しんがり」の活躍にも光を当てたい(8~9ページ)。
〇駒村はいう。今日の日本社会は、人口減少や格差の拡大などによる社会の劣化が進んでいる。また、戦前・戦中の適者生存や優生思想が強まり、再び危機の時代を迎えている。LGBT(性的少数者)をめぐる生産性の議論や相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)などがそれである。そんななかで、地域社会を維持するために自ら社会問題を考え、構想し、地域の問題は住民自身で解決するという意識のもとで行動できる市民を育てる。また、平和のために時代や場所を超えて他者の困窮(困りごと)を想像し、共感できる市民を増やす、それが強く求められる。駒村が期待する「市民」は次のようなものである。

(1)充実した熟議ができるような市民になってほしい
社会や国に影響を及ぼす大きな政治的な諸問題について、伝統にも権威にも屈従することなく、よく考え、検証し、省察し、議論を闘わせる市民になってほしい。
(2)他者への敬意を払うような市民になってほしい
自分たちとは人種、宗教、ジェンダー、セクシュアリティが異なっていたとしても、他の市民を自分と同等の権利を持った人間と考え、敬意を持って接するようになってほしい。
(3)他者、他国の人の気持ちを想像、共感できる市民になってほしい
さまざまな政策が自分そして自国民のみならず他国の人々にとってどのような意味、影響を持つかを想像、理解できるようになってほしい。
(4)人の「物語」を聞くことにより、人生の意義を広く、深く理解できる市民になってほしい
幼年期、思春期、家族関係、病気、死、その他、さまざまな人生の出来事について、単に統計・データとして見るのではなく、一人ひとりの人生の「物語」として、理解することによって、多様な生き方に共感できるようになってほしい。
(5)政治的に難しい問題でも自ら考え、判断できる市民になってほしい
政治的な指導者たちを批判的に、しかし同時に彼らの手にある選択肢を詳細にかつ現実的に理解したうえで、判断するようになってほしい。
(6)世界市民として自覚し、社会全体の「善」に想いをはせてほしい
自分の属する集団にとってだけではなく、社会、人類全体にとっての「善」について考えてほしい。複雑な世界秩序の一部として自分、自国の役割を理解し、人類が抱えている国境を超えた、複雑で知的な熟議が必要とされる多様な諸問題の解決を考えてほしい。(23~24ページ)

〇言うまでもなく、地域の問題は地域住民の問題であり、住民自身で解決するという意識が重要である。その地域社会(まち)のありようを最終的に決めるのは、「市民」でなければならない。その点で市民には、鷲田がいう「市民性の回復と成熟」、駒村がいう(1)から(6)の「市民性」(市民としての資質・能力)の形成が求められる。地域の問題はまた、複雑化・複合化し、多様化、困難化している。その点で市民には、多領域の専門家や「関係人口」などとの「共働」が肝要となる。先ずは問題把握や解決に向けて「熟議」する公共的な “場” の構築であろう。さらに市民には、政治や行政に対する一辺倒な批判だけでなく、まちの将来展望を踏まえた課題解決活動や運動の取り組みが求められる。これらは、筆者がいう「市民福祉教育」に通底する。
〇なお、鷲田は[1]で、福澤諭吉の『学問のすゝめ』の一節、「一人にて主客二様の職を勤むべき者なり」(岩波文庫、1978年1月、64ページ)を引く。それは、「ふだんは公共のことがらを、市民のいわば代理として担う議会や役所にまかせておいてもいいが、そのシステムに致命的な不具合が露呈したとき、あるいはサービスが決定的に劣化したときには、いつでも、対案を示す、あるいはその業務をじぶんたちで引き取るというかたちで、人民が『主』に戻れる可能性を担保しておかなければならないということである」(197~198ページ)。これは、「顧客」「消費者」としての市民の、鷲田がいう「押し返し」である。世間から押しつけられるものではなく、地べたから立ち上がる、「責任」の新しいかたち(感覚)である。得意げに口汚くののしるだけの市民(クレーマー)や専門家は無用であり、ときに有害でもある。付記しておきたい。

付記
阪野貢「『しんがり』:社会劣化の時代における思想―鷲田清一と駒村康平を読む―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、75~77ページ。一部修正。

 


Ⅸ  「助けて」の創造


<文献>
(1)奥田知志『もう、ひとりにさせない―わが父の家にはすみか多し―』いのちのことば社、2011年6月、以下[1]。
(2)奥田知志『「助けて」と言おう―3・11後を生きる―』日本キリスト教団出版局、2012年8月、以下[2]。
(3)奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ―人と社会をつなぐ―』集英社新書、2013年8月、以下[3]。
(4)佐藤彰・奥田知志・宋富子、明治学院150周年委員会編『灯を輝かし、闇を照らす―21世紀を生きる若い人たちへのメッセージ―』いのちのことば社、2014年3月、以下[4]。
(5)奥田知志・稲月正・垣田裕介・堤圭史郎『生活困窮者への伴走型支援―経済的困窮と社会的孤立に対応するトータルサポート―』明石書店、2014年3月、以下[5]。
(6)埋橋孝文、同志社大学社会福祉教育・研究支援センター編『貧困と生活困窮者支援―ソーシャルワークの新展開―』法律文化社、2018年9月、以下[6]。

〇2018年11月、日本福祉教育・ボランティア学習学会第24回大会(「あいち・なごや大会」)が日本福祉大学(愛知県東海市)で開催された。大会テーマは、「共生文化創造への途―福祉教育・ボランティア学習の新たな展開を探る―」であった。奥田知志の記念講演――「共に生きる意味」と、それを受けて行われた大橋謙策との対談――「共生文化の創造にむけた学び」は圧巻であった。宗教や実践・研究の体系を持つヒトは強くて深い。聞き手は感銘を受け、心が揺さぶられる。
〇周知のように、奥田は、生活困窮者(ホームレス等)に対して、信仰(神学)に支えられた深い洞察とそれに基づく個別的で包括的かつ持続的な「人生支援」を行っている。奥田はいう。「自己責任論の社会が私たちから奪ったものがある。それは『助けて』という一言である」(「2」37ページ)。大橋は、地域福祉の理論と思想、方法(コミュニティソーシャルワーク)、そして福祉教育について実践的研究を進めている。大橋はいう。「新たな社会システムに必要な価値、意識として“博愛”の精神の涵養とそれを推進する福祉教育が求められる」(大橋謙策『新訂 社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月、227ページ)。
〇[1]:本書の内容をあえて言えば、「絆の神学」とも言うべきであろうか。しかし、それは空論ではなく、具体的な「ホームレス」との出会いの中から紡(つむ)ぎだされた「絆の物語の神学」である。この時代に「だれ」と、どのような「絆」を結んで生きるのかと、この本は問いかけている。(関田寛雄「推薦の言葉」6ページ)
〇[2]:震災以来声高に叫ばれ続ける「絆」という言葉。しかし多くの場合、そこで意味しているのは自分に都合のよい絆のこと。ホームレス支援の現場と震災支援の中で見えてきた、傷つくことを恐れて自己責任論の中に逃げ込む現代人の心のあり方を問う。(「帯」)
〇[3]:ホームレスが路上死し、老人が孤独死し、若者がブラック企業で働かされる日本社会。人々のつながりが失われて無縁社会が広がり、格差が拡大し、非正規雇用が常態化しようとする中で、私たちはどう生きればよいのか? 本当の“絆”とは何か? いま最も必要とされている人々の連帯とその倫理について、社会的に発信を続ける茂木健一郎と、長きにわたり困窮者支援を実践している奥田が論じる。対談本。(カバー「そで」)
〇[4]:本書は、明治学院150周年記念連続講演会(2013年11月、明治学院高校主催)を再録したものである。奥田の講演「その日、あなたはどこに帰るか?―誇り高き大人になるために」が収録されている。メッセージは、「誇り高い人類として生きたいのならば、『助けて!』と言ってください。『助けて!』は、新しい社会を創造するために欠かせない言葉です」。(77ページ)
〇[5]:奥田によって名づけられた「伴走型支援」の思想・理念・仕組みを確認するとともに、その成果と課題を実証的に明らかにしたうえで、これからの生活困窮者支援の方向性を示す必要があると考えた。それが本書である。(稲月正「はじめに」4ページ)
〇[6]:本書は、①「伴走型支援」の内容、②家計相談支援の意味と方法、③学校ソーシャルワークの背景と機能、④保育ソーシャルワークの今後の方向性など、生活困窮者および(子どもの)貧困に関するホットイシューズを取り上げている。講演記録集。(埋橋孝文「序」3ページ)
〇筆者が奥田を知ったのは、NHKクローズアップ現代取材班編著『助けてと言えない―いま30代に何が―』(文藝春秋、2010年10月)である。その本の「帯」の一文、「言えない/孤独死した39歳の男性が便箋に残した最後の言葉は『たすけて』だった」に衝撃を受けたことを覚えている。ここでは、[1]から[6]のうちから、[1]の論考について筆者が留意したい論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「一人称」で語られる「安心・安全」は人を無縁へと押しやる
「安全、安心の街づくり」とは、いったい何であったのか。そもそもホームレス状態の人々を「タイプの違う人」と呼び、「治安や秩序が乱れる」と決めつけているのは差別である。「安全、安心の街づくり」が人を排除し、その人たちを死へと向かわせている。「安心・安全」が、人を無縁へと押しやっているのである。あえて問いたい。「安心・安全はそんなに大事か」と。自分たちの「安心・安全」を追求する地域社会が、「自分の安心・安全」を守るために他者との出会いのチャンスを自ら閉ざし、敵対心を燃やす。あるいは、それを理由に無関係を装う。(92ページ)
実際の「安心・安全」は、常に「一人称」で語られる。私の安心・安全、我が町の安心・安全、我が国の安心・安全、我が家の‥‥‥。そこには、あなたの安心・安全や彼らの安心・安全は存在しない。全部が「我がこと(一人称)」なのだ。そもそも人が出会い、共に生きようとする時、人は多少なりとも自分のスタイルやあり様を変えざるを得なくなる。すなわち、自らの都合を一部断念せざるを得なくなる。出会いというものは、その意味で自分の「安心・安全」のみを願う私たちにとって、「危険」だと言わざるを得ない。出会いによって人は学ぶ。そして学ぶと、人は変えられ、新たにされる。(93ページ)

「自己責任論」は社会の無責任を肯定し人を分断・排除する
自己責任論社会とは、困窮状態に陥ったその原因も、またそこから脱することも、すべては本人次第、本人の責任であるという考え方である。現在の社会は、この自己責任論に席巻された感がある。(162~163ページ)
自己責任論の構造は、ある人に関する責任を、ある一定の範囲に押しとどめて理解するというものである。自己責任、あるいは身内の責任は、自分自身、あるいは家族という一定の範囲に責任を押しとどめた。その結果、周囲は無責任を装えたのだ。「自己責任論」は、社会の無責任を肯定するための理屈だった。自己責任論的な構造は、日本社会においては以前からあったと思う。しかし、当時成長を続ける社会というものが前提として存在していたゆえに、がんばればチャンスを手に入れられるという時代でもあった。すなわち、個人のがんばりが効く時代であった。自己責任という言葉は、教育的な面も含め、ある程度の意味があったのだ。しかし、現在のような低成長期において、企業社会や家族的経営と呼ばれたものは崩壊し、終身雇用制は原則ではなくなった(賃金労働者の4割が非正規雇用である:阪野)。公の行う社会保障も先細るなかで、自己責任は「励まし」ではなく、人を分断、排除するための用語となった。(168ページ)

「孤族」の時代は「何が必要か」とともに「だれが必要か」を問う
ホームレス支援において重要なのは、「ハウスレス」と「ホームレス」という、2つの困窮という視点である。ハウスレスは家に象徴される、食糧、衣料、医療、職などあらゆる物理的(・経済的:阪野)困窮を示す。もうひとつは、ホームレス。それは、家族に象徴されてきた関係を失っている、すなわち関係的困窮(無縁:筆者)を言う。税制と社会保障の一体的改革は、ハウスレス問題にとって重要な課題である。経済の動向がこの先どのようになるのか。労働者の権利がどのように守るのかなど、課題は山積である。しかし一方で、たとえ食べられるようになったとしても、だれと食べるのかという問題は、さらに重要な事柄なのだ。この視点に立ち、野宿者支援をしてきた私たちが考え続けたことは、この人には今何が必要か、ということとともに、この人に今だれが必要か、ということであった。そして今日、このホームレス問題は、野宿状態という物理的困窮の有無にかかわらず、多くの人々が抱えている問題となっている。(171ページ)
「無縁社会」や「孤族」の時代は、ホームレス問題がもはや路上の問題ではないことを明示している。このホームレス化を促進したもの、その最大の要因が「自己責任論」であったと思っている。(172ページ)

「傷」つくことなしにだれかと出会い「絆」を結ぶことはできない
自己責任社会は、自分たちの「安心・安全」を最優先することで、リスクを回避した。そのために「自己責任」という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には「傷」が含まれているという事実だ。(209ページ)
傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら「出会った責任」が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感(自分は人の役に立っているという意識:阪野)や自己尊重意識にとって、他者性と「きず」は欠くべからざるものなのだ。(210~211ページ)
「傷つくという恵み」――国家によって犠牲的精神が吹聴された歴史を戒(いまし)めつつ、今こそ他者を生かし、自分を生かすための傷が必要であることを確認したい。(211ページ)

〇日本社会はいま、福祉や教育の世界においても、規制緩和や市民参加(「我が事・丸ごと」等)が声高に叫ばれるなかで、民主主義の崩壊が進み、国家権力による管理・統制が強化されている。「地域参加による学校づくりのすすめ」(「コミュニティ・スクール」等)や市民によるまちづくり(「地域福祉計画」等)の「主体性」や「自律性」も所詮は、規制緩和と同時並行的に管理・統制の変更や強化が図られるなかでのものに過ぎないのか。こうした社会認識のもとで改めて[1]を読むと、奥田らの地べたを這いずり回り、血がにじむ取り組みにただただ頭が下がる。とともに、日本社会の危うさを痛感する。
〇福祉教育についての議論は、「学会」の界隈だけにあるのではない。個別具体的な実践や研究が展開されている「いま」(現在進行形)の福祉教育現場こそが重視されなければならない。「学会」は、最新の福祉教育実践や研究の成果を持ち寄り、多面的・多角的な視点から議論し、実践・研究の深化や発展を図る“現場”である。その“現場”ではいまだに、これまでの権威ある学説を無条件に受け入れたり、眼前の地域・社会や新たな社会福祉問題に向き合おうとしない「報告」が散見される。高齢者や障がい者、生活困窮者、外国籍住民などを福祉教育実践や研究の「共働者」ではなく、言い古された「当事者」として位置づけるモノも多い。また、気鋭の実践家や研究者による実践・研究の学際的・総合的、歴史的・哲学的視点(視座)からの掘り起こしやブラッシュアップ(磨き上げること)も、必ずしも十分であるとは言えない。学会の「あいち・なごや大会」に参加し、また[1]から[6]を読み返して思ったことのひとつである。

補遺
奥田の言説のキーワード、キーコンセプトのひとつに「伴走型支援」がある。奥田によるとそれは、「1988年にホームレス支援が始まり、以来、路上での生活やその後の看取りまで続く営みのなかで生まれた支援論である。学者が豊富な知識を駆使して構築した体系ではない。日々の経験が積み重ねられ、何よりも当事者から学ぶなかで澱(おり。液体の底に沈んだカス:阪野)が沈殿していくようにできた支援論である」([6]27ページ)。奥田は、生活困窮者支援における「伴走型支援の7つの理念」について次のように整理している。([5]56~72ページ抜き書き)
(1)家族(家庭)機能をモデルとした支援
家族(家庭)が持っていたと想定される機能に、①包括的、横断的、持続的なサービス提供機能、②記憶の蓄積と記憶に基づくサポートプラン策定機能、③持続性のあるコーディネート機能、④役割の担い合いによる自己有用感提供機能、がある。伴走型支援は、これらの家族(家庭)機能をひとつのモデルとした支援である。
(2)早期的、個別的、包括的、持続的な人生支援
伴走型支援は、生活困窮者が社会的に孤立状態にあり、しかも多様で複合的な課題を抱えているとの認識に立つがゆえに、早期的、個別的、包括的、持続的な支援でなければならない。それは「自立支援」にとどまらず、「人生支援」である。
(3)存在の支援
伴走型支援は、従来の問題解決型の「対処・処遇の支援」に加えて、「伴走そのもの」を支援とする。伴走者と当事者が、向き合うこと、関係すること自体が支援である。
(4)参加包摂型の社会を創造する支援
伴走型支援は、徹底して個人に寄り添うことから始まる。当然の帰結として、社会や地域を問うことになる。困窮者支援は、経済的困窮状態にあり、社会的に孤立した「個人の社会復帰を支援する」といわれるが、問題の本質は「そもそも復帰したい社会であるかどうか」というところにある。
(5)多様な自立概念を持つ相互的、可変的な支援
伴走型支援は、生活自立や社会参加を基軸とした社会的自立、経済的自立など多様な自立概念から構成される。伴走は、助けられたり助けたりという相互的な関係である。また、助けられた者が助ける側に変われる可変性が担保されなければならない。
(6)当事者の主体性を重視する支援
伴走型支援は、当事者が自分で自分を助ける力を得ることである。当事者は「できない人」ではなく、「自分を助けることができる人(になる)」との認識に立つ。「まず自助、次に共助、最後に公助」という順番が重視されるが、自助は、公助や共助が適正に機能している状況において成立する。
(7)日常を支える支援
伴走型支援は、人生支援である。そして人生の大半は、なにげない日常である。伴走型支援は、この日常を支える支援である。伴走型支援は、「日常は問題が起こる場所である」という認識に立ち、日常を支える参加包摂型社会の構築をめざす。

付記
阪野貢「『“助けて”と言えない無縁社会』×『“違った意見”が言えない統制社会』:気がつけば民主主義が民主的な手続きによって内側から壊れている―奥田知志を読む―」市民福祉教育研究所ブログ〈雑感〉(70)2018年12月25日アップ。一部加筆修正。

 


Ⅹ  「愛郷心」の相克


最近、戦争が始まる “臭い” がする / あんた、戦争を知ってるか / 気をつけなよ / もうこりごりだからな。
最近、“里” の夢をよく見る / 人っ子一人いない / おかしな空模様だ / なぜか、いつもそこで夢は終わる。

<文献>
(1)将基面貴巳『反「暴君」の思想史』平凡社新書、2002年3月、以下[1]。
(2)将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房、2019年8月、以下[2]。
(3)将基面貴巳『愛国の構造』岩波書店、2019年7月、以下[3]。
(4)姜尚中『愛国の作法』(朝日新書)朝日新聞出版、2006年10月、以下[4]。
(5)佐伯啓思『日本の愛国心―序説的考察―』中公文庫、2015年6月、以下[5]。(6)市川昭午『愛国心―国家・国民・教育をめぐって―』学術出版会、2011年9月、以下[6]。
(7)鈴木邦男『〈愛国心〉に気をつけろ!』岩波ブックレット、2016年6月、以下[7]。

〇筆者が、「愛国」や「愛国心」についていま改めて考えなければならないと思ったきっかけは、上記の、要介護高齢者(女性)の痛みに耐えるような“うめき声”である。そして、彼女はいつも、自分が生まれ育った「里」のことを心配している。
〇将基面貴巳は[1]を、「現代日本は『暴政』への道を歩んでいるのではないか。そんな想念がこのごろしきりに脳裏をよぎる」(10ページ)と書き出す。「このごろ」とは、バブル崩壊(1991年3月~1993年10月)後10年余が経過し、小泉純一郎内閣(2001年4月~2006年9月)によって「規制緩和」や「構造改革」という名の新自由主義的政策が推進された時代であろう。
〇[1]は、「危機的様相を日ごとに深める祖国(日本)を念頭におきつつ、政治をいかに監視すべきか。不正な権力にはどのように抵抗すべきか」(232ページ)について真正面からとり上げたものである。そこにおいて、将基面は、「共通善」思想に立脚する「国民社会」の建設の必要性を説く。「共通善」(common good)とは、「社会や国家など政治共同体全体にとっての善のことを指し、ある特定の個人や集団にとっての善とは明確に区別されるものである」(10ページ)。その「共通善」の実現に国民は、直接的な責任を持たない。「それは権力担当者が引き受けるべき責務である」(35ページ)。「暴政」とは、「ある一部の権力者や権力がひいきにする特定の集団が利益を享受することを目的とする政治のことである」(10ページ)。
〇将基面はいう。「共通善思想が浸透した社会では、国民一人ひとりが、国民全体の理想と利益に対して責任を負っていることを自覚し、そうした共通の理想と利益を一人ひとりがおのおのの立場から不断に探求する。また、権力が不正を働いていることを知るならば、これを公の場ではっきりと批判し、たとえ一人であっても不正権力に立ち向かう個人がいれば、その人を『社会』」(特に社会の木鐸〈ぼくたく。指導者〉たるジャーナリズム)が援護する。権力に擦(す)り寄り、既得権益にしがみ付いてはなれようとしない者や、反社会的なビジネスを行う者や組織を公の場で批判し、たとえそうした行為が自らの目的にかない、自分の利益になるとしても、自らは手を出さないよう、自身をコントロールする」(232~233ページ)。このような倫理的感覚・態度をもつ人々が、日本という国家権力に対峙する存在としての「国民社会」を探求し創出することが、現代日本に求められる。将基面の主張のひとつである。
〇国家権力は、被治者を統制・強制する。「いざとなれば、自国民に対してさえ銃口を向け、私有財産を没収し、個人のあらゆる権利と自由を侵害しうる存在である」(39ページ)。国民はこのことを十分に認識し、国民社会の理想像の創出を権力担当者に一切任せてはならない。国民は、一人ひとりが「共通善」を不断に追求し、政治に対する関心を強め、権力を厳重に監視する。そして、正当性や妥当性を欠く場合には、権力に抵抗の意思を明示しなければならない。それは、「国民各自が自分の良心の問題として、悩み、決断すべき問題」(39ページ)であり、国民の倫理的義務である、と将基面はいう。
〇こうした将基面の言説は、「反時代的」(234ページ)なものであり、その底流に流れるのは以下に述べる「共和主義的パトリオティズム」の思想である。
〇[2]は、「日本人なら日本を愛するのは当然であり、自然である」という単純な社会通念に対して歴史的・哲学的に批判する、中学生でも理解できる平易な「教科書」である。内容的には、通俗的な「愛国心」や「愛国心教育」に関する言説への「解毒剤」(将基面)としての効能が期待される。別言すれば、日本の長所ばかりを見て欠点を見ようとしない「日本バカ」(65ページ)にならないための、日本の若者へのエールである。なお、[2]は[3]の「副産物」(将基面)でもある。
〇[2]における論点や言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

批判的愛国者のすすめ
日本語の「愛国」「愛国心」は、英語で言うとパトリオティズム(patriotism)である。(33ページ)
現代の日本では、「愛国」「愛国心」=ナショナリズムという理解が一般的である。日本語の「愛国」は、「ナショナリズム的パトリオティズム」の意味で理解されている。しかし、ヨーロッパで「愛国」という場合、「共和主義的パトリオティズム」を指す。この考え方が世界的・歴史的には本来のものである。(44、51ページ)
ナショナリズムとは、自らのネイション(nation.国民、民族)の独自性にこだわり、それに忠実であることを求める思想である。(42ページ)
共和主義とは、市民の自治を通じて、市民にとっての共通善(特に自由や平等、そしてそうした価値の実現を保証する政治制度)を守ることを重視する思想である。(35ページ)
「ナショナリズム的パトリオティズム」は、自国を盲目的に溺愛し、自国の失敗や過ちの経験から学ぶことなく、ひたすら自国の歴史や文化を誇りに思う自画自賛(自国礼賛)である。(116、117ページ)
政治的・経済的に権力を持つ人たちは、批判の対象とならざるを得ない。なぜなら、権力を持たない人々にはできないことをその政治的・経済的権限で可能にできる人々は、大きな責任を背負っているからである。(120ページ)
本来の「愛国」「愛国心」とは、常に政治権力に対して批判的なまなざしを注ぎ、市民の自由や平等を守る「共和主義的パトリオティズム」である。権力に対して批判的な態度をとることが愛国的(patriotic)なのである。(123ページ)

「報道の中立性」という犯罪
報道機関の重要な役目は、強制力や影響力を持っている人たちを監視することである。ところが、昨今ではマスメディアが「報道の中立性」という名目で権力批判をしないことが当たり前になっている。これほど甚(はなは)だしい勘違いはない。勘違いどころかほとんど犯罪的な過ちである。報道機関は、権力を持たない人々を代弁するためにあるのである。事実を客観的に報道するだけではなく、権力を持つ人々の仕事内容を、権力を持たない人々の立場から批判するためにあるのである。それをして初めて、報道機関は仕事を立派に成し遂げたということができるのである。(121~122ページ)

〇「現代世界で静かに進行する変化の一つは、『愛国』が政治を語る言葉として復活していることである」([3]2ページ)。「愛国という問題が今日ますます徹底的な思考を要する課題として急浮上している」([3]322ページ)。そういうなかで、[3]は、欧米と日本の多様な現代パトリオティズム論を歴史的観点から批判的に検討し、その固有の性格をあぶり出し、その問題性の一端を明らかにする。約言すれば、愛国=パトリオティズムについての歴史的・哲学的な構造の解明が[3]の目的である(12ページ)。
〇[3]における論点や言説のひとつの要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

「愛のまなざし」と愛国
愛国的であることを「祖国への愛」と読み換えるならば、その「愛」は盲目なものであってはならず「愛のまなざし」という観点が重要である。自国に「愛のまなざし」を注ぐということは、「私の国」に対してあらゆる規範的な判断を停止することではない。誇るべ長所だけでなく、恥ずべき欠点も含めて正確に「私の国」を理解することが、「愛のまなざし」に含まれる。一方で、愛する自国に長所を見出すことを喜ぶが、他方で、様々な過失や過誤を見出して、そのことに悩み苦しみ、欠点を改めようと努力するのである。このような「愛のまなざし」に基礎づけられた愛国的態度であってはじめて、それは道徳的義務ではないにせよ、望ましいものでありうると結論づけられるであろう。(222ページ)
「愛のまなざし」(loving attention,loving gaze)において重要なのは、愛の対象を可能な限り明瞭に理解しようとする点である。「愛のまなざし」の下にある対象は、「あばたもえくぼ」ではなく、「あばた」は「あばた」として認識される。「愛のまなざし」は、まなざしの対象に、良いところを見ようと心がけつつも、長所も短所も同様に、正確に理解する。すなわち、そのまなざしが「愛」に発するために、対象に好意的に接するが、しかし、その対象を正確に理解するという意味で、対象を分析し評価することも怠らないのである。共和主義的パトリオティズムを胸に抱く市民は、祖国に対してこのような「愛のまなざし」を持っている。祖国への愛は盲目ではなく、むしろ「祖国を鋭く見つめることを要求する」のである。(170ページ)

愛国と排除の論理
愛国的であるということは、無条件に道徳的正当性を主張できるものではない。にもかかわらず、愛国的であることが国民としての当然の義務であるかのような主張を巷間(こうかん。世間)で目にすることも少なくない。愛国的であることが義務であるとする認識が広く共有されるならば、それはどのような帰結をもたらすのか。(222~223ページ)
自国のアイデンティティに基礎づけられた愛国は、極端な場合、排外的で外国人を忌み嫌ったり見下(みくだ)したりする態度に結びつきやすい。他方、自国民であっても、愛国的ではないと判定される人々は、愛国者たちによって公的な避難や攻撃にさらされることが少なくない。愛国が熱狂化すればするほど、文化や人種、宗教的背景を共有する同一国民の間においてさえ、思想信条を異にする一部の人々を「非国民」「売国奴」であると排撃する傾向が増大することは広く認識されている。(226ページ)

国家の聖性と愛国
国家は、正統な義務を独占する「聖なる」存在である(国家は国民に様々なサービスを提供する組織、神社のように国民にとってありがたい・尊いもの、正当な暴力を独占・行使する存在である)。愛国的であることを義務として承認することは、国家という「聖なる」存在の忠実な信徒であることを意味する。国家の聖性への信仰は、当然、国家を尊崇(そんすう)することを必要とし、国家のための犠牲を要求する。国家のために死ぬことを拒否するのは、国家の聖性を認める限り、極めて難しい。(282ページ)
現代という歴史的地点において愛国的であるということが道徳的義務であると主張しうるとすれば、それは国家の聖性を認める限りにおいてにすぎない。「国家の聖性を認める限りにおいて」という限定条件は極めて重要である。(283ページ)
現代において当然視されているが必ずしも自覚されていない国家信仰を掘り崩(くず)すには、政府(さらには国家)を批判する市民たちが、非国民や国賊などと罵(ののし)られても動じないことが必要である。現代日本の文脈では、「反日」などと非難罵倒(ひなんばとう)されても、これに対して、自分たちこそが愛国的なのだと応答すべきではない。なぜなら、そうした自己弁護は、すなわち「お前は反日だ」という非難を支える国家への崇拝感情を裏書きする(実証する)ことになるからである。(283~284ページ)

〇[4]の姜尚中にあっては、愛国とは、自然な感情の発露としての妄信などではなく、「理にかなった信念」「自分自身の思考や感情の経験に基づいた確信」(54ページ)による行為である。愛郷は、自分が生まれ育った故郷への愛、情緒や感情によるものである。[5]の佐伯啓思にあっては、「戦後日本の愛国心をめぐる感情は、(「あの戦争」によって)ある『負い目』を背負い、その『負い目』をめぐって展開している」。そういった認識に立って「日本的精神の行方」を探求するなかで、「もうひとつの愛国心」(388ページ)を描き出そうとする。
〇将基面は、[4][5]について、「平成時代を代表する日本の愛国心論」である。しかし、いずれも「基本的には啓蒙書」であり、「愛国=パタリオティズムの包括的・体系的議論を必ずしも指向するものではない」([3]9ページ)と評している。
〇ここでは、[4][5]で言及している「愛郷と愛国」「愛郷心と愛国心」について、その一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

姜尚中―「愛郷と愛国」、その微妙な共棲関係
「愛郷」と「愛国」の関係は、「微妙な共棲(きょうせい)関係」にある。つまり、一方では、「愛郷」は、ナショナリズムという特定の歴史的段階において形成された一定の教義によって利用され、時として排斥される関係にある。例えば、上からの「郷土教育」が説かれるのは、画一的な「愛国心」などを強制する場合に、空洞化した実感的な部分を補完する必要があるためである。『美しい国へ』の著者(安倍晋三)が「国を自然に愛する気持ちをもつ」ために、「郷土愛をはぐくむことが必要だ」と述べているのは、そうした「郷土教育」の効用を意識しているからであろう。つまり、「愛郷」は「愛国」に「自然な」感情の装いをほどこす補完的な役割を果たしていることになるのである。(154~155ページ)

佐伯啓思―愛郷心は愛国心の換喩的表現
「愛郷心」とは「愛国心」のいわば換喩(かんゆ。比喩)的表現にすぎない。「郷」は「国」の象徴的な代理になっており、換喩的に「国」を表現している。この二つの概念を変換すれば「パトリオティズム」が二重性を帯びていることは別に不思議ではなかろう。「愛郷心」は結構だが「愛国心」は危険だ、という議論は説得力がない。そして、「愛郷心」と「愛国心」が重なり合うという意味での「パトリオティズム」にある種の強い情緒が伴うのは、「郷」にせよ「国」にせよ、その何か大事なものが失われつつあるからではなかろうか。そこにはあの種の喪失感が付着するのではないだろうか。繰り返すが、ある国の歴史的な伝統や文化や風土がそのままそこにあり、それらに自明のものとして囲まれているとき、人は、わざわざ「愛郷心」や「愛国心」を感じる必要もないであろう。ほとんど無自覚にそれらに囲まれて生活しているだけである。それらが失われつつあるという喪失感に囚(とら)われたとき、もしくは、たとえば外地にあってそこにどうしようもない距離感をもったときにこそ、「愛郷心」や「愛国心」を感じるというべきなのであろう。近代社会は、人々の流動性を高め、急激に都市化を行い、なつかしい風景を破壊していった。このことが近代の人々にパトリオティズムを抱(いだ)かせるのである。(132~133ページ)

〇[6]と[7]について将基面は、次のように評している。[6]は、「戦後の愛国心論では『忠誠問題が無視されてきた』と指摘し、そこに戦後日本における愛国心論の一つの特徴を見ている」([3]121ページ)。[7]は、「72ページの小冊子(岩波ブックレット)ながら、充実した作品である。愛国心の旗印のもと現代日本で広がりつつある排外主義を的確に批判している」([2]193ページ)。それぞれの一節をメモっておくことにする。

市川昭午―愛国は究極的には殉国を求める
愛国心や愛国心教育の問題が敬遠されたり嫌われたりするのは、それが究極において国家に対する忠誠の問題となるからであろう。国民国家は国民を保護し、その権利を保障する代わりに、国民に法律を守らせ、国民の自由を制約する。国家が国民の安全と国の独立を守るための共同防衛装置である以上、国民の側も国を大切に思うだけでは足りず、国防の義務に従うことが要求される。それは一旦緩急(かんきゅう。危急)ある場合には愛国だけでは不十分であり、究極的には殉国(じゅんこく。国のために命をなげだすこと)が求められるということである。(87ページ)

鈴木邦男―〈愛国心〉を汚れた義務にしてはならない
「同じ日本人なんだから」「日本を愛する愛国心をもっているのだから」という視野の狭い仲間意識のもと、排他的な傾向が強まっている。政権を批判したり、日本の問題点などを指摘したりすると「反日!」とののしられる。「他国に学んで、日本のここを良くしよう」などと言っても、「お前は外国の肩をもつのか」と怒鳴られる。その結果、「日本はすばらしい」「日本人は最高」といった自画自賛の言葉が氾濫し、そしてその足下で排外主義が跋扈(ばっこ。強くわがままに振る舞うこと)しているのが現状ではないのか。(52ページ)

〇「まちづくりと市民福祉教育」について語るとき、否が応でも、「自然に育まれた歴史や伝統・文化」の継承や「地域を愛する豊かな心」「郷土を愛する子ども」の育成などに関して語ることになる。しかも、愛郷心とその延長戦上にあるものとして扱われる愛国心が、学校現場においては道徳教育とのかかわりで言及されることにもなる。福祉教育はこれまで、その点を避けてきた。
〇周知の通り政府や文部科学省は、道徳教育と愛国心教育を強化する法律や施策を重ねてきた(いる)。その頂点は、「我が国と郷土を愛する」の文言(愛国心教育規定)が盛り込まれた2006年12月の教育基本法改正と、2018年4月からの道徳の教科化である。
〇2015年3月に「学校教育法施行規則」と道徳に係る「学習指導要領」が一部改正・改訂された。そして、それに基づいて小学校では2018年4月から、中学校では2019年4月から「特別の教科 道徳」(道徳科)が全面実施されている。注目すべきは、検定「教科書」の使用と新たな教育方法と評価の導入である。前者は、「日本の伝統や文化の尊重」「愛国心や郷土愛の態度」などをめぐって、一定の価値観や規範意識を国が上から押し付けることになる。それは、多様性や人権の尊重が声高に叫ばれる時代・社会にあって、極めて憂慮すべきことである。後者については、いわゆる「読み物道徳」「押し付け道徳」から「考え、議論する道徳教育」への質的転換である。しかしそれは、学習指導要領にあらかじめ提示された「道徳的価値」(「内容項目」)に限って「考え、議論する」にとどまる。したがって、それはまた、一定の価値観の押し付けに他ならない。加えて、道徳教育の評価については、「数値による評価」ではなく「個人内評価」として行うとされるが、一人ひとりの児童・生徒の道徳的心情や態度を評価することは憲法が保障する「思想・信条の自由」を侵害する以外の何物でもない。
〇愛国心教育の拡充の背景には、1990年代以降の経済のグローバル化が進展するなかで世界に通用する、「高い倫理観」や「多様な価値観」をもつパワフルな日本人の育成を図る必要があった。と同時に、社会格差が急速に拡大するなかで、国民統合の強化を図ることが要請された(市川昭午『教育基本法改正論争史―改正で教育はどうなる』教育開発研究所、2009年4月、29ページ)。すなわち、グローバル人材の育成・確保(エリート教育)が強く求められるなかで、一般の子ども(ノンエリート)に対する道徳教育の推進が図られ、その中心に位置づけられた(られる)のが愛国心教育である。要するに、「グローバル人材養成の道徳教育」と「ノンエリートへの愛国心教育」、すなわち「国家(財界)のための道徳教育」である。
〇こうした背景を押さえたうえで、大森直樹の言説に留意したい。大森にあっては、道徳教育には2つの重要な領域がある。ひとつは、「道徳は人々が生活と仕事のなかで自然に身につけるものであり、子どもにとっては学校が生活の場であることに対応した領域である」。すなわち、「無意図的な道徳教育」である。いまひとつは、「歴史と社会のなかで人々はどのように道徳を形成してきたか、社会現象としての倫理や道徳について認識をふかめる」領域である。すなわち、「道徳事実についての学習」である。そして大森は、こうした教育・学習は、「社会科をはじめとする教科学習や人権を主題とする総合学習でおこなうべき」である、とする。(大森直樹『道徳教育と愛国心―「道徳」の教科化にどう向き合うか―』岩波書店、』320、321ページ)。「まちづくりと市民福祉教育」について考える際の、ひとつの重要な視点でもある。
〇なお、ここで、愛郷心は生まれ育った地域・郷土の歴史や風土、文化を愛する心(感情や態度)で、地域への帰属意識を醸成する。愛国心は政治共同体としての国家を愛する心(感情や態度)で、国家への忠誠を求める、という愛郷心と愛国心の違いについて改めて確認しておきたい。

付記
阪野貢「愛郷心と愛国心―将基面貴巳を読む―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、137~143ページ所収。一部加筆修正。
阪野貢「いじめ・愛国心・道徳教育:『道徳的価値ありきの、国家のための道徳教育』を問う―大森直樹著『道徳教育と愛国心』読後メモ―」市民福祉教育研究所ブログ〈雑感〉(97)2019年11月5日アップ。一部加筆修正。

 


Ⅺ 「差別」の本質


<文献>
(1)キム・ジへ著/尹怡景(ユン・イキョン)訳『差別はたいてい悪意のない人がする―見えない排除に気づくための10章―』大月書店、2021年8月、以下[1]。
(2)神谷悠一著『差別は思いやりでは解決しない―ジェンダーやLGBTQから考える―』集英社新書、2022年8月、以下[2]。

〇[1]は、韓国で16万部超のベストセラーとなったキム・ジへ(김지혜、Kim Ji-hye)著『善良な差別主義者』(선량한 차별주의자、2019)の日本語訳版である。筆者の差別や人権についての稚拙な考えや思い・願いに変革を迫る、強烈なメッセージを発する本である。内容的には、事例を交えながら、女性や障がい者、セクシュアル・マイノリティ、移民などに対する差別や人権の諸問題が取り扱われる。
〇「本書が注目されたのは、差別に関する既存の考え方に新たな問いを投げかけたからと考えられる。一般に、差別に対する認識は、差別をする加害者と、それを受ける被害者という構造の中で議論される。本書でも指摘されているように、だれもが差別は悪いことだと思う一方、自分が持つ特権には気づかないので、みずからが加害者となる可能性は考えない傾向が強い。こうした考え方に、本書は『善良な』という表現を用いて、『私も差別に加担している』『私も加害者になりうる』という可能性に気づかせる。つまり、平凡な私たちは知らず知らず差別意識に染まっていて、いつでも意図せずに差別行為を犯しうるという、挑発的なメッセージを著者は投げかけている」(金美珍、[1]229~230ページ)。
〇[1]では「トークニズム」、「特権」、「優越理論」、「間接差別」、「差異の政治」などの理論に基づき、「多様性と普遍性」(「多様性をふくむ普遍性」)や「形式的平等と実質的平等」の観点から、また個人的レベルと構造的レベルの差別などをめぐって論究する。「差別禁止法」についての言及も注目される。それぞれの理論と差別禁止法に関する言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

トークニズム―名ばかりの差別是正措置:お茶を濁す―
トークニズムtokenismとは、歴史的に排除された集団の構成員のうち、少数だけを受け入れる、名ばかりの差別是正措置をさす。/トークニズムは、被差別集団の構成員のごくわずかを受け入れるだけで、差別に対する怒りを和らげる効果があることが知られている。それによって、すべての人に機会が開かれているように見え、努力し能力を備えてさえいれば、だれもが成功できるという希望を与えるからである。結局、現実の状況は理想的な平等とは雲泥の差があるにもかかわらず、平等な社会がすでに達成されているかのような錯覚を引き起こす。(25ページ)

特権―「持てる者の余裕」:意識にのぼらない恩恵―
特権とは、一部の人だけが享受するものではない。特権とは、与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵のことをさす。/不平等と差別に関する研究が進むにつれ、学者たちは平凡な人が持つ特権を発見しはじめた。ここで「発見」という言葉を使ったのには理由がある。このように日常的に享受する特権の多くは、意識的に努力して得たものではなく、すでに備えている条件であるため、たいていの人は気づかない。特権というのは、いわば「持てる者の余裕」であり、自分が持てる側だという事実にさえ気づいていない、自然で穏やかな状態である。(30ページ)/自分には何の不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障壁(バリア)になる瞬間、私たちは自分が享受する特権を発見する。(31ページ)/ほとんどの人は平等という大原則に共感しており、差別に反対している。(中略)しかし、相対的に特権を持った集団は、差別をあまり認識していないだけでなく、平等を実現するための措置に反対する理由や動機を持つようになる。(38ページ)

優越理論―嘲弄(あざけり、からかうこと):他人の不幸は蜜の味―
プラトンやアリストテレスなど、古代ギリシアの哲学者たちは、人は他人の弱さ、不幸、欠点、不器用さを見ると喜ぶと述べた。笑いは、かれらに対する一種の嘲弄(ちょうろう)の表現だと考えたのだ。このような観点を優越理論superiority theoryという。トマス・ホッブズは、人は他人と比べて自分のほうが優れていると思うとき、プライドが高まり、気分がよくなって笑うようになると説明する。だれかを侮蔑(ぶべつ)するユーモアがおもしろい理由は、その対象より自分が優れているという優越感を感じられるからである。/優越理論によれば、自分の立ち位置によって、同じシーンでもおもしろいときと、そうでないときがある。そのシーンから自分の優越性を感じる際にはおもしろいけれど、逆に自分がけなされたと感じればおもしろくない。(92ページ)/集団間の関係においても、同じような現象があらわれてくる。人は自分を同一視する集団に優越感を持たせる冗談、すなわち自分とは同一視しない集団をこき下ろす冗談を楽しむ。もしも相手の集団に感情移入してしまうと、その冗談はもはやおもしろくなくなる。(中略)相手の集団に対してネガティブな偏見を持っている場合はどうだろうか。決して自分とは同一視せず、むしろ距離を置こうとする集団に対する侮蔑は、みずからの属する集団の優越性を確認できる、楽しい経験になる。(93ページ)

間接差別―一見の平等と実際の差別:同じようで違う―
だれに対しても同じ基準を適用することのほうが公正だと思われるかもしれないが、実際は、結果的に差別になる。司法書士試験で、問題用紙・答案用紙と試験時間をすべての人に同一に設定すれば、視覚障害者には不利になる。製菓・製パンの実技試験において、すべての参加者に同じように手話通訳を提供しない場合、聴覚障害者に不利である。公務員試験の筆記試験で、他の受験生と同様、代筆を許可しない場合、高次脳機能障害の人に不利である。これらは、全員に同一の基準を適用することが、だれかを不利にさせる間接差別indirect discriminationの例である。(117ページ)

差異の政治―多様性を含む普遍性:みんな違う、みんな同じ―
承認とは、たんに人であるという普遍性についての認定ではなく、人が多様性をもつ存在であること、すなわち、差異を受け入れることをふくむ。集団間の違いを無視する「中立」的なアプローチは、一部の集団に対する排除を持続させる。「中立」と見せかけている立場は、実は主流の集団を「正常」と想定し、他の集団を「逸脱」と規定して抑圧する、偏った基準であるからだ。アイリス・マリオン・ヤングが述べる「差異の政治politics of difference」は、このように「中立性」で隠蔽(いんぺい)された排除と抑圧のメカニズムに挑むために「差異」を強調する。(194ページ)/アイリス・ヤングは、抑圧的な意味を持つ「差異」という言葉を再定義する必要があると述べる。「主流集団を普遍的なものとみなし、非主流だけを『異なる』と表現するのではなく、違いを関係的に理解し相対化すること」である。女性が違うように、男性も違うことができ、障害者が違うように、非障害者も違うと見る、相対的な観点だ。したがって、差異とは本質的に固定されたものではなく、文脈によって流動的なものである。車いすに乗っている人が「つねに」異なるわけではなく、運動競技のような特定の文脈では差異があっても、他の脈略では差異がなくなるようなものだ。(196~197ページ)/私たちはみな同じであり、またみな異なる。私たちを本質的に分ける差異はないという点で、私たちは人間としての普遍性を共有するが、世の中に差別が存在するかぎり、差異は実在するため、私たちはその差異について話しあいつづけなければならない。(197ページ)

差別禁止法―平等を実現するための方策:文化の改善か、政治改革か―
私たちが生涯にわたって努力し磨かなければならない内容を、「差別されないための努力」から「差別しないための努力」に変えるのだ。これらすべての変化は、市民の自発的な努力によって、一種の文化的な革命としておこなうこともできる。平等な社会をつくる責任のある市民として生きる方法を、市民運動に学ぶのだ。しかし同時に、平等の価値を共同体の原則として明らかにし、新しい秩序を社会の随所に根づかせるための法律や制度も必要だ。日常における省察とともに、平等を実現するための法律や制度に関する議論が必要なのだ。(202ページ)/差別撤廃という目的には同意するが、国が介入する問題なのかという疑問を抱く人々もいる。かれらは、国が介入するかわりに、自発的な文化の改善を通じて社会の変化をつくりだせると考える。これは、たしかに理想的で望ましく、法の制定とは無関係に、根本的な社会変化のために必要なアプローチではある。しかし、すでに差別が蔓延している社会で、法律で定められた規範ないし実質的な変化を期待することは難しい。(208ページ)

〇以上に加えて、キム・ジヘの言説の理解を深めるために、文章のいくつかを抜き書きする。

●  私をとりまく社会を理解し、自己を省察しながら平等へのプロセスを歩みつづけることは、自分は差別をしていないという偽りの信仰よりも、はるかに貴重だということだけは明らかである。(プロローグ:13ページ)
●  私たちが権利や機会を要求するとき、結果として求めるのは、ただ楽な人生ではない。私たちは、施設に閉じ込められ、他人から与えられたものだけを食べて寝て、何の労働もせず生涯を送る人生を、人間らしい生き方とは思わない。(中略)不平等な立場にいる人が平等な権利と機会を求めるのは、他の人と同じように、リスクを覚悟して冒険し、自分なりの人生を生きていくための権利と機会という意味なのである。(1章:36ページ)
●  立ち位置が変われば、風景も変わる。/風景全体を眺(なが)めるためには、世の中から一歩外に出てみなければならない。(中略)私たちの社会がユートピアに到達したとは思えない。私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ。(1章:41ページ)
● 固定観念は、自分の「頭の中にある絵」にすぎない。(中略)固定観念は、自分の価値体系をあらわす、ある種の自己告白になる。(51、52ページ)/固定観念は一種の錯覚だが、その影響力は相当強い。(中略)人々は、自分の固定観念に合致する事実にだけ注目し、そのような事実をより記憶し、結果的に、ますます固定観念を強固にしていくサイクルが作られる。一方で、固定観念に合致しない事実にはあまり注意を払わない。固定観念を覆すような事例を見かけたとしても、なかなか考えを変えようとしない。かわりに、その事例を典型的ではない特異なケースとみなし、例外として取りあつかうのである。(2章:52~53ページ)
●  差別を眺めるとき、性別や人種という軸に加えて国籍、宗教、出身国・地域、社会経済的地位などの軸を加えると、状況はさらに複雑になる。(62~63ページ)(中略)差別の経験をひとつの軸だけで説明することはできない(中略)。/さまざまな理由で幾重にも重なった差別を受ける人、差別を受ける集団の中でさらに差別を受ける人もいる。差別とは、二つの集団を比較する二分法に見えるが、その二分法を複数の次元に重ねて立体的に見てこそ、差別の現実を多少なりと理解することができるのだ。(2章:63ページ)
●  差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心(てきがいしん)を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。(2章:65ページ)
● (差別について)考察する時間を設けるようにしないかぎり、私たちは慣れ親しんだ社会秩序にただ無意識的に従い、差別に加担することになるだろう。何ごともそうであるように、平等もまた、ある日突然に実現されるわけではない。(3章:85ページ)
●  「からかってもいい」とされる特定の人々(中略)だけに同じようなこと(揶揄、蔑視)が集中してくりかえされる。私たちは、だれを踏みにじって笑っているのかと、真剣に問いかけるべきなのだ。(96ページ)/だれかを差別し嘲弄するような冗談に笑わないだけでも、「その行動は許されない」というメッセージを送れる。(中略)少なくとも無表情で、消極的な抵抗をしなければならないときがあるのだ。(4章:105~106ページ)
●   私たちはたちは教育を通じて、不公正な能力主義を学んでいるのではないだろうか。そのことによって、何ごとも不合理に区分しようとする、不平等な社会をつくっているのではないか。いまさらながら怖くなる。(5章:124ページ)
●  「差別は(中略)人種や肌の色を理由に、だれかを社会の構成員として受け入れないとするとき、その人が感じる侮蔑感、挫折感、羞恥心の問題である」。すなわち、人間の尊厳に関する問題なのである。(6章:143ページ)
●  民主主義が実現するには、基本的な前提として、社会のすべての構成員が平等な関係をもち、対等な立場で討論できなければならない。(中略)私たちは、同じ空間を共有しながら生きていくための倫理について考えなければならない。そうしてこそ、隠蔽された不平等を前提として平等を享受していた、古代ギリシアのポリスとは違う、真の民主主義をつくることができるだろう。(7章:162ページ)
●  正義とは、真に批判する相手がだれなのかを知ることである。だれが、または何が変わるべきなのかを正確に知る必要があるということだ。世界はまだ十分に正義に満ちあふれているわけではなく、社会の不正義を訴える人々の話は、依然として有効である。(8章:182ページ)
●  平等に向けた運動に参加できるのはだれだろうか。全員の賛同を期待することはできないだろう。歴史上、何の抵抗もなく達成された平等はなかったからだ。しかし同度に、一部の人々は、自分の立場や地位に関係なく、正義の側に立ち、マイノリティと連帯した。結局は、私たちだれもがマイノリティであり、「私たちはつながるほどに強くなる」という精神が世の中を変化させてきた。あなたがいる場所で、あなたはどんな選択をしたいだろうか。(9章:202~203ページ)
●   だれもが平等を望んでいるが、善良な心だけでは平等を実現することはできない。不平等な世界で「悪意なき差別主義者」にならないためには、慣れ親しんだ秩序の向こうの世界を想像しなければならない。そういう意味で、差別禁止法の制定は、私たちがどのような社会をつくりたいかを示す象徴であり宣言なのだ。(10章:219ページ)
●   閉鎖されたひとつの集団としての「私たち」ではなく、数多くの「私たち」たちが交差して出会う、連帯の関係としての「私たち」も可能ではないだろうか。だれかに近づき、「線を踏んだでしょう」「出て行け!」と叫ぶのではなく、みんなを歓迎し、一緒に生きる、開かれた共同体としての「私たち」をつくりたい。(エピローグ:224ページ)

〇[2]は、「差別」を「心の問題」として捉え、善意の「思いやり」や「優しさ」で解決しようとする「思いやり」万能主義からの脱却を説く。そして、権利保障と差別を解消・禁止するための法制度の整備や施策の推進の必要性と重要性について論究する。そこで取りあげる差別は、主に女性差別と性的少数者差別である。
〇神谷はこういう。「思いやり」はあくまでも、個人の資質や感情に基づくものである。その「思いやり」に基づかなくても人は守られる、というのが「人権」の考え方である。差別のひとつに「アンコンシャスバイアス」(無意識の偏見)があり、「思いやり」と同じ匂いがするフレーズに、現状の取り組みを是認する(新規性がない)意味の「周知を徹底する」や、他人事の象徴としての「何も気にしない」といったものがある。セクシュアルハラスメントに関して、「防止」法制(規定)はあるが「禁止」法制(規定)はない。また、男女の雇用機会の均等に関しても差別は禁止されているが、罰則の規定はない。ともに実効性が低く、「思いやり」に留まっているのが日本の現状である。
〇そこで神谷にあっては、制度や法律を整備することによって、一定の水準で権利を担保することが重要である。差別の防止・解消や禁止についての「啓発」の制度化や、差別禁止の法制度の導入が必要であり、「これが一番の近道」(93ページ)となる。
〇[2]における神谷の主張は要するに、「差別は権利の問題であり、思いやりは人権尊重の理念を持たない」、「差別は思いやりではなく、制度で解決すべきである」というものである。その言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

●  人権問題、特に「ジェンダー」や「LGBTQ」の問題を考えたり語ったりする際に、突然「思いやり」が幅を利かせ始め、万能の力を持つかのように信奉されてしまう。(中略)何をするにしても「思いやり」が靄(もや)のように現れ、実際には何も進んでいないにもかかわらず、何かを「やった感」「やっている感」だけが残るというのが長年の日本の状況(である)。(4~5ページ)


●  「思いやり」は、個々人の「気に入る」「気に入らない」といった恣意性に左右されやすいものであり、不具合が起きてしまうものである。思いやりも人それぞれ、ということになると、そこで保障されることも人それぞれであろう。そんな普遍性のないものを「人権」と呼べるだろうか。(49ページ)
●  ジェンダー規範からの逸脱は、排除を引き起こし、差別やハラスメント、仲間外れや無視といった事象が、逸脱したマイノリティ(女性、性的マイノリティはもちろん、これらの人たちに限らない)自ら、自分を制約する方向に力を加える。それが差別に対する異議申し立てを封印し、「男らしさ」を優遇する。だから、性的マイノリティに対する個別の差別や暴力根絶とともに、大元の性差別撤廃(女性差別を含むが、より広い意味で)にも力を入れるべきだ、ということである。(112ページ)
●  思いやり「だけ」では、多岐にわたる複雑な問題を解決することはできない。仮に思いやる心があったとして、それを持続的に、習慣的に、社会的な背景や構造にアプローチできる何らかの方法で実行しない限り、社会はもとより、身の回りを変えることも難しいが実情である。/関心のない人も含めて、より多くの人がジェンダーの領域に一定程度の水準まで取り組みを進めるためには、オーダーメイド的な(職人的なと言ってもいいかもしれません)取り組みだけではなく、ある種の「量産型」的な、誰にでも取り組め、扱うことのできる手法(研修・講習による定期的な周知・啓発:筆者)も、同時に求められている。(133~134ページ)
●  「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(略称「人権教育・啓発推進法」。2000年12 月 公布・施行)は、人権一般を扱うほとんど唯一の法律であるが、教育・啓発を実施するための行政の体制整備以外のことは規定がなく、実際の権利の保障には至っていないという致命的な課題がある。(52ページ)/この法制度に基づく取り組みは、「心がけとか思いやりとか、私人間の関係性のレベルにとどまっている」という指摘もある。(50ページ)
●  イギリスでは、「性別」や「障がい」など各分野の差別禁止法を統合したものを、通称「平等法」と呼び、両者はほぼ同じ内容として見られているようである。イギリスの場合、各分野の差別禁止法を統合した「平等法」のほうが、差別禁止法よりも積極的に平等を目指すために「公的機関の平等義務」などを規定しているとの指摘もある。(187ページ)

〇以上の言説を「福祉教育」に引き寄せて一言する(問う)。福祉教育(実践と研究)はこれまで、ジェンダーやLGBTQの問題について見て見ぬ振りを決め込んできたのではないか。また、福祉教育(実践と研究)はどれほどに、外国籍の子どもだけでなく外国人労働者や移民などの人権や差別について体系的に言及してきたか。厳しい差別や排除の現場に立ってその実態から気づき・学びを深める教育(体験学習)に積極的に取り組んできたか。差別の背景や構成要素(直接差別、間接差別、合理的配慮の否定など)について加害者と被害者を構造化して考えてきたか。不公正な能力主義や不合理な選別主義に対峙する批判的な福祉・教育理論の構築や実践に関心を払ってきたか。社会通念の変革とともに、差別を禁止・根絶するための政策の立案や関係法律・制度の改善・整備について思考し行動(運動)を起こしてきたか。そして何よりも、「思いやり」はこれらについての「思考停止」を促してきたのではないか。自責の念に駆られる。

付記
阪野貢「『差別』再考―『差別はたいてい悪意のない人がする』『差別は思いやりでは解決しない』のワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所ブログ〈雑感〉(168)2023年2月4日アップ。一部修正。

 


Ⅻ 「共感」の功罪


<文献>
(1)山竹伸二著『共感の正体―つながりを生むのか、苦しみをもたらすのか―』河出書房新社、2022年3月、以下[1]。
(2)ポール・ブルーム(Paul Bloom)著 高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』白揚社、2018年2月、以下[2]。
(3)永井陽右著『共感という病―いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?―』かんき出版、2021年7月、以下[3]。

〇「共感論」について活発な議論が展開されるなかでこんにち、「反共感論」の主張が少なからずみられる。山竹伸二はいう。「共感は本当に相互理解と協調、平和をもたらす自然の恩恵なのだろうか? それとも、不安や自由の喪失、憎しみ、差別をもたらす、悪魔のささやきなのか‥‥‥?」(21~22ページ)。「共感が生み出す助け合いが集団を強化し、文化を築く礎になったこと、その一方で、共感による集団の排他性が紛争や差別、迫害を生んできた歴史がある」(24ページ)。
〇[1]において山竹は、多角的な視点に立って、また科学的・哲学的な考察を通して「共感」の本質を解明しようとする。とともに、心のケアの領域や日常の対人関係における共感の有効性や応用可能性を明らかにし、共生社会における共感の重要性を指摘する。山竹は説く。「共感のメリットはリスクを大きく超える可能性がある」(204ページ)。「大事なのは共感に頼らないことではなく、共感のデメリットを減らし、よりよい形で共感を活かせるようにすること」(205ページ)である。
〇[1]で注目すべきポイントは、現象学(自分の意識・主観に現われていることを出発点にして、誰もが共通して了解できる意味(「本質」)を解明するための哲学的思考法)の観点から共感の本質にアプローチし、その問い直しを試みるところにある。山竹はそれを次のように整理する(7. 8.  以外の丸括弧内の解説は別頁より引用。126~129ページ)。

  1. 共感が生じる経験は、①「情動的共感」(相手と同じ感情であると感じる共感)と②「認知的共感」(相手と同じ考え方、感受性、価値観であると感じる共感)の2つに分けられる。
  2. 共感の質は心の発達、特に自己の確立と認知の発達にともなって変化する。
  3. 他者の共感によって得られる自己了解(自分の感情に対する気づき・自覚)と「存在の承認」(「ありのままの自分」が受け容れられていること)。
  4. 心理的距離、空間的距離の近い人間ほど共感が生じやすい。
  5. 共感力(相手の考えや気持ちを察することができ、その気持ちに寄り添うことができる力)には個人差がある。
  6. 共感は感情の共有であり、自己了解と同時に他者了解(他者の感情に対する気づき・自覚)が生じている。
  7. 共感は他者理解をとおして他者のためになる行動(利他的行為)を生む。
  8. 共感は喜びだけでなく、苦しみを生む場合もある(共感的苦悩)。
  9. 共感はお互いを理解し、協力し合う基盤となり、文化・社会を形成する。

〇以上の「共感の本質」(「共感の原理」)に続いて山竹は、「共感の功罪」について次のように整理する(130ページ)。


〇ここで、[1]のうちから、「共感」をめぐる論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

共感と利他的行為
共感という経験は対人関係における感情共有の確信であり、共感が生じると多くの場合、相手に対して親和的な感情(親しみ)が生じ、他人事ではないと感じられる。/この時、自己了解(自己の感情への気づき)と同時に、他者の感情了解が生じている。自己了解が「自分がどうしたいのか」という欲望を告げ知らせる以上、共感は「他者がどうしてほしいのか」を理解し、相手が望む行為の選択を、つまり利他的行為を可能にするのである。/もちろん、自分の感情と相手の感情が同じである、という保証はない。だが、私たちは共感を手がかりにして、相手に気持ちや望みを言葉で確認することができるし、それによって適切な対応を取ろうとする。そうやって経験を何度も積み重ねるほど、次第に的を外すことなく相手の感情を理解できるようになり、適切な対応が可能になる。/こうした理解力を培うには、言葉と想像力、推論する理性の力を身につけることが必要である。(110ページ)

排他的共感と差別
共感はすべてにおいてよいことが起きるわけではない。/誰かの悲しみや苦しみに共感し、助けたいと思う場合でも、必ずしもよい結果、正しい行動につながるとは限らない。共感から、目の前にいる人を手助けしてしまい、結果的に大勢の人を苦しめたり、困らせてしまうこともある。助けたつもりでいても、相手にとっては迷惑だったり、かえって悪い結果を招く場合も少なくない。/また、共感は憎悪や怒りのような感情にも共振するため、憎しみや怒りを増幅させる危険性がある。/仲間への共感から、仲間以外の人々を敵視したり、憎悪や軽蔑の眼差しを向けたりすることを、「排他的共感」と呼ぶことにしよう。/共感は文化を形成し、集団の結束を強めるのだが、それは半面、共感できない文化や自分の所属する集団以外の人々に対して、排除する傾向を生みやすい。共感による民族や国との一体感は、外国への差別意識、敵対意識につながりやすいのだ。繰り返される戦争、少数民族への迫害、異質な文化への差別などは、排他的共感が拍車をかけている。(116~117ページ)

協調的共感と共同性意識
多様な価値観を学び、様々な立場の人の身になって考えることで、偏った行動ではなく、より公正で適切な共感と利他的行為ができるようになる。/多様な価値観に寛容になるには、人間は集団の属性や価値観によらず、存在そのものが尊重されるべきだ、という感覚が必要になる。/この感覚を養うものこそ、親密な人々による共感なのだ。それは「ありのままの自分」が受容される経験、無条件の承認を感じる経験であり、だからこそ、「ありのままの他者」を受け容れ、共感できるようになるのである。/こうした対応を各々の人間ができるようになれば、他者との間に良好な関係性が形成され、よりよい協調が生まれ、お互いに助け合えるような社会を築くことができる。異なる考え方や価値観の人々の間にも、差異を認め合いながらも共感できるものを見出せるようになる。私はこれを「協調的共感」と呼び、共感の成熟したものとして捉えておきたい。(123~124ページ)/共感は人間同士の心のつながりを感じさせ、同じ人間であるという意識、共に生きているという意識をもたらすのだ。/しかし、この共同性の意識においても、適度な距離感、公正な判断力がなければ、容易に集団心理に呑み込まれてしまうだろう。/したがって、共感が人間の道徳性や共同性の意識において重要だとしても、そこに潜んでいるリスクを十分に自覚し、その対処法を考えなければならない。排他的共感に陥らず、協調的共感に至る道を考える必要があるのだ。(124~125ページ)

共感のリスクとその回避
共感には様々なリスクが付きまとっている。/まず第1に、共感しやすい人は、相手の感情に巻き込まれ、自分自身の感情を制御することが難しくなりやすい。/第2に、思い込みの強い人、自己中心的な人の場合、共感は相手と自分を同一視し、相手の他者性、固有性を無視してしまう傾向がある。/そして第3に、自分の所属集団、立場、価値観を過剰評価している人が共感すると、自分が共感できない人々に対して無関心になったり、敵視する傾向がある。/こうした共感のリスクを回避するためには、自己了解ができていること、感情の制御ができることが必要になる。自己了解の力があり、感情のコントロールができる人は、過度に相手の感情に巻き込まれたりしないし、相手と自分を同一視したりもしない。また、多様性に寛容で、他者との差異や他者性を認められる人は、排他的にもなりにくい。だから自分とは経験も立場も異なる相手であっても、先入観なしに対話し、相手との差異を認めつつも、自分と共通するものを見出すことができる。そうやって相手の感情に近づき、共感する可能性が高いのである。(166~167ページ)

良心と共感
「良心」は善悪を判断し、「人として正しくありたい」という思いが含まれているが、この判断の基準は内面にある価値観や行動規範、人としての理想などである。それは多くの人が認める価値観や社会規範とほぼ重なるため、共感や同情に公平性、公正さをもたらしている。しかし、そうした個人の内面にある価値観や行動規範は、何らかの状況で取り込まれ、身につけたはずなので、成長にともなって変化し、良心も変わってくることになる。(184~185ページ)/完全に「他者のため」という動機だけで良心が生じるわけではない。他者に承認されたい、他者と共に生きたい、という「自己のため」の動機も当然あるだろう。そうでなければ、自己犠牲を美徳と考えるような偏った義務論になりかねない。(188ページ)/共感によって他者の苦しみを知れば、自己の欲望を超えて、心から他者を助けたいという思いも強くなる。承認欲望と救済欲望が重なりあい、「自己のため」の行為が「他者のため」の行為になるのだ。そして共感の経験を繰り返し、理性的な思考が深まるにつれ、多様な他者の身になって考える力もついてくる。/こうして、成熟した良心は自己の欲望を自覚した上で、他者を心から助けたいと感じ、より普遍性のある判断を求めるようになるのである。(189~190ページ)

〇山竹にあっては、現代社会は、異なった文化や立場、多世代の「多様な人々が交流するようになり、共感が拡大する可能性のある時代である」(201ページ)。その一方で、現代社会では「絶対的な価値基準が見失われ、どうすれば周囲に認められるのか、自分の価値を確信できるのか、という承認不安が蔓延している」(202ページ)。そこで、上述の「共感の本質」を認識し、「心のケアの原理」に基づいて子育て、教育を実践すれば、「共感は私たちの未来を切り開く上で、とても重要な役割をはたすはず」(202ページ)である。「共感」への期待と展望である。山竹はいう。「楽観的と思う人もいるかもしれないが、私はそうした未来の可能性を信じたい」(205ページ)。
〇「まちづくりと市民福祉教育」(とりわけ学校福祉教育)においてはこれまで、抽象的な理念やひとつのスローガンとして「共感」が声高に叫ばれてきた感なきにしも非ずである。「共感の本質」についての理解・認識と、それに裏付けられた共感力を高めるための取り組みや教育プログラムの開発を如何に進めるかが問われよう。例によって唐突であるが、指摘しておきたい。
〇なお、上記の「心のケアの原理」とは、「共感は『ありのままの自分』が受け容れられている(認められている)という実感を与えることで、相手の不安を緩和する。また、共感によって相手の苦しみの根底にある感情を理解し、それを相手に伝えることで、相手に自己了解を促すことができる。すると、相手は自分を見つめなおすことができるようになり、考え方を修正したり、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、納得のいく判断ができるようになる」(194ページ)ということを指す。

補遺
〇筆者(阪野)の手もとに、ポール・ブルーム(Paul Bloom、アメリカ・イェール大学心理学教授)著/高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』(白揚社、2018年2月。以下[2])と、永井陽右(ながい・ようすけ、テロ・紛争解決スペシャリスト)著『共感という病―いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?―』(かんき出版、2021年7月。以下[3])という本がある。ともに、共感の負の側面に焦点を当てた本である。
〇[2]のブルームによると、「共感」(empathy)は「情動的共感」と「認知的共感」に分けられる。「情動的共感」は、「他者が感じていると思しきことを自分でも感じること」すなわち「他者の経験を経験する」(10ページ)という意味での共感(感情的な働き)である。「認知的共感」は、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる」(25ページ)という意味での共感(理性的な働き)である。ブルームは、前者の情動的共感に反対し、後者の認知的共感を評価する。「共感には善玉と悪玉がある」(20ページ)。「共感(情動的共感)は愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い」(9ページ)。「共感は道徳的指針としては不適切である」(9ページ)。「私たちは(共感の時代ではなく)理性の時代に生きている」(19ページ)、別言すれば“他者を思いやる善き人になりたいのなら、あるいは世界をもっとよい場所にしたいのなら、理性を行使すること(理性に基づく判断や行動)が重要である”(9ページ、第6章)、などがブルームの主張である。詳細は、本ブログ<雑感>(81)共感≠善:共感は道徳的指針としては不適切である―ポール・ブルーム著『反共感論』読後メモ―/2019年5月15日投稿/本文(⇦クリック)、を参照されたい。
〇[3]の永井にあっては、「共感」とは「他者の感情経験に直面した人が、認知的および感情的に反応すること」。その「反応に至るまでのプロセス」(33ページ)、である。永井はいう。「共感は、全員ではなく特定の誰かしか照らさない『スポットライト的性質』と、自分にとって照らすべきだと思えた相手しか照らさない『指向性』を持つ」(17ページ)。「共感とは誰かの困難に対してではなく、困難に陥っている自分側(同じグループの仲間)の誰かに作用している。まさに共感は差別主義者なのである」(18ページ)。「共感は一般的に、理性的な『認知的共感』と感情的な『情動的共感』の2つに、機能的に分けられている」(28ページ)。
〇永井は続ける。「多様性とは、自分にとって都合の悪い人の存在を認めることである。『多様性を受け入れることは難しい』という心構えを持つべきである」(161、162ページ)。「共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となる。共感ではなく、地に足のついたリアルな、実体の伴った、権利に対する理性的な眼差し(理性的に、自分の権利と同時に他者の権利を見つめること)こそが、憎悪が渦巻く現代の世界を良くする鍵である」(167~169ページ)。
〇要するに永井にあっては、「共感」とそれに代わるものとして、「理性」と「人権」、人権に対する理性的な理解と反応が重要である。「感情に任せるのではなく、共感の良いところをうまく使いながらも、同時に理性も働かせてその手綱(たづな)をしっかりと持ち、取り残されている人がいないか、対立や分断をどう乗り越えることができるか、などを常々考えることが社会と世界を良くしていくことに繋がる」(180ページ)のである。
〇なお、[3]には、永井と内田樹(うちだ・たつる、思想家)との対談が収録されている。そこで内田はいう。いまの日本社会は、「共感過剰」な社会になっている。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険である。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」(「惻隠の情」)というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ない。惻隠の情が発動するためには、「自分から見て弱者である」こと、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ことの2つの条件がある(191、218、222ページ要約)。参考までに付記しておくことにする。

付記
阪野貢「『共感』再考:共感のメリットとデメリット ―山竹伸二著『共感の正体』のワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所<雑感>(185)2023年8月23日アップ。一部修正。

 


XIII  「利他」の本質


<文献>
(1)伊藤亜紗(編)・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』集英社新書、2021年3月、以下[1]。
(2)中島岳志著『思いがけず利他』ミシマ社、2021年10月、以下[2]。
(3)若松英輔著『はじめての利他学』NHK出版、2022年5月、以下[3]。

〇伊藤亜紗は美学者、中島岳志は政治学者、若松英輔は批評家・随筆家、國分功一郎は哲学者、そして磯崎憲一郎は小説家である。分野も背景も異なるこの5名の研究者が、東京工業大学の「未来の人類研究センター」(2020年2月設立)のメンバーとして取り組んでいるのが、「利他」をめぐる問題である。[1]は、「全員ではぐくんできた利他をめぐる思考の、5通りの変奏」であり、いまだその「出発点であり、思考の『種』にすぎない」という(8ページ)。
〇[1]におけるひとつのキーワードは、「うつわ」――「うつわになること」「『うつわ』的利他」である。伊藤は次のようにいう。

利他とは「うつわ」のようなものではないか。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようである。(58ページ。語尾変換)

〇人間は「うつわ」のような存在として生きることによって、「利他」が宿る。こうした人間観を生み出す伊藤の言説は、こうである。利他的な行動には本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれている。その「私の思い」は私の思い込みでしかなく、「自分の(利他的な)行為の結果はコントロールできない」、すなわち見返りは期待できない(「利他の不確実性」)。自分の利他的な行為は、相手は「喜ぶはずだ」「喜ぶべきだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲と捉えており、その見返りを相手に求めていることになる。その点において、利他的な「思い」や「行為」は、相手をコントロールしたり、支配することにつながる危険をはらんでいる。そうならないためには、相手を「信頼」してその自律性を尊重し、相手の言葉や反応を「聞く」ことを通じて相手の潜在的な可能性を引き出すこと、すなわち相手の力を信じることが必要不可欠となる。それは、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って、相手を気づかうこと(「ケア」)である。この他者への気づかい、すなわち「ケアとしての利他」は、相手の隠れた可能性を引き出すこと(「他者の発見」)になり、それは同時に自分が変わること(「自分の変化」)になる。そのためには、こちらから善意を押しつけるのではなく、相手を信頼し、利他の結果の可能性や意外性を受け入れる、うつわのような「余白」を持つことが必要となる。この自由な余白、スペースは、とくに複数の人が「ともにいる」ことをかなえる場面で重要な意味を持つ(50~56、59ページ)。
〇筆者の手もとに、中島岳志著『思いがけず利他』(ミシマ社、2021年10月。以下[2])という本がある。中島は[1]の著者のひとりである。[2]において中島は、「利他の本質に『思いがけなさ』ということがある。利他は人間の意思を超えたものとして存在している」(6ページ)と説く。具体的にはこうである。「利他は自己を超えた力の働きによって動き出す(「縁起による業」:私はさまざまな縁によって(縁起的現象として)存在している)。利他はオートマティカルなもの(意思を超えたもの)。利他はやって来るもの(利他の与格性)。利他は受け手によって起動する(利他は事後的)。そして、利他の根底には偶然性の問題がある(利他の偶然性)」(174ページ。括弧内は筆者)。
〇[2]のうちから、中島の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「共感」が利他的行為の条件となったとき、「別の規範」が起動し「共感される人間」になることが求められる
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている。/他者への共感、そして贈与(利他)。この両者のつながりは非常に重要である。(21ページ)/しかし、共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害のある人たちのような日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は、「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」といった思いに駆(か)られる。/他者に自分の苦境を伝えることが苦手な人、笑顔を作ることが苦手な人、人付き合いが苦手な人。人間は多様で、複雑である。だから「共感」を得るための言動を強(し)いられると、そのことがプレッシャーとなり、精神的に苦しくなる人は大勢いる。/そもそも「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てくる。(22ページ)/「共感」されるために我慢を続ける。自分の思いを押し殺し続ける。むりやり笑顔を作る。そうしないと助けてもらえない。そんな状況に追い込むことが「利他」の影で起きているとすれば、問題は深刻である。(23ページ)/さらに、「より深い共感」を利他の条件にしてしまうと、今度は自分の思っていることや感情を露わにしなければならないという「別の規範」が起動してしまう。そうすると、「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」という新たな恐怖が湧き起こってくる。(24ページ)

利他の主体はどこまでも受け手側にあり、その意味において私たちは利他的なことを行うことはできないのである
特定の行為が利他的になるか否かは、事後的にしかわからない。いくら相手のことを思ってやったことでも、それが相手にとって「利他的」であるかはわからない。与え手が「利他」だと思った行為であっても、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは「利他」とは言えない。むしろ、暴力的なことになる可能性もある。いわゆる「ありがた迷惑」というものである。/つまり、「利他」は与えられたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのである。自分の行為の結果は、所有できない。あらゆる未来は不確実である。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができない。あくまでも、その行為が「利他的なもの」として受け取られたときにこそ、「利他」が生まれるのである。(122ページ)/受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉(や行為など)のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがある。(128ページ)/つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものである。また、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということである。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができないのである。/発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、「あのときの一言」(や「あのときの行為」)のように、過去からやって来るもの。これが利他の時制である。(132ページ)

利他的になるためには「偶然の自覚」に基づいて器(うつわ)のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要である
私という存在は、突然、根拠なく与えられたものである。あらゆる存在は、自己の意志によって誕生したのではなく、意志の外部の力によってもたらされたものである(与格的な存在)。ここに存在の被贈与性という原理がある。/そして、誕生以降も私という存在の奇跡は続く。今の私は、様々な偶然性の奇跡的な組み合わせによって成立している。私という個性は、単純な因果関係では説明できない天文学的な縁起によって構成されている。(150ページ)/この「私が私であることの偶然性」についての自覚が、「自分が現在の自分ではなかった可能性」「私がその人であった可能性」へと自己を開くことになる。(143ページ)/この「偶然の自覚」が他者への共感や寛容へとつながり、連帯意識を醸成し、「利他」が共有される土台を築くことになる。(143、145ページ)/ここで重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器(うつわ)になることである。偶然そのものをコントロールすることはできない。しかし、偶然が宿る器になることは可能である。(176ページ)/そして、この器にやって来るものが「利他」である。器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られる。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始める。/このような世界観のなかに生きることが、「利他」なのである。/だから、利他的であろうとして、特別のことを行う必要はない。毎日を精一杯生きることである。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為(な)すべきことを為す。能力の過信を諫(いさ)め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのである。(177ページ)

〇筆者の手もとに、若松英輔著『はじめての利他学』(NHK出版、2022年5月。以下[3])という本がある。若松も[1]の著者のひとりである。若松はいう。人と人との「つながり」が問われている今日、「私たちがもう一度、他者とともに生きるために『つながり』を持続的に深めるには何が必要か。この問題を解く鍵語(キーワード)として考えてみたいのが『利他』である」(6ページ)。そして若松は、[3]において、日本仏教の視座から最澄や空海、儒教のそれから孔子や孟子、西洋哲学からフランスのオーギュスト・コント(1798年~1857年)やアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ、1868年~1951年)らの「利他」の思想を取りあげる。とともに、「利他を生きた人たち」として吉田松陰や西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹らの「利他」の哲学を紹介し、論述する。そのうえで若松は、ドイツの心理学者・哲学者であったエーリッヒ・フロム(1900年~1980年)の『愛するということ』(1956年)を読み解き、「自分を愛すること」、すなわち「自分を深く信頼すること」が「利他」につながる、と主張する。次の一節が若松の結論である。

自分で自分のことを愛することができれば、その人は自分を固有なものにできる。そして、そのうえで誰かのことを愛することができれば、その人は他人のことを固有な存在として認めることができる。自分自身が固有であると知ることは、他者が固有であると知ることである。それはすなわち自他ともに等しい存在であることを経験するということでもある。/愛を通して利他を考えるとき、私たちは愛の前で等しくなければならない。Aさんのことは愛せて、Bさんのことは愛せないのであれば、それは利他がうまく働いている状態とはいえないのである。/利他には等しさが必要である。そして、そのためにはまず、他者を愛するように、自分を愛し、信じることが大切なのである。/(人は唯一無二の存在であることを認め、自他を愛するという)真の意味の「愛」があるとき、そこに在るものはすべて等しくなる。ただ人間であるというそのことにおいて、等しく貴い存在になる、のである。(118~119ページ。語尾変換)

〇前述の[1]で伊藤は、障がい者へのインタビューを通じて、こう語る。晴眼者が視覚障がい者に先回りしてことこまかに道案内をするとき、それはしばしば「善意の押しつけ」になってしまう。それは、視覚障がい者にとっては、「障がい者を演じること」が求められることになり、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまう。それはまた、障がい者が「健常者の思う『正義』を実行するための道具にさせられてしまう」(47ページ)ことになる。さらに伊藤は、認知症当事者の言として、こういう。認知症の当事者がイライラし怒りっぽいのは、支援や援助を求めていないのに周りの人が助けすぎるからではないか(46~48ページ)。福祉教育の実践・研究において、深く留意したい点である。
〇なお、筆者はしばしば、とりわけ福祉教育実践をめぐって「思いやり」と「思い違い」「思い上がり」はときとして紙一重(かみひとえ)であり表裏一体である、と語ってきた。ここで改めて強く認識したい。
〇加えて、次のことを付言しておきたい。人間は日常生活や社会生活を営むうえで何らかの支援や援助を受けるに際して、「たすけられ上手・たすけ上手に生きる」ことが問われることがある。その際の「たすけられ上手」とは、  甘え上手や集(たか)り上手ではないのは当然のことながら、社会(世間、財界)や支援者・援助者が期待し求める「たすけられ上手を演じる(あるいは演じさせられる)こと」(演じるさまや人)であってもならない。

付記
阪野貢「『利他』再考の3冊:利他は事後的であり、利他的になろうとする作為は利他を遠ざける ―中島岳志著『思いがけず利他』等のワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所<雑感>(181)2023年7月15日アップ。一部修正。

 


XIV “Well-being”  の視点


“Well-being”  の視点【その1】

<文献>
(1)マーティン・セリグマン、宇野カオリ監訳『ポジティブ心理学の挑戦―“幸福”から“持続的幸福”へ―』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年10月、以下[1]。
(2)前野隆司『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門―』講談社現代新書、2013年12月、以下[2]。
(3)前野隆司『実践・脳を活かす幸福学 無意識の力を伸ばす8つの講義』講談社、2017年9月、以下[3]。
(4)前野隆司・前野マドカ『ウェルビーイング』日経文庫、2022年3月、以下[4]。
(5)前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』プレジデント社、2022年5月、以下[5]。
(6)渡邊淳司・ドミニク=チェン監修・編著『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』ビー・エヌ・エヌ、2020年3月、以下[6]。
(7)石川善樹・吉田尚記『むかしむかし あるところに ウェルビーイングがありました―日本文化から読み解く幸せのカタチ―』KADOKAWA、2022年1月、以下[7]。

「ウェル・ビーイングとは、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念」である(厚生労働省『雇用政策研究会報告書』、2019年7月、1ページ)
「ウェルビーイングとは『健康』と『幸せ』と『福祉』のすべてを包む概念」である(前野隆司・前マドカ:下記[2]18ページ。注①)
「持続的ウェルビーイングは、人間が心身の潜在能力を発揮し、意義を感じ、周囲の人との関係のなかでいきいきと活動している状態」を示す包括的な概念である(渡邊淳司・ドミニク=チェンほか:下記[6]30ページ)

〇筆者(阪野)はかねてより、「福祉」を、キャッチフレーズ的に「だんの らしの あわせ」について「みんなで考え、みんなで汗を流すこと」を意味する言葉として、「ふくし」と表記してきた。その際、「しあわせ」についても簡潔に、「みんなが 満足していて 楽しいこと」と言ってきた。それは、個人のひと時の気分や感情に留まるものではなく、人生という長い期間にわたる「しあわせ」であり、しかも「みんなが」社会的に「良好な状態」にあることを含意するものとして考えてきた。近年、いろいろな分野で多用さ、注目を集めている “ Well-being”「ウェルビーイング」に通じる。(注②)
〇ウェルビーイングという言葉は、1946年7月に設立された世界保健機関(WHO)の世界保健憲章(1948年4月発効)のなかで使われたのが最初であると言われている。“ Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. ”「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」がそれである。ここでは、“ well-being ”は「満たされた状態」と訳される。また、1946年11月に公布、翌1947年5月に施行された日本国憲法は、その第13条で幸福追求権について謳っている。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」がそれである。ここでは、「幸福追求」は公式には、“ pursuit of happiness ”と訳される。すべて国民は、第25条に基づく健康で文化的な最低限度の生活保障とともに、第13条が謳う幸福を追求し自己実現を図る基本的権利を有するのである。
〇時を経て、2015年9月、国連サミットで2030年を目標年次とする「持続可能な開発目標」(SDGs:Sustainable Development Goals)が採択された。SDGs には、17のゴールと169のターゲットがある。3番目のゴールとして、“ Good Health and Well-Being ”「すべての人に健康と福祉を」が明記されている。ちなみに、1番目のゴールは“No Poverty”「貧困をなくそう」、2番目のそれは“Zero Hunger”「飢餓をゼロに」である。
〇このように、ウェルビーイングは古くて新しい言葉である。とりわけここ数年来のコロナ禍によって、改めて「健康」(health)や「幸せ」(happiness)、「福祉」(welfare)や「豊かさ」(richness)などに対する意識や価値観が変化し、働き方(雇用形態)や企業経営(健康経営)のあり方が問われることになる。それをひとつの要因や背景として、ウェルビーイングへの注目が拡大し、研究が進展している。ちなみに、2021年12月に「ウェルビーイング学会」が発足し、2022年1月に新聞紙上に「今年をウェルビーイング元年に」(注③)という記事が載った。そして、2024年4月には武蔵野大学に日本初(世界初)となる「ウェルビーイング学部」が開設される。「ウェルフェア(Welfare)からウェルビーイング(Well-being)へ」という新しい時代の幕開けであろうか。なお、このフレーズは、1994年3月に上梓された高橋重宏の著作『ウェルフェアからウェルビーイングへ―子どもと親のウェルビーイングの促進:カナダの取り組みに学ぶ』(川島書店)にみられる。
〇筆者(阪野)の手もとに、ポジティブ心理学(ウェルビーイングの実現を志向する心理学)の創始者と評されるアメリカの心理学者マーティン・セリグマン(Martin E. P. Seligman)の本――『ポジティブ心理学の挑戦―“幸福”から“持続的幸福”へ―』(宇野カオリ監訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年10月。以下[1])がある。[1]でセリグマンは、「ウェルビーイングの5つの要素」として有名な「PERMA(パーマ)」という指標について論述する(33~53ページ)。P:ポジティブ感情(Positive Emotion)、E:エンゲージメント(Engagement)、R:関係性(Relationships)、M:意味・意義(Meaning)、A:達成(Achievement)、がそれである。
〇「PERMA」すなわちウェルビーイングの状態について平易・簡潔に言えばこうであろう。次のような人は幸せである、という。(下記[4]参照)。

マーティン・セリグマン/「ウェルビーイングの5つ要素」
P:「ポジティブ感情」 嬉しい、楽しいなど、ポジティブな感情を持つ人。
E:「エンゲージメント」 物事に関わり、それに没頭したり夢中になる人。
R:「関係性」 援助や協力など、他者とのつながりやよい関係性を持つ人。
M:「意味・意義」 人生の意味・意義について自覚したり社会貢献する人。
A:「達成」 何かを達成(成功)するとともに、達成のために努力する人。

〇そして、セリグマンはいう。「幸せとは自分が気持ちよく感じることであり、人生の方向性はその気持ちよさを最大限にしようとすることで決まるとする。/ウェルビーイングとは、自分の頭の中だけで存在するわけにはいかないものだ。ウェルビーイングは、気持ちよさと同時に、実際には意味・意義、良好な関係性、および達成を得ることが組み合わさったものなのだ。人生の選択は、これら5つの要素すべてを最大化することで決まる」(50ページ)。
〇筆者の手もとに、日本における幸福学研究の第一人者と評される前野隆司の「ウェルビーイング」に関する本が4冊ある(しかない)。(1)『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門―』(講談社現代新書、2013年12月。以下[2])、(2)『実践・脳を活かす幸福学 無意識の力を伸ばす8つの講義』(講談社、2017年9月。以下[3])、(3)前野マドカとの共著『ウェルビーイング』(日経文庫、2022年3月。以下[4])、(4)『ディストピア禍の新・幸福論』(プレジデント社、2022年5月。以下[5])、がそれである。
〇前野によると、ウェルビーイング(幸福)研究には、各人の主観的な幸福感を統計的・客観的に計測する「主観的幸福研究」と、収入や学歴、生活状況や健康状態などの客観的なデータを使って間接的に幸福を計測する「客観的幸福研究」がある([2]33~34ページ)。
〇前野は、主観的幸福研究をベースに、ウェルビーイングな状態でいるために必要な因子――「幸せの4つの因子」について探究する。次がそれである([2]96~113ページ、[3]98~113ページ、[4]72~75、87~92ページ、[5]119~140ページ)。

前野隆司/「幸せの4つの因子」
第1因子:「やってみよう」因子(自己実現と成長の因子)
やりがいや強みを持ち、主体性の高い人は幸せである。
・コンピテンス(私は有能である)
・社会の要請(私は社会の要請に応えている)
・個人的成長(私のこれまでの人生は、変化、学習、成長に満ちていた)
・自己実現(今の自分は「本当になりたかった自分」である)
第2因子:「ありがとう」因子(つながりと感謝の因子)
つながりや感謝、あるいは利他性や思いやりを持つ人は幸せである。
・人を喜ばせる(人の喜ぶ顔が見たい)
・愛情(私を大切に思ってくれる人たちがいる)
・感謝(私は、人生において感謝することがたくさんある)
・親切(私は日々の生活において、他者に親切にし、手助けしたいと思っている)
第3因子:「なんとかなる」因子(前向きと楽観の因子)
前向きかつ楽観的で、何事もなんとかなると思える、ポジティブな人は幸せである。
・楽観性(私はものごとが思い通りにいくと思う)
・気持ちの切り替え(私は学校や仕事での失敗や不安な感情をあまり引きずらない)
・積極的な他者関係(私は他者との近しい関係を維持することができる)
・自己受容(自分は人生で多くのことを達成してきた)
第4因子:「ありのまま」因子(独立とマイペースの因子)
自分を他者と比べすぎず、しっかりとした自分らしさを持っている人は幸せである。
・社会的比較志向のなさ(私は自分のすることと他者がすることをあまり比較しない)
・制約の知覚のなさ(私に何ができて何ができないかは外部の制約のせいではない)
・自己概念の明確傾向(自分自身についての信念はあまり変化しない)
・最大効果の追求のなさ(テレビを見るときはあまり頻繁にチャンネルを切り替えない)

〇そして、前野はいう。これらの4つの因子(第1因子:主体的に生きる、第2因子:共に生きる、第3因子:未来を信じる、第4因子:他人と自分を比べない)を意識しながら行動していけば、どんな人でも自分らしい幸せを掴むことができる。しかし、現代社会・世界は、利己主義から利他主義まで、民主主義から専制主義まで、個人主義から全体主義まで、経済成長から脱成長まで両極化しつつあり、バラバラのカオス(混沌)になりつつある。こうした混迷と分断の「ディストピア禍」において、多様な価値観を持つ人々がつながり合い、利他の精神を築き、より調和的な社会・世界をめざすためには、他者を「想像し、許し、信じ、対話する」ことからはじめる以外に解決策はない([5]141~147ページ)。
〇筆者の手もとにもう1冊、渡邊淳司・ドミニク=チェン監修・編著の『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』(ビー・エヌ・エヌ、2020年3月。以下[6])という本がある。「ウェルビーイングとは、『わたし』が一人でつくりだすものではなく、『わたしたち』が共につくりあうものである」(2ページ)というのが、[6]のシンプルなメッセージである。すなわち、「個でありながらに共」という日本的なウェルビーイングのあり方について探究する([6]帯)。
〇[6]では、単数形の「わたし」ではなく、複数形の「わたしたち」のウェルビーイングを想定する。そして、「『わたしたち』のウェルビーイングとは『競争』するものではなく、『共創』するものなのだ。(中略)『わたし』のウェルビーイングを追い求めつつ、『わたしたち』のウェルビーイングを共につくりあう、重層的な認識によってウェルビーイングを捉えていく必要がある」(4ページ)と説く。渡邊・チェンらにあっては、「効率性」や「経済性」といった既存の「ものさし」にとらわれた個人主義的(individualistic)な「わたし(個)のウェルビーイング」だけでなく、人と人とのあいだにウェルビーイングが生じると考える集産主義的(collectivistic)な「わたしたち(共)のウェルビーイング」(32ページ)も、「人それぞれの心を起点とした新しい発想の『コンパス』となる」(3ページ)。それによって、「コミュニティと公共」というより広い視点からのウェルビーイングについても論じることになる。そして、ウェルビーイングに配慮した新しい社会像をめざすことができるのである(3~6ページ)。
〇渡邊・チェンらによると、ウェルビーイング(心身がよい状態)には3つの側面・領域がある。心身の機能が不全でないか、病気でないかを問う医学の領域である「医学的ウェルビーイング」、その時の気分の良し悪しや快・不快など、一時的かつ主観的な感情に関する領域である「快楽主義的ウェルビーイング」、心身の潜在能力を発揮し、周囲の人との関係のなかで意義を感じている「いきいきとした状態」を指す「持続的ウェルビーイング」がそれである(20、30ページ)。すなわち、健康で、心地よく、周囲の人との関係のなかで意義を感じいきいきと活動している状態をウェルビーイングというのである。そして「近年は、医学的もしくは快楽主義的なものではなく、ウェルビーイングを持続的かつ包括的に捉えようとする考えが主流となっている」(20ページ)。
〇次いで[6]では、持続的ウェルビーイングを生み出しその向上を図るためには、他者との関係性のなかでどのような働きかけ(「配慮」)をすべきか(「ウェルビーイング向上のために他者が介入する際、留意すべき点」45ページ)、について説く。以下がその要点である(45~49ページ)。

渡邊淳司・ドミニク=チェン/「ウェルビーイングを生み出すための6つの配慮」
個別性への配慮
何よりも意識すべきは、「私とあなたは違う」という点である。ウェルビーイングの要因の重要度は、個人によってやその人のライフステージによっても変化する。
自律性への配慮
ウェルビーイングは誰かに与えるものではなく、自身で気づき、行動するものである。他者に働きかける際には、いくつかの選択肢を用意し、相手に一定の自律性を担保することが望まれる。
潜在性への配慮
「ふとした瞬間に感じる気持ち良さ」や「ちょっとした違和感」など、潜在的には存在しているが自覚されていない情報や感覚体験をすくい上げ、それらに目を向ける。
共同性への配慮
人間は他者との関係性のなかで生きている。当事者間に深い共感や価値観の共有をもたらすものに取り組んだり、体験したりする。
親和性への配慮
ポジティブ感情には、興奮を伴うポジティブ感情と、平穏や思いやり、愛といったリラックスするそれがある。現代社会は前者に偏っており、両方のポジティブ感情のバランスを取ることが望まれる。
持続性への配慮
ウェルビーイングは、短期的あるいは長期的な目標設定をすることだけでなく、その過程の充実によって持続性を作り出すことが重要になる。

〇そして、渡邊・チェンらは「コミュニティと公共のウェルビーイング」についていう。インターネットの普及などによって、コミュニティのあり方が揺れ動いている。そんななかで、「公共のウェルビーイング」について考える際、「存在論的安心」「公共性」「社会創造ビジョン」という3つの要因が重要となる。「存在論的安心」とは、自身や自分を取り巻く環境や世界が安定的・継続的に存在し、それに対する確信や信頼のことを指す。「公共性」とは、多様な人々が共に生きられる公共の場(空間)を、一人ひとりのボトムアップな動きによって創り出すことをいう。そしてこの2つを前提に、自分たちが自律的に活動することによって新たなイノベーションが生まれ、社会創造が実現する(「社会創造ビジョン」)。それは自己効力感や達成感を得る機会になり、一人ひとりのウェルビーイングを高めていく。要するに、「コミュニティと公共のウェルビーイング」を実践していくことは、新たな社会や未来を構想し創造することそのものなのである(63~75ページ)。
〇この点(地域コミュニティにおけるウェルビーイング)は、住民個々人のウェルビーイングと集合的なウェルビーイング(コミュニティ・ウェルビーイング)を実現していく「まちづくり」や、そのための教育(「市民福祉教育」)に通じることになる。例によって唐突であるが、指摘しておく。
〇さらに筆者の手もとにもう1冊、石川善樹・吉田尚記の『むかしむかし あるところに ウェルビーイングがありました―日本文化から読み解く幸せのカタチ―』(KADOKAWA、2022年1月。以下[7])という本がある。[7]では、「日本の文化と風土を前提にしたウェルビーイングへの道とは何か」について、「古事記」や「日本昔ばなし」などから読み解く。そこから得られた「教訓」は次の5つである。

石川善樹・吉田尚記/「昔話と古典から学ぶウェルビーイング5つの教訓」
(1)上より奥を見る:上ばかりを見て焦るのではなく、あえて視点を外してみる。
(2)ハプニングを素直に受け入れてみる:突発的なトラブルや出来事と楽しみながら向き合ってみる。
(3)人間は多面体であることが当然という認識に立ち戻る:人間は本来、多面的な顔、矛盾した性質を持っていることを再認識する。
(4)自己肯定感の低さにとらわれすぎない:日本人には謙遜の精神が根付いているが、自己肯定感への執着を手放す。
(5)他者の愚かさを許し、寛容に受け入れる姿勢を身につける:自分と他者に寛容になる。

〇石川・吉田は、この5つの教訓が「現代人のウェルビーイングの素地になる」という(156~159ページ)。
〇なお、上述の[6]では、日本的ウェルビーイングの特徴として、次の3点を指摘している。(1)自律性(自分の周りの環境に対し主体能動性を感得できる)、(2)思いやり(自己のウェルビーイングのみならず周りの他者のそれにも寄与できる)、(3)受け容れ(自律性と他者の存在が調和し現在のポジティブ・ネガティブの双方を含む状況を受け容れられる)、がそれである(56~57ページ)。
〇冒頭で記したように、ウェルビーイングは、身体的、精神的、社会的に満たされている良好な状態にあることを意味する。すなわち、ウェルビーイングは、「豊かさ」を考えるためのキーワードである。その点をめぐって、筆者はこれまで、「豊かさ」を獲得・実現するための条件について言及してきた。ここでそれを再認識(再確認)しておくことにする。

阪野 貢/「豊かさ」を獲得・実現するための5つの条件
(1)基本的人権の尊重や自由・平等と民主主義の確保を前提に、人々の個別具体的な発達保障と生活保障の具現化と共生や支え合いの創出が図られること。
(2)すべての人が個性的・創造的に自分を生きる(生き抜く)ために多様な選択肢が準備され、その選択の自己決定やそのための支援がなされること。
(3)自分の生きがいや自己実現のための活動にとどまらず、他者や地域・社会のための、社会変革を進める社会貢献活動(共働活動)に参加できること。
(4)そのための個人的な尊敬と信頼に基づく熟議やさまざまな知識や経験による想像力と創造力によって、明るい社会と未来(希望)が開拓・共創されること。
(5)以上のことを可能にし、相互支援と相互実現、地域・まちづくり、社会変革と社会創造を推進するための教育・学習(市民福祉教育)が、すべての人の生涯にわたって自律的・主体的に行われること。


➀ 図1は、前野隆司・前野マドカの「ウェルビーイングの定義」を図示したものである。図2は、2010年12月に内閣府に設けられた「幸福度に関する研究会」(2010年~2013年)が、「幸福度指標試案」の構成要素を体系図として描いたものである。参考に供しておく。図2では、「幸福度」指標を「主観的幸福感」と、それを支える3つの柱として「経済社会状況」「(心身の)健康」「関係性」を含めて考えている。また、地球温暖化や大気汚染などの環境面の「持続可能性」についても重視している。

 図1 ウェルビーイングとは何か


② 平仮名表記の「ふくし」については、例えば、松岡広路の論考「<ふくし>を実質化する福祉教育・ボランティア学習とは」『ふくとし教育』通巻36号、大学図書出版、2023年9月、62~63ページ、が興味深い。松岡はいう。<ふくし>とは、「あらゆる人が、多元的課題を内包する日常生活を基点に、臨床的かつ集合的に幸福を追求するとともに、マジョリティ文化のなかで当たり前とされてきた社会の在り方・生き方およびその根底の価値を、生活者としての視点で疑い、その変容を促す主体となるような総合的な営為」(64ページ)である。簡潔に言えば、「あらゆる人が、幸福や命をめぐる学びの中で、現代の生き方・ライフスタイルを批判的に再構築し社会を変えるという、人間らしさの本源を問う営みである」(6ページ)。

③ 「今年をウェルビーイング元年に」(日経電子版/2022年1月5日)

付記
阪野貢「“ Well-being ” 考―『しあわせ』の構成要因に関するワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所ブログ<雑感>(193)2023年12月12日アップ。一部修正。

 

“Well-being”  の視点【その2】

<文献>
(1)草郷孝好著『ウェルビーイングな社会をつくる―循環型共生社会をめざす実践』明石書店、2022年7月、以下[1]。

〇2015年9月、ニューヨークの国連本部で開催された「国連持続可能な開発サミット」(United Nations Sustainable Development Summit)で、2030年を目標年次とする「持続可能な開発目標」(SDGs:Sustainable Development Goals)が採択された。それは、「誰一人取り残さない(no one will be left behind)」持続可能な社会の実現をめざす世界共通の目標である。
〇筆者(阪野)の手もとに、草郷孝好著『ウェルビーイングな社会をつくる―循環型共生社会をめざす実践』(明石書店、2022年7月。以下[1])という本がある。
〇[1]で草郷は、「誰一人取り残さない」持続可能な社会を実現するためには、社会発展モデル(経済・社会システム)を従来の「経済成長モデル」から「ウェルビーイングモデル」へ転換して「循環型共生社会」を切り拓くことが必要かつ重要であるとする。そして、そのためには、労働・教育・医療・環境・経済・社会に関する政策をウェルビーイングモデルに基づいたものに転換する必要があるとし、その処方箋を提示する。例えば、経済効率をあげる人材育成のための競争教育(偏差値教育)から、主体的に物事に取り組む力や他者に共感し協働する力を涵養していく「共創・共修学習」への転換や(152ページ)、地域づくりについて「行政が企画して、住民が参加する」という「市民参加」から、「住民の主体的活動を柱にして、行政がそれを支援する」という「行政参加」への転換(183ページ)、などがそれである。
〇「経済成長モデル」は一般的に、人間の物質的な豊かさを追求する経済成長のために生産活動の維持・拡大を図り、経済的利益を最優先する社会発展モデルをいう(大量生産、大量消費、大量破棄によって維持されてきた経済システム)。草郷にあっては、「ウェルビーイングモデル」とは、一人ひとりの人間が身体的・精神的・社会的に良好な状態を維持するために、自身が持っている「潜在能力」を活かし、充足度の高い生き方を選択し、追求できる社会発展モデルをいう(114ページ)。そして、「循環型共生社会」とは、ウェルビーイングを大切にし、経済の持続的成長と環境の持続的保全を図る循環型経済と、誰もが人間らしく生活でき、多様性と人権を認め合う思いやりのある共生社会の持続的発展がバランスよく保たれる社会像(99ページ)、循環型経済と共生社会の2つを併せ持つ社会像(15ページ)をいう。
〇以下では例によって、「まちづくりと市民福祉教育」を射程に入れながら、[1]における草郷の「ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会」に関する言説や論点のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

SDGsと循環型共生社会
SDGsが掲げる「誰一人取り残さない持続的な社会」とは、
(1)誰もが安心して人間らしい生活のできる社会(人間らしい生活)
(2)お互いを認め合い多様性を大切にする共生社会(多様性重視)
(3)循環型経済によって環境と共存する持続可能な社会(環境との共存)
この3つの条件をすべて備えた「循環型共生社会」である。(26ページ)/別言すれば、循環型共生社会は、環境と調和し、経済と環境の両立をめざす循環型経済システムと、すべての人に基本的な生活と人権の保障(憲法25条の生存権)をめざす共生社会システムを両輪とする。(103ページ)

ウェルビーイングモデルと社会的共通資本
循環型共生社会を実現するためには、社会発展モデルを従来の「経済成長モデル」から「ウェルビーイングモデル」に転換する必要がある。(103ページ)/ウェルビーイングモデルは、日本の経済学者である宇沢弘文が提起した「社会的共通資本」(Social Overhead Capital)を土台として成り立つ。(123ページ)/宇沢がいう社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。それは、大気、森林、河川、水、土壌などの「自然環」、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの「社会的インフラストラクチャ―」、教育、医療、司法、金融制度などの「制度資本」の3つの大きな範疇にわけて考えることができる。(124ページ、図1参照)

ウェルビーイングモデルと潜在能力アプローチ
ウェルビーイングモデルは、インドの経済学者であるアマルティア・セン(Amartya Sen)が提唱した「潜在能力アプローチ」(capability approach、ケイパビリティアプローチ)を大黒柱として成り立つ。(116ページ)/センは、誰もが真の自由を保障される社会こそ、よりよい生き方を選択できるウェルビーイングの高い社会であると考える。“真の自由”とは、誰もが自分の持っている素質や可能性に気づき、それを伸ばしていくことによって、充足度の高い生き方を自ら選択できる自由のことである。(116ページ)/潜在能力アプローチのもう一人の提唱者であるアメリカの哲学者マーサ・ヌスバウム(Martha Craven. Nussbaum)は、「善く生きる」ためには、安定した経済基盤を持つだけではなく、社会的包摂、政治的参加の保障、多様な文化を認め合う社会での暮らしが欠かせない。善く生きて、幸せな人生を送るには、個人と社会の両方が密接に関係し合っていると考える。(118~119ページ)/ヌスバウムにあっては、人間は、生まれた時から備わっている生来の潜在能力(基礎的潜在能力)と、その潜在能力を個人の努力や周りの支援によって磨き・伸ばす(内的潜在能力)とともに、それを発揮できる多様な選択肢を保障する社会を実現すること(結合的潜在能力)によって「善く生きる」ことができるのである。(118~120ページ、図1参照)

内発的地域協働と地域づくり
地域の社会変革には、地域住民が社会のあり方を思い描き、未来ビジョンを構想することが大きな力になる。そして、未来ビジョンの実現には、地域に関わるさまざまな当事者(stakeholder、ステークホルダー)の主体的な地域協働が欠かせない。(169ページ)/地域のステークホルダーが主体的に地域協働していくことを「内発的地域協働」という。(171ページ)/イギリスの国際開発省(DFID:Department for International Development、1997年~2020年)は、持続的に生活改善を図るためには地域協働が不可欠とし、地域協働を醸成するために、「当事者主体の地域協働を醸成するための6つのポイント」に集約し、実行に移した。
(1)当事者目線で問題に向き合う
(2)当事者自身が問題解決に動く
(3)当該地域と地域外との関係を意識する
(4)行政と市民の協働
(5)制度、社会、経済、環境の持続性
(6)柔軟で長期的な視点を持つ
がそれである。/これらからいえるのは、当事者目線と当事者行動が重要であること、地域間の連携が大切であること、地域の当事者同士の協働が必要であること、中長期の視点を持って地域協働に取り組むことである。地域社会を変えていくためには、長期的視点に立ち、当事者目線、当事者協働、地域間連携という形で地域協働を推し進めていくことが重要なのである。(171~172ページ)

循環型共生社会への変革のポイント
地域レベルで、ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会に舵取りしていくためのポイントは、次の2点である。
(1)変革の方向性を打ち出すリーダーの存在
地域社会の変革に欠かせないのは、どのような社会を構想し、当事者である住民の参画意識を引き出し、協働をリードする優れたリーダーの存在である。
(2)当事者の地域協働と行政参加への切り替え
行政は、まちづくりの主役である住民のアイデアや動きにアンテナを張り、それらのパートナーとして参加していく行政参加に切り替えていくことが必要である。(205~207ページ)

ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会に変革していくために、私たちが取り組むべき重要なポイントは、次の3点である。
(1)循環型共生社会への地域変革ビジョンを構想し、推進する
地域の当事者が、地域社会の将来ビジョンを描き、それを実現するために行動していけるかどうかがカギを握る。
(2)地域独自の文化、歴史、智慧を活かし個性ある循環型共生社会をつくる
循環型共生社会は、地域固有の環境、生活文化、地域の歴史、そして、地域住民がつくりだしてきたさまざまな智慧を活かして、持続的な社会の実現をめざしていく。
(3)循環型共生社会の暮らしを日常生活に取り込んでいく工夫と協働を楽しむ
循環型共生社会の実現には、日頃の生活を見直して、自ら生活を変えていくことが必要であり、そのために、住民同士が対話し、協働することで、生活の拠点である地元をかけがえのない共通の場(コモンズ)として育てていく。(213~215ページ)

〇草郷は、「社会的関係資本」と「潜在能力アプローチ」そして「内発的発展論」(内発的地域協働)を援用して、経済成長モデルからウェルビーイングモデルへの転換を図り循環型経済システムと共生社会システムを併せ持つ循環型共生社会の実現を提唱する(図2参照)。そして草郷はいう。「私たち自身が社会を変えていく当事者であることを自覚し、小さなことから協働、対話、共創によって自分事として何かを変えていくことが、後々、大きく社会を変えていくことにつながる」。「ウェルビーイングを大切にする地域が増えていけば、循環型共生社会に向かって社会は動き出していく」(222ページ)。そのためには、「主体性と共感力を磨く教育政策」への転換が求められる(150~153ページ)。これが草郷からのシンブルで強いメッセージである。それは、筆者が言ってきた「まちづくりと市民福祉教育」に通底する。

図1 ウェルビーイングを大切にする社会の特徴

図2 循環型共生社会の構想

付記
阪野貢「“ Well-being ” 再考―『ウェルビーイングを大切にする循環型共生社会』に関するワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所ブログ<雑感>(194)2023年12月22日アップ。一部修正。

 

“Well-being”  の視点【その3】

<文献>
内田由紀子著『これからの幸福について―文化的幸福観のすすめ―』新曜社、2020年5月、以下[1]。

〇筆者(阪野)の手もとに、内田由紀子著『これからの幸福について―文化的幸福観のすすめ―』(新曜社、2020年5月。以下[1])という本がある。内田にあっては、主観的な幸福感(Happiness、subjective well-being)は、「喜びや満足などを含んだ、ポジティブな感情・感覚」として定義することができる。それは、一時的な感情状態だけではなく、持続的な、自分の状態や人生に対する評価や心理的安寧(well-being)も含んだ概念である(1ページ)。また、幸福は、個人の性格特性や志向性などの価値観を反映するものであるが、その個人が暮らす環境や文化社会的要因についての状態を示すものである。つまり公共の政策や意思決定にも関わるものである(20ページ)。国レベルの幸福については、経済的な豊かさが重要視されるが、経済自体が直接的に幸せをもたらすわけではなく、GDP(国内総生産)に代表される経済状態は幸福を高める要因のひとつに過ぎない(13ページ)。こうした考えのもとで内田は、専門とする文化心理学の視点・視座から、「幸福とは何か」「幸福とはどのように私たちが暮らす文化と関わっているのか」について客観的・実証的に探究する。内田はいう。[1]において「『幸せになりましょう』というキラキラ輝くメッセージではなく、『幸せとは何かをシリアスに考えましょう』というメッセージを発信したい」と(151ページ)。
〇[1]のキーワードのひとつに「文化的幸福観」がある。その一文をメモっておくことにする(抜き書き)。

幸福と文化的幸福観
幸福は個人が感じるものでありながら、何を幸福と感じるかは実はその人が生きる時代や文化**(傍点筆者)の精神、価値観、地理的な特徴を反映している。たとえば自然のなかで過ごすことで感じる幸福、消費のなかで感じる幸福は、どちらも幸せをもたらすものでありながら、前者はより自然豊かな地域で、後者はより都市的地域で感じられるものであり、農村部と都市部では幸せに関する考え方が違っているかもしれない。幸福はどのような状況に暮らす人もある程度理想とする感情状態でありながら、「どのように幸福を得るのか」はやはり文化によって異なっているだろう。/このような幸福についての考えは「文化的幸福観」と呼ぶことができる。文化的幸福観は、文化を構成する価値観や人生観を反映して成立している。社会生態学的環境(生業あるいは気候など)や宗教・倫理的背景などにより、人々が実際に追求する幸福の内容は異なっている可能性がある。文化・思想的背景がいったんできあがれば、人々は「幸福とは〇〇なものである」という文化的幸福観を教育などにより意識的・無意識的に再生産し、その文化内の他者の幸福の感じ方にも違いを与えるかもしれない。そしてどのようにして幸福を得ようとするか、どの程度の幸福を求めようとするかなどの幸福への動機づけのあり方も異なってくるであろう。(ⅴページ)

〇ここでいう「文化」とは、「ある集団内に社会・集団の歴史を通じて築かれ、共有された、価値あるいは思考・反応のパターン」をいう。すなわち、習慣やルール・価値観など、一定の集団(国家、民族、地域、家族など)のなかで共有され、伝達される有形無形の枠組みが文化である。それはまた、生活のなかに多層的に重なって存在しており、集団を構成する人々が変化すれば文化自体も変化することになる(73、74ページ)。
〇いまひとつのキーワードは「集合的幸福」である。その一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

個人の幸福と集合的幸福
個人の幸福は、個々人の「心の持ち方」だけではなかなかうまくいかず、いろいろな社会の相互作用のなかで実現されている。これまでの個人の幸福モデルでは、一人ひとりの幸福の実現をめざすことが、組織や地域全体の集合的な幸福を高めることになるという視点で捉えられてきた。しかし、個人の幸福の追求は、誰かの幸福を搾取したり、誰もが利己的になることで「共貧状態」に陥ったりすることもあり得る。この視点に立てば、個人の幸福の追求だけでは集合的な幸福は実現せず、集合での持続可能な幸福モデルを考えることも必要になる。つまり、これからの幸福については、組織や地域全体における「個人の幸福」と「集合的幸福」の良きバランスを考えることが重要になる。(105、106ページ)

個人の幸せが、他者の幸せを搾取せずに協調的に成立することも大事な要件である。おそらく日本の協調的な幸福******(傍点筆者)は、他者との調和を重視することで、天災などの困難を乗り越え、周囲と助け合うために自分を律する、そういう機能をもって受け継がれてきた。個人ばかりに目を向けてそれが競争的な形で相手を打ち負かし、自らが多くの取り分を得ようとするようなものでは、社会は過度に競争的になり、安定した幸福は得られない。個人の幸せの行きつく先が、足りない部分を満たし続けようとしてしまう快楽主義的なものになってしまっては持続的な幸福は見込めない。個人が生きる意味や価値を感じられるような幸福を実感しながら、それを支える社会・集合とバランスを持っていくことは、現在日本における幸福について考えるうえで極めて重要なことなのではないだろうか。(143ページ)

〇日本の「協調的な幸福」については、内田は「文化的自己観」(Markus & Kitayama)――「相互独立的自己観」と「相互協調的自己観」をめぐって、こう説述する。相互独立的自己観は、人は他者や周囲の状況から区別されて独立に存在するものであり、人の行動はその人の内部にある属性(能力、性格など)による、という考え方(自己観)である。相互協調的自己観は、人は他者や周囲の状況などによって左右されるものであり、人の行動は周囲からの要求に合わせて行われる、という考え方(自己観)である(77~79ページ)。狩猟採集に依存する経済体系を歴史的にもってきたアメリカでは、前者の「個人の自立」が優先されやすく、定住型の農耕に依存する経済体系を歴史的にもってきた日本では、後者の「社会の協調」が優先されやすい(84ページ)。それゆえに、日本人は、自分だけが周囲から飛び抜けて幸福であったりすることよりは、「人並みの日常的幸せ」「ほどほどの幸せ」が大切にされる(68ページ)。
〇なお、内田は、「個人の自由」を重んじる価値観が形成されるなかで、日本人の心のあり方は今、一階が協調性、二階が独立性という、二階建ての家のようになっているのではないか、と指摘する(123ページ。図1:124ページ)。そして、「一階部分の協調性を、保守的で階層的なものではなく、互いの信頼関係を構築し、維持するためのシステムとして活用すれば、(増設された)二階部分の独立性とは両立する可能性がある」(125ページ)という。

図1 現代日本の自己における独立性と協調性の二階建てモデル

〇もうひとつのキーワードとして、「地域の幸福」に関する内田らの調査結果の概要をメモっておくことにする(抜き書き)。

地域内の「つながり」と幸福
地域内のつながりは住人の幸福度を上げている傾向がある。また、つながりは地域内部だけではなく、外の人とも広がっているほうがより良いようである。分析の結果、地域の幸福*****(傍点筆者)には社会関係資本(信頼関係)や地域内でのサポートのやり取りなどが重要な要素となっていることなどが見いだされた。また「閉鎖的」と思われがちな日本の地域内のつながりは、意外にも逆に「開放性」につながっていた。地域内信頼関係があれば、移住者についても受け入れる気持ちが強く、世代が異なる人など、多様な人の意見を聴こうとする雰囲気が醸成されていることなどがわかったのである。/このようなことから、地域内の「つながり」や「共有されている価値」を維持することに貢献するような活動(お祭りなど)や、地域間を橋渡しする制度設計(プロのコーディネート機能の活用)、そして地域外からの評価によって、自分たちが生きる社会・自然・文化的環境を再評価し、誇りをもてるような指針をつくることが重要なのではないかと考えている。(110~111ページ)

〇内田は、「地域の幸福」(地域内の集合的幸福)を高める試みの一例として、農村コミュニティにおける「普及指導員」の果たす役割について紹介する。普及指導員は、農業者や農業コミュニティを対象に、技術指導や経営指導を行う都道府県の職員である。内田らの研究の結論はこうである。農業コミュニティ内部の信頼関係(つながり)である「ソーシャル・キャピタルを形成することは農業コミュニティの幸福につながっていること、そしてそれは内部住民任せの自発的な部分だけではなく、普及指導員による外部からの働きかけによって支えることができるということが示された」(116ページ)。例によって唐突ながら、「まちづくり」や関係人口、コミュニティソーシャルワーカーなどにも通底する言説であろう。留意しておきたい。
〇[1]における内田の主張のひとつは、「幸福は『ごく個人的な』ものと考えられがちであるが、実は社会や文化の影響を大きく受ける、『集合的な現象』でもある」(146ページ)というものである。個人の幸福と集合的幸福の関係は、個人の幸福の追求は集合的幸福度を高め、集合的幸福の追求は個人の幸福度を高めるという相互性・不可分性にある。そこで内田は、個人の幸福と集合的幸福のバランスを保つことが重要であると言う。その際のバランスには、前述した日本人の相互協調的自己観、すなわち「人並み」「ほどほど」といった感覚を大切にするバランス思考が反映されているのであろう。
〇ここでは、個人の幸福度と集合的幸福度を高めるためには、個人に対する働きかけと組織や地域・社会に対する働きかけが必要かつ重要となることに留意したい。その際、ステレオタイプの幸福(「これが幸せなんだ」)や社会的に強制された幸福(「幸せだと思いなさい」)ではなく、それぞれの幸福とそれを支える要件を個々人が、地域・社会全体が思考し追求することが肝要となる(21ページ)。そこで問われるのが、内田が紹介する農業者(個人の幸福)や農業コミュニティ(集合的幸福)に対する「普及指導員」(生産技術に関連する技術力・活動と地域のつながりに関連するコーディネート力・活動が求められる:116ページ)のような役割や機能であろう。「まちづくり」(住民と地域コミュニティ)における重要な視点・視座でもある。
〇なお、筆者が本稿のタイトルを「“Well-being”再々考」としたのは、内田と同様に、「幸福」は個人的な感情状態をさす「幸せ」(happy、happiness)ではなく、地域・社会や環境などを含めた包括的な「幸福」(Well-being)概念として表示すべきであるという思考によるものである。そして、その根底には(またまた唐突であるが)、「困っている人を助ける」という「福祉」(welfare)観ではなく、「みんなの必要を満たす」という「ふくし」(Well-being)観がある。

付記
阪野貢「“ Well-being ”再々考:文化的幸福観と集合的幸福をめぐって ―内田由紀子著『これからの幸福について』のワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所ブログ<雑感>(204)2024年4月24日アップ。一部修正。

 


XV 「自前」の思想


<文献>
(1)清水展・飯嶋秀治編『自前の思想―時代と社会に応答するフィールドワーク』京都大学学術出版会、2020年10月、以下[1]。
(2)佐高信・田中優子著『池波正太郎「自前」の思想』集英社新書、2012年5月、以下[2]。
(3)伊藤幹治著『柳田国男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて』岩波書店、2011年5月、以下[3]。

〇筆者(阪野)の手もとに、清水展・飯嶋秀治編『自前の思想―時代と社会に応答するフィールドワーク』(京都大学学術出版会、2020年10月。以下[1])という本がある。[1]は、これからフィールドワークとそれに基づいて発信しようとする人たちが、「かつてそれぞれの時代の喫緊課題に積極的に関わり、発言し、行動していったフィールドワークの先達」(18ページ)の人生と仕事ぶり(技法や作法など)を学ぶことを通して、「示唆や励ましを得ること」(1ページ)を目的に編まれたものである。
〇「取り上げる先人たちは、自身のフィールドワークでの体験や知見にもとづき、それをじっくりと熟成させながら自前の思想を紡ぎ出し」(1ページ)、時代と社会の現場と現実に関与し、応答し、さらには積極的に介入していった人たちである。中村哲(医師・土木技師)、波平恵美子(文化人類学・医療人類学)、本多勝一(新聞記者・ルポライター)、石牟礼道子(詩人・小説家)、鶴見良行(東南アジア海域世界研究)、中根千枝(社会人類学)、梅棹忠夫(生態学・民族学)、川喜田二郎(地理学・文化人類学)、宮本常一(日本民俗学)、岡正雄(民俗学)の10人がそれである。
〇[1]の編者のひとりである清水は、「はじめに―現場と社会のつなぎ方」において、「10人の先達」の略歴と業績を紹介する。そして、それぞれがフィールドワークから「自前の思想」を編み上げていった、その方法や意義について言及する。それを通して清水は、読者・フィールドワーカーに対して、「時代状況への介入を含めた過激な応答実践」(18ページ)を呼びかける。次の一節をメモっておくことにする(見出しは筆者)。

フィールドワークと「自前の思想」の編成
フィールドワークとは、人々の暮らしの営みやそこで生ずる諸問題を、暮らしの場(生活世界)のなかで理解し、逆に個々人の暮らしの営みを見つめ丁寧に描くことをとおして、その喜びや悲しみ、日々の生活の背景や基層にある意味世界、つまり文化というコンテクスト(社会的脈略・状況や背景)を明らかにしようとする企てと言えるでしょう。そして(本書で取り上げるフィールドワーカーたちは:阪野)その総体を丸ごと描き考察するために、欧米の偉大な思想家の言説や流行りの理論を安易に借用(乱用/誤用?)したりしませんでした。人々の生活の場に身を置き、腰を低くして同じ高さ(低さ)の目線で話し、その説明に謙虚に耳を傾け、彼らが生きる社会文化や政治経済のコンテクストに即して粘り強く考え続けました。けっして虎の威を借る狐(とらのいをかるきつね)になろうとせず、かといって井の中の蛙(いのなかのかわず)になることも避けて身体と思索の運動を続け、具体的で手触りのある現場から的確な言葉を自ら紡ぎ出し、自前の思想を編みあげてゆきました。さらにその先には、人々の暮らしに直接に関わるような政治社会状況に積極的に関与し、問題の解決や状況の改善に寄与するために積極的な介入を行ったりしました。(17ページ)

思想―「応答」的行動を支える姿勢や信条
(本書でいう)思想とは、学術の理論や哲学というよりも、社会に対する身の処し方や律し方、広くは自らが生きる社会、狭くはフィールドワークでお世話になった人たちとの関係の作り方や応答の仕方などを支える姿勢や信条を意味しています。(1ページ)/下から・現地現場から社会の成り立ちを見据え理解し対応するための姿勢や信条とほぼ同義です。(2ページ)

〇もうひとりの編者である飯嶋は、「自前の思想」の本質を「時代と社会に応答する」3つの側面――「遭遇」「動員」「共鳴」からまとめている。それぞれの要点をメモっておくことにする(見出しは飯嶋)。

遭遇/自前の思想は遭遇したものへの応答から「はじまる」
人により、それがより劇的な場合と、より漸次的な場合との違いはありこそすれ、そののちインパクトをあたえる仕事が、自らの仕事の延長線上に出てくるという以上に、ある人物やある主題、ある状況に「遭遇」してしまい、そこから好むと好まざるとに関わらず、その状況に巻き込まれ、そのひとと仕事が大きく動いていくことになる。つまり自前の思想を生みだす応答は、こうした遭遇から「はじめる」というよりも「はじまる」のである。(422ページ)

動員/自前の思想の応答はあらゆるものを「資源化する
予期せぬ「遭遇」から始まってしまう自前の思想の応答は、それゆえにこそ、応答する者がもてる全てを動員してそれに応答せざるを得なくなる。遭遇した事態に対して出来合いの方法論や便利なアプローチ法があるわけではない。まずは徒手空拳(としゅくうけん)のまま向き合い、それから手持ちの札と技をなんとかやりくり活用して応答する。(中略)それはきれいごとではなく、応答が遭遇から「はじまってしま」ったら、あらゆる契機を「資源」として動員して臨まざるを得なくなるのである。(425~426ページ)

共鳴/自前の思想は「徒弟化しない」
喫緊の課題との「遭遇」に始まり、あらゆる契機を資源として「動員」する必要が生じた自前の思想は、「徒弟化しない」という点がきわめて特徴的である。徒弟的に見える面があったとしても、それは学問的な技法の習得に限られている。(426ページ)/遭遇する事態や人々が異なり、動員できる資源が異なっている私たちが、先人の方法だけを模倣することに意味があるはずもない。徒弟化せずに自前の思想でやるしかないのは、かつても今も変わらないであろう。(429ページ)/(本書で取り上げたひとびと・応答者たちは:阪野)それぞれの現場(フィールド)で、他の現場で応答するひとびとのあり方に励まされ、自らの糧ともしていったのである。なので、自前の思想の応答者は徒弟化しない。ただ異なる状況にある応答者同士で共鳴するのである。(430ページ)

〇筆者は人類学や民俗学については全くの門外漢である。「10人の先達」に関しても、石牟礼道子の『苦海浄土―わが水俣病』(講談社、1969年1月)、中根千枝の『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』(講談社現代新書、1967年2月)、『タテ社会の力学』(講談社学術文庫、2009年7月)、『タテ社会と現代日本』(講談社現代新書、2019年11月)、梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書、1969年7月)、川喜田二郎の『発想法―創造性開発のために』(中公新書、1967年6月)、『続・発想法―KJ法の展開と応用』(中公新書、1970年2月)、宮本常一の『忘れられた日本人』(未来社、1960年1月。岩波文庫、1984年5月)、などのベストセラーとなっている本を読んだだけである。また、[1]に描かれている10人の人生と仕事については、スケールがあまりにも違いすぎ、想像だにできない。そんななかで、あるいはそれゆえに自分の浅学菲才さを恥じるのみであるが、「まちづくりと市民福祉教育」のフィールドワークに多少とも関わってきたものとして、[1]から認識を新たにする点は実に多い。
〇ここでは、宮本常一に関する次の一節だけをメモっておくことにする。そこには、「強い『地域主義』『反中央集権』『反官僚主義』の姿勢があり、(宮本は)現地と協働しながら生活改善と経済振興を図るという点でまさしく応答するフィールドワークの実践者」(11ページ)であった。

「外国の文化を受け入れるような素地を国の中へ作っていかなきゃならないんじゃないか。(中略)つまり外国の人たちがやってきて、安(やす)んじておられる場所だろう。それじゃあ、向こうの習俗をすてないで、日本人の生活の中に入り込み、ともに生活できるような場があったかっていうと、ないだろう。これが、やはり、君たちのやらなきゃならん仕事の一つだ。」
「僕の夢は、はっきり言うとね、地域主義なんだよ。それが昔から夢だったんだ。百姓のせがれだったからね。大事なことは、地域社会というのは立派に成長してゆかなければならないんだ。地域社会が充実してくると、世の中がにぎやかになるんだね。それぞれの地域社会が生き生きしてくることが、世の中で一番おもしろいんで、もういっぺん地方が中央に向かって、反乱をおこさなきゃいけないと思うんだ。世の中が変わってゆくのは、いつも、田舎侍が町に向かって反乱を起こすことなんだよね。」
「それが無くなったらね、国っていうのは滅びるんだろう。今はもう、完全な中央集権時代。しかしそれをもういっぺん、ぶっこわしてね、人間が生きるっていうことはどういうことなんだっていうことを問いつめていく。どうじゃろうそれを君たち、やってみないかね。なあ、やろうや。」(鼓童文化財団2011:62-63)(358ページ)

〇この一節にあるのは、「地域が大きなものの力に組み込まれ、それへの従属を余儀なくされ、自主性が削(そ)がれ挑戦へのエネルギーが失われていくことへの危機感であろう。こうした社会の動きに対して(宮本の)その姿勢は戦闘的であり、(中略)アナーキーさを感じさせる」(359ページ)。留意しておきたい。
〇また、宮本がいう「君たち」とは、若いフィールドワーカーのことである。宮本は、フィールド(現地・現場)でワーク(仕事・作業)する人に対して、「地域のよどみや人びとのしがらみに風穴をあけていく存在や力」(368ページ)として期待したのである。
〇なお、筆者の手もとに、佐高信・田中優子の対談本『池波正太郎「自前」の思想』(集英社新書、2012年5月。以下[2])という本がある。[2]は、「辛口評論家と江戸研究家の最強コンビが、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』など池波正太郎のヒット作はもちろん、池波自身の人生をも読み解きながら、これからの日本人に相応しい生き方を共に考える」(カバーそで)本である。佐高と田中は次のようにいう。参考に供しておく。

自前の思想とは、つまり、迷ったり、遊んだりしながら、一人前になることをめざす思想ということである。(佐高、191ページ)

「自前」という言葉は「手前」と同様に空間を表現している。畳に手をついて頭を下げる。その手の身体側が自分、つまり自らの「分」であり、手前である。その自らの空間に全てを引き受けるのが、「自前で生きる」ことだ。(田中、192~193ページ)/自前の思想で重要なのは「他人と比較しない」ことなのである。比較するには比較の基準が必要だが、自前という空間には、共通の基準がない。(193ページ)/自前が、ありとあらゆることを引き受けつつ、社会における己の姿勢を練り上げていく楽屋空間(プライベートの空間:阪野)だとすると、そこは「あそび」の空間(童心にかえる、楽しい空間:阪野)でもあるはずなのだ。(193ページ)

〇筆者の手もとにもう一冊、伊藤幹治著『柳田国男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて』(岩波書店、2011年5月。以下[3])という本がある。[3]は、「ミンゾク」学者で「一国民俗学」を構築した柳田国男と「比較文明学」を開拓した梅棹忠夫を比較しながら、ふたりの知の営み(業績とその特色など)を数々のエピソードをまじえて回想・整理した「柳田・梅棹論」である。「ふたりの知のスタイルは、幅広く多くの文献を参照しつつ、西洋の学問に依存するのではなく、自らの頭で仮説を構築して思考することだった」(カバーそで)。その点(「自前の学問」)をめぐって、次の一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

柳田国男と梅棹忠夫のふたりの知のあり方には共通した点がいくつかある。
ひとつは、柳田国男も梅棹忠夫も、欧米の学問をまるごと輸入し、その理論を日本の社会や文化の研究にそのままあてはめるのを忌避したことである。/ふたりは欧米からの借りものでない、「自前の学問」を構築しようとしていたのである。柳田が「明日の学問」とよんだ民間伝承論(一国民俗学)(中略)の特徴は、この国の農山漁村に埋もれているさまざまな民間の伝承を文字に記録し、その記録をとおして「自前の学問」を構築しようとした点にある。/梅棹もまた、(中略)柳田と同じように、自分の目で見、自分の耳で聴き、自分のからだで感じ、自分の頭でたしかめた経験的事実にもとづいて構築した「自前の学問」を高く評価したのである。そして、これを「土着の学」とよんでいた。/こうした「自前の学問」を求めた柳田と梅棹の一貫した姿勢は、いずれも揺るぎない実証的精神に支えられたものと思うが、このことはややもすれば欧米の人類諸科学の理論に魅せわれるわかい世代の研究者に警鐘を鳴らしているとみてよかろう。
いまひとつは、柳田国男も梅棹忠夫もひろい視野に立って「日本とはなにか」という重い課題と真摯(しんし)に向きあっていたことである。/柳田は一国民俗学を構築するために、他者としての世界の諸民族の文化を視野に入れ、自己としてのこの国の民俗文化(フォークロア)を手がかりにして、「日本とはなにか」という問い対する答え求めたが、梅棹もまた日本文明論を開拓するために、他者としての世界の諸文明と対比して自己としての日本文明を相対化し、「日本とはなにか」という問いに対する答えを求めている。/ふたりの日本研究は、(中略)視野のせまい「一国完結型」の日本研究に再考を迫っている。
もうひとつは、柳田が構築した一国民俗学も梅棹が開拓した日本文明論も、ひとしく仮説の構築を特徴としていることである。/梅棹が(は)科学には実証的事実の蓄積(実証性)、その内的関係をみやぶる洞察力、発想力(仮説性)、全体をおおう論理的体系化(体系性)という三つの要素があると述べ、柳田の学問には仮説の構築とその検証が繰り返されている。(中略)自分の学問を実証性と仮説性のまんなかに位置づけた。(中略)柳田が膨大なデータを駆使して綿密な実証と仮説の構築につとめたことはよく知られているが、梅棹もまた(中略)洞察力に富んださまざまな仮説を提出している。/興味深いのは、柳田も梅棹が提起した仮説のほとんどが、いずれも個々の短い論文のなかに提示されていることである。ふたりは仮説を提示するために、さまざまな論文を書きつづけていたことになる。(180~183ページ)

柳田国男と梅棹忠夫には、一国民俗学と日本文明論以外の知の営みにも共通した点がいくつかある。
ひとつは、柳田と梅棹が後進の研究者やわかものたちと積極的に交流し、自宅の一部を開放して彼らと自由に議論する「私的な場」を提供したことである。
いまひとつは、柳田も梅棹も後進の研究者やわかものと「対等な関係」を結んでいたことである。
もうひとつは、柳田も梅棹もわかりやすい文章を書くことに精力を傾注していたことである。(中略)(それを)ひとことでいえば読者と「密度のあるコミュニケーション」を大事にしたからであろう。
最後に、柳田国男と梅棹忠夫が国際共通語のエスペラントに関心を寄せていたことを指摘しておこう。(183~185ページ)

〇この一節ではとりわけ、①人々の生活はその人が生まれ育った時代と社会のなかで営まれ、生活の主体性はそれを生み出す歴史的背景や社会的・文化的基盤の枠内で形成される。借り物理論ではなく、「自前の理論」が重視されるべき根拠がここにある。②フィールド(現場)での実践的研究には仮説探索型の研究と仮説検証型のそれがあるが、この両者を循環的に組み合わせて相互作用を引き起こすことによって、研究の科学性を担保することができる。その実践が科学的であるかどうかはこの仮説性が重要となる、この2点を押さえておきたい。

付記
阪野貢「フィールドワークと『自前の思想』、そして『自前の学問』:時代と社会に『応答』すること ―清水展・飯嶋秀治編『自前の思想』のワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所ブログ<雑感>(173)2023年3月24日アップ。

 


むすびにかえて


<文献>
(1)松村圭一郎『くらしのアナキズム』ミシマ社、2021年10月、以下[1]。

〇人は甚大な被害に見舞われた際、とりわけ新型コロナウイルス禍で、「国家」を意識する。国家はときに、無力で無能な制度と化し、人びとの平和な暮らしを脅かすことがある。国家は人びとにとって強くて大きい存在であり、国家を維持するために国民を犠牲にすることすらある。そもそも国家は、国民全員の生活を十全に支援し、保障する仕組みとして準備(形成)されているものではない。そういう国家のもとで暮らす人びと(弱い存在である生活者)は、国家から一定の距離をとり、ふだんの暮らしのなかで互いに助け合う意識を持ち、その論理を展開する(展開してきた)。そして、国家・社会によって「当たり前」とされているモノやコトを揺さぶり、問い直し、新たな知恵や技法を編み出す(編み出してきた)。そしてそこに、希望と可能性(力)を見出す(見出してきた)。
〇身の回りの出来事や社会的な問題に対処するのは、政治家や行政職員だけではない。その重要な役割を果たすのはむしろ、日々の暮らしを営んでいる一人ひとりの市民・生活者である。政治や行政は、人びとの現実の暮らしのなかにこそ見出される。その点において、現実生活から遊離した観念的で固定的な思考や知識に基づく、しかも「次の選挙を考える」政治家(政治屋)や「前例・横並び主義」に汲々とする行政職員は不要となる。
〇「アナキズム」というと、「無政府主義」「革命」「暴力」「無秩序」等々のイメージがつきまとう。[1]で松村圭一郎はいう。アナキズムの本来の意味は、普通の生活者がふだんの暮らしのなかで、国家や市場の支配権力に向き合いながら、自分たちの問題を自分たちで解決していく点にある。その解決のためには日頃から、「人と人が問題を共有し、手をさしのべられる関係や場」を「耕し」ておくことが肝要となる(176、177ページ)。またそこでは、「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)の論理や「対話」と「同意」の技法などが必要かつ重要となる。
〇松村の「くらしのアナキズム」に関する論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

ふだんの・くらしの・アナキズム、その理念と思想
鶴見俊輔は、アナキズムを「権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」と定義した。(24ページ)
人と人が問題を共有し、手をさしのべられる関係や場を準備しておく。それは政治家や経営者がやれる仕事ではない。むしろふつうの人こそがやっているし、できる仕事だ。(176ページ)
ぼくらはつねに匿名のシステムに依存して生きている。そのシステムが壊れたとき、たよりになるのは、それぞれがつながってきた顔のみえる社会関係だけだ。それが「くらしのアナキズム」である。(180ページ)
政治と暮らしが連続線上にあることを自覚する。政治を政治家まかせにしてもなにも変わらない。政治をぼくらの手の届かないものにしてしまった固定的な境界を揺さぶり、越境し、自分たちの日々の生活が政治そのものであると意識する。生活者が政治を暮らしのなかでみずからやること。それが「くらしのアナキズム」の核心にある。(61ページ)
だれかが決めた規則や理念に無批判に従うことと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活をゆだねて他人まかせにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。(227ページ)
くらしのアナキズムは、目のまえの苦しい現実をいかに改善していくか、その改善をうながす力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、生活者である自分たちのなかにあるという自覚にねざしている。よりよいルールに変えるには、ときにその既存のルールを破らないといけない。サボったり、怒りをぶつけたり、逸脱することも重要な手段になる。それなら、ぼくらにもできそうな気がする。自分の思いに素直になればいいのだから。(226ページ)

「国家なき社会」における普通の生活者による「公共」
21世紀のアナキストは政府の転覆を謀(はか)る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。(12ページ)
「公(おおやけ)」とか「公共」といえば、お上(おかみ)のやることだと信じられてきた。今度はそれを企業など別のだれかにゆだねようとしている。ぼくらはどこかで自分たちには問題に対処する能力も責任もないと思っている。でも、ほんとうにそれはふつうの生活者には手の届かないものなのか。アナキズムには、国にたよらずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができるという確信がある。
この無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立てなおし、下から「公共」をつくりなおしていくか。「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点だ。(13ページ)
「国家なき社会」とは国家と無縁の社会ではない。国家に包摂され、近接しながらもなお、それに抗(あらが)い、自律的な空間を保持しようとした(する)社会だ。(148ページ)

不完全性を肯定し異質性を包摂する「コンヴィヴィアリティ」
世界は流動的で、つねに変化しつづけている。そこでの「人間」は、いつも不完全な存在にすぎない、でも、不完全だからこそ、同じく不完全な他者との交わりのなかに無限の変化の可能性が生まれる。不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、折衝・交渉することのうち(裡)にある論理を「コンヴィヴィアリティ(conviviality:共生的実践、自立共生、自律共働)という。(198~199ページ)
コンヴィヴィアル(convivial)な世界(共に生きる世界)では、「改宗」を迫るのではなく、「対話」をすることが異なるものに対処する方法となる。異質なものをすべて包摂することが、その秩序の根幹をなす。自分とは異なる存在は、脅威ではなく、むしろ魅力的なものとして積極的に受け入れられる。(200ページ)
「コンヴィヴィアリティは、異なる人びとや空間、場所を架橋し互いに結びつける。また互いに思想を豊かにし合い、想像力を刺激し、あらゆる人びとが善き生活を求め確かなものとするための革新的な方法をもたらす」(現代のアフリカを代表する人類学者のフランシス・ニャムンジョの言)。(201ページ)

民主主義の根幹であり生活者がなすべき「対話」と「同意」
いまアナキズムを考えることは、どうしたら身のまわりの問題を自分たちで解決できるのか、そのためになにが必要かを考えることでもある。国や政治家よりも、むしろ自分たち生活者のほうが問題に対処する鍵を握っている。その自覚が民主主義を成り立たせる根幹にある。結局だれもが政治参加だと信じてきた多数決による投票は、政治とやらに参加している感をだす仕組みにすぎなかった。たぶんそこに「政治」はない。そうやって政治について誤解したまま、時間のかかる面倒なコンセンサス(同意)をとることを避け、みずから問題に対処することをやめてきた。それが結果として政治家たちをつけあがらせてきたのだ。(151~152ページ)
多数決には少数派に沈黙と妥協を強いる危険性がある。納得いくまで話しあい、異なる意見を調停し、妥協をうながしていく(地味で地道な)対話(コミュニケーション)の技法。それこそが民主的な自治の核心にある。(158ページ)
「自治」は、(自助を求める)国家(政府)を補完するような自治ではない。むしろ国の動きをけん制し、分け与えるよう求め、主導権をとりもどすためのものだ。国によりよき状態を要求し、その力への抵抗の足場をつくる。(222ページ)

〇アナキズムは、互酬性や相互扶助に基づく「支配に抗する思想」である。アナキズムは、「個人的自由の追求と連帯の追求とがけっして矛盾しないと考える思想」である。「個人の自由の確保こそが真の連帯の条件である」(山田広昭『可能なるアナキズム―マルセル・モースと贈与のモラル―』インスクリプト、2020年9月、195ページ)。
〇今日、資本主義社会の行き詰まりについて批判する文脈で、市民主導の地域社会の再生が求められ、「コモンズ」(共有資源)や「コミュニズム」(共同体主義)について論じられる。それは、資本主義(新自由主義)でも政治・行政主導でもない「社会像」(「脱成長コミュニズム」)であり、自然環境や福祉、医療、教育などのコモンズについて、市民による・市民のための自律的・民主的な運営管理がなされることをめざす。筆者はそこに、アナキズムの思想を見出す。すなわち、アナキズムに関して、「コミュニズム」や「地域主権社会」の理念を基盤に、「市民」のつながりや集まりである地域コミュニティにおける「共働」をイメージしている。

付記
阪野貢「追記/『アナキズム』考―松村圭一郎著『くらしのアナキズム』のワンポイントメモ―」市民福祉教育研究所ブログ〈雑感〉(147)2021年12月5日アップ。一部加筆修正。

 


備 考 ―<文献>一覧―


 はじめに
(1)高久清吉哲学のある教育実践―「総合的な学習」は大丈夫か―』教育出版、2000年4月。

Ⅰ 「ふくし」の思想と哲学
(1)三谷尚澄『哲学しててもいいですか? ―文系学部不要論へのささやかな反論―』ナカニシヤ出版、2017年3月。
(2)広井良典『福祉の哲学とは何か―ポスト成長時代の幸福・価値・社会構想―』ミネルヴァ書房、2017年3月。
(3)糸賀一雄『福祉の思想』日本放送出版協会、1968年2月。
(4)阿部志郎『福祉の哲学』誠信書房、1997年4月。
(5)伊藤隆二『この子らは世の光なり』樹心社、1988年9月。
(6)仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―<贈与のパラドックス>の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月。
(7)大橋謙策『社会福祉入門』放送大学教育振興会、2008年3月。

Ⅱ 「正義感覚」の育成
(1)伊藤恭彦『さもしい人間―正義をさがす哲学―』新潮新書、2012年7月。

Ⅲ 「人間的連帯」の言説
(1)馬淵浩二『連帯論―分かち合いの論理と倫理―』筑摩書房、2021年7月。
(2)齋藤純一『不平等を考える―政治理論入門―』ちくま新書、2017年3月。

Ⅳ 「自己決定」の実相
(1)小松美彦『「自己決定権」という罠―ナチスから相模原障害者殺傷事件まで―』言視舎、2018年8月。
(2) 吉崎祥司『「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学―』学習の友社、2014年12月。
(3) 高橋隆雄・八幡英幸編『自己決定論のゆくえ―哲学・法学・医学の現場から―』九州大学出版会、2008年5月。
(4) 湯浅誠『どんとこい、貧困!』イースト・プレス、2011年7月。

Ⅴ 「世間」からの解放
(1)阿部謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書、1995年7月。
(2)阿部謹也『学問と「世間」』岩波新書、2001年6月。
(3)佐藤直樹『「世間」の現象学』青弓社、2001年12月。
(4)山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、1983年10月。
(5)鴻上尚史・佐藤直樹『同調圧力―日本社会はなぜ息苦しいのか―』講談社現代新書、2020年8月。
(6)岡檀『生き心地の良い町―この自殺率の低さには理由がある―』講談社、2013年7月。

Ⅵ 「しょうがい」という言葉
(1)荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』柏書房、2021年5月。
(2)荒井裕樹『車椅子の横に立つ人―障害から見つめる「生きにくさ」―』青土社、2020年8月。
(3)荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』ちくま新書、2020年4月。
(4)荒井裕樹『障害と文学―「しののめ」から「青い芝の会」へ―』現代書館、2011年2月。
(5)荒井裕樹『差別されてる自覚はあるか―横田弘と青い芝の会「行動綱領」―』現代書館、2017年1月。

Ⅶ 「生」の倫理
(1)野崎泰伸『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』白澤社、2011年6月。
(2)野崎泰伸『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』筑摩書房、2015年3月。

Ⅷ 「しんがり」の姿勢
(1)鷲田清一『しんがりの思想―反リーダーシップ論―』角川新書、2015年4月。
(2)駒村康平編『社会のしんがり』新泉社、2020年3月。

Ⅸ 「助けて」の創造
(1)奥田知志『もう、ひとりにさせない―わが父の家にはすみか多し―』いのちのことば社、2011年6月。
(2)奥田知志『「助けて」と言おう―3・11後を生きる―』日本キリスト教団出版局、2012年8月。
(3)奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ―人と社会をつなぐ―』集英社新書、2013年8月。
(4)佐藤彰・奥田知志・宋富子、明治学院150周年委員会編『灯を輝かし、闇を照らす―21世紀を生きる若い人たちへのメッセージ―』いのちのことば社、2014年3月。
(5)奥田知志・稲月正・垣田裕介・堤圭史郎『生活困窮者への伴走型支援―経済的困窮と社会的孤立に対応するトータルサポート―』明石書店、2014年3月。
(6)埋橋孝文、同志社大学社会福祉教育・研究支援センター編『貧困と生活困窮者支援―ソーシャルワークの新展開―』法律文化社、2018年9月。

Ⅹ 愛郷心」の相克
(1)将基面貴巳『反「暴君」の思想史』平凡社新書、2002年3月。
(2)将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房、2019年8月。
(3)将基面貴巳『愛国の構造』岩波書店、2019年7月。
(4)姜尚中『愛国の作法』(朝日新書)朝日新聞出版、2006年10月。
(5)佐伯啓思『日本の愛国心―序説的考察―』中公文庫、2015年6月。
(6)市川昭午『愛国心―国家・国民・教育をめぐって―』学術出版会、2011年9月。
(7)鈴木邦男『〈愛国心〉に気をつけろ!』岩波ブックレット、2016年6月。

Ⅺ 「差別」の本質
(1)キム・ジへ著/尹怡景(ユン・イキョン)訳『差別はたいてい悪意のない人がする―見えない排除に気づくための10章―』大月書店、2021年8月。
(2)神谷悠一著『差別は思いやりでは解決しない―ジェンダーやLGBTQから考える―』集英社新書、2022年8月。

Ⅻ 「共感」の功罪
(1)山竹伸二著『共感の正体―つながりを生むのか、苦しみをもたらすのか―』河出書房新社、2022年3月。
(2)ポール・ブルーム(Paul Bloom)著 高橋洋訳『反共感論―社会はいかに判断を誤るか―』白揚社、2018年2月。
(3)永井陽右著『共感という病―いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?―』かんき出版、2021年7月。

XIII「利他」の本質
(1)伊藤亜紗(編)・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』集英社新書、2021年3月。
(2)中島岳志著『思いがけず利他』ミシマ社、2021年10月。
(3)若松英輔著『はじめての利他学』NHK出版、2022年5月。

XIV “Well-being ”  の視点
(1)マーティン・セリグマン、宇野カオリ監訳『ポジティブ心理学の挑戦―“幸福”から“持続的幸福”へ―』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年10月。
(2)前野隆司『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門―』講談社現代新書、2013年12月。
(3)前野隆司『実践・脳を活かす幸福学 無意識の力を伸ばす8つの講義』講談社、2017年9月。
(4)前野隆司・前野マドカ『ウェルビーイング』日経文庫、2022年3月。
(5)前野隆司『ディストピア禍の新・幸福論』プレジデント社、2022年5月。
(6)渡邊淳司・ドミニク=チェン監修・編著『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』ビー・エヌ・エヌ、2020年3月。
(7)石川善樹・吉田尚記『むかしむかし あるところに ウェルビーイングがありました―日本文化から読み解く幸せのカタチ―』KADOKAWA、2022年1月。
(8)草郷孝好著『ウェルビーイングな社会をつくる―循環型共生社会をめざす実践』明石書店、2022年7月。
(9)内田由紀子著『これからの幸福について―文化的幸福観のすすめ―』新曜社、2020年5月。

XV 「自前」の思想
(1)清水展・飯嶋秀治編『自前の思想―時代と社会に応答するフィールドワーク』京都大学学術出版会、2020年10月。
(2)佐高信・田中優子著『池波正太郎「自前」の思想』集英社新書、2012年5月。
(3)伊藤幹治著『柳田国男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて』岩波書店、2011年5月。

むすびにかえて
(1)松村圭一郎『くらしのアナキズム』ミシマ社、2021年10月。

 

 

 

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―「まちづくりと市民福祉教育」実践に関する基礎知識メモ―

「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて
―「まちづくりと市民福祉教育」実践に関する基礎知識メモ―

阪野 貢/市民福祉教育研究所

 


はじめに


本稿は、「まちづくりと市民福祉教育」実践に関するアクションリサーチ、コミュニティ・エンパワメント、リフレクション、ケアリングコミュニティ、コミュニティ・オーガナイジングの「基礎考」を集成したものである。

 


Ⅰ アクションリサーチ:その概念、原則、プロセス


〇筆者(阪野)は1985年前後からおよそ30年間、いくつかの市区町村で「まちづくりと市民福祉教育」に関する実践・研究にたずさわってきた。その成果は見るべきものがないが、地元学(吉本哲郎、結城登美雄ほか)をはじめ、地域学(山下祐介、柳原邦光ほか)、まちづくり学(佐藤滋、西村幸夫、織田直文、木下斉、山崎義人ほか)、コミュニティデザイン(山崎亮、小泉秀樹ほか)、コミュニティ・オーガナイジング(鎌田華乃子、室田信一ほか)、そしてアクションリサーチなどからも多くを学んだ(追記 参照)。
〇筆者の手もとに、アクションリサーチに関する次のような本がある(それしかない)。

(1)矢守克也著『アクションリサーチ―実践する人間科学―』新曜社、2010年6月
(2)CBPR研究会著『地域保健に活かすCBPR―コミュニティ参加型の活動・実践・パートナーシップ―』医歯薬出版、2010年7月
(3)武田丈著『参加型アクションリサーチ(CBPR)の理論と実践―社会変革のための研究方法論―』世界思想社、2015年3月(Kindle版:太洋社、2019年10月)
(4)JST社会技術研究開発センター・秋山弘子編著『高齢社会のアクションリサーチ―新たなコミュニティ創りをめざして―』東京大学出版会、2015年9月
(5)草郷孝好編著『市民自治の育て方―協働型アクションリサーチの理論と実践―』関西大学出版部、2018年3月
(6)芳賀博編著『アクションリサーチの戦略―住民主体の健康なまちづくり―』ワールドプランニング、2020年3月
(7)安梅勅江編著『エンパワメントの理論と技術に基づく共創型アクションリサーチ―持続可能な社会の実現に向けて―』北大路書房、2021年2月
(8)平井太郎著『話し合いが変わる 地域でアクションリサーチ』農山漁村文化協会、2022年3月

〇本稿では、これまでの取り組み・活動を振り返りながら、今更ながら改めてアクションリサーチの基礎的理解を図るために、8つの文献の論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部語尾変換。一部見出しは筆者)。

 

Ⅰ.矢守克也著『アクションリサーチ―実践する人間科学―』

アクションリサーチの概念
アクションリサーチ(action research)とは、望ましいと考える社会的状態の実現を目指して研究者と研究対象者とが展開する共同的な社会実践のことである。(1ページ)
アクションリサーチ(action research)とは、「こんな社会にしたい」という思いを共有する研究者と研究対象者とが展開する共同的な社会実践のことである。よって、そのキーワードは、「変化」であり、「介入」である。望ましい社会の実現へ向けて「変化」を促すべく、研究者は現場に「介入」していく。(11ページ)

アクションリサーチの特性
アクションリサーチの定義はさまざまであるが、以下の2点をアクションリサーチのミニマムな特性として指摘することができると思われる。
(1)目標とする社会的状態の実現に向けた変化を志向した広義の工学的・価値懐胎的な研究
アクションリサーチでは、よりよい方向(改善、改革)への変化が謳われる以上、そこに価値が懐胎(かいたい)しないはずはない。アクションリサーチは、「現状よりも望ましい斯く斯くしかじかな社会的状態を作りましょう」という価値判断とともに遂行される研究活動である。
(2)上記に言う目標状態を共有する研究対象者と研究者(双方を含めて当事者)による共同実践的な研究
当事者と研究者による共同実践的な研究という特性は、研究者と対象者との独立性を100%保証することはできないという事実を率直に受けとめ、むしろ、この点を積極的に評価・活用しようとするものである。(13~14ページ)

アクションリサーチにおける「正解」と「成解」
アクションリサーチでは、どのような現場にも、また、いつの時点でも普遍的に妥当する真理・法則性―「正解」―を研究者が同定することが目標とされているわけではない。むしろ、アクションリサーチは、特定の現場(ローカリティ)において、当面、成立可能で受容可能な解―「成解」―を、研究当事者(研究者と研究対象者)が共同で社会的に構成することを目標としている。
「成解」は、「正解とは異なり、ユニヴァーサル(普遍的)ではなく、常に、空間限定的(local)で、かつ、時間限定的(temporary)な性質をもつ。言いかえれば、アクションリサーチがもたらす「成解」は、常に、修正と更新に向けて開かれていることになる。「成解」は、今この現場(フィールド)では「成解」かもしれないが、他の現場では「成解」たりえない可能性はあるし、当時に、同じ現場においても、過去あるいは将来においては、別の「成解」が成立するかもしれない。(22ページ)
以上から、アクションリサーチにおけるインターローカリティ(inter-locality)、すなわち、複数の現場間の比較・対照作業、および、インタージェネレーショナリティ(inter-generationality)、すなわち、同じ現場の複数時点間の比較・対照作業、以上2つの重要性が導かれる。(23ページ)

 

Ⅱ.CBPR研究会著『地域保健に活かすCBPR―コミュニティ参加型の活動・実践・パートナーシップ―』

CBPRの概念
CBPRはCommunity-Based Participatory Researchの略であり、直訳すると「コミュニティを基盤とした参加型研究」である。(2ページ)
CBPR を「コミュニティの健康課題を解決し、コミュニティの健康と生活の質を向上するために、コミュニティの人々と専門職/研究者のパートナーシップによって行われる取り組み・活動」と定義する。(4ページ)
CBPRの対象となるコミュニティを「人々が共通の特性、例えば価値や規範、文化などを持ち、そこに何らかの帰属意識を持ち、さらにそこに一定の連帯や支え合いの意識が働いている集団」と定義する。(4ページ)
CBPRにおけるパートナーシップを「異なる立場や機関の人たちでつくられた組織の活動を通して形成される、信頼しあいそれぞれの力をいかして育ちあう関係性」と定義する。(5ページ)
CBPRは公衆衛生領域のアクションリサーチとも言われる。CBPRの理論的基盤や特徴はアクションリサーチと同じである。一方、コミュニティを対象とする考え方は、人間は社会・文化・歴史・自然といった多様な側面を持つ環境と相互作用しながら生活し発達していくという地球的な視点を含めた見方や考え方である生態学的アプローチに基づいている。(8ページ)

アクションリサーチとその特徴
アクションリサーチとは
現実の社会問題の実際的解決を目的として、問題の生じている現場において、当事者と研究者が協働して行う取り組み・活動
アクションリサーチの特徴
①現実の社会問題を実際に解決する:現場の最大の関心事は目の前の問題であり、アクションリサーチは、「現実の社会問題を実際に解決する」ことを目的としている。
②研究者と当事者が協働する:アクションリサーチは、問題が生じている現場の当事者と協働することにより行われるところに特徴がある。当事者と研究者が実際の文脈に応じた解決方法を見いだしながら、課題解決のための活動を行うことで、直接的に現実に働きかけていく。
③振り返りreflectionが重要である:アクションリサーチは当事者と研究者との関係性の中で行われること、当事者と研究者の認識の変化が重要であること、および社会変革をめざし政治的方向性を意図する活動にもなり得るわけであるから、研究者の認識や思考、関わりを振り返りながら行うことがとりわけ必要になる。
③取り組み・活動である:アクションリサーチは研究手法ではなく、さまざまな研究手法を用いて行う取り組み・活動である。アクションリサーチでは、解決すべき問題の内容や状況に応じて、量的・質的研究などさまざまな研究手法を用いる。アクションリサーチは、研究者からみれば研究活動であり、当事者からすれば現場の課題解決のために取り組む活動である。(9ページ)

CBPRの原則
CBPRの9つの原則は、CBPRの実践をすすめるための道しるべとして考えることができる。
原則1:地域を、共通の価値観や帰属意識を持つ集団(コミュニティ)として捉えよう
CBPRは、コミュニティとしての人々とともに活動することを基盤としている。
原則2:コミュニティの健康問題を解決するために、コミュニティの強みや資源を用いよう
CBPRは、コミュニティにどのような資源があり、それらがどのように機能しているかを明らかにし、それを強みとして再確認し、コミュニティの健康の向上のために有効に活用していく。
原則3:活動のすべての段階において、対等なパートナーシップを目指そう
活動のすべての段階において共に行うことを通し、互いの力の差や価値観の違いを認めるよう努める。このような関わりから、互いの間に信頼や尊重が生まれ、パートナーとしての関係に発展していくのである。
原則4:それぞれの知識や技術を共有した互いに学び合い、能力を高めよう
専門職や研究者は、住民からコミュニティ固有の知識や伝統、文化を学び、住民は、専門職や研究者から研究や活動を進めるために必要な知識やスキルを学ぶなど、それぞれの知識や技術を共有して、互いに学び合う。
原則5:活動の成果を、コミュニティに還元しよう
CBPRでは、研究活動によって知識を発見すること、つまり、研究の成果を得ることと、得られた知識をコミュニティに還元していくことのバランスをうまくとることが大切になる。
原則6:生態学的(エコロジカル)な視点で、コミュニティの問題を多角的に捉えよう
人間の生活や発展を人間と環境の相互作用として捉える生態学的な視点によって、コミュニティの健康問題を多角的に捉えることが重要である。
原則7:活動は、循環し繰り返しながら発展させていこう
CBPRでは、この問題解決のプロセスを行きつ戻りつ循環しながら進む。しかし、大事なことは、プロセスを繰り返す中でメンバーは何度も何度も互いの理解を確認し合いながら進めていくことになり、それによって活動が修正され、よりよいものになっていくことができるのである。
原則8:結果を利用しやすい形でコミュニティに還元し、広く社会に普及させよう
CBPRによって得られた結果や成果は、住民にとって、わかりやすく、丁寧に、役に立つ方法で伝える。成果をコミュニティに還元して初めてCBPRの目的の達成につながる。
原則9:長期的で持続できる活動として取り組もう
CBPRにおいては、当面の健康問題の解決で活動を終えるのではなく、長期    的により健全なコミュニティとして発展できるようコミュニティの力を蓄えることを目指している。(12~16ページ)

CBPRの進め方
CBPRのすすめ方は、全体が5つで構成されている。図1は、CBPRの目的である「コミュニティの健康課題の解決やコミュニティの健康の向上」に向かって循環し反復する活動がCBPRの過程であることを図示したものである。(20ページ)
(1)健康問題を感じ取る
コミュニティの健康問題や健康課題を専門職として認識すること。
(2)メンバーを集め組織をつくる
必要によって、活動の規模に応じて①企画・運営など中核的な活動をする仲間や組織、②コミュニティに出て具体的な実践活動をする仲間や組織、③安心して活動できるよう支えてくれる仲間や組織をつくること。
(3)健康課題を明確にする
重要なポイントは、①多様なアプローチを用いてニーズ調査やデータ収集を行うこと、②直接地域に出向き、住民と会って、顔を見せ合い、声を聞いて調査すること、③分析の協働作業に住民がメンバーとして参加すること、④収集できた情報に対して、倫理的な約束事項を遵守すること。
(4)計画をつくり実施する
①住民に直接的なサービスを提供するプログラムや、住民の健康問題への対処能力の向上や育成を目的にするプログラムなど、具体的な活動やプログラムを計画し実施すること、②住民リーダー(ピアリーダー)の育成やグループ育成、コミュニティのネットワークづくりや政策化など、コミュニティに広く浸透させるための戦略を立てること。
(5)活動を評価し普及する
プロセス評価、アウトカム(成果)評価、影響評価など常に活動の振り返りを行うこと。(19~26ページ)

 図1 CBPRの進め方の全体像

CBPRのパートナーシップ
CBPRのパートナーシップは、CBPRの核となる重要な部分である。(36ページ)
CBPRは、メンバー同士のパートナーシップを育て、メンバーの持つエネルギーに着目し、グループがよりよい形で変化し発展していくことが大きな鍵となる。パートナーシップを育んでいくために重要なことは、次の通りである。①メンバー同士が知りあう機会をつくる、②話しやすい雰囲気をつくる、③対等に参加できるよう配慮する、④だれもが対等な決定権をもつ、⑤信頼関係を深める、⑥ファシリテーターの役割(ファシリテーターは、グループの中で中立的な立場をとり、チームワークを引き出し、そのチームの成果が最大になるよう支援する)、⑦目的・目標・優先順位を決める、⑧グループで必要なきまり(規範)をつくる、⑨コミュニティの強さと特徴に気づく、⑩対立に立ち向かう。(44~51ページ)

 

Ⅲ.武田丈著『参加型アクションリサーチ(CBPR)の理論と実践―社会変革のための研究方法論―』

アクションリサーチの概念
さまざまな学問領域における参加型のリサーチの代表的な定義の多くに共通する部分を組みあわせると、CBPR(Community Based Participatory Research=コミュニティを基盤とする参加型リサーチ)とは「コミュニティの人たちのウェルビーイングの向上や問題・状況改善を目的として」、「リサーチのすべてのプロセスにおける」、「コミュニティのメンバー(課題や問題の影響を受ける人たち)と、研究者の間の対等な協働によって」、「生み出された知識を社会変革のためのアクションや能力向上に活用していく」、「リサーチに対するアプローチ(指向)」だといえる。(Kindle版22ページ。以下同)
CBPRは、クルト・レヴィン(Kurt Lewin、ドイツ・アメリカの心理学者)の流れを汲む「知識の実践への活用が強調されるアクションリサーチ」と、パウロ・フレイレ(Paulo Freire、ブラジルの哲学者・教育者)に代表される「問題を抱える人たちの参加が強調される参加型アクションリサーチ」を両極にもつ幅広いスペクトラム(範囲)を包括するリサーチに対するアプローチだといえる。(38ページ)

CBPRの原則
(1)コミュニティとの協働
CBPRは、既存のコミュニティを認識し、そのコミュニティと協働し、その協働を通してコミュニティの連帯感をさらに高めるリサーチに対するアプローチである。
(2)コミュニティ内のストレングスや資源の尊重
CBPRは、対象となるコミュニティの課題に対応するため、コミュニティの既存のストレングス(強さ)、資源、そして関係を認識し、それらを活用する。これらの資源には、コミュニティの人たちのもつ技術や資産、信頼・協働・相互関与といった言葉に代表されるような関係ネットワーク、さらにコミュニティの人たちが集う物理的な集会所なども含まれる。
(3)リサーチのすべての段階で平等に協働するパートナーシップ
CBPRでは、問題の設定、データ収集、データ分析、結果の解釈、コミュニティの関心事にあわせた結果の活用といったプロセスにおいて、コミュニティの人たちや研究者といったすべての関係者が平等に参加し、主導権を共有することが原則である。とくにコミュニティの人たち、その中でも周縁化された人たちの主体的な参加が非常に重要である。
4)すべての関係者の協同の学びと能力開発の促進
CBPRは、すべての参加者の協同の学びと能力開発を促進する。CBPRのプロセスにおける協同の学びを通して、参加者たちはお互いの知識、技術、能力を循環的に共有し、高めあっていくのである。この原則の根底にあるのが、対話の中からお互いの批判的意識化を高め、アクションにつなげていくというパウロ・フレイレの考えである。
(5)リサーチとアクションの統合
CBPRの目的は、たんに知識の創造だけでなく、リサーチによって得られた知識を活用することによって、またそのプロセスを通した教育や意識改革を通じて、リサーチの対象となる課題の解決のためのなんらかのアクション、社会変革、あるいはコミュニティの改善を実行していくことである。
(6)地域密着性とエコロジカルな視点の重視
CBPRは、対象となるコミュニティに固有な課題に適合した取り組みなのだが、その際に個人、家族あるいは社会的ネットワークといった地域に密着した直近の環境、さらにコミュニティや社会といったエコロジカル(生態学的)な視点を重視する。したがって、CBPRでは、焦点となる課題の生体医学的、社会的、経済的、文化的、物理的、環境的といった複数のレベルの要因を考慮し、多様な分野からの研究者やコミュニティの参加者によってチームを形成していく必要がある。
(7)循環的な反復のプロセスによる変革
CBPRでは、コミュニティの人たちと研究者が循環的な反復のプロセスを通して、コミュニティの改善や社会変換を達成していく。この螺旋状のプロセスは、たとえばもっともシンプルなものとしては、「適切な情報収集」と「状況の把握」の「見る(look)」、次に「何が起こっているのかの探究と分析」および「その解釈と説明」の「考える(think)」、そして「計画」「実施」「評価」の「行動する(action)」の3つを繰り返すものがある。
(8)すべての関係者との結果の共有と協働による結果の公開
CBPRは、リサーチによって得られた結果や知識を、すべての関係者やコミュニティの人たちが理解できる言語を用いて共有し、こうした人たちの状況改善や社会変革のためのアクションに活用することをめざす。さらに、結果を発表する際に、会合や学会での共同発表者や出版物の共著者といった形で、コミュニティのパートナーと協働で行っていくことが大切である。
(9)長期にわたるかかわりと関係の維持
CBPRの成功のために必要なパートナーシップの構築や維持、そしてCBPRの目的であるコミュニティの状況改善や社会変革のためには、長期的なかかわりが不可欠である。(60~76ページ)

研究者の役割
CBPRのリサーチの部分における研究者のかかわり方には、①主唱者(initiator)/実際には時間、スキル、意欲のある人の主唱なくしてはCBPRは始まらず、そうした人は権威のある立場にいる人や研究者であることが多い。②コンサルタント(consultant)/時にはコミュニティの人たちがリサーチの部分を研究者に委託し、研究者がコミュニティの責任においてそれを実施することもある。③協働者(collaborator)/お互いの良さを統合してリサーチのプロセスをコミュニティと研究者が協働して行う場合には、研究者の役割は協働者となる、の3つの役割が考えられる。(77~78ページ)
コミュニティ・オーガナイジングの部分においては、①リーダーあるいは鼓舞者、②コミュニティ・オーガナイザー、③民衆教育者、④参加型調査者の役割が、研究者あるいはコミュニティのどちらかによって担われる必要がある。(78~79ページ)
③民衆教育者/民衆教育者とは、コミュニティの人びとの学びのプロセスを促進する役割である。知識のない人たちに知識を提供する「教師」ではなく、人びとがすでに有している知識を自分たちで再発見したり、新しい知識を獲得したりするのを助ける役割を担う。知識が増大すると自尊感情の向上やエンパワメントに結びつくのだが、理想的には教育者の専門的知識がコミュニティの人たちの経験的知識と組みあわさることで、問題に関する新しい考え方や理解の仕方が生み出されていくべきである。(79ページ)

 

Ⅳ.JST社会技術研究開発センター・秋山弘子編著『高齢社会のアクションリサーチ―新たなコミュニティ創りをめざして―』

アクションリサーチの概念
今日のアクションリサーチは、しばしば社会技術の範疇の中で議論される。(中略)社会技術は、「自然科学と人文・社会科学の複数領域の知見を統合して新たな社会システムを構築していくための技術」であり、社会を直接の対象とし、社会において現在存在しあるいは将来起きることが予想される問題の解決を目指す技術(「社会技術研究開発の今後の推進に関する方針~社会との協働が生む、社会のための知の実践~」独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター、2013年11月、2ページ)と捉えられる。(24ページ)
アクションリサーチは、社会技術の社会への実装が社会的イノベーションを引き起こし、社会(システム)を望ましい方向に変えていく。結果として社会的課題を解決に導く。そのような合理的かつ科学的な道が存在することを確かめるための社会実験であると考えられる。(24~25ページ)

アクションリサーチの特徴
アクションリサーチには、基本的には次の3つの特徴がある。
第1の特徴は、社会的課題の解決を目的とすることである。アクションリサーチの目的は、普遍的な法則や一般化の解を求めるのではなく、社会が直面している特定の問題や課題の実行可能な解決策を見出すことである(16ページ)。
第2の特徴は、解決すべき課題に関わる人たちと研究者が共に研究に参与することである。ステークホルダー(stakeholder:利害関係者)と呼ばれる関与者は、研究者、行政、住民、民間団体、企業などであり、それぞれの立場から課題解決に向けて役割を果たす。
第3の特徴は、アクションリサーチのステークホルダーは、互いの立場や違いを尊重し、互いから学びながら、協働して役割分担をする。それぞれのステークホルダーがもっている情報や力をうまく引き出して繋ぎ、協働する中でそれぞれが発展的に変化し、より創造的な力としてさらに協働の成果を獲得していくように促し、調整することは研究者の役割のひとつである。(7ページ)

アクションリサーチの研究プロセス
アクションリサーチでは、一般の実証・実験研究と異なり、課題解決のためのアクション(解決策の実行)が研究の中核となるので、その前後で研究のプロセスをどう構成するかが重要となる。
アクションリサーチの研究プロセスは、図2(一部調整)に示す①特定コミュニティで解決を要する課題の発見と分析[Plan-1]、②解決のための方策の計画と体制づくり[Plan-2]、③計画に即した解決策の実行[Do]④解決策実行の過程と結果の評価[Check]の4つの段階からなる。(32ページ)
4段階の研究プロセスは、一般に経営管理論などの分野で用いられるPDCAサイクル(Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善))に類似するものであるが、次の点で異なっている。第1にPlan(計画)を2段階(①、②)に分けている点、第2にAct(改善)は次の新しいサイクルのPlanに改善策として含めている点、第3に研究成果の他のコミュニティへの波及のための要件の設定(Transferability)を、以上の4段階で1サイクルを構成する研究プロセスとは別に設けている点である。(32~33ページ)

図2 コミュニティにおけるアクションリサーチの研究プロセス

研究者の役割
アクションリサーチにおいて研究者に期待されるのは、専門的な知識を振りかざし、自分の考えを押し付けて、強引に引っ張っていくのではなく、関与するすべての人の意見に耳を傾け、その意見をまとめていく調整役ないしファシリテーターの役割なのである。しかし、ファシリテーターの役割は、ただ話を聞いて、全体をまとめるだけでは十分ではない。より良い状況の実現に向けてコミュニティを変えていくよう異なる意見の調整を図り、全体の方向付けをしていくことが必要である。
住民のニーズは多様であり、意見の対立もある。状況が変化することによって既得権を失う場合には、変化に対して強固に反対する者もおり、それが旧来からの地域のボス的存在であれば、全体がそれに流されていく恐れもある。研究者には、傾聴能力やコミュニケーション能力に加えて、リーダーシップを発揮することが求められる。(58~59ページ)

 

Ⅴ.草郷孝好編著『市民自治の育て方―協働型アクションリサーチの理論と実践―』

アクションリサーチの概念
アクションリサーチ(実践支援型研究)は、当事者と研究者が協働して、特定の社会問題に向き合い、その問題の解決のために、関係者が協働して行う調査から改善への一連の研究活動を指す。つまり、調査によって問題の所在を明らかにし、次に、その問題を解決するための具体策を検討する。そして、具体策を実際に適用し、その結果を関係者が協働して検証することで、対策の成果と課題を詳らかにし、更なる改善を目指していくという一連の実践的研究手法である。(3ページ)
アクションリサーチとは、組織あるいはコミュニティの当事者(実践者)自身によって提起された問題を扱い、その問題に対して、研究者が当事者とともに協働で問題解決の方法を具体的に検討し、解決策を実施し、その検証をおこない、実践活動内容の修正をおこなうという一連のプロセスを継続的におこなう調査研究活動のことを意味する。(9ページ)

アクションリサーチの特色
実践的研究手法であるアクションリサーチの特色は、(中略)取り組む課題によって異なる面もあるが、ここでは、2つの共通点を記しておきたい。
1)社会進化を志向する現場主義
アクションリサーチは、研究者と当事者(実践者)が二人三脚で、お互いの知見を生かし、実践活動に移すことで、社会発展を追求するという実践的研究であり、いわば、「知識共有と実践連動型の社会進化アプローチ」と言うことができ、既存の研究手法とは一線を画するものである。つまり、アクションリサーチは、実践活動の改善を通じての社会変容(social change)を視野に入れた研究手法なのである。
2)学際的視座の必要性
アクションリサーチは、実践活動の改善を最大の目標に置いて活動する研究手法であり、研究者が実践者と協働するパートナーとなり、密接に、課題や実践内容の検討や評価を行う。そのためには、実践の内容を多面的かつ複眼的に分析・考察し、実践活動の改善方法を実践者の視点から提案し、また、実践活動の評価方法やフィードバックの方法の吟味や選定をしていくことが求められる。(中略)アクションリサーチは、狭い専門分野の中で構築されてきた高度な専門理論の検証のためにあるのではなく、現在進行形で取り組むべき課題の改善を最優先事項とする手法である。したがって、アクションリサーチは、深く狭い専門性の融合よりも、浅く広く異なる専門性の知見を活用するという学際的視座が求められるのである。(10~11ページ)

市民自治力向上と協働型アクションリサーチ
アクションリサーチは、取り組むべき課題、専門分野、アクションリサーチに携わるメンバーの違いによって、さまざまな種類に分けることができる。地域発展や市民自治力との関わりからアクションリサーチの位置づけを検討するには、研究者がどのような立場で当事者と関わりを持って、アクションリサーチに参画するかどうかを把握しておく必要がある。(19ページ)
アクションリサーチに携わる研究者の位置づけが内部者であるか外部者であるのか、アクションリサーチの推進者が内部者か外部者かによって、協働の型が変わってくる。(中略)①「外部者と協働する内部者」――自分自身の実践を研究する際に(あるいは内部主導のプロジェクトで)外部専門家の支援を求めるアクションリサーチ、②内部者と外部者の「相互的協働」――内部者と外部者がティームとして、フル・パートナーシップの関係で進めるアクションリサーチ、③「内部者と協働する外部者」――外部専門家がコンサルタントとして支援するアクションリサーチ、の3つの型を協働型アクションリサーチであると考えられる。(19、20ページ)
社会のしくみが複雑化する現代社会において地域コミュニティを改善していくためには、市民自治力の向上を目指して、地域の住民、行政、企業、NPO、専門家らによる協働実践や協働学習が必要であり、ますます協働型アクションリサーチ活用機会の広がりが想定され。(28ページ)

協働型アクションリサーチの流れ
地域の特定課題を対象とする協働型アクションリサーチの一連の流れは、図3の通りである。(24ページ)

図3 協働型アクションリサーチの循環図

 

Ⅵ.芳賀博編著『アクションリサーチの戦略―住民主体の健康なまちづくり―』

アクションリサーチの概念
アクションリサーチはこれまでの伝統的な実証主義的研究に求められてきた妥当性、信頼性、客観性、一般化とは一線を画した新しい世界観をもつ研究デザインであり、特定の現場に起きている特定の出来事に焦点を当て、そこに潜む課題に向けた解決策を現場の人とともに探り、状況が変化することを目指す研究デザインである。研究者が問題を特定して介入プログラムを提供し、住民は被験者としてそのプログラムに参加するだけの従来型の研究手法とはその理念を大きく異にしている。(20ページ)

アクションリサーチと共同学習
アクションリサーチは、問題を抱えるコミュニティの人々と研究者が課題の発見から計画の作成、解決策の実行、評価のすべての段階への民主的な参加とパートナーシップを基盤としており、参加者すべてにとっての共同学習(colearning)とエンパワメントのプロセスを伴うものである。従来の問題解決型の実証研究は、「介入研究」とよばれているが、研究者をも含む参加者すべてにとっての共同学習、すなわち“学び合い”のプロセスを大切にしているアクションリサーチには、従来的な「介入」の用語は基本的に馴染まない。(20ページ)

住民参加型による住民主体プログラムの開発プロセス
住民参加型による住民主体プログラムの開発プロセスは、10段階からなる。
(1)研究者側のチーム形成
アクションリサーチのプロセスを完結させるためには、複数の研究者がチームを組んで展開することが必要となる。
(2)行政との協力体制の構築
住民参加型のプロセスを円滑に進めるためには、行政職員や保健福祉の専門職(社協など関係する地域の専門職を含む)を加え多くの協力を仰ぐことが必要となる。
(3)関係者へのインタビュー実施
住民主体によって解決すべきコミュニティの課題に関して共通認識をもつために、個別やグループでのインタビューの機会を研究者側が設定することが必要となる。
(4)キーパーソン(メンバー)の支援・信頼関係の構築
コミュニティの住民を巻き込んだワークショップ等、次のダイナミックな展開へと繋げるために、キーパーソンやキーメンバーと行政、研究者の信頼関係を構築することが必要である。
(5)地区住民参加型ワークショップによる住民主体プログラム案の抽出
できる限り多くの住民やコミュニティ関係者を募り、地域課題や理想を共有しながら、地域全体に広がるダイナミックな住民主体の活動の創出を目指すことが望ましい。
(6)抽出されたプログラム案を実践化するための検討会実施
抽出されたプログラム案を実際の活動に結びつけるための検討会を、研究者や行政、キーパーソン(キーメンバー)、コミュニティ関係者などによって繰り返し実施することが必要である。
(7)プログラムの実行と主体組織への支援
研究者や行政は、具体的な活動プログラムとそれを実行するための主体組織(コアメンバー)への側面的な支援を行い、ある段階からその役割をフェードアウトさせることが必要となる。
(8)住民主体運営の強化
住民主体のプログラム活動に参加するコアメンバーや住民の意欲やモチベーションを上げ、主体的運営の強化をすることが必要であり、このことが研究者や行政の役割となる。
(9)研究成果のフィードバック
研究の結果や成果をさまざまな形で関係者と共有するとともに、コミュニティ全体に還元することが必要であり、それは住民活動のスパイラル(螺旋的)な発展と強化を可能にする。
(10)コミュニティへの情報提供による活動の強化と支援
住民主体の活動プログラムをコミュニティに定着させるためには、さまざまな媒体を活用しながらコミュニティへ情報提供することが必要である。(29~35ページ)

 

Ⅶ.安梅勅江編著『エンパワメントの理論と技術に基づく共創型アクションリサーチ―持続可能な社会の実現に向けて―』

アクションリサーチの概念
アクションリサーチとは、当事者が発した課題について、当事者と共に解決に取り組み、検証を行い、よりよい社会を共に創るという一連のプロセスを継続的に行う活動のことである。
アクションリサーチの大きな特徴の1つは、多人称の立場から課題を捉えることで、新たなパラダイム変換を図る可能性を秘めていることである。すなわち、リサーチの基本である客観的に観察する3人称に加え、当事者と直接相対する2人称、当事者の一員としての1人称と、多層の視点を活用する強みがある。当事者に寄り添い、当事者と共に考えることで、新たな視点、これまでなかった方法など、解決の本質に迫るアイディアが生まれるチャンスが拡大する。
当事者と共に実践から出発し、実践の中で研究し、その成果をすぐに実践に適用するのがアクションリサーチである。(6ページ)

アクションリサーチの原則
共に創るアクションリサーチに求められるのは、当事者の価値観とニーズを明らかにし、当事者にできることは何かを見きわめて、環境を整備することである。
当事者の価値観とは、個人、人びと、組織が大切にしている歴史や文化、思いである。ニーズとは、個人、人びと、組織が求めているものである。当事者の価値観やニーズは、外部者の予想と違う場合が少なくない。そこでアクションリサーチの第一歩は、コミュニケーションをとることである。
共創型のアクションリサーチにおいても、当事者が自分ごととして課題を捉え、継続的に自分の力で解決に向けた活動を遂行できる環境を準備する。
すなわち、アクションリサーチの原則は、①当事者の価値観、②当事者のニーズ、③当事者にできること(使える感覚、共にある感覚)の3点を踏まえることである。(15、16ページ)

アクションリサーチに活かすエンパワメント
エンパワメントの原則は次の8点である。①目標を当事者が選択する。②主導権と決定権を当事者が持つ。③問題点と解決策を当事者が考える。④新たな学びと、より力をつける機会として当事者が失敗や成功を分析する。⑤行動変容のために内的な強化因子を当事者とサポーターの両者で発見し、それを増強する。⑥問題解決の過程に当事者の参加を促し、個人の責任を高める。⑦問題解決の過程を支えるネットワークと資源を充実させる。⑧当事者のよりよい状態(目標達成やウェルビーイングなど)に対する意欲を高める。
つまり、エンパワメントの原則は当事者主体である。したがって、当事者に関わる人びと、専門職や上司、仲間の役割は、当事者の力を湧き上がらせ、そのための環境整備をすることである。ここでいう当事者とは、中心的に関わる人、人びと、組織をさす。当事者に関わる人びととは、それを側面から支える人、人びと、組織をさす。(11ページ)

アクションリサーチの評価
共創型アクションリサーチは、エンパワメントの8つの要素に基づき評価できる。
1.共感性(empathy)
自分の意志を持ちながら、他者にも同じように明確な意志があることを認める。他者の意向を受け止め、自らのことと置き換えて他者の意向を理解することができる。それが共感である。(中略)共感性の高いプログラムやメンバー間のつながりは、エンパワメント(自分・仲間・組織・社会・システムなどがもっている力を引き出す、発揮すること)実現への大きな力となる。
2.自己実現性(self-actualization)
自己実現性とは、メンバー一人ひとりが、自己の活動によって自己の思いや価値を実現することができると感じていることである。(中略)自己実現性の高い活動であれば、人びとが自ら参加したいと願い、活動にとどまり続けたいと願うようになる。
3.当事者性(inter sectral)
当事者性とは、メンバー一人ひとりが、人ごとではなく自分のこととして関わっていることの指標である。自分のこととして関わるとは、ゴールの達成に自分の役割があると確信している状態をさす。
4.参加性(participation)
参加性とは、実際にメンバー一人ひとりが、活動に影響を与えていると感じていることの指標である。これは物理的な参加にとどまらない。人びとが何らかの形で、確かに関わっていると思えることの指標である。
5.平等性(equity)
平等性は、メンバーの連帯を促進する上で必須である。メンバーが、活動の内容、フィードバック、メンバーに対する処遇が平等と感じないと、力は湧かず、逆に力を奪う状態に陥る。
6.戦略の多様性(multi strategy)
多様性は、活動の発展に向けた多様な資源の確保につながる。個人、組織、環境にとって大きな強みである。メンバーの多様性に加え、用いる資源の多様性を考慮する。さまざまな人、資源、戦略を複合的に組み合わせて、活動を遂行する。
7.可塑性(plasticity)
さまざまな状況変化に柔軟に対応できるかどうかは、個人や組織の発展に大きな影響を及ぼす。メンバーや環境が変化しても、メンバー、活動、目標達成へのプロセスが前向きに形を変化させながらどこまで対応できるかを評価指標とする。
8.発展性(innovation)
将来への発展性や持続可能性は、メンバーに安定感をもたらす。(中略)活動において、発展へのイノベーションや安定した継続の見通しがあるかを評価指標とする。(25~27ページ)

 

Ⅷ.平井太郎著『話し合いが変わる 地域でアクションリサーチ』

アクションリサーチの概念
「アクションリサーチ」のアクションは実践=実際にやってみること、リサーチは研究=省(かえり)み、考えることを指す。つまり、アクションリサーチは、やりながら考える、省みながらやってみる(「やりながら考える、考えながらやる」27ページ)、といったかたちで実践と研究を循環的に組み合わせ、課題に向き合うことだ。
対応が求められる課題が複雑で深刻であればあるほど、国や専門家の示す対応策を待たず、鵜吞みにせず、現場で試行錯誤を重ねながら打開策を見出していった方が効果的ではないか。(17ページ)
アクションリサーチの核心にあるのは、「話し合いで現場の知恵を引き出す」ことである。それは現場の目線からいえば、「話し合い、知恵を寄せ合い、少しずつ事態を打開する」ことだ。(18ページ)

アクションリサーチの要素
アクションリサーチは、少人数の集団をつくることで、個々人がばらばらのときには期待できなかった運動が起りうること(グループ・ダイナミクス)、そうした運動が起きるのに、現場を尊重する専門家のかかわりが重要であること(トレーニング・グループ)という2つの要素から成り立っている。(39ページ)

アクションリサーチにおける「解答」と「解法」
アクションリサーチでは、一見、遠回りな道筋でも、あえて現場の人びとが試行錯誤を通じて、専門家も納得するような方向性を見出すことを尊重する。(中略)アクションリサーチが解き明かそうとする考え方、すなわち知識は、何をすべきかに関する知識knowing-what(解答)ではなく、どのようにすべきかに関する知識knowing-how(解法)だといわれる。(中略)解答が引き出されること以上に、どうしたらそうした解答に現場の人びと自身が行き着くかの解法が重要なのだ。(68ページ)

アクションリサーチの進め方=解法の要点
アクションリサーチを進めてゆくうえでの要点は、①「目標をうまく共有する」、②「尊重の連鎖」、③「根をもつことと翼をもつこと」の3つである。(132ページ)
(1)目標をうまく共有する
課題からではなく目標(将来の「ありたい姿」)から語り合うことは、①わかりやすいかたちでの現場の尊重につながる、②目標から語り合うと、自分たちの足許が固められ、試行錯誤が「着実な」ものになる(多方面に試行錯誤が広がり、何のためにやっているのかが十分、共有されたものになる)、③目標が言葉にされると、さまざまな人びとを惹きつける力が生まれる。(136、137ページ)
(2)尊重の連鎖
現場に見え隠れする序列(嫁や若者、女性、移住者など地域の秩序で「周辺」にある人たち)に即して、より上位の人びとが自ずとより下位の人びとを「尊重」(「共感」ではない)することが連鎖してゆくプロセスが重要である(「周辺的な存在の連鎖的な尊重」)。(160~161ページ)
尊重の第一歩は、話し合いの相手の立場に立ち、相手の希望や不安に思いを馳せ、自分から動き出すことである。(171~172ページ)
(3)根をもつことと翼をもつこと
地域づくりに求められるのは、いきなり事業を導入する事業導入型サポート=かけ算の支援でなく、まずは市民の声に耳を傾け小さな成功体験を積み重ねる寄り添い型サポート=足し算の支援を経て、かけ算の支援に移行する方法である。(181ページ)
足し算/かけ算の支援を、地域の内側からの目線で捉え直すと、足し算の支援の段階(ありたい姿探し、目標共有、試行錯誤)は「根をもつこと」、かけ算の支援の段階(小さな成功体験、組織的事業展開)は「翼をもつこと」と例えられる。(182、183ページ)

〇筆者の手もとにもう1冊、筒井真優美編著『研究と実践をつなぐ アクションリサーチ入門―看護研究の新たなステージへ―』(ライフサポート社、2010年10月)がある。筒井はいう。「アクションリサーチの定義は、まだ曖昧なまま用いられていることも多いが、どの定義にも共通して用いられている点が3つある。①研究者が現場に入り、その現場の人たちも研究に参加する『参加型』の研究である。②現場の人たちとともに研究作業を進めていく『民主的な活動』である。③学問(社会科学)的な成果だけでなく『社会そのものに影響を与えて変化をもたらす』ことを目指す研究活動である」(5ページ)。
〇また、前述の(Ⅲ)武田丈著『参加型アクションリサーチ(CBPR)の理論と実践―社会変革のための研究方法論―』で、武田はいう。「さまざまな学問領域における参加型のリサーチの代表的な定義の多くに共通する部分を組みあわせると、CBPRとは『コミュニティの人たちのウェルビーイングの向上や問題・状況改善を目的として』、『リサーチのすべてのプロセスにおける』、『コミュニティのメンバー(課題や問題の影響を受ける人たち)と、研究者の間の対等な協働によって』、『生み出された知識を社会変革のためのアクションや能力向上に活用していく』、『リサーチに対するアプローチ(指向)』だといえる」(Kindle版22ページ)。
〇さらに、前述の(Ⅰ)矢守克也著『アクションリサーチ―実践する人間科学―』で、矢守は、「アクションリサーチのキーワードは、『変化』であり、『介入』である。望ましい社会の実現へ向けて『変化』を促すべく、研究者は現場に『介入』していく」(11ページ)という。
〇ここで、こういった点を改めて押さえながら、次のようなことを本稿の「むすびにかえて」おきたい。
〇アクションリサーチは、ある組織やコミュニティに属する人たち(住民、当事者)が抱える社会的課題の解決と社会の変革をめざして、研究者と当事者(実践者)が連携・協働して(パートナーシップによって)継続的に展開する社会実践(取り組み・活動)である。その解決や変革を図るに際しては、当事者や関与者(ステークホルダー)・組織やコミュニティなどのエンパワメント(湧活:ゆうかつ)の実現と強化、そのための「話し合い」(対話によるコミュニケーションを通しての知識や技術の構築・共有)や「協同学習」(共通目標を達成するための相互学習・学び合い)、そして「リフレクション」(研究者と当事者の認識や思考、関係性の内省・省察・振り返り)が必要かつ重要となる。それは、筆者がかねてより議論してきた「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に通底する。そこでは、「当事者主体」「課題解決と社会変革」「パートナーシップ」「エンパワメント」「話し合いと協同学習」「リフレクション」などが重要な要素となる。
〇以上のようなアクションリサーチについての議論から、その推進を図るうえでの問題点や課題として、およそ次のようなことが抽出されようか(漏れや重複があることは承知している)。それは、「まちづくりと市民福祉教育」のそれと重なる。

(1)コミュニティの人びとが抱える社会的課題の解決にあたって、アクションリサーチを導入する必要性や可能性、あるいは妥当性が問われる。現場(フィールド)の実践活動に研究の視点を取り入れることの意義化をどう図るか。
(2)アクションリサーチにおいては、フィールドのローカリティ(場所性)がもつ地域特性が重要な意味をもつ。研究と実践の両面においてローカリティの意義を見出し、そのデザイン化をどう図るか。
(3)研究者と当事者が連携・協働(パートナーシップ)するに際しては、それぞれの資質や能力、関心や意欲・態度などが問われる。それをどう評価し育成・向上を図るか。
(4)研究者と当事者の社会的課題についての認識をはじめ、課題解決や社会変革がめざす目標や目的(最終的なゴール)、それを達成するための具体的方策などについて、違いやズレが生じやすい。それをどう調整し合意形成を図るか。
(5)専門的知識や科学的方法に基づかないアクションリサーチは、コミュニティに悪影響を及ぼす可能性がある。それをどう認識し知識や方法の客観性・厳格性の向上を図るか。
(6)課題の発見から計画、実行、評価、さらには成果の波及に至るアクションリサーチのプロセスや発展段階は多様である。それぞれの段階に適した科学的方法をどう開発・活用し、プロセスの最適化を図るか。
(7)住民の主体的な活動によるアクションリサーチの進め方や、住民やコミュニティのエンパワメントなどの評価は、住民主体で行われる。その際のリフレクション(内省・省察・振り返り)や評価(集約的評価・段階的評価、タスクゴール・プロセスゴール・リレーションシップゴール)のデザイン化をどう図るか。
(8)アクションリサーチから得られた個別具体的な知見やノウハウについて、その評価(妥当性・信頼性)に関する議論が肝要となる。その知見やノウハウのコミュニティへの還元(フィードバック)や普遍化・一般化(他のコミュニティへの波及)をどう図るか。
(9)アクションリサーチの意思決定は当事者の側にあるが、意図的あるいは結果的に、研究者に私的利益をもたらす危険性がある。研究者と当事者が協働型アクションリサーチを進めるうえで、とりわけ研究者に対して研究倫理の徹底化をどう図るか。
(10)まちづくりに関して地域コミュニティが抱える問題は、福祉や教育、医療、看護、介護など多種多様で、複合的であり、多層・多次元にわたる。それをどう横断的・総合的に捉え連携・協働(共働)を図るか。

 

追記(2024年2月16日)
吉本哲郎『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書、2008年11月
結城登美雄『地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける―』農山漁村文化協会、2009年11月
山下祐介『地域学をはじめよう』岩波ジュニア新書、2020年12月
山下祐介『地域学入門』ちくま新書、2021年9月
柳原邦光ほか編著『地域学入門―<つながり>をとりもどす―』ミネルヴァ書房、2011年4月
佐藤滋『まちづくりの科学』鹿島出版会、1999年9月
日本建築学会(佐藤滋ほか)編『まちづくりの方法』(まちづくり教科書 第➀巻)丸善丸善、2004年3月
西村幸夫編『まちづくり学―アイディアから実現までのプロセス―』朝倉書店、2007年4月
織田直文『臨地まちづくり学』サンライズ出版、2005年3月
木下斉『まちづくり幻想―地域再生はなぜこれほど失敗するのか―』SB新書、2021年3月
山崎義人ほか『はじめてのまちづくり学 』学芸出版社、 2021年8月
山崎亮『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる―』学芸出版社、2011年4月
山崎亮『コミュニティデザインの時代―自分たちで「まち」をつくる―』中公新書、2012年9月
山崎亮『ふるさとを元気にする仕事』ちくまプリマ―新書、2015年11月
山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月
小泉秀樹編『コミュニティデザイン学― その仕組みづくりから考える― 』東京大学出版会、2016年9月
鎌田華乃子著『コミュニティ・オーガナイジング―ほしい未来をみんなで創る5つのステップ―』英治出版、2020年11月
室田信一ほか編『コミュニティ・オーガナイジングの理論と実践―領域横断的に読み解く―』有斐閣、2023年8月

 


Ⅱ コミュニティ・エンパワメント:その概念、原則、プロセス


エンパワメントという言葉は、さまざまな分野で使われている。実はその分野ごとに違う定義がある。代表的なものを紹介すると、教育分野では、内発的動機づけ、成功経験、有能感、長所の伸長、自尊感情。社会開発分野では、人間を尊重し、すべての人間の潜在能力を信じ、その潜在能力の発揮を可能にするような平等で公正な社会を実現しようとする活動。ビジネス分野では、権限の委譲と責任の拡大による創造的な意思決定。保健福祉分野では、自分の健康に影響のある意志決定と活動に対しより大きなコントロールを当事者が得る過程、としている。(下記[4]3ページ)

〇筆者(阪野)は、前稿(<雑感>(197)「アクションリサーチ」基礎考―その概念、原則、プロセス等と実践的課題―/2024年2月10日投稿/ ⇨本文)で「アクションリサーチ」の概念、原則、プロセス等について整理するなかで、筆者がかねてより議論してきた「まちづくりと市民福祉教育」の実践と研究に通底する要素として、「当事者主体」「課題解決と社会変革」「パートナーシップ」「エンパワメント」「話し合いと協同学習」「リフレクション」を指摘した。
〇そんな折、本ブログ読者のN氏から、「エンパワメント」の基礎・基本についていくつかの問い合わせをいただいた。本稿は、それに応えるために草したもの(その一部)である。
〇筆者の手もとに、「エンパワメント科学」研究の第一人者である安梅勅江(あんめ・ときえ)の本が5冊ある(しかない)。

(1)安梅勅江著『エンパワメントのケア科学―当事者主体チームワーク・ケアの技法―』医歯薬出版、2004年9月(以下[1])
(2)安梅勅江編著『コミュニティ・エンパワメントの技法―当事者主体の新しいシステムづくり―』医歯薬出版、2005年4月(以下[2])
(3)安梅勅江編著『健康長寿エンパワメント―介護予防とヘルスプロモーション技法への活用―』医歯薬出版、2007年8月(以下[3])
(4)安梅勅江編著『いのちの輝きに寄り添うエンパワメント科学―だれもが主人公、新しい共生のかたち―』北大路書房、2014年11月(以下[4])
(5)安梅勅江編著『エンパワメントの理論と技術に基づく共創型アクションリサーチ―持続可能な社会の実現に向けて―』北大路書房、2021年2月(以下[5])

〇そこで本稿では、「エンパワメント」(とりわけ「コミュニティ・エンパワメント」)の基礎的理解を図るために、前稿と同じような枠組みのもとで、5冊の本からその論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部見出しは筆者)。

コミュニティの概念
「コミュニティとは、目的、関心、価値、感情などを共有する社会的な空間に参加意識を持ち、主体的に相互作用を行っている場または集団である。」
どんな組織や地域にも「人々がともに何かを構築するための単位」があり、それは、「あるテーマに関する関心や問題、熱意などを共有し、その分野の知識や技能を、持続的な相互交流を通じて深めていく人々の集団」である。これが「コミュニティ」の1つの側面である。
コミュニティの特徴(要素)は、➀目的、関心、価値、感情などの共有、②帰属意識、③自主的な運営、④相互作用、である。([2]4ページ)

エンパワメントの概念
エンパワメントとは、元気にする、力を引き出す、好奇心の共感ネットワークを作ることである。([1]2ページ)
エンパワメントとは、元気にすること、力を引き出すこと、きずなを育むこと、そして共感に基づいた人間同士のネットワーク化である。人間は生まれながら自分の身体的、心理的、精神的、スピリッチュアルなウエルビーイングを成就しようとする意欲を持っている。当事者や当事者グループが、自らのウエルビーイングについて十分な情報のもとに意思決定できるよう、ネットワークのもとに環境を整備することがエンパワメントである。和訳すれば、絆育力(きずなを育む力)、活生力(いきいき生きる力)、共創力(ともに創る力)となろう。([2]5ページ)

コミュニティ・エンパワメントの概念
コミュニティ・エンパワメントは、コミュニティやシステムなど、「場」全体の力を引き出す、活性化することを意味する。いわば共創力である。
すなわち、コミュニティ・エンパワメントとは、個人や組織、地域などコミュニティの持っている力を引き出し、発揮できる条件や環境をつくっていくことにほかならない。力には顕在力と潜在力があるが、その両者を引き出すのみでは不十分であり、力を活かす「条件」が整ってはじめてコミュニティ・エンパワメントといえる。
その結果、コミュニティの「自己決定力」を高めていくことが可能となる。コミュニティによる「決定力」「コントロール力」「参加意識」を支える環境整備が基本である。つまり、コミュニティ・エンパワメントを引き起こすには、コミュニティのメンバーの「主体的なかかわり」と「連帯感(組織性)」が必要であり、これをいかに実現するかがコミュニティ・エンパワメントの技術なのである。
実際には、コミュニティ・エンパワメントは「現実の関係性のつながり」と「共感イメージのネットワーク」という2側面を持つ。現実とイメージの両者が車の両輪のようにエンパワメントを推進する。([2]6ページ)

エンパワメントの原則
エンパワメントの原則は次の8点である。([1]4~5ページ)
(1)目標を当事者が選択する
目標は当事者が最終的に選択する。当事者の意思決定が難しい場合は、当事者の代弁者としてふさわしい者が選択する。目指すところがどこなのか、最終決定は当事者であることをつねに意識する必要がある。
(2)主導権と決定権を当事者が持つ
目標を実現するための方法や時期などについて、当事者が希望する方法を最優先する。もちろん選択肢の可能性と限界については、あらかじめ十分に情報を提供する必要がある。
(3)問題点と解決策を当事者が考える
課題を遂行するうえで、どこが障害となってくるのか、問題になるのか、自らが考え、解決法を工夫するよう働きかける。
(4)新たな学びと、より力をつける機会として当事者が失敗や成功を分析する
ネットワークは継続し発展するものである。成功でも失敗でも何か動きがあった後には次の機会のためになぜそうなったのかを当事者が自ら考え、次の動きに備える機会を設ける。
(5)行動変容のために内的な強化因子を当事者と専門職の両者で発見し、それを増強する
「内的な強化因子」とは、当事者が強く必要と認識し、自らの意思で求めようとするきっかけを意味する。行動変容のための価値を自らが発見し、それを強めることで実現していく。専門職はそのための環境の整備に徹する。
(6)問題解決の過程に当事者の参加を促し、個人の責任を高める
「自らの問題解決の能力を増強する」ために、すべての問題解決の過程に当事者がかかわり、自らの責任で判断することで個人の責任を高めていく。
(7)問題解決の過程を支えるサポートネットワークとネットワークと資源を充実させる
問題解決の過程を支えるため、サポートネットワークと資源(人的資源、物的資源、経済的資源、情報資源など)を適切に活用するよう環境条件を整える。
(8)当事者のウエルビーイングに対する意欲を高める
何よりも大切なのは当事者の「やる気」である。「やる気」を育てるための技術を縦横に用いる。

エンパワメントを実現するための指標
エンパワメントを着実に実現するためには、8つの指標を満たすことが求められる。これは評価指標として活用することができる。([3]11ページ)
1.共感性(empathy)
・メンバー間、あるいはメンバーのプログラムへの共感性はどの程度が?
・あるのかないのか、あるなら限定的なものなのか発展的なものなのか?
2.自己実現性(self-actualization)
・メンバー一人ひとりが、どの程度自己実現できていると感じているか?
3.当事者性(inter sectral)
・メンバー一人ひとりが、人ごとではなく、自分のこととしてかかわっているか?
4.参加性(participation)
・メンバー一人ひとりが、どの程度参加していると感じているか?
5.平等性(equity)
・参加者が、プログラムの内容やフィードバックを平等であると感じているか?
6.戦略の多様性(multi strategy)
・ワンパターンではなく、さまざまな戦略を複合的に組み合わせてプログラムを遂行しているか?
7.さまざまな状況への適用性(contextualism)
・参加者や環境が変化しても、プログラムは対応できるか?
※7.可塑性(plasticity)
さまざまな状況変化に柔軟に対応できるかどうかは、個人や組織の発展に大きな影響を及ぼす。メンバーや環境が変化しても、メンバー、活動、目標達成 へのプロセスが前向きに形を変化させながらどこまで対応できるかを評価指標とする。([5]27ページ)
8.継続性(sustainability)
・プログラムには、安定した継続の見通しがあるか?
※8.発展性(innovation)
将来への発展性や持続可能性は、メンバーに安定感をもたらす。活動において、 発展へのイノベーションや安定した継続の見通しがあるかを評価指標とする。([5]27ページ)

エンパワメントの発展段階
エンパワメントの発展段階は、「創造(Creation)」「適応(Adaptation)」「維持(Sustain)」「発展(Enhance)」の4段階(CASEモデル)として捉えることができる(図1)。([5]17~18ページ)
(1)「創造」段階は、何もないところから、新たに活動や関係性が発生する段階である。創造技術、創発技術、変革技術など、新しい活動や関係性の開始に向けた技術が必要である。
コミュニティ・エンパワメントの開始には、まずメンバーがどこに関心があるのかという「テーマ」を共有する必要がある。創造段階においては、メンバーに、「コミュニティ」に参加することの意義に気づいてもらうよう仕向けることが鍵となる。([2]32ページ)
(2)「適応」段階は、発生した活動や関係性が周囲との調整で定常化するまでの段階である。適応技術、調整技術、協調技術、伝達技術など、活動や関係性を軌道に乗せるための環境調整、チーム調整などを含む技術が求められる。
適応段階のコミュニティは、いまだ脆弱であり、適応のためのさまざまな軋轢に耐えなければならない場面が出てくる。メンバー間の結び付きを強め、信頼を築きながら、共通のテーマに対する関心や必要性に対する認識を高める活動の継続が求められる。([2]33ページ)
(3)「維持」段階は、活動や関係性を定常化する段階である。維持技術、実施技術、追求技術、統制技術など、活動や関係性を安定した形で維持するための技術が重要となる。
維持段階では、メンバーの情熱や関心と適合させる形で、テーマを設定し続ける必要がある。維持段階の「コミュニティ」は、共通性と多様性をおびてくる。長期に及ぶ相互交流は、安定性と拡大性を必然的にもたらすからである。実践場面においては、共通の価値のもとにメンバーが集うネットワークを構成することが、維持段階におけるコミュニティ・エンパワメントのかなめとなる。([2]34ページ)
(4)「発展」段階は、さらなる進展に向けて活動や関係性を拡大する段階である。展開技術、影響技術、統合技術など、混沌とした複雑な対象に対して統合的に発展するための技術が求められる。
発展段階には、さらに多くの「テーマ」を巻き込み、「コミュニティ」の拡大にともないメンバーが増加し、「活動」がより多様で複雑になる。そうした状況下においても、信頼感や関係性を維持し、おもしろいと思わせる刺激を失わないようにすること、助け合うための相互交流を図りながら実践を体系化することが鍵となる。([2]35ページ)

図1 エンパワメントの発展段階

エンパワメントの種類
エンパワメントは、対象の種類別に見るとセルフ・エンパワメント、ピア・エンパワメント、コミュニティ・エンパワメントの3種類に分けるこができる(図2)。
セルフ・エンパワメント(self empowerment)とは、当事者自らが力を発揮するものである。自分自身の力をつける、対処能力をつける。それが他者とのかかわり、地域とのかかわりに発展する。
ピア・エンパワメント(peer empowerment)とは、仲間(ピア)同士、グループが力を発揮するものである。ピア・エンパワメントの強みは、自分の「思い」に、ピアの「思い」を加えられる点にある。
コミュニティ・エンパワメント(community empowerment)とは、コミュニティ、地域社会、社会システムが力を発揮するものである。コミュニティやシステムなど、「場」全体の力を引き出す、活性化することを意味する。([1]18~25ページ)

セルフ・エンパワメント、ピア・エンパワメント、コミュニティ・エンパワメントの3つを組み合わせて活用することが、継続的で効果的なエンパワメントの実現に必須である。これをエンパワメント相乗モデル(Empowerment Synergy Model)という(図3)。([5]13ページ))

コミュニティ・エンパワメントは、セルフ・エンパワメント、ピア・エンパワメントに加え、ソーシャルサポート、ソーシャルネットワーク、コミュニティ・オーガニゼーション、コミュニティ心理学などと関連している。
またコミュニティ・エンパワメントと関連付けてコミュニティ能力(community competence)という考え方が生まれ、コミュニティの課題を自ら把握し改善を推進してゆく力量と定義されている。([1]26ページ)

     図2 エンパワメントの種類      図3 エンパワメント相乗モデル

コミュニティ・エンパワメントの目標・戦略設計
コミュニティ・エンパワメントの開始には、まずメンバー間にパートナーシップを築くことが前提である。そして共に問題と目標を見きわめ、対象とする範囲を定めて全体像を把握する。戦略とは、目標を実現するための論理的な手順を定めることである。([2]35ページ)
論理的に目標設定と戦略設計を行うためには、次の6つのステップに沿って順に整理することが有効である(図4)。
このモデルの特徴は、目標と戦略がどのようにプロジェクトを成功させるかの“筋道と根拠”を明示できる点である。プロジェクトが成功するかどうかの可否(whether)に加えて、方法(how)、根拠(why)を論理的に明確にすることができる。([3]27~29ページ)
第1ステップ:もたらしたい成果は?
当事者は何を求めているのか、どんな夢をもっているのか、どうなってほしいと期待しているのか、それを成果として記述する。
第2ステップ:現状の問題点あるいは課題は?
“問題や課題”を明らかにする。この場合の問題や課題とは、当事者が意識化しているものにとどまらない。サポーターや専門職などが気づき、将来的に予測しているが、当事者には意識されていない問題や課題を含む。
第3ステップ:その背景は?
第2ステップにあげられた“問題や課題”について、その“背景”となる要因を記述する。そのコミュニティ自体が抱えている背景に加えて、社会全体にかかわる背景を含めて記述する。
第4ステップ:問題点や課題、コミュニティの背景要因に影響を与える要因は?
“問題や課題”はもとより、“背景”に影響を与える要因を整理する。問題や課題に直接的に影響する要因、背景に影響することで間接的に問題や課題に影響する要因を記述する。
第5ステップ:影響を与える要因を変化させる戦略は?
影響を与えている要因を変化させる戦略を立てる。“変化させられる要因”に焦点を当て、できるだけ数多くの戦略をあげる。また“変化させることが難しい要因”については、放置しておいていいのか、側面から別の方法で間接的な変化を起こすよう試みるのが望ましいのかなどを検討する。“変化させられるのか、させられないのか、させられなくても何らかの手を打つ必要があるのか”を見抜く洞察が求められる。
第6ステップ:戦略の根拠は?
戦略の根拠となる理論や既存研究をあげ、その戦略が適切で効果的であることを示す。

これらの6つのステップの完成後、将来にわたり論理的な流れに沿って戦略を実現するために、“目標、成果、影響要因が十分に定義されているか” “目標が妥当で実現可能であるか”をメンバー間できちんと確認しておく。すなわち、その目標と戦略が効果をあげる根拠をはっきりさせておく。

図4 コミュニティ・エンパワメントの目標・戦略設計の枠組み

コミュニティ・エンパワメントの「コツ」
コミュニティ・エンパワメントには、効果的に展開するための、ある意味で「コツ」とでもいえる7つの原則がある。これらを活用することで、無理なく発展することが可能となる。([3]12~16ページ)
(1)目的を明確にする:価値に焦点を当てる
当事者が何を求めているのか、そのニーズにしたがって“目的を明確に”設定する。そのニーズは当事者の価値を反映している。価値とは、目指す状態を実現するプロセスにおいて、守る必要のある基準や方針などである。一人ひとりの価値を束ねて、基本的な考え方、理念、行動指針、方針などを共有していく。
(2)プロセスを味わう:関係性を楽しむ
“プロセスを味わう”とは、参加メンバー同士の関係性やテーマへの取り組みのプロセス自体を楽しみながら味わう、という意味である。
エンパワメントの最も重要な原則は“ともに楽しむこと”である。そもそもが“共感に基づく自己実現”に大きく依存するからである。
(3)共感のネットワーク化:親近感と刺激感
“共感のネットワーク化”とは、親近感と刺激感の両方の感覚をもちながら、つながっているという感覚をもつことである。親近感とはリラックスした安心感、刺激感とはピリッとした緊張感である。コミュニティ・エンパワメントには、硬軟併せもつこと、すなわち硬い部分と柔らかい部分、安心感と緊張感との両側面をもつことで、より活性化することが知られている。
(4)心地よさの演出:リズムをつくる
エンパワメントの推進には、“変化のリズム”と“秩序化のリズム”のまったく異なる2つのリズムを用いることが有効である。“変化のリズム”は変化を敏感に察知し適応するリズム、“秩序化のリズム”は生み出した適応の方法を秩序化して、より効果的、効率的、拡張的に広げていくリズムである。
(5)ゆったり無理なく:柔軟な参加様式
当事者の参加の状態や役割は、時期により変化してかまわないなど、参加の様式には柔軟な幅をもたせることが原則である。また、さまざまな人が、さまざまな時期に、さまざまな状態で参加することができるようにする。
(6)その先を見据えて:常に発展に向かう
どんな人もコミュニティも、ひとつの状態にとどまっていられない存在である。未来に向かって、その先を見据えながら、常に発展に向かう動きを伴うことで活性化する。硬直化することなく、さまざまなメンバーを柔軟に取り込み、ダイナミックに環境に適応しつつ、より意味のある活動を展開する。
(7)活動の意味づけ:評価の視点
活動の意義を感じるためには、活動の意味づけ、すなわち評価の視点が必要となる。それは、携わっていることの“有効性”すなわち“価値”を明らかにすることである。コミュニティや関係性にどんな意味があるのか、その目標、活動結果、影響力、コストはどの程度なのか、などを知ることで、満足感を得たり、次への見通しを得たりできる。

〇安梅にあっては、「エンパワメント」は、「湧力(ゆうりょく)」すなわち「人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させること」([5]7ページ)である。それはまた、「絆育力」(きずなを育む力)、「活生力」(いきいき生きる力)、「共創力」(ともに創る力)([2]5ページ)である。そこでは、「縁パワメント」「援パワメント」(安梅)の広がりが期待され、管理・運営主体による統制型のコミュニティから当事者主体による自律型のコミュニティへの変革が構想される。そして、「共感」、「共働」(協働)、「共創」が肝要となる。
〇ところで、「絆育力」「活生力」「共創力」の類似語あるいは関連語に、「地域力」「住民力」「福祉力」などの言葉がある。それらは、「地域コミュニティ」や「まちづくり」などとの関わりでも使われる。またときに、それらは「エンパワメント」(セルフ・エンパワメント、ピア・エンパワメント、コミュニティ・エンパワメント)を包含する概念でもある。
〇ここで、旧稿(<雑感>(150)「地域力」「住民力」再考のために―宮城孝著『住民力』のワンポイントメモ―/2022年3月18日投稿/ ⇨本文)を思い起こしておきたい。

付記
忘却の彼方に消え去っていた拙稿に、「地域の福祉力・教育力と福祉教育のネットワーク形成」がある。およそ30年も前のものであり汗顔の至りであるが、あえて<雑感>(150)との関連で付記しておくことにする。

地域の福祉力・教育力と福祉教育のネットワーク形成



出所:阪野 貢『福祉のまちづくりと福祉教育』文化書房博文社、1995年5月、158~173ページ所収。

 


Ⅲ 「まちづくりと市民福祉教育」におけるリフレクション


〇筆者(阪野)の手もとに、「リフレクション」(reflection)に関する次のような文献がある(それしかない)。

(1)「特集/福祉教育・ボランティア学習におけるリフレクション」『研究紀要』Vol.20、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2012年11月


(2) 熊平美香著『リフレクション―自分とチームの成長を加速させる内省の技術―』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2021年3月(以下[2])
(3) 西原大貴著『「自分の可能性」を広げるリフレクションの技術』日本実業出版社、2023年4月(以下[3])
(4) 千々布敏弥著『先生たちのリフレクション―主体的・対話的で深い学びに近づく、たった一つの習慣―』教育開発研究所、2021年11月(以下[4])
(5) 学び続ける教育者のための協会(REFLECT)編『リフレクション入門』学文社、2019年1月(以下[5])

〇「リフレクション」は、企業をはじめ保健、医療、看護、福祉、教育などさまざまな業種・分野(現場)で取り組まれ、研究と議論が行われてきている。本稿ではまず、福祉教育のリフレクションについて、原田正樹の言説[1]を要約する。そこに示された知識や理解、実践を深め広げるためのヒントを得るために、あえてビジネスの世界におけるリフレクションの言説や論点を[2][3]から学ぶ。それは、人材育成や組織開発など、企業の成長や存亡にかかわる厳しいものであることによる。そして、[2][3]からの知見を補強するために、[4][5]についてその一部にふれることにする(抜き書きと要約。語尾変換・統一。見出しは筆者)。

 

Ⅰ.  原田正樹「福祉教育・ボランティア学習における創造的リフレクションの開発」

体験学習とリフレクション
●  福祉教育・ボランティア学習において、共生の福祉観を育むためには、障害や高齢による日常生活動作の疑似体験だけでは不十分であることは指摘されてきた。また、従来から「体験のやりっ放しはよくない」という指摘はなされ、体験学習における振り返りの大切さは意識されてきた。
●  リフレクションのないプログラムは、どれほど目新しいものであっても、それは学習者の生活世界を変えていくものにはならないばかりか、地域社会の関係構造(リレーションシップ)を変えていく力にはなり得ない。
●  振り返りといっても、生徒たちの体験後の感想文・作文が主流で、自らの行為を省みる(内省)内容が中心であった。生徒間で異なった気づきを発見したり、課題を共有化していくことによる「感想文からはじまる学習」こそ、リフレクションのスタートである。
●  ポートフォリオを導入して、(学習指導の過程において実施する)「自己形成評価」を取り入れる実践も増えてきた。ポートフォリオでは、学習者自身が学びを意識化し深めるという点では有効であるが、内省・省察的な振り返りだけでは、地域社会の関係構造の変化にむけた働きかけにつながらない。今日の福祉教育・ボランティア学習は、「社会創出」を指向したプログラムになっていない。

社会創出とリフレクション
●  社会創出とは、自らが地域社会の一員であることを自覚し、共生文化を創造する担い手として、地域社会に働きかけていくことができる力を育むことである。そのためには、体験だけで終わらせないための目的設定やプログラム、そしてそのことを意識したリフレクションが必要である。
●  例えば、ホームレスのことを知った生徒たちには、「これからどうしていくか」を問うことで、自らの行為や生き方を考えていくことになり、さらにホームレス問題を社会のなかでどう解決していくかを考えていく主体になり、その解決にむけてアクションを創り出していくことが望まれる。これが「創造的リフレクション」(creative reflection)である。

創造的リフレクションと主体形成
●  リフレクションは、反省的思考(reflective thought)→行為のなかの省察(reflection-in-action)→批判的自己省察(critical self-reflection)→批判的省察(critical reflection)→創造的省察(creative reflection)という道筋で展開される。
●  「創造的省察」とは、現時点から過去の行為をふりかえるだけではなく、近未来の自分や社会を創り出すという視点から、リフレクションをしていくことである。同時にリフレクションを通して、近未来を創り出していくという指向性を有している。
●  個人の体験をリフレクションによって、何らかの解釈や意味づけをすることで、それを抽象的な概念として普遍化することが重要である。このことを繰り返すことによって、個人の発達を促していくことになる。そこで、個人の具体的な体験からその本質を引き出し(抽象化)、それを言葉(文章)や絵、図などによって表現すること(概念化)――「抽象的概念化」(abstract conceptualization)を行うための(教師による)学習支援が重要になる。
●  リフレクションは、事後学習のプログラムではなく、体験の事前、事中、事後のすべての段階で行われる。しかも、こうしたリフレクションを繰り返し行うことで、新たな理解、新たな応用へと昇華していくという螺旋型の構造を示す。
●  未来志向の創造的リフレクションは、「学習の広がりと深まり」と「プログラムの展開と多様な学びの場」という2つの軸で考えられる。すなわち、一つだけのプログラムだけで学びが終始するのではなく、プログラムそのものも次の段階へと発展し、また様々な学びの場へと広がっていくことで、市民社会や共生文化の担い手としての主体形成が促されていく。
●  創造的リフレクションの構造には3つの特徴がある。①個別プログラムにおける丁寧なリフレクションを積み上げ、長期のプロセスを重視してリフレクションを長期で捉えていること。②当初は提供されたプログラムであっても、本人の意思や成長によって、自ら学びの場を選択したり、創り出すように展開していくこと。③新しい社会創出にむけて、理念的に語るだけではなく、具体的に提案(proposal)・提唱(advocate)することを組み込んだ学習プログラムを重視していくこと、である。これらによって新しい社会創出に向けた主体形成が図られていく。
●  福祉教育・ボランティア学習では、当事者に共感・共鳴し、ときには代弁する「当事者性」の涵養を大切にし、多くの人たちと学びあう「協同実践」を大切にしてきた。こうした学びの関係性を大切にするとともに、学びが連続し、継続していくことで、社会につながっていくという方向性を強くしていかなければならない。そしてそれは1つのプログラムではなく、地域のなかに複数の学びがあることが重要である。そのためには生涯学習の視点からの学びのシステムを検討していかなければならない。

(備考)
原田正樹「福祉教育・ボランティア学習における創造的リフレクションの開発」『研究紀要』Vol.20/日本福祉教育・ボランティア学習学会、2012年11月、41~52ページ/2021年2月24日/本文

 

Ⅱ.  熊平美香著『リフレクション―自分とチームの成長を加速させる内省の技術―』

リフレクションとその技術
リフレクションとは、「自分の内面を客観的、批判的に振り返る行為」(3ページ)である。その目的は、あらゆる経験から学び、未来に活かすこと。経験を客観視することで新たな学びを得て、未来の意思決定と行動に活かしていくことにある。それによって、自分自身の成長だけでなく、他者への理解を深めて成長を促進したり、組織をまとめるリーダーシップを育んだりすることができる。リフレクションの基本となるメソッドは、①自分を知る、②ビジョンを形成する、③経験から学ぶ、④多様な世界から学ぶ、⑤アンラーンする(学んだことを手放す)、の5つである(4~5、11ページ)。また、リフレクションの質を高めるためには、事実や経験に対する自分の判断や意見を、「意見」「経験」「感情」「価値観」(「認知の4点セット」)に切り分けて可視化することが肝要となる。それによって、自分の内面を多面的に深堀りし、柔軟な思考を持つことができるようになる。(20~21ページ)

リフレクション   基本の5メソッド
リフレクションの基本となる5つのメソッドは次の通りである(図1:11ページ)。このメソッドを活用することによって、良質なリフレクションを実践できるようになる。((1)41~43、(2)54~56、(3)73~81、(4)96~101、(5)104~109ページ)
(1) 自分を知るリフレクション
自分を突き動かす動機の源(内発的動機)を知ることで、自分のモチベーションを維持できるようになり、困難な状況でもぶれない自分の軸を持つことができる。動機の源は「価値観」(判断の尺度やものの見方)として現れる。
(2) ビジョンを形成するリフレクション
動機の源(大切にしている価値観)につながる目的やビジョン(「未来に対する意図」)を持つことで、「現状を変えたい」という思いや「現状と理想のギャップを埋めたい」と強く願う気持ちが生まれ、潜在的能力が高まり、困難に打ち勝つエネルギー(「クリエイティブテンション」)が生まれる。
(3) 経験から学ぶリフレクション
「反省」は、変えることができない過去の間違いを確認し、責任を追及したり評価を下したりする。リフレクションは、自らの行動や経験を振り返り、その結果と結びつけることによって、そこから何を学び、どんな教訓や法則を見出したか、自己の内面を俯瞰・客観視する。その学びを通して行動の前提になる持論(過去の経験から導かれた法則)をアップデートし、次の行動にどう活かするかを計画することができる。
(4) 多様な世界から学ぶリフレクション
「対話」は、自己を内省(リフレクション)し、自分の考えに固執せず、評価判断を保留して、他者と共感する聴き方と話し方をいう。それを通して思考を深め、多面的・多角的に物事を眺めることができる。それは、自分の境界線の外にある多様な世界から学び、その学びを自分のものにして自分の世界を広げることが可能になる。
(5) アンラーンするリフレクション
過去の成功体験(学び)と、その経験によって形成されたこれまでのやり方やものの見方が通用しなくなったとき、成功体験の思い出を残して、ものの見方を手放す。その際、アンラーンした(学んだことを手放した)先の世界を理解するために、想像力を働かせる。それによって、新しいものの見方や解決策を見出すことができる。

図1 リフレクション 基本の5メソッド

認知の4点セット
リフレクションの中核となるツール(手段)が「認知の4点セット」である(図2:21ページ)。認知とは、外界にある対象を知覚し、それが何なのかを判断することを意味する。認知(知覚と判断)は、過去の経験により形成された「ものの見方」を通して行われる。「認知の4点セット」では、意見とその背景にある経験、感情、価値観を切り分けて考えることによって、多面的・多角的なものの見方ができ、自己理解が増し、自分を変える力が高まる。(22~23、30~31、(1)~(4)32~39ページ)
(1) 意見:あなたの意見は何ですか?(意見とはある物事に対する自分の主張・考え、学び、思ったこと、をいう)
(2) 経験:その意見の背景(根拠)には、どのような経験がありますか?(経験には読んだり聞いたりして知っていることも含まれる)
(3) 感情:その経験や知識に対して、どのような感情を抱いていますか?(感情は大きくはポジティブかネガティブのどちらかに分類される)
(4) 価値観:そこかに見える、あなたが大切にしている価値観はなんですか?(価値観には判断に用いた基準や尺度、ものの見方が含まれる)

図2 認知の4点セットのフレームワーク

リフレクションの4つのレベル
リフレクションには次の4つのレベル(段階)がある(77~81ページ。図3:80ページ)。
レベル1:出来事や結果について振り返る(体験した出来事や結果そのものを振り返る)
レベル2:他者や環境について振り返る(経験した出来事や結果の背後にある因果関係を考える)
レベル3:自分の行動について振り返る(自らの行動を振り返り、結果と結びつけることによって次に取るべき行動を考える)
レベル4:自分の内面について振り返る(自分の行動の前提にある自分の考えを「認知の5点セット」で振り返り、俯瞰する)

                                                   図3 リフレクションの4つのレベル

〇なお、上述のリフレクションの5つの基本メソッドについて熊平は、次のような「成長が期待できる」と要約する。(225ページ)
①  自分を知るリフレクション
自分の動機の源を知ることで、目的を定める基礎ができる。
②  ビジョンを形成するリフレクション
動機の源につながる目的を持つことで、ビジョンが形成できる
③  経験から学ぶリフレクション
ビジョンを実現するために仮説を立てて行動し、経験から学ぶことができる
④  多様な世界から学ぶリフレクション
未知の課題に取り組むときにも、多様な視点で、創造的な解決策を見出すことができる
⑤  アンラーンするリフレクション
過去の成功体験が通用しないときにも、自らの学びを手放し、新たな視点を持つことで、解決策を見出すことができる
〇いまひとつ熊平は、5つのメソッドは「自律型学習者」になるための・育てるためのメソッドでもあるとして、次の7つの観点からリフレクションの活用方法(自律型学習者を育てる方法)を説く。参考に供することにする。((1)222~223、(2)227~228、(3)241、(4)250~251、257、(5)261~262、(6)278~279、(7)291、293ページ)
(1) 主体性を育む
期待される役割に対して自ら考え行動することではなく、育成相手が自ら定めた目的に向かって考え行動するように支援する。
(2) 自分の頭で考える力を育む
何(What)をどのように(How)からだはなく、育成相手がなぜ(Why)から考える習慣をつけるように支援する。
(3) 期待値で合意する
期待値のズレが生じないように、育成相手が自分のゴール(使命)を正しく理解するように支援する。
(4) 経験・感情・価値観を聴き取り、信頼関係を構築する
経験・感情・価値観について共感による傾聴を行い、心理的に安全な環境づくりを心がけることによって、育成相手との信頼関係を構築する。
(5) 相手の強みを引き出し、褒(ほ)める
自分の強みを活かして貢献することができるように、育成相手が自分の強みを自覚・客観視できるように支援する。
(6) 成長を支援する
相手の行動、その結果、理想の行動について冷静に指摘・評価し、軌道修正(フィードバック)を促すことによって、育成相手の成長を支援する。
(7) 自分の育成力を高め続ける
相手の課題に焦点を当てるだけでなく、自分の選択した指導方法とその前提にある内面を振り返り、自分の育成力(指導の効果)を高め続ける。

 

Ⅲ.  西原大貴著『「自分の可能性」を広げるリフレクションの技術』

リフレクションの本質
リフレクションの本質とは、自分の可能性を知ることである。それは、「心から望む自分の目的地と、ありのままの今の現在地、その道のりに自分の可能性があり、支えとなる仲間がいるということを、心の鏡に照らし映すこと」(9ページ)。その「心の鏡に映る自分を見て、自分自身を深く知る方法」(72ページ)である。その際の重要な視点は、①心から望む(your heart)、②今を生きる(your moment)、③自分と仲間の可能性をつなぐ(your connections)、の3つである(11ページ)。それによって、自分が決めた限界を超えて自分の可能性を知ることができ、その限界に挑戦して、自分の可能性をいかんなく発揮できるようになる。そして、それを通して、「みんなが笑顔で自分の可能性に挑戦し応援し合う社会」(13ページ)の実現が図られるのである。

リフレクションの3つの視点
リフレクションとは、過去に囚われた思い込みや他人の作る限界から自由になって、自分の可能性を知り、広げ、未来を決めて(自分自身の成功・目的地を計画して)、現状ではない「心から望む自分らしさ」を想像し創造する実践である。それによって、これまでの視界が変わる(「見たいものしか見ない」のではなく、「見たいものは見える」)、思考が変わる、行動が変わる、結果が変わる、仲間や組織との関係が変わる、そして人生が変わり、社会が変わるのである。そのプロセスがリフレクションの実践であり、それには3つの視点が重要となる。(カバー・そで、72~74ページ)
(1) 心から望む:your heart
・心から見たいものを決める
・心から向かう目的地を明確にする
・心から大切にすることを多面的に決める
・大切なことはすべて大切にする
・心からの喜び、心からの幸せを実感している自分らしさを知る
(2) 今を生きる:your moment
・感情や判断をやめて、今をありのままに受け入れる
・自分が決めた目的地に向かう現在地を知る
・過去の失敗や感情に囚われることなく、今に感謝する
・浮かれ思い上がることなく、厳しく客観的に現状を受け入れる
・覚悟を持って自分の未来を決め、自分の可能性に挑戦する
(3) 自分と仲間の可能性をつなぐ:your connections
・現在地から目的地までをつなげる自分の可能性を知る
・支えとなる仲間がすでにいることに気づく
・これからの道を拓く仲間との関係を築く
・自分を支える仲間の可能性を信頼する
・自分と仲間の可能性をつなぐ

〇いまひとつ西原は、自分の可能性を最高に発揮している姿を多面的にリフレクションして、言語化することを勧める。すなわち、自分はすでに理想(成功している、目的地に到達している)の状態にあることを思い描き、それを言語化して肯定的な自己宣言(自己暗示、自己説得)を行うこと(アファメーション、affirmation)によって、自己肯定感と自尊心の強化を図り、自分の理想をかなえていく。その際の注意事項として次の7点を挙げる。参考に供することにする。(120~125ページ)
(1) 個人的、主体的な文章にする
自分が主体的に行動できる内容を文章化する。
(2) 他人の評価を含まない
他人の決める評価に依存せず、自分が決める「心から望む自分らしさ」を文章化する。
(3) 意識を向けたい肯定文で書く
「過去に囚われたなりたくない自分らしさ」ではなく、「心から望む自分らしさ」を文章化する。
(4) 実現している自分を現在進行形・現在完了形で表す

「〇〇している」「〇〇になっている」など現在進行形、現在完了形により、過去に囚われないようにする。
(5) 感情(うれしい・楽しい・誇らしい・気持ちいい・穏やか)を含める
「心から望む自分らしさ」を想像して、あらゆることを実現しているときの感情を含めた言語化を行う。
(6) 臨場感と精度を日々高める
言語化したアファメーションにこだわることなく、日々内容を精査して自分らしさを高めていく。
(7) ドリームキラーには教えない
人は人の夢を「現実味がない、前例がない、危険、意味がない」などと判断してしまう。アファメーションは自分だけのものであり、その内容を100%肯定してくれる人とだけ共有する。

 

Ⅳ.   千々布敏弥著『先生たちのリフレクション―主体的・対話的で深い学びに近づく、たった一つの習慣―』

「信念」に囚われる教師
現行の学習指導要領(小学校は2020年度、中学校は2021年度から完全実施、高等学校は2022年度の第一学年から学年進行で実施)に基づいて、「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)の実践が求められている。しかし、それを阻害する教師の「信念」(教師が自らの行動と思考様式に影響を与える価値の一定の体形:28ページ)に次のようなものがある。「教師は学習内容を、子ども間の能力差に配慮して学級集団全体が向上するよいに指導する必要がある」「子どもに対しては学習方法まで含めて、教師がきちんと指導しないといけない」「教師は常に子どもに規律ある行動をさせる必要がある」「学習成績の不振な子どもの指導はやっかいだ」「年間の授業のすすめ方の大枠は、指導書を参考にすべきだ」というのがそれである(17ページ)。こうした信念を変えるためには、すなわち「主体的・対話的で深い学び」を実現するためには、教師が主体的にリフレクションに取り組む必要がある。

マックス・ヴァン=マーネンのリフレクションの3段階論
カナダの現象学的教育学者のマックス・ヴァン=マーネン(Max van Manen)は、リフレクションの3段階論を提唱している。(156~160ページ)
(1) 技術的リフレクション
ある目的を達成するために、汎用的な原則を技術的に応用すること。すなわち、授業のなかで想定と異なる発言が子どもから出てきても対処できず、既存の知識やマニュアルで適応すること。
(2) 実践的リフレクション
個人的な体験、認識、信念などを分析し、実践的な行動を方向づけること。すなわち、想定外の授業の流れや子どもの発言などに対して、当初の授業デザインにこだわることなく、即興的に解釈し、授業デザインを修正しながら授業をすすめること。
(3) 批判的リフレクション
授業において意識すべき目的自体を常に見直す姿勢や考え方を持つことである。すなわち、教師の意図どおりに動かないし考えない子どもを鋭敏に受け止め、指導意図を柔軟に見直すこと。

教師のリフレクションを求める姿勢
授業研究を含めた、教師が授業について構想するあらゆる場面において、技術的リフレクションにとどまることを避け、実践的リフレクションや批判的リフレクションに取り組むことで、教師は子どもの主体的・対話的で深い学びを実現する授業ができるようになる(181ページ)。すなわち、教師にそのための手法(マニュアル)を提示することでは不適切であり、教師が自ら主体的にリフレクションするように促す戦略が必要になる。教師のリフレクショを促すのは手法ではなく、姿勢である(210ページ)。

 

Ⅴ. 学び続ける教育者のための協会(REFLECT)編『リフレクション入門』

熟考するリフレクション
リフレクションは、「反映する」「反射する」が第一義的な訳である。ただ、人のあり方に関わる場合には「熟考する」「省察する」という訳があてられる(2ページ)。リフレクションは、さまざまな業種・分野で用いられてきている用語であり、そのため必ずしも同一の意味・概念で使用されているわけではない(4ページ)。ここでは、リフレクションとは「自身の行為を規定するような自分自身の内面的で暗黙的な知識や技術、感受性・価値観などの要素に焦点をあて(映し出し)、その内容を吟味すること」(5ページ)をいう。すなわち、リフレクションは、「間違いをただすために」行うものではない。自分自身がどのように考え、どのようなことを願いとしてその行為を行ったのか、それは本当に望むものだったのかということを確認するというプロセスである。リフレクションはあくまでもプロセスであり、自分自身を映し出す営みであり、他者によって間違いを指摘されたり、変えられたりするものではない(8ページ)。[坂田哲人]

コルトハーヘンの「ALACTモデル」と「8つの問い」
オランダの教師教育研究者であるフレット・コルトハーヘン(Fred Korthagen)は、学習者の行為と省察の理想的なプロセスを5つの局面に分けている(図4:40ページ)。第1局面:行為(Action)、第2局面:行為の振り返り(Looking back on action)、第3局面:本質的な諸相への気づき(Awareness of essential aspects)、第4局面:行為の選択肢の拡大(Creating alternative methods of action)、第5局面:試行(Trial)、頭文字をとってALCT(アラクト)モデルトと呼ばれているのがそれである。
第1局面は、学習者が行為つまり具体的な経験を積み、学びのニーズが生まれてくる局面・段階である。ここでは、コーチ役(教育者)には、学習者の学びのニーズをもとにリフレクションを進めていくとともに、学習者が新しい学びのニーズに気づくようにするための働きやスキルが必要になる。
第2局面は、第3局面とともに「内的方面に向かう局面」であり、行為の振り返りを行ってその本質に気づくことが期待される。そのためにここでは「8つの問い」が用意される。その構造は、左半分は自分を視点に、右半分は相手を視点にした問いである。さらに、問1と問5は「行ったこと」(doing)、問2と問6は「考えたこと」(thinking)、問3と問7は「感じたこと」(feeling)、問4と問8は「欲したこと」(wanting)に関する問いである。この「8つの問い」を自分に発しながら行為を振り返り、コーチ役(教育者)と2人で行う場合には、コーチ役(教育者)が学習者に対して問いかけるのである。
第3局面では、自分と相手との間、あるいは自己の内面と行為との間にある不一致や悪循環に向き合い、「違和感の背景にあったものごとの本質」「そこにあった大切なこと」など(すなわち「本質的な諸相」)を深く探っていく。この局面・段階で学習者に自己の経験に向き合わせるには、コーチ役(教育者)の受容と共感、誠実さが大切になる。
第4局面では、第3局面の本質的な気づきを踏まえて「外的方面に向かう局面」であり、「次はこうしてみたい」「今後はこうしてみよう」という思いを持つことになる。そこで、コーチ役(教育者)は、複数の方法を学習者に比較・検討させるなどしながら、よりよい解決方法を見出せるように支援することが求められる。
第5局面では、第4局面で選んだ解決方法やそこから得られた知見をもとに、学習者が新たなアプローチを試みる局面・段階である。この局面・段階で積んで具体的な経験は、第1局面の「行為」となり、次の新たなALCTモデルの循環が生まれ、この循環を繰り返すことで螺旋的にリフレクションの質が高まっていく。(38~45ページ)[中田正弘]

図4 ALACTモデルと「8つの問い」

〇なお、リフレクションは、振り返るタイミングによって、行為の最中に振り返る「行為のなかのリフレクション」(reflection in action)と行為の後で振り返る「行為についてのリフレクション」(reflection on action)に分けられる(ドナルド・アラン・ショーン(Donald Alan Schön))。行為後のリフレクションはさらに、自分ひとりで行為を振り返る「セルフリフレクション」(self-reflection)と、他者にフィードバック(指摘・評価)をもらう「コレクティブリフレクション」(collective reflection)に分けられる。リフレクションの類語の「フィードバック」は、自己の行動や思考に対して他者による指摘・評価をもらうことを言う。「反省」は、自己の失敗やミスについて振り返り、今後に活かすことを言う。付記しておく。
〇例によって、以上の言説や議論を「まちづくりと市民福祉教育」に引き寄せて考えてみると、取りあえず次のようなことが再確認・再認識される。先ず、単なる「振り返り」や「内省」ではなく、「熟考するリフレクション」に留意したい。「まちづくりと市民福祉教育」におけるリフレクションは、その目的や背景、具体的な取り組みの内容やその成否の要因、その成果や学びなどを、取り組みのそれぞれの段階において振り返り、話し合い、熟考する過程である。そこからまた、新しい「まちづくりと市民福祉教育」が始まる。原田がいう「創造的リフレクション」である。
〇この点を別言すればこうである。「まちづくりと市民福祉教育」はその具体的な取り組みを通して、それに関わる個々人の連帯と協働(共働)、自己理解と自己実現、相互支援と相互実現などを促し、市民性の育成や共生文化の担い手としての主体形成を図る。また、自己の「まちづくりや市民福祉教育」の場面や思考を段階的あるいは螺旋的に、しかも批判的に振り返ることによって客観的な判断力や洞察力を得て、新たな視点(考え方)で継続的に「まちづくりや市民福祉教育」に関わることになる。
〇また、それによって住民は、能動的で理性的・自律的な生活主体や権利主体として、個人的責任だけでなく社会的責任を負うべき存在(市民)として自らを形成し、まちづくりの集団的・組織的な活動や運動に関わることになる。その際には、その活動や運動を確かで豊かなものにするための、個人的主体のみならず、集団行為主体や運動主体としてのあり方が問われることになる。こうした市民主体のあり様の多様化や複雑化、その融合化が「成熟」であり、いわゆる「市民的成熟」である。その点で、「まちづくりと市民福祉教育」における「市民的成熟のためのリフレクション」が求められることになる。
〇さらに、当然のことながら、まちづくりは一人ではできない。まちづくりは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、連携・協働の場である地域社会の具体的な生活課題を解決することを第一義とする。そこでは、住民自治の理念のもとで、地域・住民の縦・横の人的ネットワークと「参加と協働」(共働)のあり方が厳しく問われることになる。リフレクションには、複数の人々や集団、組織で行うことによって、より効果的な自己理解と自己成長を促し、メンバー相互の信頼感の構築(再構築)や協働関係の向上に寄与するグループリフレクション(group reflection)がある。「まちづくりと市民福祉教育」において、「グルーブによるリフレクション」が問われるところである。
〇いまひとつ、「まちづくりと市民福祉教育」は、学校教育(定型教育)をはじめ、社会教育(不定型教育)や家庭教育(非定型教育)、青少年教育や成人教育など、あらゆる場と機会を通じて取り組むことが肝要である。そこでのリフレクションは、あらゆる教育機会や教育機関との空間的・水平的な関係性のなかで、また生涯の各期における教育との時間的・垂直的な関係性のなかで実施される。「まちづくりと市民福祉教育」における「生涯学習としてのリフレクション」である。
〇もうひとつ、「まちづくりと市民福祉教育」は、高齢や障害の理解や高齢者・障がい者の疑似体験、それに基づく「共感する力」や「思いやりの心」の育成・醸成に留まるものではない。それは、一人ひとりの地域住民(市民)が抱える地域生活課題に焦点を当てて個人の関係構築や組織化を進め、課題解決に向けた具体的な、地域生活に根ざした地域貢献活動や政策提言、政治的活動などを行う。それによって、社会変革のための地域・社会の福祉文化の醸成やウェルビーイングの実現が図られることになる。その点で、「まちづくりと市民福祉教育」におけるリフレクションは本質的に、「社会変革のためのリフレクション」である。
〇以上、「まちづくりと市民福祉教育」における「5つのリフレクション」、すなわち「創造的リフレクション」「市民的成熟のためのリフレクション」「グループによるリフレクション」「生涯学習としてのリフレクション」「社会変革のためのリフレクション」、である。

 


Ⅳ ケアリングコミュニティと福祉教育


ケアリングは「世話をする」「面倒を見る」「思いやる」といった行動を指し、人々の相 互関係の中に広く見られるものである。人々が共存するために不可欠のものであり、看護の中核となる重要な概念でもある。「ケアリング」と「ケア」(さまざまな人によって行われる世話、配慮、介護、子育てなど)は、いずれも人に対する気遣いや配慮、関心といった極めて近い意味を 持つが、「ケアリング」はケアを受ける人と提供する人が相互に支え合い、成長する点に言 及しているところに特徴がある。/ケアリングにおいて、ケアを提供する人は、その相手を大切に思い、成長や自己実現に 向けて、専心する。そしてそのプロセスを通じて、ケアを提供する人自らも成長を遂げる。 ケアリングは社会が人間らしさを保持していく上でなくてはならないものであり、看護の道徳的理念といわれるゆえんでもある。(日本看護協会『改訂版 看護にかかわる主要な用語の解説』2023年11月、12ページ)

〇超少子高齢・人口減少・多死社会が進展するなかで、家族機能の低下や社会的紐帯の希薄化、社会的孤立の深刻化などがすすみ、複合化・複雑化した地域・社会生活上の諸問題が顕在化している。そんななかで、 従来の地域の “支え合い”ではなく、意識的に活動する住民による新しい地域づくりが求められている(下記[1]18~19ページ)。本稿で取り上げる「ケアリングコミュニティ」(caring community)とは、看護の領域で用いられてきたケアリングの考え方をコミュニティにまで広げて展開しようという考え方である(下記[3]16ページ)。
〇筆者(阪野)の手もとに、大橋謙策編著『ケアとコミュニティ―福祉・地域・まちづくり―』(講座ケア 新たな人間-社会像に向けて 第2巻)(ミネルヴァ書房、2014年4月)という本がある。その「カバー・そで」は、その内容を次のように紹介する。「本書は、地域福祉の視点からケアを再検討するとともに、ケアリングコミュニティ構築のための実践方法を提起することを目的として企画されたものである。ケアリングコミュニティとは、福祉サービスを必要とする人を社会的に排除するのではなく、地域社会を構成する一人として包摂し、日常生活圏域の中で支えていく機能を有しているコミュニティのことである」。
〇以下では、この本に収録されている19本の論文のうちから、ケアリングコミュニティについての基礎的論考と、そこから福祉教育の必要性について言及する次の2本の論文について、その論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

(1) 大橋謙策「はしがき」「社会福祉におけるケアの思想とケアリングコミュニティの形成」『同書』ⅴ~ⅶ、1~21ページ(以下[1])。
(2) 原田正樹「ケアリングコミュニティの構築に向けた地域福祉-地域福祉計画の可能性と展開―」『同書』87~103ページ(以下[2])。
併せて、原田正樹の次の論文にも注目する。
(3) 原田正樹「ケアリングコミュニティの構築をめざして」『月刊自治研』第59巻696号、自治労サービス、2017年9月、16~22ページ(以下[3])。

 

Ⅰ. 大橋謙策のケアリングコミュニティ論

人間存在の本質に「ケアする」「ケアされる」関係性がある
一般的な人間の生涯を通して考えてみると、われわれ人間は誕生期と終末期において“ケアされる”時期なくして生きることができない。まして、心身に障害を有したり、一時的に病気になった時には他者のケアなくして生きていくことができない。/それにもかかわらず、なぜ今ケアが問われているのであろうか。/逆に、ケアが必要な生涯を誰しもが送るにもかかわらず、なぜ他者へのケア、“ケアする”ことが問題になるのであろうか。/そもそも人間は1人では生きて行くことが困難な動物であり、集団の中でこそ生きるすべを獲得し、言語や文字を発達させてきたのではないか。だとすれば、“ケアする”、“ケアされる”関係性というものは人間にもともと求められていた機能だったのではないか。([1]2ページ。以下[1]省略)

「ケア」は自己実現を図ることに関わる営みである
ケアとは、子育ての時期のケアを考えても、終末期のケアを考えても、要は人間としての尊厳を護り、自己実現を図ることに関わる営みである。/とすれば、それは自己実現や人間としての尊厳をどう考えるかに関わっている命題である。ケアの目的は、人間が自立生活を送る上で必要な要件が何らかの要因で停滞、欠損、不足している時に支援を受けて、自己実現を図ることであろう。(8ページ)

「ケア」の考え方の構成要素として「6つの自立」がある
自立生活に必要な要件(条件)には次の6つがある(8~11、17ページ)。(そのような自立・自己実現の支援がケアの内容や方法を生み出し、そのための地域住民による意図的・意識的、主体的・能動的な助け合い(ケアリング)のコミュニティが「ケアリングコミュニティ」の形成と、住民と行政の協働による「地域共生社会」の創出につながる。:阪野)
① 労働的自立・経済的自立:労働をとおして社会とつながり、労働をとおしてものを創造する喜びを得ることは人間の成長に重要な要件である。労働の結果が経済的自立につながる。
② 精神的・文化的自立:人間として自らの快・不快の感性をもとにして、自ら感じたことを自己表出させる文化的自立の問題が大切である。思うところを多様な方法で感情表出するのは人間そのものの権利であり、人間だけに許される営みである。
③ 身体的・健康的自立:生活のリズムを保ち、生きる気力、生きる意欲、喜怒哀楽を豊かにもてることである。24時間の生活リズムをもち、社会関係・人間関係を築き、社会的に生きていくことは身体的・健康的自立のもっとも基本である。
④ 生活技術的・家政管理的自立:自らが生きていく上で生活を整える、日常生活を維持していく上での技術・知恵がなければ生きていけない。自立した生活を送る上では家政管理能力や生活技術能力がなければ生きていけない。
⑤ 社会関係的・人間関係的自立:地域にある社会関係・人間関係はすべて助け合いの精神に満ちた“麗(うるわ)しい”ものではない。プライバシーもなければ、生活共同体での役割を果たせなければ厳しい対応が求められる。そのような日本の文化のもとでは、意図的・意識的に社会生活上、良好な社会関係・人間関係を構築する必要がある。
⑥ 自律的意見表出的・契約的自立:日本の文化は、自分の意見を表出し、お互いがそれを認め合い契約する文化とはなっていない。日本の稲作農耕構造は、「世間体」を気にし、“長い物には巻かれろ”、“出る釘は打たれる”、“物言わぬ農民”などの文化をつくり出してきた。そのような文化的背景のなかで、1人の人間として自律的に意見表出し、社会的に契約する能力(自立)が求められる。

「ケアリングコミュニティ」をつくる考え方を「コミュニティソーシャルワーク」という
「コミュニティ」とは一般的に、そこに帰属している人のアイデンティティ(同一性の感情)が豊かにあり、そこに帰属している人が安心できる空間・組織であり、その生き方を支える社会システム、生活環境である。/「コミュニティ」は、「ケア」と本来密接不可分の関係にあり、生活の基盤を成している実質的な基礎である。(3ページ)/ケアリングコミュニティとは、福祉サービスを必要とする人を社会的に排除するのではなく、地域社会を構成する1人として包摂することであり、要支援者を日常生活圏域の中で支えていく機能を有している地域社会をいう。(ⅴページ)/日常生活圏を基盤として行政の制度的サービスと近隣住民のインフォーマルサービスとを結びつけて、地域住民の自立生活を支援する新しいケアリングコミュニティをつくる考え方はコミュニティソーシャルワークと言われる。(19ページ)

ケアリングコミュニティの実現には「地域福祉の4つの主体形成」が重要になる
(ケアリングコミュニティの実現を図るためには4つの地域福祉の主体形成を図ることが重要になる。:阪野)第1は、地方自治体においてどういう福祉サービスを整備するべきかという地域福祉計画策定主体の形成であり、第2には制度化された福祉サービスをどう有効に、合理的に、過不足なく利用するかという地域福祉サービス利用主体の形成であり、第3は地域から差別・偏見をなくし、福祉サービスを必要としている人を支える福祉コミュニティをどうつくるかという地域福祉実践主体の形成であり、第4は対人サービスとしての社会福祉を支える社会保険制度をどうつくるかという社会保険制度の契約主体の形成である。(15ページ)

地域福祉の“主体形成に向けての学習”が必要である
このような主体形成や市民活動は自然発生的にはつくれない。そこには“主体形成に向けての学習”が必要である。フランス市民革命が、「博愛」という哲学、あるいは社会契約という理念を具現化させていく上で、成人の“理性”が重要で、その“理性”を身につけるための成人の社会教育を公費で行うべきであるとした点は注目に値する。/住民か生活者としてエゴイスティックなままでなく、地方自治体のあり方に参画できる「市民」としての力量、あるいは国のあり方も含めて「博愛」と「社会契約主体」を身につけて行動できる「公民」としての主体形成が今求められている。(15~16ページ)

 

Ⅱ. 原田正樹のケアリングコミュニティ論

ケアリングコミュニティは「5つの構成要素」によって成立する
ケアリングコミュニティとは、「共に生き、相互に支え合うことができる地域」のことである。それは、地域福祉の基盤づくりである。/そのためには、共に生きるという価値を大切にし、実際に地域で相互に支え合うという行為が営まれ、必要なシステムが構築されていかなければならない。こうしたケアリングコミュニティは、①ケアの当事者性(エンパワメント)、②地域自立生活支援(トータルケアシステム)、③参加・協働(ローカルガバナンス)、④共生社会のケア制度・政策(ソーシャルインクルージョン)、⑤地域経営(ローカルマネジメント)といった5つの構成要素により成立している。([2]100~102ページ)
① ケアの当事者性:地域福祉の当事者とは、そこに暮らしを営む住民自身である。とはいえ、すべての地域住民が「当事者意識」をもっていないのも事実である。そこで、福祉を学びあう場(福祉教育)が必要になる。
② 地域自立生活支援:地域包括ケアシステムが強調されている。コミュニティケアをどう地域で総合的に展開していくか、その際に専門職や機関だけではなく地域の福祉力を活用していく視点が必要である。
③ 参加・協働:ケアリングコミュニティの特徴は、相互に支え合う互酬性に基づくコミュニティである。そのためには完全な「参加」と新しい公共を創り出す「協働」のしくみ(統治)が必要である。
④ 共生社会のケア制度・政策:ケアに関する制度・政策介護保険だけのことではない。社会的排除と社会的包摂のあり方を政策としてとらえ、共生社会をめざした必要な政策、制度を推進していかなければならない。
⑤ 地域経営:ケアリングコミュニティを推進していくためには、必要な財源や人材が不可欠である。社会資源の開発や新たなビジネスモデルを創り出す必要(民間活力の活用:阪野)もある。

ケアリングコミュニティには「相互実現的自立」の自立観が据えられる
ケアリングコミュニティでは「相互に支え合う地域」を大切にする。その根底には相互実現的自立(interdependent)という新しい自立観を据えなければならない。20世紀、自立という考え方を拡大し多面的にとらえ、自立した近代的な市民像を描いてきた。自立プログラムでは依存(dependent)から自立(independent)へ、すなわち援助を受けなくてすむようになることを目標にしてきた。しかし人間は弱い存在である。その存在の弱さを認めあい、自己実現ではなく相互実現をしていく生き方が問われるようになった。/注目されているinterdependentとは、心理学の分野では依存的自立などと訳されている。codependent(共依存)とは異なり、相互によりよく生きていこうというベクトルを有する。地域福祉の分野では「相互実現」という概念が使われてきた。/個人が他からの援助を受けずにすむように自立させるのではない。お互いが支え合いながらより良く生きていけるような自立観の転換が求められているのである。ケアリングコミュティニで求める自立観はこの視点が基本である。([3]18~19ページ)

【備考】
ケアリングコミュニティと「相互実現的自立」

2021年4月から始まる重層的体制整備事業(社会福祉法第106条4)で必須とされる「相談支援」「参加支援」「地域づくり」を一体的に実施するということは、換言すればコミュニティソーシャルワークの展開である。それが可能になるシステム構築が求められる。申請主義からどう脱却し、アウトリーチや伴走型支援を重視し、参加によって役割や出番を創出することで社会関係を育み、生きる意欲(エンパワメント)を喚起する。そうした個人の存在が承認されるような地域、あるいは持続可能な地域社会にしていくために、新たな住民自治(多様性と多機能性)による地域づくりをめざす。こうしたテーマは、地域福祉における地域福祉ガバナンスや地域福祉マネジメントの研究課題でもある。/地域共生社会でいうところの「支え手側と受け手側に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割を持ち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティ」とは、まさにケアリングコミュニティのことである。「支える、支えられる」という一方的な関係ではなく、「相互に支え合う」地域を構築する。そのときに基軸になるのは、従来のような個人のなかで自立を捉えるだけではなく、関係性のなかで自立を考えるという、相互実現的自立(interdependence)という考え方である。相互実現とは、お互いによりよく生きるという関係性を基盤にした自立観であり、伴走型支援といった方法につながる。これらは地域福祉の原理研究につながる(原田正樹「地域共生社会政策と地域福祉研究」『日本の地域福祉』第34巻、日本地域福祉学会、2021年3月、2ページ)。

〇大橋が指摘するように、「主体形成」や市民活動は自然発生的なものではなく、それに向けての目的意識的な「学習」が必要になる。地域福祉の主体形成は、①地域住民が地域の社会福祉問題を発見する・気づくことから始まり、②その問題や課題を“ひとごと”ではなく“自分ごと”と認識し、③それを“みんなごと”として共有・共通認識し、④その問題や課題の本質をみんなで理解・認識し、⑤組織的かつ変革的・創造的に課題解決を図ることのできる“力”を獲得し、⑥それを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。⑦そしてその過程を振り返り(リフレクション)、⑧そこから得た知見をもとに次の新たなアプローチを試みる(「主体形成のサイクル」)。その主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる“善行”にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することにもなる。また、主体形成の強調は、その一方で国や行政の責任や役割の矮小化、地域住民への“丸投げ”を招くことになる。福祉教育は“両刃の剣”になりかねない、といわれるところである。
〇主体「形成」について別言すればこうである。「形成」は、人間が社会的生活そのものによって “形づくられる” 過程である。それは、第一次的には社会的・自然的環境によって行われる。とすれば、「形成」は「学習」なしには成り立たず、「学習」は「形成」に不可欠なものとして位置づけられる。また、「学習」と「教育」は、「学習のないところに教育はない」「教育は学習の指導である」(勝田守一)という関係にある。そこから、地域福祉の「主体形成」にはその前提に福祉「学習」・福祉「教育」があり、それを必要とするのである。
〇原田が指摘するように、ケアリングコミュニティの形成主体である地域住民には、「当事者意識」を持つことが求められる。その際、「当事者」(concerned parties)という言葉には、「当事者」と「非当事者」を区分する、「当事者」の内在化と外在化を促す危険性がある。とりわけ「援助者」と「非援助者」、「教育者」と「学習者」という関係性のそれにあっては、見下したり偉ぶったりする言動をとる「上から目線」の関わりになることがある。その点において、その使用については慎重でありたい。また、当事者そのものではない「当事者性」という概念や言説(原田正樹、松岡廣路)があるが、それは、周囲の人が「当事者」をどのように理解・認識し、その関係性がどれだけ深まったかを示すものである。従ってそれは、「当事者」と「非当事者」という二項対立的な考え方を解消するものではない。
〇ケアリングコミュニティの形成主体としての地域住民は、その地域に暮らす生活主体である。その生活主体は、生活者として多様な境遇・立場や程度の異なる生活技術能力などをもつ存在である。その点において、社会的排除や包摂の対象とされる高齢者や障がい者、外国籍住民(などの要支援者)も同一である。また、その生活は社会関係・人間関係のなかで営まれるが、それゆえに「当事者」は、生活の多様な場面・局面において固定的あるいは個別的に生成・変容する。すなわち、「当事者」(生活者)は、その生活や人生において、ある問題の「当事者」であっても、別の問題では「非当事者」である(になる))存在でもある。要するに、「当事者」は、その人を取り巻く周囲との関係性や社会的状況によって一様ではなく、変容する存在である。しかもそれは、すべての地域住民の生活や人生に設定されるものである。そこから、地域に住む「すべての人が当事者である」という意識を持ち、「当事者問題」を地域・社会全体で引き受けることが必要かつ重要となる。その際の理念が、ノーマライゼーション(normalization)やインテグレーション(integration)、ソーシャルインクルージョン(social inclusion)である。
〇これらは、筆者がかねてより、とりわけ福祉教育の場面において、“ふくし”とは、“一人ひとりの しあわせ をめざすものであり、すべての人にかかわるものである”。“ふくし”とは、“ふだんの くらしの しあわせ”について、“みんなで考え みんなで汗をながすこと”である、と言ってきた所以である。またここで、高島巌の言葉を思い起こす。“ボランティアのはたらきは ともに考え ともに学び ともに生活しあうことなのだ”。“人間はみな ボランティアする権利をもっているのだ その権利は人間にだけあたえられた 楽しき権利なのである”。(「まちづくりと市民福祉教育」について論究する際、「ボランティア」を「ボランティア・地域活動」や「まちづくり」「市民活動」などに置き換えることも可能であろう。それは、「福祉の心は地域のなかで育つ」ことを唱えた高島の思想や実践に通じようか)高島は、児童養護施設「双葉園」園長であり、児童憲章草案起草者の一人であった。「わが国ボランティアの先駆者」「ボランティアの旗手」と評される(『ボランティア』第28巻第2号、富士福祉事業団、1993年6月)。例によって唐突であるが、付記しておく。

 

補遺
―ケアリングコミュニティ構築のためのコミュニティソーシャルワークの機能―

“無縁化社会”、“限界集落”になった地域を「福祉コミュニティ」や「ケアリングコミュニティ」に再構築していくためには、行政と住民の協働を媒介するか触媒機能であるコミュニティソーシャルワーク機能がもとめられている。([1]20~21ページ)

 


Ⅴ コミュニティ・オーガナイジングと学習・トレーニング


〇筆者(阪野)の手もとに、韓国住民運動教育院著、平野隆之・穂坂光彦・朴兪美編訳著『地域アクションのちから―コミュニティワーク・リフレクションブック―』全国コミュニティライフサポートセンター、2018年3月。以下[1])という本がある。韓国住民運動教育院(CONET:Korea Community Organizing Network for Education & Training)は、地域・社会変化(「地域が社会を変化させる」)のために住民・コミュニティリーダー(住民リーダー)・コミュニティワーカーに対して、「コミュニティ組織化」(Community Organizing:CO)の教育・トレーニングを行う団体・専門家集団である。1996年に設立されている(後注)。コミュニティワーカーとは、資格や地位ではなく、コミュニティを組織化し「住民による、住民の」運動を促進し活性化する人をいう(60ページ)。
〇[1]は、CONET(コネット)による「コミュニティ組織化」とその教育・トレーニングの経験のエッセンスをまとめたものであり、コミュニティワークの振り返り(リフレクション)や点検のガイドブックである。そして、次のように言う。「コネットが長年こだわり続けてきた『コミュニティ組織化によるコミュニティ運動』は、日本で私たちが目指してきた『住民主体の地域福祉』にほぼ置き換えて考えることができる」(5ページ)。
〇[1]でいう「コミュニティ組織化」(地域組織化)とは、地域の「課題を解決するために住民を組織化し、その結集した力の実体として『コミュニティ組織』(住民組織)を立ち上げること」である。それは、住民自身が自分の生活と地域の現実を正しく認識し、住民意識をもつことから始まる。そして、住民自らが課題解決のための力(変化の力)を結集し、自らの行動・活動で自治的なコミュニティ組織を立ち上げるのである(40、42ページ)。「コミュニティ運動」(住民(自治)運動)は、「コミュニティ組織化によって形成されたコミュニティ組織が新しい地域をつくっていく動き(Movement)」をいう。それは、「住民のための」運動ではなく、「住民による、住民の」運動であり、住民自らが組織化された力で地域・社会を変えていく組織的な行動・活動であり運動である(39、40ページ)。
〇CONETのプロジェクトは、日本の社会福祉協議会のようにその地域に拠点をもってコミュニティの組織化を行うのとは異なり、パラシュート(落下傘)のようにコミュニティワーカーが見知らぬ地域に降り立って始まる(10ページ)。
〇当然のことながら、「地域づくり」には「コミュニティ組織化」が必要になる。CONETにあっては、その「コミュニティ組織化」は、コミュニティ組織とコミュニティリーダー、そしてコミュニティワーカーの三者の主体同士が協働して取り組む。その際、実際のコミュニティ組織化は、コミュニティワーカーではなく、コミュニティリーダーによって行われる。すなわち、コミュニティリーダーこそが、住民とコミュニティワーカーの間にあって、またコミュニティワーカーの参加・協力を得ながら、住民を組織化し、コミュニティ組織を立ち上げ、動かしていく。そして、そのコミュニティ組織は、コミュニティリーダーによって活性化したり停滞したりするが、コミュニティ運動の主体となり、新しい地域づくりに取り組むのである(13、21ページ)。コミュニティワーカーは、この(潜在する)コミュニティリーダーを見出し、リーダーシップを育成し、コミュニティ組織のリーダーとなるよう支援することが求められる(13ページ)。
〇このように、コミュニティ組織、コミュニティリーダー、コミュニティワーカーの三者の主体が協働することで、コミュニティ組織がコミュニティの問題や課題を解決できる活動・運動体となることができるのである。[1]の言説の核心はここにある(21~22ページ)。
〇表1は、「コミュニティ組織化の準備と行動」について、4過程、10段階に区分して表示したものである(23ページ。一部削除修正)。この10段階における主語は、コミュニティリーダーとコミュニティワーカーの協働である。

表1 コミュニティ組織化の準備と行動

〇表1の「コミュニティ組織化の4過程10段階」について、その要点をメモっておくことにする(22~24、47~49ページ。抜き書きと要約)。

コミュニティ組織化の4過程10段階
コミュニティ組織化を図るのは、住民とコミュニティリーダーとコミュニティワーカーである。そのうち、コミュニティリーダーが中心的な存在であり、民主的リーダーシップによって重要な役割を果たす。コミュニティ組織化は次の4過程10段階を経る。

第1過程/予備
第1段階:現場に入る
コミュニティワーカーは、組織化の目的や目標を立てて、自分が活動する地域を選択する。現場に入って、必要な基礎情報を把握する予備調査を実施し、その結果を分析・整理し、住民との出会いを構想してコミュニティ組織化の準備過程に入る。

第2過程/準備
第2段階:住民と出会う
コミュニティワーカーは、住民との出会いと関係の形成を通して、地域問題を綿密に分析し、住民にとって切実な問題を探り出す。その過程のなかで問題解決に向けて、コミュニティリーダーとしての可能性をもっている人は誰なのかを観察することが求められる。
第3段階:組織化のスケッチを描く
コミュニティワーカーは、住民が最も切実に感じ、行動する意欲をもっている課題を一つ選択し、解決のための暫定的な案として住民行動の目標と計画を用意することが求められる。

第3過程/組織化の行動
第4段階:コミュニティリーダーシップを形成する
コミュニティワーカーは、コミュニティリーダーシップの集いを開催・継続しつつ、学習・トレーニングを通して潜在的なコミュニティリーダーが自身のリーダーシップを成長させるように導くことが求められる。
第5段階:行動計画を立てる
コミュニティワーカーは、調査研究、目標と行動方針の設定、計画策定、役割分担のようなプロセスが進むように、潜在的なコミュニティリーダーの集まりに参加し、ファシリテーターとして支援することが求められる。
第6段階:住民を集める
潜在的なコミュニティリーダーは、直接住民と会い、課題について情報や問題意識を共有する。そして、住民自らが立てた目標と行動計画について話し合う。コミュニティワーカーは、潜在的なコミュニティリーダーが住民との出会いや対話、動機づけなどの方法を開発するように支援することが求められる。
第7段階:住民が行動する
潜在的なコミュニティリーダーは、住民を正式な集い(公聴会、討論会、学習会など)に招き入れ、正式なリーダーの役割を遂行し始める。具体的な行動計画を提案し、議論しつつ計画を実践していく。コミュニティワーカーは、潜在的なコミュニティリーダーが意思決定や実践の力量を身につけるように支援することが求められる。
第8段階:評価する
潜在的なコミュニティリーダーは、住民とともに実践結果を点検・評価し、新たな実践課題を確認し計画を用意するために、評価の場をつくり、その場を進行するファシリテーターとなる。コミュニティワーカーは、潜在的なコミュニティリーダーが住民力の結集という観点で評価できるように支援し、住民の関心が継続的に広がるようにすることが求められる。

第4過程/組織の立ち上げ
第9段階:省察する
省察を通して、継続して自分たちの生活課題や関心事を解決していくために、コミュニティ組織が必要だということを確認する。コミュニティリーダーは住民の振り返りを促し、コミュニティワーカーはコミュニティリーダーの活動を支援しながら、住民が組織の立ち上げを進めるように支援することが求められる。
第10段階:組織を立ち上げる
コミュニティリーダーと住民が、持続可能な活動のために、自分たちのコミュニティ組織を準備する(組織の名称や定款の準備、設立総会の開催など)。コミュニティワーカーは、住民の積極的な参加によって組織が立ち上げられるように、そのプロセスにおいてコミュニティリーダーを支援することが求められる。

〇次に、表1の第3過程「組織化の行動」、第4段階「コミュニティリーダーシップを形成する」、その核心キーワードである住民の「学習・トレーニング」に焦点を当て、要点をメモっておくことにする(120~126ページ。抜き書きと要約)。

住民の学習・トレーニング
住民は、「学習・トレーニング」を通じて生活課題や地域の現実について理解を進める。それによって、住民意識が形成され、コミュニティ組織化の過程に登場する。「住民の学習・トレーニング」は、コミュニティ組織化の必須過程であり、コミュニティ組織を発展させる重要な過程である。

Ⅰ.   住民の学習・トレーニングとは?
(1)住民が自分の生活と地域の現実を自ら理解していくことである
住民は学習・トレーニングを通して、自分の生活課題をさまざまな角度からみることができる。住民の学習・トレーニングは、知識を伝えたり方法を教えるのではなく、住民が自分の生活と地域の現実を自ら理解していくことである。
(2)住民が地域の課題を見つけ、行動を組織していくことである
住民の学習・トレーニングは、住民が自分の生活と地域の現実を理解するにとどまらず、地域の課題を見つけ、それを解決するための行動へと実践意志や力量を組織化していくことである。
(3)住民が住民意識を高めながらリーダーシップを開発していくことである
住民の学習・トレーニングは、住民が学習・トレーニングによって住民意識や自尊感情・自負心を高め、潜在的なリーダーがリーダーとしての意識と資質(リーダーシップ)を開発していくことである。
(4)住民がコミュニティ運動の新たな可能性と方向をつくっていくことである
住民は学習・トレーニングを通して想像力を発揮し、可能性や希望を見出していく。住民の学習・トレーニングは、住民がコミュニティの組織化についての意識をもって、コミュニティ運動の新たな可能性と方向性を創っていくのである。

Ⅱ.   住民の学習・トレーニングの原則
(5)住民の学習・トレーニングの主体は住民である
住民の学習・トレーニングの必要性の認識から企画・実行・評価・フォローアップの過程に至るまで、その主体は住民である。
(6)住民自らが発言し行動する
コミュニティ運動は住民自らの発言と行動によって展開されることから、学習・トレーニングの過程も住民自らが発言し行動することであり、教える主体と学ぶ主体が同じである。
(7)住民の学習・トレーニングは現場で日常的に起こる
住民の学習・トレーニングは、住民が生きる具体的な暮らしの現場で日常的に起こる。コミュニティ組織化が起っている現場こそがよい教科書である。
(8)住民の学習・トレーニングを持続的に展開する
住民の意識の成長と新しい活動が継続されると、コミュニティ運動も持続可能な形で発展する。住民の学習・トレーニングは終わったり完成されるものではなく、循環的・持続的に展開されるものである。

Ⅲ.   住民の学習・トレーニングのテーマ
(9)テーマはコミュニティ組織化の現場から出てくる
テーマは、住民の生活やニーズに基づくものであり、自分の価値・思い・イメージ・希望などと現実生活との関わりにおいて具体化される。
(10)コミュニティ組織化の過程がテーマをつくる
テーマは、コミュニティ組織化を促す手段であり、地域・生活理解から意識の高揚や資質の向上、課題の解決などの組織化の過程において作り出される。
(11)住民の変化や成長へと導くテーマを選ぶ
住民がコミュニティの組織化の過程に参加し、自分の変化を経験するなかで、自己開発やリーダーシップ開発、ビジョン開発など、住民自身の変化や成長を導くテーマが見出される。
(12)テーマは多様な方法で扱われる
テーマは一つの方法ではなく、評価・省察、具体的な行動・実践、対話・討論、共同のチームワーク、文化活動など、多様な方法で扱われる。

Ⅳ.    住民の学習・トレーニングの方法  1
(13)住民一人一人と出会いながら行われる
コミュニティリーダーやコミュニティワーカーは、住民が自分の生活と地域問題を客観化できるよう、一人一人の住民と出会いながら学習・トレーニングを進行させる。
(14)住民の集まりで行われる
コミュニティリーダーやコミュニティワーカーは、住民の集まりに参加したり住民の集まりを設けて、住民とともにテーマについて話し合い、学習・トレーニングを行う。
(15)コミュニティ組織化のプログラムとして行われる
コミュニティ組織化の過程のなかで、住民の意識を発展させコミュニティ運動の可能性を追求するために、地域の状況や住民の考えが反映された体系的なプログラムを開発し実施する。
(16)住民の実践的な行動を通じて行われる
学習・トレーニングは、住民の実践的な行動を通じて行われる。実践的な行動は、学習・トレーニングの過程であり、結果でもある。

.    住民の学習・トレーニングの方法  2
(17)体験と事例に基づいて進められる
現場の事例を振り返ったり互いの体験を分かち合うことによって、学習・トレーニングは多様なテーマで、ダイナミックに展開される。
(18)生活のなかのさまざまな出来事が学習の契機となる
住民が生活のなかで経験する多様な出来事自体が重要な学習・トレーニングのテーマになり、その出来事について話し合い、分析・整理することによって住民は多くのことを学ぶ。
(19)住民の利害関係をテーマとして進められる
自分の利害関係に関連している生活上の関心事をテーマとして取り上げると、住民の自発的・積極的な参加は高まる。
(20)コミュニティ組織のビジョンをめざして進められる
自分の生活や地域に対する期待や恐れは、コミュニティ組織のビジョンをつくる基礎になる。期待を具体化するテーマや、恐れを克服するテーマを取り上げながら、住民の学習・トレーニングを進める。

〇[1]のうちから「コミュニティ組織化の4過程10段階」と「住民の学習・トレーニング」をピックアップし、その要点をメモったのは、例によって我田引水的であるが、筆者がかねてより議論してきた「まちづくりと市民福祉教育」について考えるための新たなヒントを得たいがためでもある。
〇ここで、筆者がかつて関わった東京都狛江市社協と岐阜県郡上市(旧・八幡町)社協における地域福祉活動計画の策定と市民福祉教育実践について思い起こす。狛江市社協の地域福祉活動計画(「あいとぴあ推進計画」1990年3月策定)とそれに基づく「あいとぴあカレッジ」(1991年5月~)、郡上市社協の地域福祉活動計画(「みんなでやらまいか八まん福祉文化プラン21」2001年3月策定)とそれに基づく「福祉文化カレッジ」(2003年6月~)がそれである。その資料(拙稿)の一部を付記しておきたい。それは、本稿で取りあげたCONETの考え方と一部通底するところがあると考えるからでもある(阪野貢『市民福祉教育の探究―歴史・理論・実践―』みらい、2009年10月、205~231、241~246ページを参照されたい)。

Ⅰ.    “ あいとぴあカレッジ ” と学習プログラム

“ あいとぴあカレッジ ” の学習テーマおよび学習内容

Ⅱ.    “ 福祉文化カレッジ ” と学習プログラム

福祉文化カレッジの学習目標

“ 福祉文化カレッジ ” の学習テーマおよび学習内容

 


「韓国住民運動教育院」については、次の文献を参照されたい。
朴兪美「韓国住民運動教育院の地域組織化のトレーニング」『日本福祉大学研究紀要―現代と文化』第140号、日本福祉大学福祉社会開発研究所、2020年3月、56~67ページ。

付記
〇筆者にとって市民福祉教育実践と研究の原点でもある “ あいとぴあカレッジ ” については、実に多くのヒトやコトが思い出される。足のご不自由なTさんに  “ あいとぴあカレッジ ”の講師をお願いしたとき、「そんな暇はない。タバコ販売をして細々と暮らしている。われわれのそんな生活を何とかしてほしいものだ!」とすごい剣幕で怒られたことを思い出す。Tさんからはその後、講師を承諾していただき、緊張しながらも地域におけるご自分の生活の様子や問題についてリアルな講話をいただいた。それを一つの契機にTさんは、市民を対象にした「福祉の集い」などにも積極的に参加し、彼らを取り巻く地域生活の現状と課題について訴えられるようになる。大変身である。“ あいとぴあカレッジ ”では、学習者(受講者)とともに、講師の意識変革と態度変容を期待(企図)していたのである。
〇 “ 福祉文化カレッジ ” では、親子で受講された娘さんとお母さんのコトを思い出す。地元の高校で「福祉」を学ぶ娘さんは、「まちの “ ふくし ” についてもっと知りたい」という願いから、お母さんは、「お世話になっている地域に貢献したい」という念(おも)いから受講されたのである。その後娘さんは、卒業後は地元に戻って介護福祉の仕事をしたいという希望を抱いて、県内の福祉系大学に進む。お母さんは、カレッジで新たに知り合った仲間たちとともにボランティア活動に取り組むことになる。地元の福祉系高校 ⇄  “ 福祉文化カレッジ ” ⇨ 福祉系大学 ⇨「地元福祉」、という循環(進路)を描いて、高校福祉科教育と高大連携や、学校と地域の連携・協働(地域とともにある学校、地域に根ざした学校福祉教育)などについて考えていたのである。

 

渡邊一真/排除・同質化・リモート化する社会における福祉教育・ボランティア学習を考える

出所:渡邊一真/排除・同質化・リモート化する社会における福祉教育・ボランティア学習を考える/『ふくしと教育』通巻36号、大学図書出版、2023年9月、22~25ページ。
謝辞:転載許可を賜りました日本福祉教育・ボランティア学習学会と大学図書出版に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所 渡邊一真

三ツ石行宏/福祉教育の探究―歴史・理論・実践―


 

Ⅰ 福祉教育史研究の現状と課題


















出所:三ツ石行宏/福祉教育史研究の現状と課題/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.22、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2013年11月  、68~76ページ。
謝辞:転載許可を賜りました三ツ石行宏先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅱ 福祉教育は都合よいボランティアの

養成方法なのか?

―福祉マンパワー施策及び福祉教育の概念規定に焦点をあてて―

 

Ⅰ.  はじめに

「ボランティアは都合よく利用されているだけではないか?」そのように、ボランティアに対して懐疑的な見方をする人は少なくはないだろう。たとえば、東京オリンピックのボランティア募集は「やりがい搾取」と批判され、ブラックボランティアとして揶揄されたことは記憶に新しい。社会福祉領域のボランティアについては、「『とり込まれた』ボランティア活動は、本人たちの意図とは関わりなく、結果として『安上り福祉』を支えることになってしまった」(田代, 2007, p.120)という指摘もある。

本学会(日本福祉教育・ボランティア学習学会)として着目すべき指摘は、阪野(1993, p.24)による「社会福祉の世界においては、いま行政によるボランティアの包絡化が進み、マンパワー対策の一環としてボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進が図られている」というものであろう。篠原(2020, p.103)はより踏み込んで「福祉教育はややもすると国家責任としての社会福祉の転嫁の流れ、在宅福祉サービスの流れ、地域福祉計画などの計画化の流れに位置づけられ、無償ないし廉価な人材の育成に資する側面をもつ点への注意が必要である」と指摘をしている。

つまり、福祉マンパワー施策と福祉教育との関連が問われている。先行研究において、管見の限り、福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて歴史的に明らかにした先行研究はない1)。そのため、本研究の目的は、まず福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて、その政治的含意を歴史的に明らかにすることにある。日本社会福祉学会事典編集委員会編『社会福祉学事典』を見ると、「マンパワー・人材」に1章分、割かれているほど社会福祉領域で重視されていることが分かる。マンパワー・人材育成と教育は切っても切り離せない関係でもあるため、研究意義があると考える。福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについての結論を先取りすれば、福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけは、「ボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進」(阪野, 1993, p.24)が主たる側面であったことにあり、それを実証的に跡付けることになる。ただ「ボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進」は果たして、どのような意味を持っているであろうか。ネガティブなことであるのか、またネガティブな側面があったとしても、それを克服しうる方策はないのであろうか。本研究では、その問いについて考察することを、もうひとつの目的として設定する。

Ⅱ.  研究方法

研究目的の1つ目である、福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて、その政治的含意を歴史的に明らかにすることにおいて、分析方法は次のものを採用する。すなわち「福祉教育を所与のものと予め設定するのではなく、(中略)答申や通知等において 、福祉教育がどのようなものとして語られているかを丹念に描き出していくこと」(三ツ石, 2013, p.74)を採用する。つまり、福祉教育の概念規定をいったん宙づりにして「言説に着目し、(中略)政治的含意を明らかにする」(三ツ石, 2013, p.74)方法を採用する。分析対象は社会福祉領域における先行研究で福祉マンパワー施策として俎上に載せられた施策とする。福祉教育の用語が全国的に最初に明文化して使われたのは、1968年全国社会福祉協議会による「市町村社協当面の振興方策」においてである(原田, 1996, p.75)。そのため、分析対象となる福祉マンパワー施策は1968年以降のものに限定する。

研究目的の2つ目は、「ボランティアの確保と養成のための福祉教育の推進」は果たして、どのような意味を持っているのか、ネガティブな側面があったとすれば、それを克服しうる方策はないのか、といった問いについて考察することである。研究目的の1つ目として、福祉マンパワー施策における福祉教育の政治的含意を明らかにするため、言い換えれば行政側の意図を明らかにするため、その概念規定については宙づりにしてきたが、研究目的の2つ目では実践者・研究者側から検討・構築されてきた福祉教育の概念規定を踏まえてボランティア(主にネガティブな側面)について考察を加える。

なお、本学会の論文投稿に関するガイドラインを遵守する。本研究のような文献研究は、当該ガイドラインにおいて、引用・剽窃に関する規定(第4条)、多重投稿・二重投稿に関する規定(第5条)、人権への配慮(第6条)が主として関わると考える。具体的には本研究では自説・他説の引用に際して引用箇所等を明示し、また引用に際して一次資料を確認して引用・剽窃に関する規定(第4条)を遵守している。本研究は、他誌への同時投稿、既刊論文(および既刊論文の内容との重複)ではないため、多重投稿・二重投稿に関する規定(第5条)を遵守していると考える。論文投稿前に、差別的あるいは不適切と考えられる用語はないかを改めて確認し、人権への配慮(第6条)を遵守していると考える。

Ⅲ.  福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第Ⅲ章では、福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたかについて歴史的に明らかにする。戦後の福祉マンパワー問題は、大橋(1992)によると4期に区分される。福祉教育が福祉マンパワー施策にどのように位置づけられてきたのかを、基本的にはこの大橋(1992)の4つの時期区分に沿って検討していく。

1.  第1期および第2期の福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第1期は、社会福祉主事の養成・確保をどのようにするかが問われた戦後混乱期から1960年代末までの期間である。この期は、行政整備と生活保護を中心とした経済的給付としての公的扶助が社会福祉における最大の課題であり、公的扶助を担当する職員の養成と研修が大きな課題であった(大橋, 1998, p.26-28)。第1期は前述のように、検討の範囲外である。

第2期は、「社会福祉施設緊急整備5ヵ年計画」に基づく社会福祉施設増大に見合う社会福祉施設職員の確保および養成に関する課題であり、おおむね1970年頃から1985年頃までである。この時期は、福祉事務所に就職することを想定している社会福祉主事の養成と、“社会福祉施設の近代化”の中で社会福祉施設に就職する生活指導員、ケアワーカーの養成のあり方とが混在している時期である(大橋, 1998, p.27)。この5ヵ年計画は、もともとは「新経済社会発展計画」にもとづき、その策定が求められ、1970年の中央社会福祉審議会の「社会福祉施設の緊急整備について」という答申を踏まえて策定されたものであり、保育所の整備や老朽社会福祉施設の建て替え等をその内容としていた。しかし、「社会福祉施設の緊急整備について」・「社会福祉施設緊急整備5ヵ年計画」のいずれについても、福祉教育という用語は使われていない。

ただ、第2期は、施設福祉から在宅福祉への転換期でもあるが、その転換に伴い、従来の社会福祉職員施策に関する問題では登場しなかったマンパワーの課題がクローズアップされてくる。それは、在宅福祉の固有の職員の確保、資質の向上と共に、ボランティアが重要なマンパワーとして捉えられたことである(小笠原, 1988, p.27)。たとえば、全国社会福祉協議会は1977年に「在宅福祉サービスに関する提言」を行い、在宅福祉サービスの重要性を強調し、それを担うマンパワーとしてボランティア等の確保と増員の必要性を指摘した。その「在宅福祉サービスに関する提言」であるが、「マンパワー対策」という項目の中に「福祉教育」の文言が見られる。すなわち「ボランティアの確保にとって,社会福祉の情報の提供と福祉教育の充実は不可欠である」という箇所である。この期から、福祉マンパワー施策の中でボランティアがマンパワーとして捉えられ、福祉教育が用語として使われ始めるのである。本節をまとめると、第2期の福祉マンパワー施策から、ボランティアがマンパワーとして捉えられ、福祉教育が用語として使われ始めるのである。

2.  第3期の福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第3期は、1987年に成立した「社会福祉士及び介護福祉士法」に基づく資格制度とその養成が問われてくる時期である(大橋, 1998, p.27)。「社会福祉士及び介護福祉士法」は、1986年に東京で開催された国際社会福祉会議で日本に社会福祉専門職制度のないことが指摘されたり、日本社会事業学校連盟が大学における専門職員養成のガイドライン作りを進めていたこと等を背景に、成立した法律である(大橋, 1997, p.29)。『社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集』(全3巻)を確認しても福祉教育の用語は出てこない。また「社会福祉士及び介護福祉士法」制定に変わった当時の厚生大臣のオーラル・ヒストリー(『斎藤十朗オーラル・ヒストリー』)を確認しても、福祉教育に関わる文言は出てこない。「社会福祉士及び介護福祉士法」を含む、この期の施策において、福祉教育の用語は見られない。

3.  第4期の福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけ

第4期は、ゴールドプランとの関係で問われているマンパワー問題である(大橋, 1992, p.26)。ゴールドプランにおいて、数値目標が立てられたことにより、それだけのマンパワーを確保できるのかという問題が浮き彫りになったのである。厚生省は介護需要の増大に伴い顕在化した福祉マンパワー問題等を検討するために「保健医療・福祉マンパワー対策本部」を設置し、1991年に中間報告をとりまとめるのである(大橋, 1997, p.29)

(1)  ゴールドプランなどの計画等と福祉教育
ゴールドプランでは、在宅福祉推進10ヵ年事業としてホームヘルパー10万人等、また施設対策推進10ヵ年事業として特別養護老人ホーム24万床棟といった整備目標が設定され、さらには「寝たきり老人ゼロ作戦」の展開、在宅福祉等の整備の充実のための「長寿社会福祉基金」の設置などが掲げられた(秋元ほか編, 2003, p.123)。ただゴールドプランには福祉教育という用語は見られない。ゴールドプランは、1994年度中に出揃った地方の「老人保健福祉計画」で策定された整備目標を踏まえて作成しなおされ、1995年度からは「高齢者保健福祉推進10か年戦略の見直しについて(略称・新ゴールドプラン、以下この用語を使用)」になった。そして、この新ゴールドプランについては、福祉教育の用語が見られる。

新ゴールドプランにおいて、「介護基盤整備のための支援施策の総合的実施」として、「1.高齢者介護マンパワーの養成・確保対策の推進」から、「7. ボランティア活動・福祉教育・市民参加の推進」が7点挙げられている。そのうち7点目を見たらわかるように、福祉教育の用語が見える。そこでは、「ボランティア活動・福祉教育の推進」として「学童・生徒のボランティア活動の一層の推進を図る」とされている。

新ゴールドプランの後には、1999年に「今後5か年間の高齢者保健福祉施策の方向(略称・ゴールドプラン21。以下、この用語を使用)」が出された。ゴールドプラン21でも、福祉教育の用語は見られる。ゴールドプランにおいて、「今後取り組むべき具体的施策」として「(1) 介護サービス基盤の整備」から「(6) 高齢者の保健福祉を支える社会的基礎の確立」まで挙げられている。そのうち6点目の「高齢者の保健福祉を支える社会的基礎の確立」であるが、「長寿科学の推進」「国際交流の推進」に並んで「福祉教育の推進」が掲げられている。「福祉教育の推進」については「介護福祉士等の福祉専門職の養成を推進。あわせて、学童、生徒のボランティア活動を推進」とされている。「学童、生徒のボランティア活動を推進」となっており、新ゴールドプランの文言からの変化は見られない。

上記のように、高齢者関連の施策である新ゴールドプラン、ゴールドプラン21に福祉教育の用語は見られる。一方、児童関連の施策はどのようであろうか。1994年の「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について(略称・エンゼルプラン。以下この用語を使用)」、1999年の「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について(新エンゼルプラン。以下この用語を使用)」といった子育て支援計画はどうであろうか。エンゼルプランは,「子育てと仕事の両立支援の推進」など5つの基本的方向と「多様な保育サービスの充実」など7つの重点施策が示すものである2)。エンゼルプランの具体化として,大蔵・厚生・自治の3大臣合意により「緊急保育対策等5か年事業」が策定された。「緊急保育対策等5か年事業」において,保育の量的拡大等を図るために数値目標が設定され,計画的に推進することとされた。このエンゼルプランに福祉教育の用語は見られない。新エンゼルプランでは,「保育サービス等子育て支援サービスの充実」等8つの施策目標が示された3)が、福祉教育の用語は使われていない。つまり、エンゼルプランおよび新エンゼルプランといった子育て支援計画には福祉教育の用語は見られない。その他、障害者関連の施策はどのようであろうか。1995年の「障害者プラン――ノーマライゼーション7ヵ年戦略」は、リハビリテーションの理念とノーマライゼーションの理念を踏まえつつ、「バリアフリー化を促進するために」等の7つの視点から施策の重点的な推進を図るものである4)。しかしながら、障害者プランには福祉教育の用語は見られない。ここまでまとめると、高齢者に関わる福祉マンパワー施策には福祉教育の用語は見られるが、児童・障害者に関わる福祉マンパワー施策には見られないということである。

介護需要の増大に伴い顕在化した福祉マンパワー問題等を検討するために設置された「保健医療・福祉マンパワー対策本部」は、1991年に中間報告を取りまとめるが、その中に「次代を担う学童、生徒をボランティア予備軍として位置づけ、福祉マインドを醸成するための、福祉教育を推進する」(厚生省大臣官房政策課編, 1991, p.58)という文言がみられる。本項をまとめると、次のようになる。つまり、福祉マンパワー施策は、高齢者に関わるボランティア養成の方策として福祉教育という用語を使ったのである。

(2)  「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」と福祉教育
1992年に社会福祉事業法及び社会福祉施設職員退職手当共済法の一部を改正する法律(略称・福祉人材確保法、以下この用語を使用)が公布された。1995年には、福祉人材確保法に基づき、「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」(以下、福祉人材確保指針として使用)が告示された。この福祉人材確保指針も、福祉マンパワー施策に含まれる(潮谷, 2014, p.709)ので、この項で検討する。

福祉人材確保指針であるが、社会福祉事業は人を相手とし人が行うサービスであること、および将来的に労働力人口が減少すると予想されることから、従事者の処遇の充実、社会的評価の向上等、就業の促進および定着化を図るような施策について示している(秋元ほか編, 2003, p.401)。福祉人材確保指針において、次の2箇所で福祉教育という用語が使われている。1つは「第2 人材確保の目標と課題」に現れ、もう1つは「第4 国及び地方公共団体が講ずる支援措置」に現れている。以下、各々について、厚生省社会援護局の解説も見ながら検討する。

表1 「国及び地方公共団体が講ずる支援措置」の1つ

表1から福祉教育の位置づけの要点は次の2つに捉えられると思われる。1つ目は、社会福祉・社会保障に関する給付やサービス等の理解のための手段である。2つ目は、ボランティアという福祉のすそ野を広げるための手段である。なお、ボランティアは福祉専門職の前段階という位置づけでもある。続いて「第4 国及び地方公共団体が講ずる支援措置」に現れる福祉教育について検討する。

表2 「国及び地方公共団体が講ずる支援措置」の1つ

表2から福祉教育の位置づけの要点は、福祉の仕事に従事する者の社会的評価向上の手段であることが分かる。ただ、表1にも言えることであるが、「国民の社会福祉に関する活動への参加の促進を図るための措置に関する基本的な指針」を参照せよとある。

「国民の社会福祉に関する活動への参加の促進を図るための措置に関する基本的な指針」は福祉マンパワー施策ではないが、「福祉の担い手」について示している箇所があるので、その箇所について検討する。当該箇所は次のとおりである。

「福祉の担い手の養成確保の観点からは、総合的かつ体系的にサービスを提供す  るために、福祉の専門職から一般のボランティアまで多様かつ重層的な構成をとることが必要であり、また、ボランティア活動の経験は、社会福祉事業に従事する者の業務への理解を高めるとともに、将来福祉の職場に参画する契機ともなり得る。さらに、社会福祉施設におけるボランティア活動を通じて、その介護や育児の技術等が地域に伝達され、住民の介護力等の向上の機会としても役立つ。」

上記の方策の1つとして「福祉教育・学習」が示されている。福祉人材確保指針と同じように、ボランティアという福祉のすそ野を広げるためであり、ボランティアは福祉専門職の前段階という位置づけでもあることが示されている。ここで新しく示されたのは次の2つである。一つは「社会福祉施設におけるボランティア活動を通じて、その介護や育児の技術等が地域に伝達され、住民の介護力等の向上の機会としても役立つ」であるが、もう一つは「総合的かつ体系的にサービスを提供するために、福祉の専門職から一般のボランティアまで多様かつ重層的な構成をとることが必要」である。その方策として福祉教育が位置づけられていることである。

なお「国民の社会福祉に関する活動への参加の促進を図るための措置に関する基本的な指針」が告示された時期は低額な費用負担を伴う生活支援型のサービスがボランティア活動か否かという議論が生じた時期でもあり、一時、有償ボランティアという表現もみられたが、結局は住民参加型福祉サービスという整理に落ち着くことになった(原田, 2010, p.32)。当該指針では、住民参加型福祉サービス供給組織として福祉公社、消費生活協同組合などが挙げられ、それらの活動に対する国民の理解の増進に努める必要があるとしている。ただ、同指針では福祉教育の用語は使われていないし、また表2に福祉教育と住民参加型福祉サービスという両方の用語が見られるが、その直接的な関連について読み取ることは困難だ。

ここまで福祉マンパワー施策が福祉教育をどのように位置づけてきたのかを歴史的に検討してきた結果、基本的な流れとして、福祉教育はマンパワーとしてのボランティア養成の方策として位置づけられてきたことが分かる。主として高齢者に関わるボランティア養成の方策である。それも施設福祉から在宅福祉への転換期から位置づけられてきたのである。

その他、社会福祉・社会保障に関する給付やサービス等の理解のための方策、ボランティアという福祉のすそ野を広げるための方策、社会的評価向上の手段等の位置づけもあるが、「Ⅰ. はじめに」の問題意識に戻ると、注意すべき点は次の2点である。福祉の担い手は「総合的かつ体系的にサービスを提供するために、福祉の専門職から一般のボランティアまで多様かつ重層的な構成をとることが必要」〔下線引用者〕とされ、一般のボランティアが福祉サービスを提供することを求められていることが、注意すべき点のまず1点である。「ボランティアは都合よく利用されているだけではないか?」という疑問が頭をもたげてくる。もう1点は、福祉教育がマンパワーとしてのボランティア養成の方策として位置づけられてきたことである。都合よくボランティアが利用されることに福祉教育は加担しているのではないか、という疑問が生じる。次章において、これらの点について考察する。

Ⅳ.  ネオリベラリズムと福祉教育

1.  ネオリベラリズムが引き起こすボランティアに関する問題

福祉サービスをボランティアが提供することについて、まず考察する。「Ⅰ、はじめに」で触れた「ボランティアは都合よく利用されているだけではないか?」という疑問は、言い換えれば「ボランティアが単なる行政サービスの『穴うめ』にすぎない」(田代, 2007, p.123)のではないか、という疑問となろう。

もちろんボランティアは否定的側面(を想起させる面)ばかりあるわけでない。仁平(2005, p.485)によれば、ボランティア活動に対して国家や市場がもたらす問題への解決策として肯定的な評価がある。その一方でネオリベラリズム的な社会編成と共振するという観点から批判もある。ネオリベラリズムとは資本の蓄積・移動に対する阻害要因を取り除き、経済や社会保障領域への国家の介入を限定し、公的領域を準市場的に再編していくことを指し、米英を中心に1980年代頃から先鋭化してきた政治的立場である(仁平, 2005, p.487)。

仁平(2005, p.487)は、ボランティア論によって価値的に根拠づけられる特徴のうち、頻繁に参照される、①民主主義準拠性と②ケア倫理準拠性という2つを取り上げ、各々について、以下のように説明している。

「・民主主義準拠性:これまで公的なサービスや決定を行政が一元的に支配・掌握していたが、その官僚制および専門家による決定や事業運営は、非効率性や人々のニーズを捉えきれない等様々な失敗を生み出した。よって市民が参画していく必要がある。それはかつての反対型の運動とは違い、行政とパートナーシップを組みながら対案を示しつつ行う必要がある。つまり、まちづくりや学校づくりにボランティアが多く関わり、事業運営や政策立案の担い手として継続性を持ったNPOが参画することで民主主義は深まり、同時に、このような活動に参加すること自体に、民主主義を学習する教育的効果がある。

・ケア倫理準拠性:ボランティア活動が生み出す社会関係は、より根底的で前政治的次元の意義を有する。ボランティア活動とは苦しんでいる固有の他者の声に応答する活動で、共に人間という点で平等な地平にあるボランティアと被援助者は、相互の受容・応答関係によって人間としての尊厳を回復する。NPOはこのような活動に制度的根拠を与えるもので望ましいが、官僚制的・専門主義的な国家は画一的・手続主義的で、個別のニーズに対応できないし、承認のニーズに応えることもできない。」

ネオリベラリズムと①民主主義準拠性および②ケア倫理準拠性との共振問題について、仁平(2005, p.489-494)は次のように整理する。

まずネオリベラリズムと①民主主義準拠性との共振問題についてである。問題として、ボランティアやNPOの活動が公的サービスの縮小によって生じる財やサービスの不足分を補うものとして活用されることを指摘する。また、活動の活性化が、諸階級の闘争と妥協の結果として国家に権利として書き込まれてきた社会権を、自助・共助的努力の圏へと放逐する上での前提条件を提供するという問題も指摘する。このような問題については、行政の補完・下請けではなく、積極的に決定過程に介入することが推奨されるが、中野(2001, p.258)の「ここで浮かび上がっているのは、国家システムが主体(subject)を育成し、そのようにして育成された主体が対案まで用意して問題解決をめざしシステムに貢献するという(中略)まことに都合よく仕組まれたボランティアと国家システムの動態的な連関である」を引用し、決定過程に介入することも批判されうると指摘する。その他、決定過程に介入することについては、それを通して社会的不均衡が増大しうることも指摘される。市民の声が拡大されることは善とされるが、それが誰の声なのかという問題である。

次に、ネオリベラリズム②ケア倫理準拠性との共振問題についてである。政治思想的に見れば次のようなケア倫理の問題について指摘する。つまり、ケア倫理は、応答すべき/すべきではない声の線引きを特定の基準によって行わないが、すべての声に応答することは不可能なので、結果として既存の関係性が選択され、その外部が排除されうるという問題である。その他、個人化やネオリベラリズム的社会再編に伴う変化は、既存の秩序からの離脱可能性を高める一方、個人を生活保守主義やバックラッシュ、外国人排斥という新たな敵体性にも節合させうると指摘する。異質な他者を、法を超えて統制・排除する方向と一致しうるのである。

以上、仁平の整理を見てきた。前章において、福祉教育がマンパワーとしてのボランティア養成の方策として位置づけられてきたため、都合よくボランティアが利用されることに福祉教育は加担しているのではないか、という疑問が生じることに言及した。よって、ネオリベラリズムとの共振問題について、福祉教育も悪い意味で加担するのではないか、と疑念が生まれると思われる。次節では、ネオリベラリズムとの共振問題と福祉教育の関連について考察する。

2.  ネオリベラリズムとの共振問題に対する福祉教育の概念規定からの考察

第Ⅲ章において福祉教育を、福祉マンパワー施策における位置づけについて検討するため、言い換えれば行政側の意図を明らかにするため、その概念規定については宙づりにしたが、ここからは実践者・研究者側から検討・構築されてきた福祉教育の概念規定を踏まえて、ネオリベラリズムとの共振問題について考察を加える。

福祉教育の代表的な概念規定として、全国社会福祉協議会に設置された福祉教育研究会(1980年、大橋謙策委員長)による「福祉教育とは、憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも阻害されてきた、社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを受給している人々を社会から、地域から阻害することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動である」が挙げられる。

『新福祉教育ハンドブック』では、上記の概念規定について、次の3つの特徴を挙げている(上野谷・原田, 2014, p.14)。その3点をまとめると次のようになる。

a) 福祉教育は人権を基本として成り立つ教育実践である。その中で、教育基本法にもある平和と民主主義を作り上げ、ともに手を携えて豊かに生きていく(ノーマライゼーション)ための実践力を育むことを意図してきた。
b) 学習素材として「社会福祉問題」を取り上げることである。社会福祉は、私たちにとって身近な日常の問題であると同時に、差別や排除の対象として切り捨てられてきた歴史と現実がある問題でもある。
c) 「社会福祉問題」を正面からとらえて、かつ自分自身の日常生活と結びつける(切り結ぶ)ために、体験学習を重視してきた。直接的なふれあいや対話を通して現実の課題に気づき、そこから学ぶことを大切にしてきた。さらに、それらを解決する「実践力」まで期待している。

福祉教育の概念規定における上記3つの特徴を踏まえた上で、ネオリベラリズムとの共振問題について考察する。ボランティアとネオリベラリズムの共振問題は、仁平(2005, p.494)によれば「共感可能な他者との関係性を重視するケア倫理的準拠的な、またラディカルな政治性を回避する民主主義なボランティア活動」が「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>を外部に置く」ことに起因する。たとえば、防犯ボランティアは<他者>をリスクとしてとらえて排除するかもしれない。よって、ボランティアとネオリベラリズムの共振問題を回避するポイントは、「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>」への対応ということになろう。

前節において、都合よくボランティアが利用されることに福祉教育は加担しているのではないかという疑問について指摘したが、福祉教育の概念規定にはボランティアとネオリベラリズムの共振問題を回避する要素を含んでいるため、むしろボランティアが都合よく利用されることにつながらないことを以下論じる。

福祉教育の概念規定の特徴の1つとして、社会福祉問題を取り上げることが挙げられるが、「社会福祉問題に直面している人たちは、実は社会的に排除され、高齢者差別・性差別・人種差別あるいは家庭問題や失業問題などを、同時に抱えている場合が多々あり(中略)福祉における生の現実とは、多様な問題が入り組んだ矛盾の現実」(上野谷・原田, 2014, p.14)である。よって社会福祉問題とは社会福祉領域における「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>」の問題といえる。

福祉教育の概念規定は「既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>」を逸脱したままでよしとはしない。仁平(2005, p.494)は「『われわれを<他者>が苦しめる』という構図から『われわれと<他者>を対立させ、苦しめる基層的な<社会>的原因がある』という構図へと転換することで、<他者>を共感・連帯可能な他者へと改鋳」する必要性を指摘しているが、福祉教育の概念規定では、人権を基盤とし「ともに手を携えて豊かに生きていく」つまり共生の思想が大切にされているし、社会福祉問題は個人の問題ではなく「科学的な認識」(牧里編, 2003, p.103)を持つことが求められる。

また福祉教育の概念規定は「社会福祉領域にも『既存の秩序や関係性から逸脱した<他者>』がいて問題である」という理解の段階にとどめるものではない。「ともに手を携えて豊かに生きていく」ための実践力を育むことが意図されているし、社会福祉問題を解決する実践力も意図されている。その際、ボランティア活動が重要になってくる5)。

猪瀬(2020, p.65)は、ボランティアが自分の役割を小さくしようとする国家や、あるいはお金儲け以外はやりたがらない市場のそれぞれのシステムに都合よく使われるが、それだけ国家や市場システムが隅々まで浸透した社会において、国家のサービスから排除されている人たち(たとえば被災した人などのマイノリティ)や、お金をもっていない人は、ボランティアがなければ、より困るだけである。単にボランティアが動員されているとシニカルに批判しても、排除されている人たちの問題について何の解決にもならない、と指摘する。

そのような問題の解決には「今あるシステムがうまく機能しないところに入り込み、他者と共に生きる空間」(猪瀬, 2020, p.65)にすること、及び「国家や市場のシステムを掘り崩していく身振りを身に着けていくこと」(猪瀬, 2020, p.65)が重要となる。福祉教育の概念規定は排除されている人たちの問題(つまり社会福祉問題)を素材にし、直接的なふれあいや対話を通して、共に手を携えて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることまで射程にいれており、上記のように猪瀬が指摘した点についても射程にいれていたと言えよう。よって、当該問題の解決には福祉教育の概念規定を十分に理解した行動が求められると考える。

Ⅴ.  おわりに

本研究では福祉マンパワー施策における福祉教育の位置づけを検討し、ネオリベラリズムが引き起こすボランティアに関する問題について実践者・研究者側から検討・構築されてきた福祉教育の概念規定から考察した。ネオリベラリズムとの共振問題について福祉教育は悪い意味で加担するのではなく、むしろ回避する要素を含んでいることを明らかにした。

ただ、福祉教育にも課題はある。清水(2021, p.21)が「行政の行うボランティア養成では、自己判断能力を持たせずボランティア活動を社会善として、その枠の中に閉じ込めようとする。つまり、サービス型のボランティアのみ養成し、運動としてのボランティア活動を排除しようとする」と指摘している。「行政は、ボランティア領域内部を透明化し、運動に繋がりうるベクトルを分別・排除する欲望を持っていたが、近年その動きは強まっている」(仁平, 2005, p.495)ため、行政が行う福祉ボランティア養成によって、福祉教育の概念規定が骨抜きにされることへの警戒が必要である。本学会は、設立当初から「実践」を重視し、実践から学び、実践を深め、実践を広げることを重視してきた(原田, 2014, p.390)。その諸実践から、骨抜きにされないような示唆を得るための理論的な研究、例えば排除されている人たちの声について福祉教育を行う人たちが代弁したり、共に訴えて、積極的にその声を福祉マンパワー施策に反映して共生社会を作るといった「福祉教育とソーシャルアクション」の理論的研究を進めることなどが求められると考える。

付記
本研究は、JSPS科研費19K13975の助成を受けたものである。

【注】
1) 「日本産業教育学会においても高校福祉教育の研究が着実に蓄積されつつある」(日本産業教育学会編, 2013, p.60)という指摘にみられるように、高校福祉科と産業の関係については一定の研究成果が見られる。しかしながら、高校福祉科という狭い領域と、産業という幅広い領域の関係であり、福祉教育と福祉マンパワー施策との関連そのものの研究成果ではない。佐々木(2007)は、福祉マンパワー対策の中でも福祉人材確保指針・福祉人材確保法と社会福祉教育にについて分析しているが、幅広く福祉マンパワー施策と福祉教育との関連について検討したものではない。
2)  文部省・厚生省・労働省・建設省(1994)「今後の子育て支援のための施策の基本的方向 について」https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/angelplan.html
(最終閲覧日:2021年12月11日)
3)  厚生省(1999)「新エンゼルプランについて」
https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/syousika/tp0816-3_18.html
(最終閲覧日:2021年12月11日)
4)  障害者対策推進本部(1995)「障害者プランの概要――ノーマライゼーション7ヵ年戦略」https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/plan.html
(最終閲覧日:2021年12月11日)
5)  大橋(1987, p.74)は「社会福祉に関する意識は、知的理解でのみではなかなか変容しない。社会福祉問題を抱えた人々との交流の中で、あるいはその問題解決の実践・体験の中で変容する。それだけにボランティア活動の推進は重要である」と指摘している。

【引用・参考文献】
秋元美世ほか編(2003)現代社会福祉辞典, 有斐閣
秋山智久監修(2007)社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集1 成立過程資料, 近現代資料刊行会
秋山智久監修(2008)社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集2 成立後資料, 近現代資料刊行会
秋山智久監修(2008)社会福祉士及び介護福祉士法成立過程資料集3 成立後資料(前史資料), 近現代資料刊行会
原田正樹(1996)「福祉教育」研究の動向と課題に関する考察, 日本福祉教育・ボランティア学習研究年報, 1, p.74-99
原田正樹(2010)ボランティアと現代社会、柴田謙治・原田正樹・名賀亨編, ボランティア論――「広がり」から「深まり」へ, みらい
原田正樹(2014)日本福祉教育・ボランティア学習学会の20年の軌跡と基軸, 日本福祉教育・ボランティア学習学会20周年記念リーディングス編集委員会編, 福祉教育・ボランティア学習の新機軸――学際性と変革性, 大学図書出版
猪瀬浩平(2020)ボランティアってなんだっけ?, 岩波書店
厚生省大臣官房政策課編(1991)21世紀を担う人々 ――保健医療・福祉マンパワー対策本部中間報告, 中央法規出版
厚生省社会・援護局施設人材課監修(1995)「福祉人材確保のための基本指針」の解説, 中央法規出版
中野敏男(2001)大塚久雄と丸山眞男――動員、主体、戦争責任, 青土社
仁平典宏(2005)ボランティア活動とネオリベラリズムの共振問題を再考する, 社会学評論 56(2), 485-499
日本産業教育学会編(2013)産業教育・職業教育ハンドブック, 大学教育出版
日本社会福祉学会事典編集委員会編(2014)社会福祉学事典, 丸善出版
牧里毎治編(2003)地域福祉論, 放送大学教育振興会
三ツ石行宏(2013)福祉教育史研究の現状と課題, 日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要 22, p.68-76
小笠原祐次(1988)社会福祉マンパワー政策の課題, 仲村優一・秋山智久, 明日の福祉⑨福祉のマンパワー, 大洋社, p.16-54
大橋謙策(1987)福祉教育の構造と歴史的展開, 一番ヶ瀬康子ほか編, 福祉教育の理論と展開, 光生館
大橋謙策(1992)社会福祉『改革』とマンパワー――マンパワーの質と量の確保を考える, 社会福祉学, 33(1), p.20-45
大橋謙策(1997)社会福祉マンパワー問題と社会福祉系大学における教育, 大学と学生, (387), p.28-36
大橋謙策(1998)戦後社会福祉研究と社会福祉教育の視座, 一番ヶ瀬康子・大友信勝・日本社会事業学校連盟編, 戦後社会福祉教育の五十年, ミネルヴァ書房, p.26-48
阪野貢(1993)福祉文化のまちづくりと福祉教育, 福祉文化研究, 2, p.14-27
清水将一(2021)ボランティアと福祉教育研究, 風詠社
篠原拓也(2020)社会福祉学における人権論, 大学教育出版
潮谷有二(2014)福祉人材確保施策の動向, 日本社会福祉学会事典編集委員会編, 社会福祉学事典, 丸善出版, p.708-709
佐々木隆志(2007)日本における福祉教育と福祉マンパワー対策の分析, 静岡県立大学短期大学部研究紀要 (21-W), p.1-11
政策研究大学院大学C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト(2004)斎藤十朗(元参議院議長)オーラル・ヒストリー, 政策研究大学院大学
田代志門(2007)「看取り」を支える市民活動――ホスピスボランティアの現場から, 清水哲郎編, 未来を拓く人文・社会科学シリーズ 3 高齢社会を生きる――老いる人/看取るシステム, 東信堂, p.117-138
上野谷加代子, 原田正樹監修(2014)新福祉教育実践ハンドブック, 全国社会福祉協議会


出所:三ツ石行宏/福祉教育は都合よいボランティアの養成方法なのか?―福祉マンパワー施策及び福祉教育の概念規定に焦点をあてて―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.38、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2022年7月  、19~30ページ。
謝辞:転載許可を賜りました三ツ石行宏先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅲ 児童養護施設に関する福祉教育実践

―Y小学校を事例として―



























出所:三ツ石行宏/児童養護施設に関する福祉教育実践―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol35、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2020年11月  、111~123ページ。
謝辞:転載許可を賜りました三ツ石行宏先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


松岡広路/福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性とESD―


 

Ⅰ 福祉教育・ボランティア学習の新機軸

―当事者性・エンパワメント―




















出所:松岡広路/福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性・エンパワメント―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  年報』Vol.11、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2006年11月  、12~32ページ。
謝辞:転載許可を賜りました松岡広路先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅱ 福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性

―福祉教育から「福祉教育・ボランティア学習」・ESDへ―

出所:松岡広路/福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性―福祉教育から「福祉教育・ボランティア学習」・ESDへ―/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.14、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2009年11月  、8~23ページ。
謝辞:転載許可を賜りました松岡広路先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

新崎国広/福祉教育・ボランティア学習と教育支援・教育協働―福祉教育・ボランティア学習の研究と教育支援・教育協働学の構築―


 

Ⅰ 学校教育における福祉教育・ボランティア学習実践研究の課題と展望



出所:新崎国広/学校教育における福祉教育・ボランティア学習実践研究の課題と展望/『日本福祉教育・ボランティア学習学会  研究紀要』Vol.18、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2011年3月  、6~19ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と日本福祉教育・ボランティア学習学会に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅱ 学校と地域の協働化を促進する

教育支援人材地域の意義

―福祉教育・ボランティア学習による教育実践と福祉実践の邂逅をめざして―



出所:新崎国広/学校と地域の協働化を促進する教育支援人材地域の意義―福祉教育・ボランティア学習による教育実践と福祉実践の邂逅をめざして―/『発達人間学論叢』第19号、大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座、2016年3月、25~34ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅲ 教育協働に資する福祉教育実践研究

出所:新崎国広/教育協働に資する福祉教育実践研究/『発達人間学論叢』第21巻、大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座、2018年3月、25~40ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

Ⅳ これまでのライフヒストリーを振り返る

―課題に直面し、揺らぎ、怒り、連帯し、共に学び続けること―

 




















出所:新崎国広/これまでのライフヒストリーを振り返る―課題に直面し、揺らぎ、怒り、連帯し、共に学び続けること―/『発達人間学論叢』第23・24・25巻、大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座、2021年2月、1~20ページ。
謝辞:転載許可を賜りました新崎国広先生と大阪教育大学教育学部教養学科発達人間福祉学講座に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所


大橋謙策/〔増補〕域福祉実践の神髄 ―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―


 

はじめに ―「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けての課題― 

 厚生労働省は、2016年7月に『「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部』を発足させ、2015年9月に発表した「誰もが支え合う地域の構築に向けた福祉サービスの実現―新たな時代に対応した福祉の提供ビジョン」(「以下「新しい福祉提供ビジョン」と略」)の具現化を推進させることになった。

それは、地域自立生活支援を展開する上で、①子ども、障害者、高齢者の全世代を一元的、一体的に受け止め、相談に応ずるワンストップサービスをシステム化すること、②福祉サービスを必要としながらサービス利用に繋がっていない人々をアウトリーチして発見し、支援することと、時には伴走型の継続的支援を行うこと、③福祉サービスを必要としている人々を地域から排除しない、新たな地域コミュニティづくりを進めること、④そのためにも子ども、障害者、高齢者の全世代が交流・利用できる地域における小さな拠点づくりが必要になること、⑤そして全世代支援、全世代交流を進めていくためには属性分野・機能別の縦割りの資格ではなく、各資格間の相互乗り入れが必要になること等を具体化、具現化させること、等が課題としてあることを指摘している。

しかしながら、これらのことは“言うは易く、行うは難し”である。それらの理念、考え方の具現化、具体化においては少なくとも福祉教育の推進、ニーズ対応型福祉サービスの開発とそれを企画できる力量のある職員の養成、住民と行政の協働を成り立たせる触媒、媒介の機能をもったコミュニティソーシャルワーク機能とそれを実施できるシステムを整備しない限り難しい。これ以外にも、専門多職種連携の在り方とシステム等の検討課題があるが、今回は触れない。

筆者は、それら「地域福祉実践の真髄」ともいえるそれら3つの機能の具現化とその理論化を求めて、50年間研究をしてきたといっても過言ではない。

その研究スタイルは「バッテリー型研究方法」ともいえるもので、実践家の実践を理論化、体系化するとともに、研究者の理論仮説を実践家に提起し、実践してもらい検証するという研究者と実践家とがあたかも投手、捕手のようにバッテリーを組んで行う方法であり、筆者の50年間の実践、研究はまさにその方法によるところが大きい。

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践もまさにそうで、筆者が関わった他のセミナーも含めて、それらのセミナー等において「バッテリー型研究方法」で実践され、論議され、システム化され、地方自治体の政策を産み出してきた多くの実践が先に述べた厚生労働省の報告書にそれなりの影響を与えたと自負している。

地域福祉実践の方法として検討しなければならないことは多々あるが、今回は「我が事・丸ごと地域共生社会」実現上特に考えなければならないことと、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの20年間の実践を通して考えてきたことに焦点化させることとし、本稿では、「地域福祉実践の真髄」ともいえるものの内、上記に挙げた3点を取り上げた。それを筆者がどのように考え、展開してきたのかを随想風に振り返りながら、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践に対し、若干のコメントをすることとしたい。

Ⅰ 地域福祉実践(社会福祉協議会活動)は  “ 福祉教育に始まり、福祉教育に終わる ”

全国社会福祉協議会が1979年から始め、1991年(12期生)まで続けた「地域福祉活動指導員養成課程」は、筆者の研究者的成長に大きな影響を与えると同時に、そこでの相互の学びの過程を通じての実践者との交流が「バッテリー型研究方法」の推進とその後の実践者の組織化に非常に大きな役割を果たしてくれた。その養成課程では、設置された各教科目のテキストに基づき、レポートが課され、添削指導を受けた上で4泊5日の宿泊スクーリングがあり、修了論文の提出が課せられた。

筆者はその第1期から「社会福祉教育論」という科目を担当した。それは多分、筆者が「社会教育と地域福祉」の学際的研究を行い、既に「月刊福祉」等の雑誌や著作で「社会教育と地域福祉」に関わる論文を執筆していたからお呼びがかかったのであろうと推察している。

筆者の社会福祉学研究、地域福祉論研究において福祉教育は大きな柱である。後に筆者は、福祉教育を「憲法第13条、第25条などに規定された基本的人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、社会福祉活動への関心と理解を進め、自らの人間形成を図りつつ、社会福祉サービスを利用している人々を社会から、地域から疎外することなく、ともに手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」(1982年)と定義した。

この定義は、戦前の社会問題対応策としての社会事業と社会教育との関係性、とりわけ内務省が推進した風化行政、地方改良運動、精神作興運動等の研究を踏まえたものである。

この福祉教育の考え方と実践は市町村社会福祉協議会が住民主体の活動を展開する上で必要不可欠な活動であると筆者は位置付け、先の「地域福祉活動指導員養成課程」において、“社会福祉協議会の活動は福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”ほど重要な活動であることを強調してきた。

島根県瑞穂町(現邑南町)社会福祉協議会の事務局長になった日高政恵さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、1997年の第1回こんぴらセミナーのシンポジュウムの登壇者でもある)は、住民の生活実態に関する様々な調査を行い、それを踏まえて68の集落福祉委員会を基盤に、13のブロックでの「地域福祉デザイン教室」を行い、徹底的に住民による問題発見・問題解決型の共同学習を通じて、住民の社会福祉意識の変容、向上を図る地域福祉実践を展開した(『未来家族ネットワークの創造――安らぎの田舎への道標』万葉舎、2000年参照)。

瑞穂町の実践は、子どもの福祉教育、住民の社会福祉学習、介護福祉人材の養成等町全体で文字通りトータル的に福祉教育を行っており、日高さん自身社会福祉協議会活動は“福祉教育に始まり、福祉教育に終わる”と述べてくれている。

福祉教育のより体系的実践としては、1988~89年に策定された東京都狛江市社会福祉協議会の「あいとぴあ推進計画」で位置付けられた「あいとぴあカレッジ」がある。

「あいとぴあ推進計画」は、狛江市社会福祉協議会の須崎武夫さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者であり、のちに事務局長)が東京都社会福祉協議会のモデル指定地区を受託し、社協中心の地域福祉計画づくりを行ったものである。筆者はこの策定委員会の委員長で、委員には狛江市福祉事務所の所長にも入ってもらい、行政との整合性を持たせることを意図した。その後、狛江市は「あいとぴあ推進計画」と連動させた「あいとぴあレインボープラン」を行政計画として策定。狛江市では「あいとぴあレインボープラン」に基づき狛江市条例による「市民福祉委員会」を設置し、重要な社会福祉政策課題については「市民福祉委員会」で協議することを明記。筆者はその「市民福祉委員会」の委員長を15年勤めた。

「あいとぴあ推進計画」に基づく「あいとぴあカレッジ」(1991年から実施)は、年間15回程度の本格的な市民福祉教育のカレッジとして実施された(『地域福祉計画策定の視点と実践――狛江市のあいとぴあへの挑戦』第一法規、1996年参照)。「あいとぴあカレッジ」を担当した阪野貢さん(当時宝仙学園短期大学、のちに中部学院大学教授)が「市民福祉教育研究所」を設立・主宰し、ブログも開設しているので参照されたい。

また、体系的な福祉教育実践としては狛江市の実践よりも早く、筆者は山口県宇部市において1977年より「宇部市婦人ボランティアセミナー」を企画・実施している。

このセミナーは、文部省(当時)の助成事業を活用しての実践であるが、社会福祉と社会教育との有機的連携を意識したもので、1年間に17回の座学(講義)と14回の体験、実習(朗読、点字、手話、配食サービス、老人の介護等)のプログラムが組まれた本格的な福祉教育の実践であった(『宇部市の生涯学習推進構想――いきがい発見のまち』東洋堂企画出版社、1999年参照)。筆者は17年間、毎年数回宇部市に通い、最後はセミナー(後に2年制のカレッジに改組)30周年記念までお付き合いをしてきた。

このような実践は、上記以外でも、岩手県沢内村(現西和賀町)社会福祉協議会で地域福祉計画の策定とそれに基づく「コーリム大学」を1990年代初頭に実施した。

筆者の問題発見・問題解決型共同学習的福祉教育は、1973年の東京都稲城市(筆者の居住地)における「住みよい稲城を創る会」(代表幹事・大橋謙策)が主催した「集い」が最初である。

そのプログラムは、初めに生活問題を抱えている人に実態報告をして頂き、その後分科会に分かれて討議をするというスタイルで行われた。第1回目の集いでは、「嫁」(息子の配偶者)の立場から同居している姑の介護問題の報告、父子家庭の単独世帯の子育ての困難さの報告、学校拒否児(当時の呼称)を抱える家族の悩みの3事例の話を頂いた。

東京都の「市」ではあっても、農村的風土が残っていた地域だっただけに、「集い」というオープンな場での発題者を探すのに大変苦労はしたが、発題者の問題提起は実に重要で、その実態の深刻さが浮き彫りになった。その当時、筆者は知らなかったが、既に市内(当時人口3万人)に多くの学校拒否児がいたようで、その親たち(15名)が学校拒否児の親の体験報告があるということで個々に「集い」に参加してきていた。当初、分科会としては設定していなかった学校拒否児に関する分科会を親たちの要望で急遽作ったことが昨日のように思い出される。いかに、“事実は小説よりも奇なり”で、我々がその実態をただ把握していないだけだということを痛感させられ、アウトリーチによる問題発見の重要性に気づかされた。

1997年に香川県琴平町で開催された第1回こんぴら地域福祉実践セミナーは、「ふれあいのまちづくり事業」の補助金による事業ということも考えて、単なる一過性の福祉講演会ではなく、福祉教育、住民の社会福祉学習の機会として、かつ継続することを意識して行われた。当時、人口約1万2,000人の町で、参加者が600人にのぼり、会場が立錐の余地がないほどの状況は驚きであった。考えてみれば、1986年に琴平町社会福祉協議会が受託した「ボラントピア事業」において、夏の暑い日に、冷房のない学校の体育館に並べた椅子と椅子の間の通路に氷柱を何本も立てて行われた講演会になんと1,000人が参加された歴史を持っていた(講演者・大橋謙策)。それらの仕掛けをした琴平町社会福祉協議会の越智和子さん(現琴平町社会福祉協議会常務理事)も20代末の若い時に、山口県笠戸島で「地域福祉活動指導員養成課程」を受講した一人である。

筆者は、このような地域福祉と社会教育の学際的研究と実践に関わるなかで、1979年、全国社会福祉協議会が設置した「ボランティア基本問題検討委員会」(委員長・阿部志郎、作業委員長・大橋謙策)において起草委員長として「ボランティア活動の性格と構造」をまとめさせて頂いた。それは①ボランティア活動と市民活動との関係性をどう整理するかという問題、②ボランティア活動の目的を“自立と連帯の社会・地域づくり”と考えること、③市民活動とボランティア活動を考える場合、その活動には3つの性格の活動があること。それは第1に近隣での日常的なふれあいのある地域づくりを行うこと、第2に地域内にある福祉サービスを必要としている人を発見し、その個別課題に対応する対人サービス活動を行うこと、第3に市町村における(地域)福祉計画づくりを行うことの3つの課題があり、それらを構造的に捉えて考え、実践することの重要性を提起した。

また、そのような市民活動とボランティア活動との関係を意識したのは、1970年前後のコミュニティ構想が“住民参加、住民の権利ということが担保されない、権限なきコミュニティにおいて、麗〈うるわ〉しき隣人愛に基づく活動、助け合い活動”を求めていたことへの反論であり、かつ地域住民の生活を守るためには国レベルの社会保険制度の整備と共に、居住する市町村自治体における福祉サービスの整備が必要であり、重要であると考えたからに他ならない。(全社協・ボランティア基本問題検討委員会報告書「ボランティアの基本理念とボランティアセンターの役割」全社協、1980年参照)。

また、その頃、福祉教育の実践が求める目標として「4つの地域福祉の主体形成」(地域福祉計画策定主体、地域福祉実践主体、社会福祉サービス利用主体、社会保険制度契約主体)の必要性をまとめ、提起している。

「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現に向けて、市町村における行政と住民の協働のあり方や全世代支援を行えるワンストップサービスができるシステムの構築等を考え、実施できるようにするためにも、まずもって住民参画による市町村地域福祉計画づくりが重要になる。また、その計画策定主体の形成も含めて地域福祉の4つの主体形成がなされなければ実現は難しいことになる。

福祉教育を皮相的にとらえるのでなく、地域住民が社会福祉の学習を通じ、地域にある問題に目を開き、気づき、それを解決するためにどう行動するべきかを考える機会を提供する福祉教育こそ地域福祉実践の根幹であることを改めて認識して欲しい。

Ⅱ ニーズ対応型福祉サービスの開発と「福祉でまちづくり」

筆者は1990年まで、日本には事実上ソーシャルワーク実践はなかったということを日本社会事業学校連盟(現日本ソーシャルワーク教育学校連盟)の社会福祉教育セミナーの席上や日本社会福祉学会等の場において発言してきた。しかしながら、残念ながら反論はされなかった。それどころか、戦後日本のケースワーク研究を牽引し、国際社会事業学校連盟からも高く評価されていた仲村優一先生は、“まさに君(筆者)が言う通りである”とさえ言われ、逆に日本におけるソーシャルワーク実践の定着を図る研究をしっかり頼むと励まされる状況であった。

戦後日本では、アメリカの文化、社会福祉に関するシステムの中で育ったケースワーク、グループワーク、コミュニティオーガニゼーションといった方法論が紹介・解説され、社会福祉教育の場において教えられてきた。

そこでは、インテークという用語やクライエントという用語が使われ、福祉サービスを利用しようとして、あるいは生活上の様々な問題を抱えて相談機関に来談した人とのラポートづくりから実践が説き起こされてきた。

筆者のように、戦前の社会事業における精神性と物質性の関係性の研究、地域改良・居住者の生活改善・人格向上を目指すセツルメント運動等を研究してきたものにとって、それには非常な違和感があった。多くの“社会福祉研究者”は筆者(大橋謙策)に対し、社会福祉六法体制とケースワーク等の社会福祉方法論とを前提としている“社会福祉プロパーの研究者”として認めず、“社会福祉体系外の研究者”として位置付ける言動を投げかけていた。

1977年に上梓され、1980年に日本語に翻訳されたハリー・スペクト/アン・ヴィッケリー編『社会福祉実践方法の統合化』 (Integrating Social Work Methods編)において、アメリカのシステム理論やイギリスの地方自治体社会サービス法に基づく実践を通して、1930年代にアメリカで確立された社会福祉方法論の3分類法を「ソーシャルワーク」に止揚するべきであるという問題提起がなされ、それが日本語に翻訳されて紹介されているにも拘わらず、日本では実質的に2000年まで社会福祉士養成のカリキュラムの中で社会福祉方法論の3分類法を堅持しつづけた。しかも、いまでも多くの研究者がインテーク、クライエントという用語を無自覚的に論文上でも使用している。

筆者は、1973年に東京都稲城市立公民館の建設に際し、1947年に制定された児童福祉法の国会審議に向けて厚生省(当時)が作成した予想問答集の考え方(保育所設置の目的は①働かざるを得ない母親の就労支援、②子どもの成長には集団保育が必要、③文化国家、民主国家を建設するには女性の社会参加、社会活動を促進する必要があるので子どもを預ける保育所が必要)に基づき、公民館に市の専任職員である保母(当時)を常駐させた公民館保育室の設置を社会教育委員として提案し、建設した。その公民館の機能として住民のたまり場、交流の場としての機能・空間ももたせた。また、同じように1975年には、児童館、老人福祉センター、公民館を合築する地区公民館の建物の構想を示し、建設した。

更には、1973年、貧困児童の就学援助を増進させるために、当時、文部省の基準は生活保護基準の1.5倍が就学奨励費支給の基準であったものを市と交渉し、1.6倍にまで引き上げてもらった。

このような実践を若い時(20代)からしてきたものにとって、「申請主義」に囚〈とら〉われた社会福祉実践・研究やカウンセリング的ケースワーク論は何とも理解しがたいものであった。そのような発想は、社会福祉方法論の分野のみならず、施設経営をする社会福祉法人も陥っていた呪縛であり、市町村社会福祉行政自体も囚われていた呪縛であった。

日本の社会福祉実践、研究は、1990年まで中央集権的機関委任事務体制で展開されてきたこと、また福祉サービスも行政もしくは行政に委託された社会福祉法人が運営する施設において提供されてきたために、法人・施設運営の視点はあったものの、経営の視点は脆弱であったし、市町村における社会福祉行政のアドミニストレーションに関する研究は実質的になかったと言わざるを得なかった。

ある意味、国が設計する制度に基づく“制度ビジネス”に“安住”しており、そこでは、一般に経済界で必要とされている“市場調査”としての“サービスニーズの把握”の視点や方法、あるいは“商品開発”に該当する“ニーズ対応型サービス開発”の意識は希薄であったことは否めない。

筆者は、戦後の社会福祉実践・研究は中根千枝先生の研究の「鍵」概念を借りれば、「場」(枠組み)である制度としての枠(社会福祉六法体制、中央集権的機関委任事務体制)の中で社会福祉実践・研究を考え、行われてきたと指摘してきた。

しかしながら、21世紀においては「資格」(機能)として求められているソーシャルワーク機能に基づき、潜在化しがちな国民のニーズの発見・キャッチが重要であり、かつそれに対応したサービス開発とその起業化・経営が必要であることを頓〈とみ〉に1990年以降指摘してきた(「施設の社会化と福祉実践」『社会福祉学』第19号、日本社会福祉学会、1978年所収)。それ以降、ニーズ対応型のサービス開発のヒントは、入所型施設で提供しているサービスを細かく分節化させることや家庭機能を分節化させて、それをどういうシステムで提供するかを考えることにあると述べてきた。また、1990年以降「福祉でまちづくり」の必要性を提起してきた。

21世紀に入り、急速に進められている規制緩和の時代にあっては、社会福祉分野といえどもニーズの把握、ニーズ対応型サービスの開発とその起業化に関する研究が社会福祉研究上求められている。それは、ソーシャルワーク機能そのものが問われていることでもある。それはまた、ソーシャルワークの楽しさ、醍醐味を味わう機会でもある。

ソーシャルワークの使命(ミッション)は、ニーズキャッチ・発見を基盤に、それらの問題解決に向けてのサービスの提供、サービスの開発であり、それこそソーシャルワークの価値であることを忘れてはならない。

筆者は、今、①高齢者分野の介護保険制度外のサービス開発と供給の方法に関する研究(株式会社などが入所型施設で提供してきているサービスを細かく分節化させて、必要時に即応できるサービスシステムの開発をし、サービスを介護保険制度外のサービスとして提供している。従来の地域福祉実践はこれらの制度外のニーズに対応できているのであろうか)、②介護保険制度外の福祉機器、介護ロボットの購入・利活用に関する研究(障害者分野の補装具や介護保険の福祉用具の利活用と一般市販される福祉機器との利活用がボーダーレスになってきており、その相談、利活用システムのあり方が問われている。既に、福祉機器・介護ロボットの利活用・相談センターが制度外で動き始めている)、③障害者総合支援制度外のニーズキャッチとその商品開発、及びそれに関わっての新たな障害者の雇用形態、就労形態のあり方を考えた「起業化」が行われており、それにふさわしい経営形態はどういう組織がいいのかに関する研究、④「限界集落」、「消滅市町村」における「高齢者の、障害者のための福祉のまちづくり」ではなく、高齢者も障害者も参画した「福祉でまちづくり」という新たな第8次産業(第6次産業+障害者・高齢者・子育て中の親の参画+商店街を構成する生活衛生同業者組合も参画した地産地消・循環型地域経済)を創出することに関する研究に関心を寄せて実践に関わっている。「福祉でまちづくり」という用語は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画策定において使用したのが最初である。それは特に市議会議員の研修会でその必要性と重要性を指摘した。

この④の研究、実践は、文字通り地域福祉実践そのものに関わる実践であり、これは地方創生や立地適正化計画(コンパクトシティ計画)、あるいは休耕田、空き家対策等とも関わるまちづくり、地域づくりそのものの課題であり、地域経済に関わる研究、実践でもある。

山形県鶴岡市の地域福祉計画策定において、新しく特別養護老人ホームを100床、ユニット型で建設する構想(社会福祉法人鶴岡市社会福祉協議会立特別養護老人ホームおおやま、2005年)に際し、地産地消型の視点を取り入れるべく、商工会に特別養護老人ホームへの食材等を納入する協同組合を新たしく設立頂き、地元の商工業者に参入頂いた。全国の約7,000ある介護老人福祉施設(特別養護老人福祉施設)及び全国に約4,000ある介護老人保健施設がこのような発想で「地産地消」の取り組みをすれば、地域経済に与えるえる影響は大きく、現在言われている社会福祉法人の地域貢献の実態よりもその影響は大きく、これこそ社会福祉法人の役割、責務ではないのだろうか。

先に述べた島根県瑞穂町の実践のスローガンは「未来家族ネットワークの創造」であったが、それはもう民法上の血縁家族に頼っていたのでは「中山間地域」という地域での地域自立生活が維持できなくなってきており、地域に居住している人々が血縁を超えて“地域の未来家族”として生活をしていこうとする願いでもあった。

一人暮らし高齢者のみならず、地域生活している単身の精神障害者や知的障害者、非婚の男性、女性が増えることを考えると、これからは「少子高齢社会」もさることながら、「単身生活者の時代」になり、単身生活者の生活支援が深刻な課題になる。そこでは、血縁家族機能へ期待することは幻想である。家族が居なくても、家族に頼ることもなく、人生を全うできるように、日常生活自立支援のシステム、成年後見制度のシステム、入退院支援のシステム、死後の対応としての葬儀・遺骨の取り扱いも含めての支援等、本人の意思の確認と尊重を踏まえた“自立生活支援”のシステムを地域ごとに構築していかなければならない。まさに、「未来家族ネットワークの創造」である。ここでも従来の地域福祉実践の枠組みを再検討しなければならない。

今や、社会福祉の制度の枠に縛られた実践、制度を改善することのみに行きがちな“制度ビジネス”的な実践、研究を脱皮し、新たな視点での実践と研究が求められている。

とすれば、地域福祉実践も従来の枠を超えて、「福祉でまちづくり」の視点を大胆に取り入れ、かつその実践組織も社会福祉協議会や施設経営の社会福祉法人だけでなく、NPO法人、株式会社も含めた多様な組織体による起業化が行われ、そのプラットホームの上に地域自立生活支援が成り立つという新たな地域福祉の展開の時代として、研究枠組みも実践の方法も考え直さなければならない。

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーで取り上げられた徳島県のNPO法人どりーまぁサービスの山口浩志さんは在宅のALS患者や重症心身障害児者への24時間ケアサービスを提供しているが、その根源には住民からの相談を断らないという哲学がある。その相談こそが“ビジネスチャンス”であるという発想で、それに柔軟に対応するために、かつその実践の社会的評価を得るために、社会福祉法人という経営形態ではなく、かつ株式会社という経営形態でなく、NPO法人という経営形態を選択したと言っている。

同じく徳島県美馬市木屋平地区のNPO法人こやだいらの実践、高知県津野町の学校跡地を利用した「集落福祉としての『森の巣箱』」の実践、人口減に伴う利用者減による経営困難でJAさえも撤退した山間地域でのガソリンの供給から日常生活の買い物支援、全世代交流支援型のサービス提供等の多機能型の地域づくりを展開している地域の生活支援の中核的組織である「あったかふれあいセンター『いちいの郷』」の実践などは、従来の狭い地域福祉実践の枠を超えた地域づくりそのものであり、血縁家族を超えた、地域での住民の自立生活を支援する実践である。

徳島県美馬市木屋平地区(合併前の旧木屋平村)のNPO法人こやだいらの実践は、筆者が“ベッドサイドから診察室まで、スーパーから冷蔵庫までの実践”と勝手に命名したが、人口710人の集落(高齢化率58%)での、世帯単位ではなく、個人単位の加入による「集落福祉のNPO法人版」である。標高1,955メートルの剣山の中腹(標高800メートル、地区の集落は標高200~800メートルに散在)で、一面の雲海を下に見ながら、蝉しぐれの中で、住民座談会を開催し、木屋平地区の集落福祉をどう進めるかを論議し、NPO法人格を取得して行うしかないといった論議をしたことが昨日のように思い起こされる。

これからの地域福祉実践には「福祉でまちづくり」をスローガンに、基礎自治体を基盤にしつつも、共同性と土着性が強い稲作農耕によって作られた、自然発生的に形成された地域、自治会を超えて、一定の生活圏域ごとにより分権化(市町村からの地域組織への第3の分権化、東京都地方分権推進委員会及び東京都社会福祉審議会で、委員として筆者が提唱)させた新たな地域組織に再編成し、そこで地域の多様な生活課題を解決する多機能型地域組織を構築し、活動を推進していくことが求められる。

それはある意味、住民一人ひとりが「選択的土着民」(静岡県掛川市元市長の榛村純一氏が提唱)となって、地域づくりに関わることであり、それはある意味、住民総参加の直接的民主主義という、地域を“コミューン”にすることである。そこに「限界集落」、「消滅市町村」問題を乗り越える一つの鍵がある。NPO法人こやだいらや「ふれあいあったかセンター『いちいの郷』」の実践はその萌芽とも言える。

Ⅲ 行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク

イギリスのミヒャエル・ベイリイが提唱(1973年)した考えを基に地域福祉の考え方に関わる発展段階を整理すると① Care Out The Communityの時代、② Care In The Communityの時代、③ Care By The Communityの3つの発展の時期・時代がある。

筆者は、日本では1971年~1990年が①の時代で、1990年~2000年までが②の時代であり、2000年以降は③の時代に入り、社会福祉法制も社会福祉法への改称・改正で理念的にそれを求め、明確化したと述べてきた。地域におけるヴァルネラビリティの人々とその人々を排除しない地域のあり方を指摘した2000年12月の「社会的な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関する検討会」の報告書が出された意味は大きい。

ところで、コミュニティソーシャルワークという用語とその考え方は、1982年のイギリスでの「バークレイ報告」で提唱されたものであるが、イギリスではその考え方が実践的に必ずしも成功したとは言えない。

筆者は、日本的にコミュニティソーシャルワークがそれなりに定着できる状況になってきている要件として、(イ)まがりなりにも日常生活圏域における自治会等の地域組織機能があること、(ロ)全国の市町村に、地域を基盤として活動している社会福祉協議会が組織されていること、(ハ)全国の市町村に23万5千人の民生・児童委員と約5万人の保護司が設置されていることが大きいと考えている。

コミュニティソーシャルワークという考え方は、上記の③の時代には不可欠な考え方である。施設サービスから脱却し、地域での自立生活を支援していくためには、行政の力だけでは遂行できず、地域住民の参加、協働が欠かせない。そのためには先に述べた地域住民の4つの地域福祉の主体形成が求められる。

行政と住民との協働を促進し、住民の主体性を高め、住民自身が地域の問題を発見し、その問題に対し差別・偏見を持たず、地域から排除することなく、地域で問題解決を図る活動を推進するためには、住民の活動を活性化、促進させる触媒機能が重要であり、かつ行政と住民との協働を安定的に媒介させる機能が重要であり、それこそコミュニティソーシャルワーク機能である。

ところで、地域自立生活を支援するコミュニティソーシャルワーク機能の日本的発展段階には5つの段階があったと筆者は考えている。

第1の段階は、1979年にいち早く高齢化が進展していた秋田県が県単独事業として政策化させた在宅相談員制度である。一人暮らし高齢者を孤立させず、地域で見守ろうという実践で、社会福祉協議会と民生委員との協働の下に展開された。

筆者は、その初年度の在宅相談員の研修に招聘、参加させて頂いた。秋田県男鹿観光ホテルで行われた研修会では、従来の血縁的、地縁的見守りを昇華・発展させ、社会化させたシステムとして展開しようとする試みに社会福祉の新たな息吹と地域福祉実践の必要性を改めて認識させられた機会であった。そのもっとも優れた実践の一つは秋田県西仙北町社会福祉協議会の佐藤春子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)の取り組みで、「一人ぼっちの不幸も見逃さない」という映画になり、その後“黄色いハンカチ運動”等に繋がっていく。社会福祉協議会と小地域とが協働して住民の孤立やゴミ出し等のちょっとしたお手伝いを行う事業は現在でも全国で行われており、富山県のケアネット事業等も県単で行われている。

第2の段階は、1990年に「生活支援地域福祉事業(仮称)の基本的考え方について」(平成2年8月、生活支援事業研究会中間報告、厚生省社会局保護課所管)と題する報告書がだされてからである。

筆者自身が、コミュニティソーシャルワークにより関心を寄せ、その政策化に関わるのは、この研究会の座長を仰せつかってからであり、日本におけるコミュニティソーシャルワーク機能が政策的に、実践的に意識された年である。

この報告書に基づき、1990年度にモデル事業として展開され、その成果を踏まえて政策化されたのが1991年度より始まる「ふれあいのまちづくり事業」という大型補助金事業である。モデル事業は福祉事務所、保健所、市町村社会福祉協議会で展開されたが、最も報告書の考え方を踏まえ実践してくれたのは富山県氷見市社会福祉協議会の中尾晶美さん(中尾さんも「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、のちに事務局長を勤める)である。筆者は、氷見市社会福祉協議会へ約35年間通い、「バッテリー型研究方法」を展開した。最後の頃は、氷見市行政アドバイザーも勤めての実践だったこともあり、「ふれあいのまちづくり事業」は市町村社会福祉協議会で実施されることになった(このモデル事業の評価委員長は宮城孝現法政大学教授が担ってくれた)。

これが、実質的な意味での日本におけるコミュニティソーシャルワーク実践の始まりと言える。

この事業では、今日大きな問題となっている潜在的福祉サービスを必要としている人の発見、しっかりしたアセスメントによるケアマネジメントに基づく援助方針の立案、専門多職種によるチームアプローチ等が提唱された。また、制度の谷間の問題、多問題家族、多重債務者、在住外国人、核家族・単身者の入院時支援、家庭内暴力の問題等への対応の必要性と重要性を指摘している。

しかしながら、この「ふれあいのまちづくり事業」でコミュニティソーシャルワーク機能の具現化が図れたとはいいがたいと筆者は考えている。この補助事業が多くの市町村社会福祉協議会を活性化させる契機にはなったと思うが、コミュニティソーシャルワーク実践の具現化と先に述べた「生活支援地域福祉事業(仮称)」の具体化という点では筆者は必ずしも成功したとは考えていない。

第3の段階は、1993年から日本社会事業大学の社会福祉学部福祉計画学科の地域福祉コースの所属教員が研究会(研究代表・大橋謙策)を立ち上げ、厚生省(当時)の老人保健健康増進等事業の助成を受けて全国のいくつかの市町村をフィールドにして「在宅福祉サービスにおける自己実現サービスの位置とコミュニティソーシャルワークに関する実践的研究」を始めてからである。その研究成果は毎年報告書として出されているが、それを基に大橋謙策他編『コミュニティソーシャルワークと自己実現サービス』(万葉舎、2000年)が上梓されているので参照されたい。

そのフィールド市町村の一つである岩手県湯田町(当時、現西和賀町)社会福祉協議会において、主任ホームヘルパーの菊池多美子さん(「地域福祉活動指導員養成課程」の修了者で、全社協の「社会福祉主事養成課程」の修了者でもある。また、第1回こんぴら地域福祉実践セミナーのシンポジストとしても登壇)が実践していた事例に触れ、その実践こそがコミュニティソーシャルワーク機能を具現化させている実践であり、コミュニティソーシャルワーク機能の具現化を全国的に展開できると勇気づけられた実践であった(菊池多美子著『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記』万葉舎、1998年参照)。

その実践には、①アウトリーチも含めた問題発見、②フォーマルケアとインフォーマルケアとを有機化させて提供、③個別対応型支援ネットワーク会議の開催、④伴走型のソーシャルワーク、⑤ニーズ対応型サービス開発、⑥社会福祉協議会独自の新しい財源創出等の機能を濃淡含めて実践していた。その考え方に学び、実践を体系化すると同時に、新たな理論仮説を提起し実践もして頂いた。この実践に関わることにより、筆者はコミュニティソーシャルワーク機能の実践ができると確信がもてた。

ただ、その実践は必ずしも意図的な、自らの仮説をもって、検証し、見直すというPDCAサイクルの実践でなかったこと、組織的には容認され、実践されていたが必ずしも社会福祉協議会の計画的、組織的位置づけの下に行われていなかったこと、かつその実践はすぐれて個人的であり、システムとして構築されていたわけでなかったこと等の課題があった。

その後、これら湯田町の実践における課題を解決するためにはコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムづくりが必要であると考え、それには市町村地域福祉計画の策定との関わりが不可欠との認識をより強めさせることになった。

筆者は1970年代から市町村の地域福祉計画の必要性を論文で書いてきたし、先に述べた「ボランィア活動の性格と構造」のなかでも(地域)福祉計画の必要性を述べている。また、全社協が設置した「地域福祉計画研究委員会」にも委員として参加し、その委員会の報告書として1984年に上梓されている『地域福祉計画――理論と方法』(全社協)にも執筆している。筆者は、この研究会の論議を踏まえ、1985年に「地域福祉計画のパラダイム」という論文(『地域福祉研究』№.13所収、日本生命済生会福祉事業部刊)を書いているので参照されたい。

(註) 地域福祉計画策定委員長として1988年から取り組み、1990年に制定した東京都狛江市「あいとぴあ推進計画」(大橋謙策著『地域福祉計画策定の視点と実践』第一法規、1996年参照)や東京都目黒区が1990年から取り組んだ「目黒区地域福祉計画(福祉事務所と保健所を合体させ、人口26万人の区内を5地区に分け、その各々に保健福祉サービス事務所を設置)、あるいは同じく1990年から取り組んだ「遠野市ハートフルプラン」(大橋謙策他編『21世紀型トータルケアシステムの創造』万葉舎、2002年参照)等の計画策定の実践を行ってきた。
あるいは東京都児童福祉審議会(専門部会長・大橋謙策)において、筆者が委員長としてまとめた1990年の東京都東大和市の地域福祉計画で構想したものを、東京都児童福祉審議会専門部会に部会長である筆者が提案し、具現化して1994年から創設された「子ども家庭支援センター」(センターに保健師、社会福祉士、保育士を配置し、各区市町村に設置、現在58か所)等の政策提言及びその具現化の政策化及び実践がある。

これら一連の地域福祉計画において政策提言したことと、先のコミュニティソーシャルワークの実践課題の解決とを結び付けて提案し、システム化させたのが2000年4月から始まった長野県茅野市の保健福祉サービスセンターの実践である。

コミュニティソーシャルワークの発展の第4段階は、地域包括ケアシステムとコミュニティソーシャルワークとの連携がシステムとして確立できた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムであり、実践である(筆者は1998年から15年間茅野市福祉行政アドバイザーを担当)。

この時期は、厚生労働省も未だ地域包括ケアとか、地域包括ケアシステムという用語は使っていないし、政策化させていない時期であった。筆者は、1990年の岩手県遠野市の地域福祉計画づくりから「地域トータルケアシステム」という用語を使用してきた。

長野県茅野市は、地域トータルケアシステムの拠点としての保健福祉サービスセンターを市内4か所に設置(当時人口5万7千人、中学校区9)し、市役所内にいた福祉事務所の職員、保健課の保健師を再編成して配属した。それに加えて市社会福祉協議会の職員も配属して、子ども、障害者、高齢者の全世代に対応するワンストップサービスを展開することにした。

基本的には、行政職員(ソーシャルワーカー)、保健師、社会福祉協議会職員(ソーシャルワーカー)が3人1組でチームアプローチをすることにした。それは、フォーマルサービスとインフォーマルサービスとを有機化させることとアウトリーチ型のニーズキャッチをやりやすくさせるためであった。ある年の社会福祉協議会の職員は年間280日も地域へ出張り、住民の相談とニーズキャッチに努めた。社会福祉協議会のソーシャルワーカーを配属したのは地域住民の福祉教育の促進や住民のインフォーマルケア力の向上と活用の促進を図るためでもあった。

その保健福祉サービスセンターでは、フォーマルな制度、サービスのコーディネート、家族、地域の支え合い及び新たな意図的なソーシャルサポートネットワークの構築とコーディネート、更には福祉サービスを必要としている人を発見、あるいは新たに必要な福祉サービスの開発等の機能を総合的、統合的に展開できるシステムとして構想された。

しかも、そのシステムは地域の各機関の機関長レベルの連絡調整ではなく、個別具体的な問題を個々に解決するためのチームアプローチを行う個別対応型支援ネットワーク会議を開催し、具体的支援をリードする拠点システムとしても構想された。

また、茅野市保健福祉サービスセンターには、内科クリニック、訪問看護、高齢者デイサービス、訪問介護、地域交流センターを併設し、更には、システムとして内科クリニックと諏訪中央病院との病診連携、「かかりつけ医」制度の促進を図ることなども組み込んだ(大橋謙策他編『福祉21ビーナスプランの挑戦』中央法規出版、2003年参照)。

長野県茅野市の計画、実践において、筆者は保健、医療、福祉の連携のみならず、社会教育との連携を意識して取り組んだ。地域福祉計画づくりに社会教育との連携を意識的に組み込むのは、1990年の遠野市の計画づくりからである。

なぜ、社会教育との連携を意識化したかというと、福祉サービスを必要としている人を発見し、支えていく上で、地域住民の力はプラスに働く場合もあれば、ややもするとそれらの人々への偏見、蔑視が働き、排除の動きにもなる恐れがあるので、地域住民のこれらの問題への関心の醸成と理解の深化を図ること及び住民自身が福祉サービスを必要としている人の支援者になることへの変容が求められるので、そのためにも筆者は一貫して地域福祉実践には福祉教育が不可欠であると述べてきたし、その一翼を社会教育が担うべきであると考えてきたからである。

更には、「福祉でまちづくり」の考え方を実現していくためには、住民の問題発見・問題解決型の共同学習が必要不可欠であると考えたからでもある。

まさに、地域包括ケアの構築には住民の学習を推進する社会教育行政との連携が必要と考えたからに他ならない。

この茅野市の実践事例は、その後、静岡県富士宮市、掛川市、千葉県鴨川市等へ波及していく。

茅野市のシステムと実践は、2006年に制度化された介護保険制度の地域包括支援センターのシステムとしてのモデルであり、かつコミュニティソーシャルワーク実践を展開できるシステムのモデルでもあった。

2016年7月からは、東京都世田谷区(人口91万人)の27地区に設置されている地域包括支援センター(あんしんすこやかセンター)で、子ども、障害者、高齢者の全世代支援型のワンストップサービスが始まっており、その地区ごとにコミュニティソーシャルワーク機能を担う社会福祉協議会の職員が1.5人ずつ配属されて活動している。

筆者が、この間、手がけてきた地域福祉実践の考え方が国の政策のあり方に最も反映されたものとして、2008年に発表された『地域における「新たな支え合い」を求めて――住民と行政の協働による新しい福祉』がある。この厚生労働省の研究会の座長を勤めさせて頂いたが、筆者が研究し、地方自治体で実践的に制度化、政策化させた考え方がほぼ反映されたと思っている。

しかも、その考え方は、2009年から始まる「安心生活創造事業」というモデル事業の創設により実証的に検証されることになる。そのモデル事業の市町村に指定された中に香川県琴平町があるし、筆者がアドバイザーとしてシステムづくりに関与している千葉県鴨川市も含まれている。

これらの地域福祉実践の積み重ねが、理論的にも、実践的にも可能性があるという判断がなされたのであろう、2015年9月に発表された厚生労働省の「新しい福祉提供ビジョン」にこれらの考え方が政策的に引き継がれていく。

コミュニティソーシャルワークの第5段階は、この「新しい福祉提供ビジョン」をどう具現化させるかという時代である。

その理念をより強固に具現化させるべく、2016年7月に「我が事・丸ごと地域共生社会」実現本部が設置された。

そこで求められる実践課題を筆者なりに改めて整理すると、①筆者のいう4つの地域福祉の主体形成と福祉教育の課題、②「福祉でまちづくり」を推進する上で必要なニーズ対応型サービスの開発というソーシャルワーク機能を発揮できる職員の養成とそれを展開できるシステムづくりの課題、③行政と住民の協働を触媒・媒介させるコミュニティソーシャルワーク機能とそれを展開できるシステムの課題がある。

ところで、これらのことを具体的に実施できるシステムの運営のあり方とその市町村毎のアドミニストレーションはどうあったらいいのか等は研究的にも、実践的にも未だ緒に就いたばかりであり、地域福祉研究的にはほとんど皆無の状況である。

ましてや、これらの活動の担い手をどう養成し、配属できるのか十分な展望を持てていない。筆者が理事長をしているNPO法人日本地域福祉研究所は、全国の県、市、県社会福祉協議会、市町村社会福祉協議会等と協働して、多数のコミュニティソーシャルワークの研修の機会を担ってきているが、果たしてその研修内容や方法も今のままでいいのか、かつての「地域福祉活動指導員養成課程」のようなe-ラーニングも含めたより体系的養成課程を行う方がいいのか、かつ全国の市町村においてコミュニティソーシャルワークの養成・研修を実施することへの対応の展望は見えていない。

イギリスでは、大きな制度改革が行われるときには、必ずといっていいほどその制度改革を担う人材の養成のあり方を連動させて取り組んできた。日本では、制度は制度、人材養成は別か、あるいは制度に必要な人材を制度ごとの研修で養成するという立ち位置で行われてきた。そろそろ、ソーシャルワーク機能、とりわけコミュニティソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成を抜本的に考える必要があるのではないか。今の社会福祉士の養成課程がこれから求められるソーシャルワーク機能を発揮できる人材の養成として相応しいとは必ずしも筆者には思えない。

それらのことも含めて、「我が事・丸ごと地域共生社会」の実現にはいろいろ難しさがある、そうであればあるほど、改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とはを整理、確認しておきたい。それが常に意識されていないと、福祉サービスを必要としている人を発見し、その人々が抱える問題を“我が事”のように理解、共感し、その問題を行政と住民が協働して地域を挙げて解決することはできない。

そして、それを推進しようとすればするほど、行政と住民の協働を触媒・媒介するコミュニティソーシャルワーク機能が求められることを意識化しなければならないからである。

改めて、今求められているコミュニティソーシャルワーク機能とは、を整理、確認すると、①地域に顕在的、潜在的に存在する生活上のニーズ(生活のしづらさ、困難)を把握(キャッチ)すること、②それら生活上の課題を抱えている人や家族との間にラポール(信頼関係)を築くこと、③時には、信頼、契約に基づき対面式(ファイス・ツー・フェイス)によるカウンセリング的対応も行う必要があること、④その人や家族の悩み、苦しみ、人生の見通し、希望等の個人的要因を大切にしつつ、それらの人々が抱えている問題がそれらの人々の生活環境、社会環境との関わりの中で、どこに問題があるのかという地域自立生活上必要な環境的要因に関しても分析、評価(アセスメント)すること、⑤その上で、それらの問題解決に関する方針と解決に必要な方策(ケアプラン)を本人の求め、希望と専門職が支援上必要と考える判断とを踏まえ、両者の合意の下で策定すること、⑥その際には、制度化されたフォーマルケアを有効に活用すること、⑦そのうえで、足りないサービスについてはインフォーマルケアを活用したり、新しくサービスを開発するなど創意工夫して問題解決を図ること、⑧問題解決には多様な関係者の個別対応型支援ネットワーク会議を開催したり、必要なサービスを統合的に提供するケアマネジメントの方法を手段とする個別援助過程を基本的に重視しなければならないこと、⑨と同時に、その個別援助を支える地域を構築するために、個別対応型の必要なインフォーマルケア、ソーシャルサポートネットワークの開発とコーディネートを行うこと、⑩地域での個別支援を可能ならしめる地域づくりに関する“ともに生きる”精神的環境醸成、ケアリングコミュニティづくりを行うこと、⑪個別生活支援の外在的要因である生活環境・住宅環境の整備等も行うことを同時並行的に、総合的に展開、推進していく活動、機能である。

これらのコミュニティソーシャルワーク機能が十分意識化されない皮相的な取り組みで「我が事・丸ごと地域共生社会」という政策が展開されることに、行政も社会福祉関係者も、住民も十分留意しなければならない。したがって、市町村においてコミュニティソーシャルワークを展開できるシステムがない中で、安易に、コミュニティソーシャルワーカーという名称だけが一人歩きすることには気を付けなければならない。

おわりに

四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは20回続いているが、それは他の実践セミナー(日本地域福祉研究所主催の全国地域福祉実践研究セミナーが22回、房総地域福祉実践セミナーが14回、沖縄かりゆし地域福祉実践セミナーが8回等)と同様に、“継続こそが力なり”と思い、続けることを意識して、かつ参加してきた。この20回に亘る四国・こんぴら地域福祉実践セミナーのすべてに参加しているのは、筆者と越智和子さんだけであろうか。

ところで、このセミナーは原則的に県行政や県社協の力に頼らずに、開催地を中心に自分たちで実行委員会を作り運営してきた。また、このセミナーは県庁所在地ではなく、「限界集落」と呼ばれる中山間地で行うことを原則としてきた。それは、「草の根の地域福祉実践」を豊かにしたいという思いからであった。県庁所在地での開催は第17回セミナーの愛媛県松山市が初めてである。このような考え方も四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの特色の一つである。

高知県の足摺岬のある土佐清水市でのセミナーに539名が四国4県から集まり、討議をした光景には、正直鳥肌が立つ程の感動と感銘を覚えた。この土佐清水市のセミナーに参加して、中央集権的機関委任事務体質、行政依存的体質が大きく変わりつつあることを確信できた。

しかも、この四国・こんぴら地域福祉実践セミナーは、「地域福祉俳句会」は固より、ジャズを聴きながらの交流、あるいは徳島の阿波踊り、高知の「よさこい」踊りの体験等地域文化の野趣〈やしゅ、素朴な味わい〉に富んでおり、参加していてとても楽しい「集い」である。

本稿は「地域福祉の真髄」と題して3つの点に絞って述べてきたが、これ以外でもニーズキャッチの方法、福祉教育を実践する上での資料の作り方、市町村の地域福祉計画づくりの方法、コミュニティソーシャルワークを展開できるアドミニストレーションのあり方等も検討しなければ地域福祉実践は推進できないであろう。しかしながら、それらについては紙幅の関係もあり、後日に委ねたい。

また、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの実践の中でも高知市の「こうちこどもファンド」の取り組みや香川県の「香川おもいやりネットワーク事業」(施設経営の社会福祉法人と市町村社会福祉協議会と民生・児童委員との3者がコラボレーションしての生活のしづらさ、生活の困窮者を地域で支える活動)、あるいは本資料には都合により収録できなかったが、愛媛県愛南町のNPO法人なんぐん市場が取り組んでいる、精神障害者の退院支援と地域定着、地域自立生活支援の取り組みの実践、更には想定される南海トラフ地震への対策も考えた災害時支援のソーシャルワーク実践のあり方等これからの地域福祉実践を考える上で大きな示唆を与えてくれる実践についても考察を深めなければならないし、かつそれに関わってこれからの地域福祉研究上の意義、あり方についても論述しなければならないが、これも後日に委ねたい。

最後になりましたが、20年間、四国・こんぴら地域福祉実践セミナーの開催にご尽力してくれた日開野博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、越智和子さん、白方雅博さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、島崎義弘さん、佐和良佳さん、市川千香さん(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)、日下直和(「地域福祉活動指導員養成課程」修了者)さんをはじめ、お一人、お一人のお名前を挙げられないが、四国4県の市町村社会福祉協議会及び県社会福祉協議会の職員の方々、そして日夜、地域福祉実践に傾注されている方々、更には聖カタリナ大学、高知県立大学、松山大学、高知大学、四国学院大学の先生方等本当に多くの人々に支えられ、このセミナーが継続実施されてきたことにこの誌上を借りて改めて厚く御礼を申し上げるとともに、心より感謝を申し上げる次第である。

付記
本稿は2017年6月3~4日に、愛媛県松山市の松山大学で行われた日本地域福祉学会において、地元四国4県の地域福祉実践の発表の一環として編集刊行された『「地域福祉の遍路道」四国・こんぴら地域福祉セミナー資料集』に寄稿したものに一部加筆したものである。

謝辞
本稿は、一般財団法人社会福祉研究所『所報』第93号、2018年3月、1~17ページ所収の大橋謙策先生の玉稿です(一部削除・修正)。転載許可を賜りました大橋先生と社会福祉研究所に衷心より厚くお礼申し上げます。/市民福祉教育研究所

 

補遺
(1)社会福祉協議会は  “ 自己満足 ”、“ 唯我独尊 ”、“ 視野狭窄 ”  で生き残れるか?

新年に頂いた年賀状の中に、東京都の福祉局の職員として勤め、定年後に地区社会福祉協議会に関わり、草の根の地域福祉実践をしている方から、“社会福祉協議会は旧態依然で、改革する意欲がない”という嘆きの言葉が書かれた年賀状を頂きました。

私は厚生労働省が進めている地域共生社会政策の具現化には、社会福祉協議会が改革され、住民のニーズに対応する活動を展開できなければ、その具現化は難しいと思っていますし、かつ社会福祉協議会は生き残れないと思っています。

地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業は、包括的相談と福祉サービスを必要としている人の社会参加支援とそれを可能ならしめる地域づくりの3つの事業を三位一体として展開して欲しいとしています。

これを行うためには、市町村における第2層の専門多機関、専門多職種の連携と第3層の小学校区レベルでの住民参加、住民のボランティア活動の活性化が不可欠ですし、とりわけ第2層の機能と第3層の機能をつなげ、コーディネートする力が必要です。この第2層と第3層との有機化ができないと、また“新たな縦割り”を産みかねません。

これらの事業・活動を展開する組織として、最もふさわしい組織は市町村社会福祉協議会ではないかと私は思っています。

私の地域福祉実践、研究、教育は全国の社会福祉協議会とバッテリーを組むことにより展開され、体系化できました。言わば、私は社会福祉協議会によって“地域福祉研究者”に育てられたと思っていますので、身びいきすぎるかも知れませんが、上記の機能を考えたたら社会福祉協議会しかないと思っています。

1980年代から社会福祉協議会は小学校区レベルで地区社会福祉協議会づくりを推進してきました。その過程で、自治会組織や民生委員・児童委員とも深い関係を築いてきました。

1990年代には、住民に信頼される組織になるためには、住民のニーズに応える具体的サービスを展開し、そのサービス提供過程において、新たな住民のニーズを把握しようという「事業型社協」の考え方を打ち出しました。

また、1991年からは潜在化しているニーズを発見し、専門多機関でのチームアプローチによる支援を行う「ふれあいのまちづくり事業」を展開してきました。

このような経緯を考えれば、地域共生社会政策の具現化、重層的支援体制整備事業は社会福祉協議会がその中軸になって活動して“当たり前”だと私は思うのです。

しかしながら、冒頭に述べたように、社会福祉協議会は未だ1980年代までの“旧態依然”の活動、組織になっています。これで、社会福祉協議会はいつまでも行政からの補助金を貰えるのでしょうか。

全国各地の地方自治体では、9月の決算議会で社会福祉協議会への補助金の費用対効果が問われ、補助金の見直しの論議が各地の自治体で論議されています。あるいは、行政の監査委員会から社会福祉協議会への補助金の見直しの勧告もされています。行政の保健福祉部局が社会福祉協議会への理解を示してくれても、財政部局が理解せず、補助金カットの厳しい査定が続いています。社会福祉協議会が有している「基金」を全て遣い切ってから、改めて補助金の支出の論議を余儀なくされているところもあります。地方自治体の「指定管理制度」に伴う入札において、従来使用していた事務所がある社会福祉センターの管理運営に関わる指定管理で、社会福祉協議会が落札できず、他の業者に事務所代の賃料を払って入居している社会福祉協議会もあります。その場合の事務所賃貸料の補助金は行政から出ません。

このような状況下で、社会福祉協議会の経営のあり方は現在とても厳しい状況にあり、早く“眼を覚ます”必要があると思っています。

私自身、昨年だけでも岩手県、秋田県、福島県、香川県等の社会福祉協議会の経営問題に関する会議・研修に招聘され、上記のような状況と課題を提起し、コンサルテーションを行ってきました。

社会福祉協議会を取り巻くこのような状況を改革するためには、地域共生社会政策における重層的支援体制整備事業を受託し、第2層の地域包括支援センターの運営を軸にした専門多機関協働と第3層の小学校区の地区社協における住民参加、ボランティア活動とを有機化させる活動に取り組むしか“生き残る道はない”と考えています。

そのためには、従来の社会福祉協議会の事務局体制を改編し、地区社会福祉協議会ごとの「地区担当制」を導入し、その地区において福祉サービスを必要としている人の“発見”と個別支援に関する包括的総合相談を行い、かつその福祉サービスを必要としている人の社会参加に関する問題解決プログラムを開発・提供すること、更にはそれらの活動を住民が支え、ボランティア活動として協力するとともに、福祉サービスを必要とする人々を地域から排除することなく、蔑視をすることなく、共に生きていける地域づくり、福祉教育の推進を統合的に展開できる事務局体制に再編するしか“生き残れる道はない”と思っています。

そのためには、社会福祉協議会職員、総務部門の職員も、生活福祉資金や権利擁護部門の職員も、施設・団体支援部門の職員も含めてコミュニティソーシャルワーク機能の研修を受講し、その資質向上を図るしかありません。

厚生労働省の2015年の「新たな福祉提供ビジョン」(この報告書が地域共生社会政策の起点になる)の中で述べているように、“個別支援を通じて地域を変えていく”過程が重要なのです。

その点、テーマ型NPO法人は、福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに特化した活動を展開していますので、“個別問題”に強い“印象”を創り出していますし、事実、個別課題分野ごとに大きな成果を挙げて評価されています。

また、それらのNPO法人は今日のインターネット社会の機能をよく活用し、全国的に組織化を図り、個別課題分野における“発言力”(政治的にも、行政の信頼度においても、行政からの補助金獲得においても、クラウドファンディングにおいても)を高めています。

正直なところ、この間の内閣府等の政府の福祉サービスを必要としている人の個別課題分野ごとに取り組むNPO法人への評価は高く、政府の審議会での発言力や報告書における位置づけも高いものがあります。

それに比して、社会福祉協議会への評価、位置づけは“相対的に地盤沈下”していると思います。福祉サービスを必要としている人の個別分野の取り組みが全体的に増加しているので、その個別課題に取り組む団体・組織が増えることはいいことであり、その結果、社会福祉協議会が“相対的に地盤沈下”するのも当然でやむを得ないと考えるべきなのでしょうか。

私は、社会福祉協議会の位置は“相対的に地盤沈下”しているのではなく、“絶対的に地盤沈下”していると考えています。つまり、住民のニーズに対応しないで、相変わらず“旧態依然”の活動に終始し、“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に陥っているのではないでしょうか。

これらの課題は一朝一夕には解決できないと思いますが、せめてNPO法人と社会福祉協議会との“彼我の位置関係”を確認するためにも、各都道府県、各市町村で取り組み始めて貰っている「社会福祉関係資料集」の中に、これら「福祉サービスを必要としている人の個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている当事者組織・団体」の把握を行い、収録することが必要ではないかと思っています。

私は、富山県社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーク研修において、『社会福祉関係資料集』の作成の必要性を説き、富山県福祉カレッジと協働して立派なものを作成してもらいました。この実践の取り組みは、現在では千葉県、岩手県、香川県、佐賀県の社会福祉協議会に普及しています。

地域共生社会政策では、社会福祉法の改正で地域福祉計画等を作成する際に、「地域生活課題」を明確に把握することを求めています。私は、この改正が行われる前から、住民のニーズに関わる「地域福祉・地域包括ケアに関わる基本情報」を市町村ごとに、かつ地域包括支援センター圏域毎に作ることの必要性と重要性を指摘してきました。

上記の『社会福祉関係資料集』は、これらの国の動向を踏まえても必要な取り組みです。富山県では、コミュニティソーシャルワークの研修の時のみならず、いろいろな研修の機会に活用しています。

せめて、これらの『社会福祉関係資料集』の中で、全国の、各都道府県の、各市町村で活動している「福祉サービスを必要としている人への個別支援をしているNPO法人」と「福祉サービスを必要としている人々の当事者団体・組織」の一覧を収録することにより、“彼我の位置関係”を認識し、社会福祉協議会が陥っている“自己満足”、“唯我独尊”、“視野狭窄”に気付き、改革する契機になればと思っています。

そして、社会福祉協議会がそれらの組織、団体の参加の基にプラットホームを創り、その“中核的組織”として社会福祉協議会が活動を行い、社会的評価を高められればと祈念しています。

――「老爺心お節介情報」第38号/2023年1月2日(一部削除・修正)

 

(2)「バッテリー型研究」と「関係人口」

私は地域福祉研究の「研究方法」について長らく悩んできました。とりわけ、外部の人間として地域に入るのですから、“地域”との関わり方については悩んできました。

研究者として、“上から目線”で地域に入り、“教えてあげる”という“臭い”をさせながら、“地域を引っ搔き回し”、その成果をあたかも自分の“手柄”のように披歴する研究者に1970年代から辟易してきました

私自身はそれについては相当気を付けてきたつもりではありますが、住民の皆さんからみたら、同じような指摘を受けるのかも知れません。

また、住民の意識、関係等の大量的リサーチを行うのが地域福祉研究なのかとも思ってきました。

その地域福祉の「研究方法」については『地域福祉とは何か―哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』で述べたつもりです。一言で言えば、実践家と研究者が野球の投手、捕手のようにバッテリーを組んで、協働実践を行う「バッテリー型研究」が重要だと考えてきました。

そのことに関し、阪野貢先生が「関係人口」に関わらせて説明しているので参照して頂きたい。その一部を以下に抜粋しておきます。是非、阪野貢先生のブログ(「市民福祉教育研究所」<まちづくりと市民福祉教育>(63)2022年1月21日)を読んで下さい。

阪野 貢/追補:「関係人口」と「よそ者」―田中輝美の論考と大橋謙策の実践研究―
〇筆者(阪野)の手もとに、田中輝美(ローカルジャーナリスト、島根県立大学)の『関係人口の社会学―人口減少時代の地域再生―』(大阪大学出版会、2021年4月。以下[1])がある。
〇「関係人口」という用語は、高橋博之と指出一正の二人のメディア関係者が2016年に初めて言及したものである。「関係人口」とは、高橋にあっては「交流人口と定住人口の間に眠るもの」、指出にあっては「地域に関わってくれる人口」をいう。その後、田中輝美は「地域に多様に関わる人々=仲間」(2017年)、総務省は「長期的な『定住人口』でも短期的な『交流人口』でもない、地域や地域の人々と多様に関わる者」(2018年)、農業経済学者である小田切徳美(明治大学)は「地方部に関心を持ち、関与する都市部に住む人々」(2018年)、河井孝仁(東海大学)は「地域に関わろうとする、ある一定以上の意欲を持ち、地域に生きる人々の持続的な幸せに資する存在」(2020年)としてそれぞれ、「関係人口論」を展開する(73~75ページ)。
〇田中は[1]で、こうした抽象的・多義的で、農村論や過疎地域論に偏りがちな(都市部における関係人口を切り捨ててしまう)関係人口論に問題を投げかけ、関係人口について社会学的な視点から学術的な概念規定を試みる。関係人口とは「特定の地域に継続的に関心を持ち、関わるよそ者」(77ページ)である、というのがその定義である。この定義づけで田中は、関係人口を、移住した「定住人口」でも観光に来た「交流人口」でもなく、新たな地域外の主体、別言すれば「一方通行ではなく、自身の関心と地域課題の解決が両立する関係を目指す『新しいよそ者』」(69ページ)として捉える。その際、地域とどのように関わるかについて、関係人口の空間(「よそ者」)とともに、時間(「継続的」)と態度(「関心」)に注目する。(中略)
〇ここで筆者は、「福祉でまちづくり」の「スーパースター」(田中輝美の言葉)的な「関係人口」や地域づくりの専門家(「実践的研究者」)といえる大橋謙策(日本地域福祉研究所)の「バッテリー型研究方法」を思い出す。大橋のそれについては、本ブログの<まちづくりと市民福祉教育>(27)大橋謙策「地域福祉実践の神髄―福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク―」(2018年4月4日投稿)を参照されたい。
〇大橋は、全国各地の地域福祉(活動)計画の策定や地域福祉の研修会・セミナーなどに関わるが、その際の視点や姿勢はおよそ次のようなものである。

(1) 地域による実践の理論化・体系化と関係人口としての理論仮説の提起と検証(バッテリー型研究方法)を行う。
(2) 地域と長期間にわたって関わり、特定あるいは総合的・統合的な事業・活動への支援を継続的に行う。
(3) 地域による実践活動の活性化と、地域と行政や関係機関との協働を成立させるコミュニティソーシャルワーク機能(触媒・媒介機能)の展開、そのためのシステムの整備を支援する。
(4) 多種多様な、あるいは潜在的な地域課題の解決に向けた専門多職種によるチームアプローチの必要性や重要性を提唱し、その実現を図る。
(5) 地域との相互作用や相互学習の過程を通して、地域内外との交流や福祉等関係者(実践者)の組織化を促す。
(6) 地域による実践のプロセスとその結果の客観化・一般化や実践仮説の検証を図るために、著作物の刊行や地域によるそれを支援する。
(7) 地域による問題発見・問題解決型の共同学習(福祉教育)を徹底的に行い、地域(地域住民や専門家等)の社会福祉意識の変容・向上を図る。
(8) 地域との共同実践を通して地元自治体における福祉サービスの整備や、全国の地方自治体や国への政策提言を行い、その具現化の制度化・政策化を促す、

などがそれである。これらを総じていえば、地域による「草の根の地域福祉実践」を豊かなものにするために「継続は力なり」の意志を体して、理論と実践を往還・融合する探究的な「実践的研究」に取り組み、「福祉教育・ニーズ対応型福祉サービスの開発・コミュニティソーシャルワーク」を追究する、ここに大橋の「関係人口」としての具体的・実践的な視点や姿勢を見出すことができる。しかもそれらは、地域づくりや地域再生に「関係人口」が果たすべき役割や機能のひとつのモデルとして整理されよう。
〇なお、上記の(6)に関する文献に例えば次のようなものがある。紹介しておきたい。表記した地名は大橋が関わった地域である(それはそのほんの一部に過ぎない)。

・東京都狛江市/大橋謙策編著『地域福祉計画策定の視点と実践―狛江市・あいとぴあへの挑戦―』第一法規出版、1996年9月。
・富山県氷見市/大橋謙策監修、日本地域福祉研究所編『地域福祉実践の課題と展開』東洋堂企画出版社、1997年9月。
・岩手県湯田町(現・西和賀町)/菊池多美子著/『福祉の鐘を鳴らすまち―「うんだなーヘルパー」奮戦記―』東洋堂企画出版社、1998年9月。
・富山県富山市/大橋謙策・林渓子共著『福祉のこころが輝く日―学校教育の変革と21世紀を担う子どもの発達―』東洋堂企画出版社、1999年1月。
・山口県宇部市/宇部市教育委員会編『いきがい発見のまち―宇部市の生涯学習推進構想―』東洋堂企画出版、1999年6月。
・島根県瑞穂町(現・邑南町)/大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵共著『安らぎの田舎(さと)への道標(みちしるべ)―島根県瑞穂町 未来家族ネットワークの創造―』万葉舎、2000年8月。
・岩手県遠野市/日本地域福祉研究所監修、大橋謙策・ほか編『21世紀型トータルケアシステムの創造 ―遠野ハートフルプランの展開―』万葉舎、 2002年9月。
・長野県茅野市/土橋善蔵・鎌田實・大橋謙策編集代表『福祉21ビーナスプランの挑戦―パートナーシップのまちづくりと茅野市地域福祉計画―』中央法規出版、2003年2月。
・香川県琴平町/越智和子著『地域で「最期」まで支える―琴平社協の覚悟―』全国社会福祉協議会、2019年7月。

――「老爺心お節介情報」第33号/2022年2月22日(一部削除・修正)

 

(3)地域福祉研究者の「バッテリー型研究」

私は、1960年代、東京都三鷹市で中卒青年等を対象とした青年学級の講師を約10年間担当した。その際に、青年たちから投げかけられた言葉はいまでも忘れられないし、忘れてはいけないと“自虐”的と思えるほど意識して研究者生活をしてきた。

その言葉は“あなたたちが大学院に進み、研究できているのは我々の税金があるからではないのか。我々は、勉強したくても家が貧困で高校へも行けなかったし、大学へも行けなかった。だから、この青年学級で学んでいる。あなた方の奨学金も我々の税金で賄われているのではないのか。そいうことを考えてあなたは生活し、研究しているのかという”問い掛けであった。

当時は、東大紛争もあったりして、このような言葉がだされたのだと思うが、この言葉は自分にとって大変身に堪えた。そうでなくても、日本社会事業大学を進路として選択する際に、そのような考えを自分でしていたものの、直接、面と向かって、このような言葉を投げ掛けられると身に堪えた。それ以来、ディレッタンティズム(もの好き)で研究するのではなく、社会に貢献できる研究者になろうと誓った研究生活であった。

そんなこともあり、私は講演や研修を依頼されると、常に参加者にどのような“お土産”を持って帰ってもらうのか、参加してよかったと思える“成果”をどう提供できるのかを考えてきた。

また、講演や研修等の頂いた機会にその地域、その組織、その自治体から何を自分が学ぶかということを常に考えてきた。それは自分自身の学びであると同時に、参加者への“お土産”の素材を掴むことにもつながっていた。

その際の私の姿勢として、自分が学んだことや自分が知っている情報を“分かち与える”という、ややもすると“上から目線”になりがちな“教える”ということではなく、参加者がこれから考える糸口、課題を整理し、学びへの関心、興味を引き出せるような契機になればということを常に意識してきた。それは、言葉で優しく言うとか、言葉で励ますとかいうことではなく、参加者が主体的に考え、行動に移したいと思えるような問題の整理と課題の提起を志すことであった。

一方、私は1985年1月に『高齢化社会と教育』を室俊二先生と共編著で上梓した。それに収録された論文の中で、生涯教育、リカレント教育、有給教育制度等に触れながら、これからは高学歴社会と高度情報化社会が到来し、従来のような知識“分与”的、情報伝達的教育や研修は変わらざるをえないことを指摘した。

今、文部科学省はアクティブラーニングの必要性をしきりに強調しているが、それはかつて社会教育が青年団を中心に提唱してきた「問題発見・問題解決型協働学習」で言われてきたことと同じである。

このような状況のなかで、地域福祉研究者は、気軽に“地域づくり”、“地域共生社会”づくりというが、どのような立ち位置で研究し、どのような立ち位置で講演や研修に臨んでいるのであろうか。

他方、私は地域福祉実践をしている現場の方々と“バッテリーを組んで”、その地域、その自治体、その社会福祉協議会をフィールドにして研を行ってきた。そして、その研究は一時的なものではなく、長期に亘り、継続的に関わることによって行われるべきものだと考えてきた。

地域に住んでいる住民は、移転、移住しようにも、先祖伝来の土地、「家」のしがらみの中で生きており、気軽に移動できない状況を十分理解しないままに、外部から入り、外部の目線で“気軽に”地域づくりを言い、短期で関わりを切ってしまう研究方法は、あたかも住民の方々を弄ぶかのように思えていたからである。

私は、1970年に現在の東京都稲城市に移住し、地域活動を始めたが、それ以降、よほどのことが無い限り、この稲城市を離れることをしまいと決意を固めた。“地域づくり”を言うということは、それだけの重みのある取組であるべきだし、そうでないと住民の方々は納得してくれないと思ったからである。現に、そのような指摘は各地で幾度も聞いたし、聞かされてきた。

そんなこともあり、“バッテリーを組めた地域”には、長い地域では40年間のお付き合いをさせて頂いている地域もある。

ところで、このような文章を書いたのは、まさに「老爺心お節介」の最たるものかもしれないが、最近目にする論文等を読んでいて、研究者自身の立ち位置を明確にしないままに、取り組まれている実践を評価、紹介しているものが多く、地域福祉研究者として“一種の研究倫理”に抵触しているのではないかと思う論文を散見するからである。全国のいい実践は、大いに紹介し、情報共有化がおこなわれてほしいが、その場合でも紹介なのか、評論なのか、自分の学説の論証に使うのか等その位置づけは明確にしてほしいものである。しかも、その実践のアイディアは誰が出したのか、参与観察をするならばどういう立ち位置で行うのかを明確にする必要がある。最近、政治学の分野で「オーラルヒストリー研究法」が活用されているが、ある政策、ある実践がどういう形で企画され、政策化されていくのかを、その過程の力学も踏まえて研究が進められている。地域福祉研究においても、同じような研究の枠組みを作る必要があるのではないかと考え、この拙稿を書いてみた。

――「老爺心お節介情報」第23号/2021年3月25日(一部削除・修正)

 

(4)社会福祉実践における「実践仮説」と実践者の  “ ゆらぎ ”

筆者は、ここ数年千葉県、富山県、香川県、佐賀県、大阪府、岩手県の社会福祉協議会において、CSW研修を体系化させようと取り組んできました。その際、感じることは、社会福祉関係者の活動には「実践仮説」をもって意識的に取り組むという姿勢が弱いと感じている。

筆者が、東京都三鷹市の勤労青年学級の講師として取り組み始めたのは1966年度からですが、その際、小川正美社会教育主事から強く求められたのは、①勤労青年という教育実践の対象になる「学習者理解」を深めること、②これらの青年に対し、どのような教育目標を設定し、どのような教材や教育方法を駆使して実践するのか、1年間の、あるいは中期の「実践仮説」をもって取り組むこと、③年度がおわったら、「実践仮説」に基づいた実践がどうであったかを総括、評価し、文章化することであった。当時、日本社会事業大学の学部4年生であった私にとっては、それはとても厳しい“注文”であったが、それを意識化して取り組んだことが筆者を育ててくれたと今では感謝している。

三鷹市の勤労青年学級だけではなく、教育学分野では、教師が「実践仮説」をもって、実践に取り組むということが必要だと教えられてきたが、1970年代、社会福祉分野において「実践仮説」という言葉を使うと、関係者はその用語は初めて聞いたとか、「実践仮説」とはどういうことですかとか、用語の使用が共有化できないことに驚いた記憶がある。ある意味、社会福祉分野は“制度の枠”の中で、“制度に基づくサービスを提供”していたので、「実践仮説」という考え方を持たなくても通用してきたのかなと思ったことがある。

しかしながら、これからは制度が十分でなければ、ニーズに対応する新しいサービスを開発する必要があるし、生活のしづらさを抱えている人への伴走的支援によるソーシャルワーク実践が求められてきている。そこでは、実践者の「実践仮説」が大いに問われるはずである。

――「老爺心お節介情報」第21号/2021年1月18日(一部削除・修正)

 

(5)実践・研究における問題構造の把握と分析視角

私は、恩師の小川利夫先生から研究指導を受ける際、“おまえの分析視角は何か、そのナイフは先行研究を踏まえた理論課題を明らかにできる研ぎ澄まされているナイフなのか、それともなまくらなのかどうか?”、“事象に流されて、紹介するだけのものは論文とは言わない”等と常に戒められてきた。

そんなこともあり、私は論文を書くときに、あるいは講演をする際にとても十分とはいえないにしても、常に以下のようなことを考えて研究生活を送ってきた。

➀ 何故、その社会問題、事象を取り上げるのか、それを取り上げる意義は何か?
② 取り上げた社会問題、事象をどう分析するのか、その分析の視角は何か?
③ 分析したここの要因間の関係の構造を考え、何が幹で、何が枝で、何が葉なのか、枝葉末節を考えて、構造的に分析を行い、考えているか?
④ 分析をした社会問題、事象を通して、社会福祉学界に対してどのような理論課題を提起し、論述しようとしているのか、その理論課題に即した先行研究も十分ふまえて論述しているのか?

上記のことを私が意識して問題構造、分析視角という用語を使って書いた最初の論文が「現代児童の問題構造と分析視角」(『ジュリスト』572号、有斐閣、1974年10月)である。

自分のことを棚に上げておこがましいことを言うようであるが、最近の実践や研究において、上記のことがほとんど触れられずに、“犬が歩けば棒に当たる”類の研究姿勢が多いことはなぜなのだろうか?それは私達の世代の“大学院”での研究指導が不十分であったからであろうか。

――「老爺心お節介情報」第36号/2022年6月13日(一部削除・修正)

原田正樹/福祉教育実践の基礎―ICFの視点とサービスラーニング―


 

Ⅰ ICFの視点に基づく福祉教育実践

出所:原田正樹/ICF視点での福祉教育実践を展開していくために―福祉教育実践講座―/京都府社会福祉協議会、2014年3月5日。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と京都府社会福祉協議会に衷心より厚くお礼申し上げます。京都府社会福祉協議会の渡邊一真さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。/市民福祉教育研究所


 

 Ⅱ サービスラーニングと福祉教育実践

 

ご紹介をいただきました日本福祉大学の原田と申します。よろしくお願いいたします。今日は、「サービスラーニング」についてお話をさせていただくという機会を頂戴しました。サービスラーニングの考え方や歴史、また今どんな実践が行なわれているかなどを紹介したいと思います。

サービスラーニングとの出会い
私がサービスラーニングに初めて出合ったのは、今日のこの会の後援をさせていただいている日本福祉教育・ボランティア学習学会でサービスラーニングについて研究しようということで、1997年にアメリカへ視察に行った時のことです。

当時、アメリカのオハイオ州立大学のジャック先生という方が、特にアメリカの小学校・中学校のサービスラーニングにおいて非常にリーダー的な役割を果たしていました。そこで、90 年代の後半には毎年何回かオハイオ州立大学にお邪魔し、日本の福祉教育やアメリカで始まっているサービスラーニングはボランティア活動とどこが同じでどこが違うのかを勉強するために、実際の小学校や中学校の授業を拝見させていただきました。

アメリカのサービスラーニングの授業風景
ちょうどこれからサービスラーニングを始める小学校3年生の、最初の授業を拝見する機会がありました。州立の小学校で担任は女性の先生、クラスは当時20 名ぐらいで、子どもたちを前に先生がこのような問いかけをしました。「みんなが安心して毎日学校に通って来られるのは誰のおかげ?」。

子どもたちはみんないろいろ考えながら言い出します。最初に出てくるのは「お父さん、お母さん、家族のおかげだ」。その先生は、「そうねえ、お父さんがいてくれるからね」、「お母さんがいてくれるからね」と、子どもたちの意見を引き出していきます。「でも、それだけ?ご両親だけ?」との先生の投げかけに、また子どもたちは考えていろいろなことを言い始めます。

やりとりをしている中で、だんだんと子どもたちの中から「地域のおじさんやおばさんのおかげ」というような声が出てくるのです。「地域のおじさんやおばさんは何をしてくれるの」と先生がまた尋ねます。アメリカではスクールパトロールが非常にしっかりしています。日本でも最近、登下校のときに地域の方たちが見守りをしている所がありますが、アメリカでは当時からそれがしっかり仕組みとして地域の役割としてありましたから、「スクールのパトロールの人たち、おじさん、おばさんたちがいてくれるから私たちは安心して学校に通って来られる」と子どもたち。「そうね、あのおじさんやおばさんがいてくれるから、みんなが来られるのよね。他には?」と先生がどんどん広げて聞いていきます。そうすると、小学校3年生が「その地域のおじさん、おばさんたちがお金を出してくれているから、僕たちは学校に来られるのだ」と言うのです。そんな答えまでが出てくるのです。

もちろん州立の学校ですから税金で学校が運営されています。税金という概念がどこまでその小学校3年生でわかっているかどうかわかりませんが、いずれにしましても「地域のたくさんの人たちのおかげで学校が成り立っていて、私たちが安心して安全に学校に通って来られるのは地域のおじさんやおばさんのおかげなのだ」という話を先生が深めていくのです。

そういう話をある程度してから、今度は先生が質問を変えます。「では、みんなは地域のおじさんやおばさんのために何ができるの?」。その地域の人たちのおかげで自分たちは学校に来られているのだということを十分子どもたちが認識した上で、今度は「では、地域のその人たちのためにみんなは何ができるの」と切り返した質問をするのです。

そうすると、子どもたちが悩みながら「地域のお掃除ができる」「このようなことができる」ということをどんどん言い始めるのです。それを先生が一つひとつ受け止めていきながら、「みんなは地域のおじさんやおばさんたちのおかげで学校に来られているのだから、みんなが今度は地域に何をしようか」という話をしながら地域貢献のプログラムづくりに入っていくのです。最初の授業はそこまでです。その後、彼らが考えたプログラムを実際に実践してサービスラーニングが展開されていきます。

福祉観やボランティア観の違い
本学は福祉系の大学ですが、学生たちに「なぜ福祉の大学に来たのか」、あるいは「将来、福祉の仕事に就きたいと思ったのはどうして」と1・2年生に聞くと、その多くの学生たちは小・中学校のときに福祉教育でとてもいい経験をしているのです。

老人ホームに行って、すごく素敵な職員の方と出会っている。あるいはお年寄りや障害のある方と出会って、小・中学校のときにとてもいい福祉の原体験をしたことが、将来、福祉を学びたい、福祉の専門職になりたいというモチベーションにつながってきているということが学生たちにアンケートを取るとすごくはっきりしてくるのです。

20年前はこんな感じではありませんでした。福祉教育などは小・中学校や高校で行われなかったので、あまりそういうモチベーションの学生たちはいませんでした。むしろ家族や親戚に認知症や障害のある方がいる、そういう自分の家族のモチベーションによって福祉を志すというのが20 年ぐらい前の中心だったのです。

ところが、今は全くそういう家族がいるというわけではなくても、小・中学校のときの福祉体験が将来の職業選択につながってくるという子たちがすごく増えてきています。これはある面、小・ 中学校や高校で福祉教育の体験が非常に広がってきた一つの成果だと思うのです。

一方で、私は福祉系の大学で教えていますが、他の大学や学部でもボランティア論を担当することがあります。他の大学の経済学部や法学部の学生にボランティア論を教えると、人数は多いのですが、どう見てもボランティアに対して好意的ではない雰囲気があるのです。端的にいえば、「ボ ランティア論だったらそんなに難しくないだろう、単位が取りやすいから履修した」という雰囲気の学生たちが最初のときはたくさんいます。

彼らに最初の授業のときに「なぜボランティア論を履修したのか」、「大学に入るまでのボランティアの経験の有無」、「ボランティアの印象」などについてアンケートを取ります。7~8割方の学生たちは「ボランティアは強制労働だ。自分たちは小・中学校、高校のときに強制労働させられた。そのようなものをボランティアなどというのはおかしい」と、すごく批判的なイメージでボランティアを受け止めていることに愕然とします。福祉系の大学に来る、小・中学校・高校時代の福祉体験に対して肯定的な学生たちとでは180度ボランティア観が違うのです。

その否定的な学生たちの話を聞くと、「掃除など様々なことを学校の先生から強制的にやらされた。自主性だ、主体性だ、責任性だ、いろいろなボランティアについての言説は所詮建前であって、大人の偽善だ。我々はそのようなボランティアなどというものにはだまされない」と言うように、 ボランティアに対して厳しい意識を持ってボランティア論を履修してくるのですね。

「そんなことならボランティア論など履修しなくていい」とこちらは思うのですが、そうは言えないので、15回の授業の中でどうやって彼らのボランティア観を変えられるかというのが私にとっては一つのミッションになっています。

ボランティアとコミュニティサービスの明確化
その違いの根源を探していくと、どうも日本の福祉教育の関係者や学校関係者がボランティアを非常に歪曲して伝えてしまっているのではないかという疑問もあります。

アメリカでは、日本よりももっとボランティアは厳格に使われます。自主性、主体性ということをすごく重んじたボランティア文化をアメリカはつくってきました。コミュニティサービスというのは、今言いましたある一定のノルマや枠組み、もっと言えば教育活動そのもので、評価が伴う枠組みの中で行なうわけですから、=(イコール)ボランティアではなく、これはコミュニティサービスであるということをはっきり生徒たちに伝えるわけです。

コミュニティサービスというのは、先ほどの小学校3年生の先生の授業の導入でもありました 「あなたたちはたとえ小学生であっても地域社会の一人として責任があるのだ。地域の一員として果たすべき役割と義務があるのだ」と「市民性」をしっかり伝える。それは“自発的な”とか“主体的な”ではなくて、子どもたちの間に教育として伝えるというノルマの一つとしてコミュニティサービスをしっかり伝えるのです。

コミュニティサービスをやりながら、例えばオハイオ州では高校生には「年間320時間のコミュ ニティサービスをしなければならない」という時間の制約があります。年間320時間、何をやってもいいが、地域貢献の活動をしなければならない。それを証明してもらって320時間を果たしたというのはノルマなのです。

ところが320 時間終わった後にもその活動を継続する子たちが出てくるわけです。ノルマ終わっていても「継続して卒業までずっとこの活動を続けたい」というのはボランティアです。そこをはっきりと使い分けているのです。アメリカはこの地域貢献、コミュニティサービスを通して学ぶということを非常に大事にしています。

このボランティアとコミュニティサービスの違い、これをもっと意識的に日本では使い分けないといけないということを感じました。社会奉仕というのもそうですが、それをボランティアと置き換えて生徒たちに伝えると、生徒たちのボランティアの受け止め方は、すごくいい体験になる生徒群もいる一方で、強制労働と捉える生徒たちも出てくるわけです。それがボランティアの曖昧性、ボランティアのゆらぎをつくってしまった。

そういう意味でボランティアとコミュニティサービスはしっかりと使い分けることが大事です。今日お話するサービスラーニングはコミュニティサービスをしっかりと使った授業なのです。ボランティアを使ったものではないのです。コミュニティサービスという意図的・計画的につくられた 地域貢献の体験を使いながら授業をしていく。ここの違いがまず前提としてしっかりないといけない。サービスラーニングは決してボランティアを使った学習ではない、コミュニティサービスを使った学習なのです。“サービス”という概念がサービスラーニングの大事なところだと思っています。

大学教育におけるサービスラーニング
少し前提のお話をしましたが、実はこの間の中央教育審議会(中教審)でもサービスラーニングが必要だということがしきりに言われ、昨年、大学教育の中でもサービスラーニングを積極的に取り入れるよう、答申が出ました。

今日も大学関係者の方も参加していただいていますが、中央教育審議会から 2012 年の8月に「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」という答申が出ています。答申の中の質的転換の中で、「学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続け、主体的に考える力を修得する。そのためには質を伴った学修時間が必要である」と書いてあります。(資料➀)

大学教育の改革について矢継ぎ早にいろいろな答申が出て、各大学は「従来のような大学ではいけない、大学の教育内容をどう改革していくか」という教育改革に必死に取り組んでいるところです。

最近、文科省から出てくる“ガクシュウ”というのは、学び修める「学修」という字がよく使われるようになってきています。高校の先生方もご存じのとおりですが、“学び習う”ではなくて、“学び修める”「学修」という言葉を文科省は最近よく使います。

では、そのためにどうしたらいいか。答申には、「そのような『学士力』を育むためには、ディスカッションやディベートといった双方向の授業(アクティブ・ラーニング)への転換と、教室の中で講義を聞いているだけではなく、地域に足を運ぶ、サービスラーニングやインターンシップ等の教室外学修プログラムをしっかり教育課程の中に入れていかなければならないと書いてあります。

アクティブ・ラーニングとサービスラーニングの違い
アクティブ・ラーニングとサービスラーニングの違いは何か。概念だけ整理をしておきたいのですが、講義・講演のような方法は一方通行の授業なので、アクティブ・ラーニングとは言いません。 小・中学校の授業などでよくある、生徒・児童とのやりとりの中で問いかけをしたり、生徒が一緒に考えたりという双方向の授業をアクティブ・ラーニングと言います。

NHKがハーバード大学の「白熱教室」などを放映しています。かつて大学は、私たちもそうなのですが、「40 人のクラスだったら生徒とやりとりはできるが、200 人、300 人の大講義などはとてもアクティブ・ラーニング、双方向の授業などできない」と、できないことを前提に一方的な講義をし続けてきたわけです。

学生たちがわかる・わからないに係わらずに大学の講義は一方的に行われていたのですが、「たとえ 200 人、300 人の授業でも双方向の授業をしていかなければいけない」ということが、今、しきりに言われています。それはそれで我々大学教員としては本当に難しいです。15 人、10 人ぐらいのゼ ミであれば当たり前のことですが、300 人の講義の中でアクティブ・ラーニングをするというのは結構大変です。

もちろんオーソドックスに生徒たちに発言させてやりとりをするという方法もあります。若い先生方などは、最近はスマートフォンで生徒たちに発題をして回答をさせ、すぐに集計して、その割合がグラフになって出てくるといった、ITを活用した双方向の授業などもしています。

様々な方法をとりながら、とにかく生徒と教師が双方向でやりとりしながらアクティブに能動的に授業をしていくということがすごく言われるようになっています。

しかしアクティブ・ラーニングの中にサービスラーニングがあるわけではないのです。アクティ ブ・ラーニングというのはあくまでも学内での講義をどう能動的にしていくかということです。それに対してサービスラーニングやインターンシップというのは大学の中だけではない教室外学修で、フィールドに出て学ぶということがまず前提として出てきました。「学士課程教育はキャンパ スの中だけで完結するものではなく、サービスラーニング、社会体験活動や留学経験等は、学生の学修への動機付けを強め、成熟社会における社会的自立や職業生活に必要な能力の育成に大きな効果を持つ」とサービスラーニングの必要性について整理がされています。

ポイントは、「社会的自立を促す」ということです。サービスラーニングの側からすれば、まさに市民社会を担う市民の育成が「社会的自立」につながるということ。と同時に「職業生活」に必要な「キャリア教育」として外に出て学ぶということはとても意味があるのだということの二つが大きく強調されるようになりました。

したがって、「地域社会や企業等と大学は、プログラムとしての学士課程教育の質的向上のための、地域・企業参画型の新たな連携・協力に取り組むことが重要である。あわせて、学生に対する経済的支援の充実のための連携協力を進めることを望みたい」と書かれています。

COC(センター・オブ・コミュニティ)
今年度から文部科学省は全国から50の地域に貢献する大学をCOC(センター・オブ・コミュニ ティ)として選出して、そこに大型の補助金を付けて、まさにこの教育を中心的に担っていくというモデル事業を始めているところです。

その50大学は8月の上旬に発表されるので、まだどこかはわかりません。その発表がされますと、全国の50 大学(平成25 年度地(知)の拠点整備事業単独 48、共同4の合計 52が採択された)がこういう取り組みのモデルということでこれから5年間進めていくことになるのですが、文科省としてもそこに集中的にお金を付けて、これが実現するような仕組を全国で広げていこうと、いま政策としても具体的に動き始めているというところです。

サービスラーニングの定義
ただ大事なのは、サービスラーニングというのは先ほど言いました社会的自立やキャリア教育にもつながるということですが、実学、プラグマティズムの考え方が非常に強いのです。そのプラグマティズムの考え方がどういうようになってきたかというのをもう少し整理をしたのがサービスラーニングの定義でもあります。文科省の答申の中では「教育活動の一環として、一定の期間、地域のニーズ等を踏まえた社会奉仕活動を体験することによって、それまで知識として学んできたことを実際のサービス体験に活かし、また実際のサービス体験から自分の学問的取組や進路について 新たな視野を得る教育プログラム」と整理されています。

日本福祉教育・ボランティア学会としても、この定義は必要な要件がすべて入っていて、非常によく整理されているという解釈をしております。ポイントは三つあります。

〇「一定の期間、地域ニーズをふまえる」
イベントで1回だけやるようなものはサービスラーニングとは言わないということです。ただ、 一定の期間というのが2カ月なのか3カ月なのか1年なのか、これは解釈や状況がいろいろ違うかと思いますが、少なくとも1回のイベントだけではない一定の期間において、かつ地域のニーズに基づいているということ。つまり学校側がやりたい、生徒たちがやりたいということだけではなくて、地域が求めていることに対してしっかりとそれに応えていくということです。

〇「それまで知識として学んできたことをサービス体験に活かす」
ここがサービスラーニングの一つの特徴なのですが、教科教育があって、それ以外に何か体験をさせるということではないのです。教科教育とサービスラーニングや地域貢献したことをどうつなげて考えられるようにするかということですが、これは言うは易く、すごく難しいことです。ボラ ンティア体験、あるいはボランティア活動は課外活動で、好きな生徒だけが一生懸命やればいいのだという従来の日本でのサークル的なとらえ方とサービスラーニングとは違います。サービスラー ニングという地域貢献をすることによって、いままで学んできたこととそれが関連してくるという、ここが大きな特徴なのです。

このあたりは今日も来ていただいている、小平市の総合的な学習の時間で、クロスカリキュラム として山下先生たちがこのことをずっとやってこられました。小学校で学ぶ国語・算数・理科・社会と、いろいろな地域活動を総合的な学習の時間の中でどう結び付けるか、つまり何を総合化させるかというのは、まさにサービスラーニングの考え方と当てはまることになるわけです。

〇「実際のサービス体験から自分の学問的取組や進路について新たな視野を得る」
新たな視野というのは気づきを大事にするということです。体験と知識をつなぎ合わせることで、 新しい気づきを子どもたちの中にどうつくり出していくか。そういう意味では明らかにこれは学習活動です。ボランティアと大きく違うのは、学習活動としてこのサービスラーニングがしっかりと位置づいているということです。

サービスラーニングの導入
〇「専門教育を通して獲得した専門的な知識・技能を現実社会で実際に活用できる知識・技能へ の変化」
まさに実学です。大学の授業や講義でやったことは役に立たないということではなく、それを通じてどう社会貢献できるかということをしっかりとサービスラーニングを通して意識的に学び直すということです。

〇「将来の職業について考える機会の付与」
〇「自らの社会的役割を意識することによる、市民として必要な資質・能力の向上」
このようなことを通して、市民としての必要な資質・能力の向上が期待できる学修活動がサービスラーニングであるという整理を文科省が出しているわけです。

50 大学がCOCのモデルになると言いましたが、サービスラーニングをしている大学同士のネット1 1 ワークに加盟しているところはまだ30大学ぐらいしかありません。そういう意味ではまだまだこれからの状況です。サービスラーニングを意識せずに、地域に出て似たようなフィールドワークやっている大学はもっとたくさんありますので 30 大学しかしていないということではないのですが、意識的にこのサービスラーニングという授業モデルをカリキュラムの中に入れて、いろいろな大学とつながろうとしているところはまだ 30 大学ぐらいということです。これがこれから広がっていくだろうし、広げていかなければならないと思っているところです。

新学習指導要領
ここまでは大学教育の話をしましたが、これから始まります「新学習指導要領」の中でも幾つも大事なところが出てきています。今回の新しい学習指導要領は従来のものと少し変わってきまして、知識基盤社会を前提に「確かな学力」をどう育んでいくか。マスコミなどでは「ゆとり教育からの転換」などと言っていますが、そんな簡単な話ではないことはもうみなさんご案内のとおりです。

「『競争』と『共生』知・徳・体の調和」という中で、とりわけ奉仕の分野で言えば、「道徳教育、特別活動における奉仕体験の重視」が打ち出されていますし、「他者、社会、自然・環境と共生できる自分。→『開かれた個』の育成  生きる力」、このようなものをどう育んでいくのか。個人的には、コミュニティサービスを活かしたサービスラーニングが非常に重要であると考えていま す。(資料②)

いま東京都の先生方が取り組んでいらっしゃる奉仕の時間はすごく大事な役割を果たしていると思っていますが、それを学校だけで行なわずに、地域の教育力とどう連携するか、あるいは地域の教育力とどう協力して進めていくかということも同時に大切になってきます。これを学校だけでやるのはすごく負担感が強くなりますから、地域の仕組みにしていくということがこれからの大事な課題になるのではないかと思っております。

サービスラーニングの原型はジョン・デューイにある
サービスラーニングがどのように展開されてきたのか、少し歴史を見ておきたいと思います。アメリカにおける様々な研究の中では、サービスラーニングの原型はジョン・デューイが始め、そこに一つ大きな流れがあると言われています。

ジョン・デューイは言うまでもなく日本の社会科教育の最初のところを作った先生ですが、彼がこのサービスラーニングでも非常に重要な役割を果たしてきました。サービスラーニングや体験学習を重視し、従来の系統的教科学習を改革しようとしたジョン・デューイの一つの大きな功績があるわけですが、サービスラーニングの原型はそこから始まったと言われております。

ただ、ジョン・デューイが活躍したのは 1920 年代から30 年代の頃ですから、必ずしもそれが即サービスラーニングになったわけではなく、原型としてジョン・デューイの活動が一つのモデルになり、アメリカでサービスラーニングが広がったのは1980年代なのです。なぜこの年代に市民教育やサービスラーニングが始まり、広がったのか。

アメリカでも諸説がありますが、社会的な不安というのが一番大きかったと言います。80 年代は まさにレーガン政権の頃と重なってくるわけですが、新自由主義が始まって格差社会が広がりました。強い者・弱い者がいて弱肉強食のような中で「本当にそれでいいのだろうか」という人間のあり方、市民社会のあり方という問い直しが起こり、サービスラーニングを取り入れていこうという機運が 80 年代に現場の先生たちの中で非常に急速に広がっていったというのです。

これを聞くと少し日本にも似ている気がします。社会的な流れとしてなぜ、あえて奉仕体験が子どもたちに必要かというのを強く思う社会的な文脈と、80 年代のアメリカの文脈というのが、まだ検証しきれているわけではありませんが似ている背景があるように思うのです。

そういう中から90 年に、「国家及びコミュニティ・サービス法」という法律ができて、サービスラーニングが教育の中に義務化され、90 年以降は一気にサービスラーニングが小・中・高・大学の教育の中に入ってきます。

ただしアメリカの場合は、国がこの法律を決めたといっても州によって積極的に取り入れている州と、ほとんど取り入れていない州もありますから、必ずしも全国一律ということではありません。 これがアメリカの面白いところですが、こういう法律の中で 90 年代に広がっていきました。

アメリカのサービスラーニングの特徴も文科省の答申と構成は一緒
アメリカのサービスラーニングの特徴も文科省の答申と構成は一緒です。二つ大事な点として、コミュニティサービスをしっかりと位置づけ社会的課題の解決につなげるということと、学習者の変革や成長を意図することです。ボランティア活動ではなく学習と位置づけ、学習者が成長しなければいけない教育プログラムなのです。

「地域のニーズに応えること」「学習者の成長に寄与すること」を統合した形で、課外活動ではなく正課カリキュラムに計画的に問題解決型コミュニティサービスを組み込むというのが特徴です。

生徒たちが社会的ニーズに応えていきながら自己意識や価値観の問い直し、問題解決のための実践的知識やスキルの習得ができるよう、授業の中にしっかりと組み込んでいく。そのために「リフ レクション」という方法を非常に重視しながら、このことがつながるような教育プログラムをつくっています。

ジョン・デューイのセツルメント
ジョン・デューイ先生については、教育界では非常に有名な方です。なかでも体験学習の理論を生み出したというところに着目される方が多いのですが、彼自身は教育哲学者、とりわけプラグマティズムという実用主義に基づく教育哲学を生み出します。シカゴ大学で教鞭を取られたのですが、実はジョン・デューイは福祉の分野からも非常に注目されています。教育学者だけではなくて、とりわけ地域福祉の分野で非常にこのジョン・デューイは注目されています。

セツルメントは今の日本の地域福祉の源流ともされていますが、ジョン・デューイはハルハウスというアメリカでできたセツルメントの大きな拠点の理事を務めていたのです。セツルメントをする人を「セツラー」と言いますが、ジョン・デューイはセツラーとしても活動していたのです。

スラム街などの貧困層の地域に知識者が一緒に生活を共にしながら、彼らの生活改善をする活動をセツルメントと言います。1980年代の後半にイギリスで生まれ、1900 年前後にアメリカで広がっていくのですが、スラム街に知識者が一緒に寝泊まりしたり、居をそこに構えて貧困層の人たちと生活をしながら生活改善に取り組む活動があったのです。

「貧困の連鎖を断ち切るのは教育である」という立場をセツルメントはとりました。セツルメントが始まる以前はチャリティーが中心だったのです。「世の中で困った人たちがこんなにも増えてきた。その人たちに対して教会を中心にいろいろなものやお金、食糧を集めて分け与えていくチャリティーを中心に支援をしましょう」という活動が広がっていったわけですが、実はその資本主義社会がイギリスで広がっていく中で格差社会が出てくる。そうすると、「チャリティーだけではどうも解決しないのではないか。とりわけスラムという最貧困の人たちが暮らしている地域の貧困の連鎖を断ち切るためには、ものを分け与えているだけでは抜本的な解決にならない」ということになったのです。

「大人たちの貧困の社会の中で育った子どもたちはチャリティーで食べ物を与えてもすぐに食べてしまい、大人もお金を与えたらすぐにギャンブルで使ってしまう、そういう生活習慣を見て育った子どもたちは同じような生活をする。どこかでそれを断ち切っていくためには教育の力が必要だ、教育の力によって貧困を断ち切らないといけない」。そういうことに志をもった方たちがそこにセツルメントという拠点をつくりながら、生活改善を教育の力でしようという動きを1900 年代の初頭には、既に行なっていたのです。

21 世紀の今、日本でも貧困の連鎖が問題となり、生活保護世帯の子どもたちに学習支援が必要だということがしきりに言われるようになりましたが、100年前のセツルメントはもっと大々的にそういうことをやっていたのです。

ジョン・デューイの教育哲学
ハルハウスでも、ジョン・デューイは言葉が伝わらない特にスパニッシュの子どもたちの教育をどうしたらいいかということに悩みました。系統的な科学学習というのは言語を前提に教科教育がつくられてきている。でも、言語が伝わらない子どもたちにその科学的な系統学習はできません。 そこでジョン・デューイは体験を通して生き方を学ぶという、体験学習というものをセツルメントの活動の中から導き出していきました。

そのことが彼の教育学、教育哲学として体験学習の基礎的なものになり、彼は「教育は子どもの生活経験に基づかなければならない」と主張しました。この理論が非常に認められる時期もあれば、それが経験主義だということで軽視された時期もありましたが、2002 年に始まった総合的な学習の時間は、ある面、このジョン・デューイの再評価ということが言われました。東京大学の佐藤学先生たちなどがこのジョン・デューイと総合的な学習の時間の理論枠組みの整理をして、「学びの共同体」や「協同学習のすすめ」などの提起をされています。それが、サービスラーニングの理屈につながってくるのです。私も総合的な学習の時間というのは、ジョン・デューイが本当にシンプルに昔、言っていたことと同じだという捉え方をしています。

また、ジョン・デューイは「知識を知恵に変えるためには体験が必要だ」とも言いました。30 年前の子どもと今の子どもと知識の量だけ見たら、決して今の子どもたちが劣っているわけではありません。30年前の子どもより今の子どもたちのほうがはるかに知識や情報量はたくさん持っている。 それにもかかわらずいろいろな問題が起きてくる。

つまり、ジョン・デューイの言葉に置き換えれば、生きていく「知恵」となっていないのです。 知識や情報をたくさん持っていても、それが縦割りのまま子どもの中で総合化されていないわけです。国語・算数・理科・社会、いろんな形で学ぶわけですから、知識や情報はたくさん頭の中に入っていても、そのことが自分自身の中で総合化されていないから、いざというとき生きる知恵そのものになかなかなり得ない。

では、どうしたら知恵に還元できるか。ジョン・デューイは「体験を通して、経験に基づいて初めて知恵になるのだ」と言います。ジョン・デューイも「仕事」という言葉を使うわけですが、子どもにとっての仕事は何かといったら、「遊ぶこと」だというのです。子どもたちが、学校が終わった後、徹底的に遊ぶ。遊ぶ中で無意識ではあるけれど、国語や算数や理科や社会で教わったことを社会体験の中で、「あっ、これはこのようなことなのかも知れない」と当てはめていく。

学校で教わった知識の点と点が、子どもたちは遊びという一つの経験を通して、少しずつ繋がり合っていく。いろいろな人たちと出会ったり、社会体験をすることで子どもたちの中に総合化が進み、結果としてそれが知恵になっていく。知識を知恵にしていく。これはもう繰り返しですが、 ジョン・デューイがもう100 年も前に言っていた話なのです。

日本は総合的な学習の時間に何を総合化するのか
日本は総合的な学習の時間に何を総合化するのか。「総合学習」と言わずに、あえて「総合的な学習」と言ったのは、私は非常に含蓄のある言葉だと思っています。略して「総合学習」としてしまったがゆえに、何か新しい縦割りの一つの授業ができたような感じを与えてしまったのではないかと、個人的には思っております。その理屈というのは繰り返しですが、まさにこのジョン・ デューイの考え方、これは佐藤学先生の受け売りですが、こういうロジックになってくる。

つまり、サービスラーニングも、あえて総合的な学習の時間とは言わないまでも、まさにコミュニティサービスを通してこういうことをしていくというのは、そこに合致する理論枠組みがあるということと同時に、教育の面だけではなくて、まさに地域福祉や社会福祉の文脈からも、ジョン・ デューイの功績というのは、100 年後の今に投げかけてくるものがたくさんあり、彼の福祉の側面、 教育の側面をつなぎ合わせたものが、私は福祉教育そのものだと思っているのです。

福祉教育というのは、何も福祉の知識や技術を教えるのが福祉教育なのではなくて、人の生き方を伝えるのが福祉教育だと思っています。

サービスラーニングとボランティアの概念
コミュニティ・サービスというのは辞書で引いていただきますと、「地域社会の一員としての義務」と出てきます。「義務」という言葉が少し強ければ「役割」と言ってもいいのかも知れません。

もう一方、ボランティアというのは本人の主体性、自発性を重んじるもので、評価されたり、義務でやらされたりするものではありません。ボランティアを評価するのかしないのかという議論や、 ボランティアの有償性の議論があったり、ボランティアを取り巻くいろいろな議論がされていますが、私はこの主体性・自発性があるからこそ、ボランティアが浮かび上がってくると思うのです。

逆説的に言えば、ボランティアの自発性、主体性を大事にする以上、「ボランティアをしない自由」も認めていかないといけないと思うのです。「ボランティア(をする人)はいい人で、みんながボランティアをやるべきだ」とか、「県民総ボランティア」みたいなことを行政のトップが言いだすこともあります。

「国民総ボランティア」などという怖いことまではまだ言いませんが、でも、「ボランティアはいいことだから、ボランティアは全員がやるべきだ」というロジックに立ってしまったら、もうボランティアはボランティアでなくなってしまうわけです。そういう意味では、ボランティアを大事にするということをすればするほど、実はボランティアをしない自由ももう一方でしっかり認めていかなければ、ボランティアの本質が搖らいでしまいます。

それに対して、コミュニティ・サービスは違うのです。「地域社会の一員として役割を果たしていこう、地域社会の一員としてこんなことをしていくのが責任じゃないか」という問いかけをしますから、似たような活動ですが全く趣旨が違うものなのです。少し広がり過ぎる考え方かも知れませ んが、日本の今の社会がどうも戦後、地域貢献とかコミュニティ・サービスということをしっかりと教え切れてこなかったのではないかと思うのです。

民生委員にみる地縁組織の崩壊
今、地域の中でも3年に一度、民生委員が改選されるのですが、そのなり手がなかなかないのでどうするかということが大きな課題になっているのです。民生委員のなり手がないというのは、地域の役員のなり手がないとも言えるわけです。もう地縁組織が壊れ始めてきているわけです。「地縁組織が崩れていくのは時代のせいだ、そんなものは関係ない」と言い切ってしまっていいのか、地域というコミュニティの持つ役割というものを日本社会は戦後、重視してこなかったわけですが、 そこをどう考えていったらいいのか。

ただし、戦前や戦中の隣組という仕組みがあまりにも戦争の中に巻き込まれてファシズム化していった、という反省ももう一方ではあるわけです。そこの部分の総括と転換が戦後うまくできないまま、なし崩し的に「それはけしからん。いいものではない。地縁組織は封建的でよろしくない」 となった。高度経済成長のときにはむしろコミュニティを否定するような流れで、「自分が幸せならそれでいいのだ」という価値の中でこの地縁組織が崩れてきたのです。

誰が地域を支えるのか
今、地域を支えているのは 60 代、70 代の方たちです。この60 代、70 代の方たちがあと10 年後どうなっていくか。そのときに今の 40 代、50 代は本当に地域のことをやれるのか。よく60 代、70代の方に「どうしてこんなに地域のボランティアを一生懸命なさっているのですか。こんな忙しいのに。」と聞くと、皆さん異口同音に「昔、地域に世話になったから。小さい頃、地域のおじさんやおばさんに世話になったから。今それ相応の年になったときに、自分は地域に恩返しをしなければいけない。 地域の役に立つことをしたい」と言います。そういう層の人たちが地域活動を支えているわけです。

ところが、子どもの頃から地域の原体験がない子たち、あるいは、もうその世代が親世代になってきたときに、「なんで地域のことをやらなければいけないのだ」と、理屈がわからないのです。 地域のことが大事だと言っても、そういう原体験がなければ、「どうしてこんな地域のことを、ボ ランティアでしなければいけないのだ。だったらお金でなんとか解決しよう。」という話になっていくわけです。

まだ日本は、70 代、60 代の彼らが、日本の地域社会を今ぎりぎりのところで支えている。20年後、30年後、日本の地域が明らかに崩壊していくときに、それに代わる仕組みをどうつくっていくのかということも課題です。

ボランタリーな気持ちを育むサービスを教育の中につくり出す
このサービスラーニングのサービスというのは、まさに地域貢献なのですが、地域の方たちが本当になにかと手のかかる子どもたちを受け止めてくれるわけです。大学生でも全く一緒なのです。挨拶ができない、支度がだらしない、遅刻してくる、そのようなことばかりで地域の方たちに怒られるのです。

でも、それは彼らが社会に出ていくときにすごく大事な経験なのです。大学の講義の中で「社会福祉概論は」「社会福祉の法律は」などと教えるだけでなく、「そんな支度じゃだめだ」とか、 「なぜシャツを外へ出しているのだ」から始まるようなやりとりを地域の方たちからしていただくわけです。言葉づかいひとつ、挨拶ひとつ。そういう経験をしながら社会でどう生きていくかを学んでいくのです。

そういう原体験をしていく子どもたちや学生たちが増えていかなければいけないという意味では、 このサービスという捉え方を意識しなければなりません。だからといってサービスだけではだめなのです。一方ではボランタリーな気持ちを育くめるようなサービスをどう教育の中でつくり出していくかが大事になっていくのではないかと思います。

サービスラーニングプログラム作成のポイント
実際にサービスラーニングのプログラムをつくっていくときのポイントを、事例を通してお伝えしたいと思います。

<老人ホームの事例>
あるとき老人ホームを訪問しましたら、寝たきりの78 歳の男性が「来週、後輩が訪ねてきてくれる」と言うのです。どんな後輩なのか聞きましたら、「卒業した母校の小学校5年生が来週来てくれるのだ」と言うのです。その小学校は創立百何年という学校ですからまさにそうなのですが、その「後輩が来てくれる」という言い方が何かとてもいいなと感じました。

また2カ月ぐらいして訪問したときに、その男性に当日の話を聞いてみました。彼の母校の小学校5年生の子たちが来て、老人ホームの広いホールに利用者の方たちも集まった。ホールの前のステージに並んで、最初は「僕たちは○○小学校の5年1組です。今学校はこんなことをやっています」と少し学校の紹介をして、その後、歌を三曲歌ってくれたそうです。子どもたちが一生懸命歌ってくれれば、もうそれだけでお年寄りは感動したり、涙を流される方がたくさんいるわけです。

その後、代表の子どもが「今日は皆さんのためにプレゼントをつくってきました。もし良かったら、どうぞ使ってください」と言います。栞を作ってきていたのです。その栞を配る段階になると、 ステージにいた子どもたちが2~3人の少人数になってお一人お一人のお年寄りのところに栞を届け、自己紹介をしました。話を聞いた男性も枕元の壁にその日もらった栞を大事に張り付けていました。

お年寄りの側からすれば、もう何日も前から楽しみにしていて、歌を聴かせてもらって、栞ももらって、子どもたちの自己紹介も聞いて、だんだん気持ちが高まってきたのでしょう。彼もそうですが、「子どもたちがそばに来たら、あのようなことをしてやりたい、このような話をしてやりたい」という、いろいろな思いがお年寄りの中にはあったと思うのです。

ところが、その気持ちが高まった頃、引率されてこられた先生が「そろそろ時間ですよ」と声をかけたのです。すると子どもたちはまたステージにきれいに並んで、代表の子が「今日はとってもいい勉強ができました。ありがとうございました」と言うとまた学校へ戻っていってしまいました。 しばし、そのホールのところではお年寄りたちが呆然としていたそうです。

これは子どもたちにとってはよくできているプログラムなのです。学校の先生からすれば、事前準備は大変だったと思うのです。歌の練習もして、栞もつくって、お年寄りとどうやってコミュニケーションするかということも含めて、学校の中の事前学習でご苦労されて当日を迎えているわけですから、子どもたちから見るとすごくいいプログラムであるという思いがあったのだろうと思うのです。

ところが施設のお年寄りが何を望んでいたのか、そちら側のニーズは全く配慮されていないわけです。少し厳しい言い方をすれば、一方通行の関わりで、双方向の関わりになっていないのです。 得てしてこういうことがプログラムの中では起こりがちです。一方的に子どもたちがしたいこと、 学校の教師がさせたいことをさせてしまって、相手側、地域の側が本当にそれを望んでいるのかというところをうまく汲み取れないままの一方的なプログラムになってしまうのです。

サービスラーニングの要素
はじめは、「地域のニーズを探す」、そして「地域のニーズの解決に向けて企画をする」ということです。

しかし、これが悩みどころでもあります。生徒がやりたいことをやるのがサービスラーニングではないのです。地域の求めというものがあって、地域の求めに対してどう応えていくか。サービスラーニングの企画者としてはとても大事なことになってきます。この地域ニーズを実際はどうやって掴めばいいのか。学校の先生だけでやるのは負担が大きいと思うのです。地域ニーズを掴むのであれば、その地域の関係者とつながって、関係者を通して地域ニーズを探るというのが一番具体的です。つながるまでは大変かも知れませんが、つながってしまえば、あとはいろんな情報が入ってくるのです。ここの最初の段階が独善的になってしまうと、先ほどの事例のように最後まで噛み合わないものになってしまいます。

次に、「企画をしたことを形にするための準備」です。

しかし、これは全く新しいことをして地域に出ていく準備をするのではなく、今まで学習してきたことや力を活かすことなのです。先ほどの事例では先生は音楽の授業を通して合唱の練習をし、図工や国語の時間なども使いながら栞作りや学習をされていたのだろうと思うのです。「クロスカリキュラム」みたいな言い方もしますが、今まで学習してきたこと、あるいはその子の得意なことや強みをこのプログラムの中にどう活かしていくかというのが企画を形にするということです。

さらに、一定期間の「地域貢献活動」と「リフレクション」・「評価」です。

地域貢献活動を1回だけのイベントではなくて、一定期間行なう。その活動の後に、あとで触れますが、「リフレクション」を丁寧に行なう。このリフレクションはサービスラーニングの仕掛けとしては非常に重要になってきます。

最後に、サービスラーニングはボランティアではありませんから、必ず評価があります。評価をしっかりするということが必要です。

本学はサービスラーニングに取り組んで6年目になりますが、こういう一連の要素をとり入れて、実施している1年間のプログラムの流れを紹介します。本学の場合は、2年次でサービスラーニングを導入しています。大学では「初年次教育」という言い方をします。1年次の段階で大学の教育活動にどうソフトランディングさせていくか、どこの大学も1年次の教育をうまくやらないと、あとの4年間だめになってしまうということがあって、1年次の教育をすごく重視します。

3・4年次になりますと、どこの大学もゼミや専門教育に入っていきますから、2年次が中だるみになりがちなのです。1年次は初年次教育でリテラシーに満ちていますし、3・4年次になると、専門教育ということで、うちであれば社会福祉士や精神保健福祉士という資格教育に入っていきますから、この2年次のときに社会とつないでおきたいということで、本学の場合は2年次で1年間かけてサービスラーニングをしています。一番オーソドックスなものですが、4月の段階で「導入と意識づくり」、モチベーションを高めるという仕掛けから入っていきます。

「企画・計画」というのは、学生たち自身が地域に出ていって、地域で何が求められているか。 それをもとにしながら自分たちは何ができるかということで、前期、そのような企画をつくることをしていきます。この企画をつくる段階で、学生たちだけが独善的にしてもいけませんから、何度も地域に足を運んで関係者と話し合いをしながら、「自分たちができることは何だろうか」という企画をつくっていき、8・9月の間の2カ月間、「貢献活動」をいろいろさせていただきます。

後期からはリフレクションをしていくわけですが、このふりかえりを丁寧にしていって、最終的にはレポートやプレゼンテーション、報告会をしていくという、流れとしては非常にオーソドックスな流れで1年間つくっていくわけです。

トライアングルリフレクションの導入
そのリフレクションのときに学生自身のリフレクション、ふりかえりと、活動先からの評価と、それから教育活動ですから教員が一人ひとりの学生の評価をしていく。ただし、それだけだと学生の評価だけで終わってしまうので、学生自身も活動先の評価や担当教員や今回の教育プログラムの評価をします。ですから学生と活動先と教員が三者で、学生の評価をするだけではなくて、学生も活動や教育プログラム、あるいは自分の担当の教員に対しての評価をしますし、教員もNPOや活動先の評価をしますし、その逆に活動先も学生の評価だけではなくて、教員や大学のほうの評価もする。

これを図に描くと三角形の関係になりますが、実際にやると結構つらいのです。我々の教育プログラムそのものも学生からの評価と活動先からの評価というのをいただきます。特に活動先からは、 何年間かは本当に厳しい評価をいただきました。「挨拶からマナーまで、そこまで活動先の私たちがやらなければいけないのか」というようなことから、「我々が提供したことが将来どうなってくるのかが見えにくい。自分たちは忙しい中、学生たちをこれだけしっかり受け入れているのだから、その学生たちの成長やその効果をしっかりと報告してほしい」というご意見をいただく。

そうなると、2年次にやっただけではなくて、その体験した学生たちが3年次、4年次、あるいは卒業後どこに就職したかも活動先の方たちがすごく気にしてくださいます。そういう意味では、継続してつながりをしっかりつくっていかなければいけないというのがこのトライアングルのリフレクションということになります。

リフレクションの発展
リフレクションというのはサービスラーニングの中で言われてきましたが、リフレクションを最初に言ったのもジョン・デューイで、「リフレクティブ(反省的思考)が大事だ」と言いました。 その後、サービスラーニングの研究者の中で発展してきていて、「行為の中の省察」、クリティカル・リフレクションという「批判的自己省察」、あるいは最近では自分だけを評価するのではなくて、社会や活動そのものもしっかりと評価していかなければいけない、それもクリティカルに、批判的に捉えていかなければいけないという「批判的省察」というようなリフレクションの発展が出てきています。

日本のサービスラーニングや福祉教育では感想文を書かせることが非常に多いです。何か活動すると、生徒たちに感想文を書かせる。ところが、感想文を書いて終わってしまっているのです。このリフレクション、あるいはクリティカル・リフレクションという手法は、子どもたちが書いた感想文を素材にしながら、もっとそれを深めていくことなのです。

例えば老人ホームや障害者の施設に行った子どもたちの感想文は「またおじいちゃん、おばあちゃんのところに行ってみたい」というものもあれば、「もうあの施設には行きたくない」という感想を書く子もいるわけです。では、「行きたい」と言った生徒と「もう施設には行きたくない」と言った生徒、「どうして行きたくないのだろうね」「なんで、また行ってみたいの」と掘り下げていけば、もっともっとそこから深めていくことはたくさんあります。

小学校6年生が障害者の施設に行って「臭い」と言ったことに対して先生は「そんな失礼なことを言っちゃいけない」と怒るのですが、やはり施設は臭いのです。施設は生活の臭いがするところなのです。その生活の臭いに気づいた子どもの「臭い」という表現を、「何が臭いのだろう。家と施設は何が違うのだろう」と中身を掘り下げていけば、施設というものが持つ役割や機能を理解するというように、本当は広がるはずなのです。

「臭い」と書いて「それを書いてはだめだ」と言って叱って終わってしまったらリフレクションにならないのです。リフレクションをもっと仕組みとしてもうまくやっていかないと、日本のサービスラーニングは、感想文至上主義といいますか、感想文で終わっているのはもったいないと思うのです。

「ふりかえる」という語感が、自分のやってきたことをふりかえるという内省的なイメージを与えてしまうのです。リフレクションというのは、必ずしも自分がやったことだけをふりかえるわけではなくて、今までいろんな経験をしてきて、これからどうするかという、近未来に向けてつくり出していく力をどう養成していくかということがむしろこれからは大事になってきます。

最近は、クリティカル・リフレクションからさらに発展して「クリエイティブ・リフレクション」というところを考えていこうという動きが出てきています。一言で言えば、子どもたちが地域貢献をしてサービスラーニングをした結果、更に社会に提案をする力を身につけていくということです。

モデル―愛知県東浦町立片葩小学校の事例
具体的には愛知県の東浦町立片葩(かたは)小学校のサービスラーニングの事例がそのモデルになるのではないかと思っています。

全校 600人の小学校ですが、1年生から6年生までで「福祉」をひらがなで「ふくし」としてサービスラーニングに取り組み、「ふだんのくらしのしあわせ」を考えていこうと授業を展開してきました。子ども自身の有用感や学ぶ意欲を育みながら、もう一方で共に生きるという力を育んでいかなければいけない。共に生きるための関わりやコミュニケーションという力をこのサービスラーニングを通してしっかりと子どもたちに育みたい。そのために課題の設定をして情報を集めて 整理・分析してまとめ、それをプレゼンテーションする。この学びのプロセス、リフレクションを介した螺旋を重ねていくことで子どもたちの力を育んでいこうという課題設定で先生方が取り組まれたのです。

一つだけ事例を紹介しておきますと、交通事故で足を切断したAさんと出会い、子どもたちは1年間かけてAさんと交流してAさん自身の生き方や考え方を学んでいきます。Aさんが交通事故で片足を切断して今どのような暮らしにくさがあるか、今、社会の中でどんな困り事があるか、また同時に彼には子どもがいるのですがこれからどのような生活をしていきたいと思っているかを知る。

そのようなことを丁寧に小学生たちはいろいろと地域をまわりながら、インタビューや調べ学習をしていくのですね。その中から自分たちにできることは何かという提案型のプレゼンテーションを行う。クリエイティブ・リフレクションというのは、ただ自分がAさんと出会ってAさんから学んだだけではなくて、Aさんとともにこの東浦町で生きていくために自分たちは何をすることが必要なのかという、提案型の学習なのです。

みんなにとって暮らしやすい町ということで、Aさんにとってどんな町になったら幸せかを考えていく。これはAさんという当事者との信頼関係がないとできないわけです。Aさんにとって暮らしやすい町にしていくためには具体的な働きかけが必要である。それには自分たちは何ができるかということを表現していくという授業をされています。

最後の授業である報告会のときには地域の関係者の方たちに集まっていただいて、子どもたちが学んできた1年間の学びをプレゼンテーションしました。義足というのは、行政から支給される義足は重たくて非常に使いにくいそうなのです。接地面のところがざらざらしていて、すごく痛い。 実際に義足を使っている方たちは、行政から支給される義足ではとても生活ができないので自費で義足を購入している。その義足が200万円するそうなのです。その200万円するということを知った子どもたちは行政に対してもっと何か支援ができないかと提案した。

あるいは、このAさんが市営プールに行って義足を外したときに市民がすごくいやな顔をする。そういうことに対して子どもたちは、やはりおかしい、何か自分たちができることはないだろうかと考えます。単に町に要望するとか地域がおかしいというのではなくて、自分のこととして小学校6年生の子たちが「では、僕たちはAさんとこれからどういうおつきあいができるか」、そこまで深めながら子どもたちが学びをしていくのです。こういう提案型のリフレクションをサービスラーニングの中では考えていく必要があるだろうと思っております。

サービスラーニングにおける評価のあり方
このサービスラーニングをすることによって、どのような効果があるか、この評価の指針や評価測定の部分はこれからの研究課題だと思っております。多面的評価、あるいは総合的評価。これはもう高校の先生方もいろいろ悩まれてやっていらっしゃるところかと思います。もっと端的に言えば、道徳がもし教科になったときに、道徳をどう評価するかという大きな問題が突きつけられておりますが、それと同じようにサービスラーニングの評価というのもすごく課題があります。

一面だけで捉えてはならないので、多面的に総合的にサービスラーニングの評価をしなければいけないということはアメリカでも言われているのですが、では、何をどういうスケールでサービスラーニングの評価尺度をつくっていけばいいかというのは、これはまだ確定されたものがアメリカでもあるわけではないのです。生徒や子どもたちが地域貢献活動をして、枠組みの中でプログラムをつくってリフレクションをしていく。プログラムまではどうにかそういう形ができて広がってきていますが、残された課題はこの評価をどのようにしていくかということを考えていく必要があるだろうと思っています。

出所:原田正樹/地域の課題に取り組む―サービスラーニングを理解する―/スクールボランティアサミット 2013/認定NPO法人さわやか青少年センター、2013年8月2日。
謝辞:転載許可を賜りました原田正樹先生と認定NPO法人さわやか青少年センターに衷心より厚くお礼申し上げます。さわやか青少年センターの有馬正史さまには格別のご支援をいただきました。記して感謝申し上げます。/市民福祉教育研究所


寺谷篤志/過疎化 SDGs・社会システム(仕組み)の力:〔解説用ダイジェスト版〕


目  次

NO.1 社会システム(仕組み)創造は起爆装置
NO.2 なぜ、地域づくりに挑戦したのか ⇒ 誇りの創造
NO.3 小磁極は智頭杉/一貫した価値観 ⇒ 決然と実践
NO.4 智頭町地域づくりのステップ
NO.5 Ⅰ. 胎動胎動・内発期【1984~1994】⇒ 杉をテーマに挑戦
NO.6 1984年「杉板はがき」発案 ⇒ 自らの一歩
NO.7 1986・7年 鳥取県イメージアップ懇話会答申とっとりingsマン = 積極人間
NO.8 1988年 住民有志でCCPT設立 ⇒ 集団で起こす
NO.9 1988年 CCPT社会科学の学びの場
NO.10 <1986年 杉の木村(都市との交流)開村)>
NO.11 1989年 杉下(さんか)村塾開講 ⇒ 学習と実践
NO.12 講義-1.  1993年かや(規範)の理論 ⇒ 役場と連携ヒント
NO.13 Ⅱ. 連携・融合期:【1994~1997年】⇒ 連携10策
NO.14 ひまわりシステム(買い物代行)発案
NO.15 1995年グランドデザイン策定プロジェクト
NO.16 論文-1.  1995年 過疎地活性化のグループ・ダイナミックス
NO.17 1996年  ゼロイチ運動企画コンセプト
NO.18 1997年 ゼロイチ運動に7集落導入 ⇒ 住民が起こす
NO.19 ゼロイチ運動規約第2条基本方針 ⇒  落は活性化計画を実行
No.20 地域運営から地域経営へ
NO.21 Ⅲ.行政・参加期【1997年~2008年】⇒ 単独と合併論争
NO.22 中原集落の導入効果
NO.23 早瀬集落の導入時
NO.24 早瀬集落の10年後
NO.25 論文-3.  2013年 住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年
NO.26 地区振興協議会構想 ⇒ 集落振興協議会がヒント
NO.27 2008年 地区振興協議会設立⇒ 過疎化の起爆装置
NO.28 地区振興協議会6地区の内、5地区で設置
NO.29 論文-5.  2013年 旧村を住民自治の舞台に
NO.30 論文  旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ
NO.31 論文-6.  2008年 百人委員会スタート
NO.32 Ⅳ. 起業 ・発展期【2008~現在】⇒ 移住者・若者活躍
NO.33 智頭町もりのようちえん

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NO.1 社会システム(仕組み)創造は起爆装置

1980年代、過疎化・高齢化・少子化が現実となって押し迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外になく、他に存在はない。住民は時代の波に抗うことができない。ただ流れに身を任せている。このままでは地域はなるべくして疲弊する。1984年、決然と一歩を起こした。

1989年に改選が行われ、議長候補が多数派工作をして議員に金を配り、議員の半数が逮捕された。町会議長は2年交代が慣例化していた。町会議員の選挙違反が発覚した。そして、その議員が執行猶予にも係わらず1993年に町長選挙に立候補して当選した。また、元町長が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕された。町の封建的な体質に問題がある。智頭町に住んでいることが屈辱であった。

智頭町の活性化は、役場職員の覚醒化と住民の依存体質にある。どうすれば役場職員を覚醒化できるか、また、住民の規範を革新することができるのか、苦悶した。そして、英知を結集し秘策を練った。1997年にゼロイチ運動(仕組み)がスタート、起爆装置となって創発規範を醸し、智頭町は変わった。杉しかない町から誇りある町へと転身した。

秘訣は、社会システム(仕組み)の創造と、社会科学による調査・検証による。それらは住民にとって学習機会となった。

 

NO.2 なぜ、地域づくりに挑戦したのか ⇒ 誇りの創造

1.  封建的依存体質~規範の革新
2.  社会科学・行動科学の実践
 1969年 ピーターの法則(著)ローレンス・J・ピーター他
 《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》
 1979年 リーダーシップ論(著)松本順⇒次P4掲載
 1983年 帰郷、一匹のメダカの理論に挑戦、よき理論はより実践的である。小集団         活動、孫氏の兵法、経営管理(マズローの欲求概念等)
 1993年 かや(規範)の理論の講義、吸着誘導法
3.  社会システム(仕組み)の力
 1991年 四面会議システムを考案~参加型集団企画技法
 1994年 ひまわりシステムを発案~高齢者買い物代行
 1995年 グランドデザインを策定~ゼロ(0)からイチ(1)、無から有
 1996年 村おこしコーディネーター会議発足~計画実行システム策定
 1997年 日本・ゼロ分のイチ村おこし運動~集落振興協議会の設立
 2008年 領域自治システム~地区振興協議会の設立
4.  政策提案システム~2008年 住民と役場職員で協働

 

NO.3 小磁極は智頭杉/一貫した価値観 ⇒ 決然と実践

リーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」

 《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験 をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。

私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。

この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》

 

NO.4 智頭町地域づくりのステップ

1. 胎動・内発期:住民による突破型プロジェクト【1984~1994年】
 1984年  一歩を起こす
 1988年  CCPTを設立
2. 連携・融合期:CCPTと役場の協働プロジェクト【1994~1997年】
 1994年  小集団による10策のプロジェクト
3. 行政・参加期:ゼロイチ運動により行政参加【1997年~2008年】
 1997年  ゼロイチ運動スタート
4.  起業・発展期:移住者・若者による起業【2008年~現在】
 2008年  地区振興協議会(旧村単位)スタート
 2008年  智頭町百人委員会スタート
 2009年  もりのようちえん開園

 

NO.5 Ⅰ. 胎動胎動・内発期【1984~1994】⇒ 杉をテーマに挑戦

1984年 杉板はがき発案
1985年 杉名刺開発
1986年 鳥取県イメージアップ懇話会委員、とっとりingsマン=積極人間
1987年 木づくり遊便コンテスト
1988年 智頭町活性化プロジェクト集団(CCPT)設立
1988年 智頭杉日本の家設計コンテスト
1988年 智頭町活性化基金設立
1988年 社会システム思考講義 鳥取大学工学部教授 岡田憲夫先生
1988年 八河谷集落、住民と離村者実態調査(鳥取大学工学部)
1989年 智頭杉ログハウス建築事業
1989年 杉下村塾開講
1990年 世代別住民意識調査(環文研=近鉄)
1990年 大学生との交流“鳥になって智頭の空を飛ぼう“
1991年 四面会議システム考案、土木学会発表
1993年 講義「かや(規範)の理論」 京都大学助教授 杉万俊夫先生

 

NO.6 1984年「杉板はがき」発案 ⇒ 自らの一歩

 

NO.7 19867年 鳥取県イメージアップ懇話会答申とっとりingsマン = 積極人間

 鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだと思った。懇話会での出会いが人財ネットワークとなった。一寸の虫も五分の魂である。地域戦略ソフト機関をイメージした。

1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に、決意を寄稿している。
《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》

 

NO.8 1988年 住民有志でCCPT設立 集団で起こす

 智頭町活性化プロジェクト集団を設立
   (Chizu Creative Project Team略称CCPT)
 木材加工グループ等の集合体としてスタート
 学習・企画・実践集団を目指す

厳しいバッシング
 故前橋代表 「谷川の一滴の水も、掬う手を乗り越え、大河に通じる」
 メンバーは30人、あえて非公開とした
 活動はフクロウ(夜)集団
 リーダーシップはエディターシップ(水平型ネットワーク)
 臨機応変、変幻自在に展開する
 役場や助成団体の下請けはしない

 

NO.9 1988年 CCPT社会科学の学びの場

岡田憲夫先生指導<鳥取大学工学部社会開発システム工学科>

1) ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
 最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。

2)活性化プロセス
 ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。
 覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。
 次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。

 

NO.10 <1986年 杉の木村(都市との交流)開村)>

1988年 八河谷集落住民実態調査/可能性ゼロ
1989年 ログハウス建築事業

 

NO.11 1989年 杉下(さんか)村塾開講 ⇒ 学習と実践

鳥取県イメージアップ懇話会と社会科学の学び

テーマは「地域経営」 1989年~1998年(10年×10回)
 2泊3日 場所:最奥部八河谷集落 「杉の木村」
 地域リーダー、行政職員、科学者、研究者約40人
 講師無料 受講生の受講料3万円
 座学と議論、模造紙会議から四面会議システムの演習

 《智頭町で実現のため、塾後CCPTで検討し関係機関等と連携してプロジェクトを        立ち上げた》

 智頭町・地域戦略ソフト機関を目指す

 

NO.12 講義-1.  1993年かや(規範)の理論 ⇒ 役場と連携ヒント

京都大学助教授 杉万俊夫先生

1993年4月4日 講義から学ぶ(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)

 《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》

《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》

《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろ んなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をす る。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残 りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》

 

NO.13 Ⅱ. 連携・融合期:【1994~1997年】 連携10策

1994年8月   親水公園連絡協議会設立
1994年8月   郵便局と役場の連携プロジェクト
1995年1月   グランドデザイン策定プロジェクト
1995年5月   はくと・はるか・関空シンポジウム
1995年4月   さわやかサービス職員接遇研修
1995年12月 地域と科学の出会い館建設
1996年4月   村おこしコーディネーター会議
1997年4月   ゼロイチ運動担当者会議
1997年9月   ゼロイチ運動集落振興協議会連絡会
1997年12月 千代川流域圏会議

 

NO.14 ひまわりシステム(買い物代行)発案

役場と郵便局で連携プロジェクト

 

NO.15 1995年グランドデザイン策定プロジェクト

1995.1.14~智頭町グランドデザイン策定プロジェクトスタート
 第6回杉下村塾(1994.10)「智頭町のグランドデザインとは何か?」
 報告書:杉トピア(杉源境)ちづ構想⇒ゼロイチ運動を発案
 マイステージは「住民自治」・ユアステージは「交流情報」・
 フォレストステージは「地域経営」と意訳、ゼロイチ運動に3本の柱

チームリーダー役場助役  故前橋伍一氏
 各課横断的に職員            7人
 アドバイザー等
 京都大学教授              岡田憲夫先生
 企業コンサルタント  福田征四郎氏
 地域コンサルタント  平山京子氏
 コーディネーター   寺谷篤志

1996.4.12~村おこしコーディネーター会議スタート
 ゼロイチ運動企画書等住民5人と役場職員で策定

 

NO.16 論文-1.  1995年 過疎地活性化のグループ・ダイナミックス

智頭町の活性化運動10年について
京都大学助教授杉万俊夫

 「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」
(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)から抜粋⇒集落が経営感覚を持ち、創出された新しい総事

《・・・「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘めされていると考えることはできないだろうか。・・・》

 

NO.17 1996年 ゼロイチ運動企画コンセプト

1. 集落が手を上げ、住民と各種団体を包摂する集落振興協議会を組織し、地域計画         を策定して、10年間実行する。
2. 従来の集落運営方式は残しつつ、個人の資格でだれでも参加できる新しいボラン         ティア方式を採用した。
3. 集落振興協議会を智頭町の認定法人(みなし法人)とした。
4 .助成金は初年度と2年度は各50万円、3~10年は各25万円=合計300万円とした。
5. 計画のステップは、早瀬集落をモデルとし、四面会議システムで策定した。

【企画書の趣旨】⇒村おこしは、無(0)から有(1)への挑戦
その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。

 

NO.18 1997年 ゼロイチ運動に7集落導入 ⇒ 住民が起こす 

 

NO.19 ゼロイチ運動規約第2条基本方針 ⇒  落は活性化計画を実行

1. 村の誇り(宝)を創造する。(村の誇り(宝)づくり)
2. 住民自らの一歩による村づくりと絆づくりを行う。(住民自治)
3. 村の将来を見据えた計画をつくる。(計画策定)
4. 外の社会(海外や都市)との交流を図る。(国内外交流)
5. 村の生活・地域文化の再評価を行い、付加価値を図る。(地域経営)

【導入集落】 16集落
市 瀬 …市瀬自慢の田舎料理、しめなわづくり他
本 折 …花見会、ミニ傘作り、壁画作成他
中 田 …蛇の輪の復元、スイートコーン作り他
波 多 …集落大運動会、ギボウシ作り他
中 原 …そば作り、かずら細工、花作り他
白 坪 …みそ、福神漬け、吟醸付け作り他
新 田 …集落NPO化、カルチャー講座他
早 瀬 …竹炭、竹酢、みそ製造、東屋作り他
五月田 …考え地蔵まつり、椎茸原木作り他
上 町…智頭宿イベント、ふれあい広場づくり他
中 島…城跡遊歩道整備、紅梅管理他
岩 神…休耕田開放による野菜づくり、城跡整備他
早 野…高齢者給食サービス、草木染め他
奥 西…紅茶づくり、ヤーコン作り、視察他
浅 見…ログハウス作り、ほたるの復活事業他
芦 津…麒麟獅子舞伝承、地酒作り他

 

No.20 地域運営から地域経営へ

住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごと価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営で捉えられてきた。発想の転換である。

つまり、地域経営とは、その地に住む全ての人々(住民も行政マンも、また地域外の賛同者も)が、主体的に住民自治を行い。地域を経営する視点に立って、内在する、人、モノ、コト、技術、文化、社会システム など。あらゆる資源の価値を引き出し、持続可能な社会の実現に向け、地域の誇りの創造を目指す、ゼロ(無)イチ(有)運動である。

企業経営は、社会的使命と利潤の追求にある。ところが地域経営は、コミュニティの復興、地域経済の創造、主体(人財)形成など、一体的に地域実現を図る豊かさの営みによって、ウェルビーイング(幸せ・誇り) を手繰り寄せた。

 

NO.21 Ⅲ.行政・参加期【1997年~2008年】⇒ 単独と合併論争

1997年 ゼロイチ運動スタート(集落)
    (導入16集落/達成15集落) 2011年助成期間終了
1997年 元寺谷町長就任
2004年 元寺谷町長辞職
2004年 議会が単独決議
2005年 中国社会科学院羅紅光先生要請、ゼロイチ運動集落代表北京訪問
2007年 北京外国語大学「智頭の杜果樹基金」設立10年
2008年 山形地区・山郷地区振興協議会設立
2008年 元寺谷町長再選
2008年 智頭町百人委員会スタート

 

NO.22 中原集落の導入効果

創発的営み第2章「地区振興協議会で「創造的昔帰り」
中澤皓次氏

《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》

《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》

《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取 り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにし ても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活 力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けと なった。》

 

NO.23 早瀬集落の導入時

1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
会長 長石昭太郎氏

 《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者 不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣 根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集 落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》

 

NO.24 早瀬集落の10年後

2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代会長 長石昭太郎氏

《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》

 

NO.25 論文-3.  2013年 住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年

鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」
京都大学教授 杉万俊夫

(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)要約抜粋 ⇒ 活動による知恵

《・・・1987年から、最小コミュニティ単位である集落ごとに、長らく根づいた保守性、閉鎖性、有力者支配を打破し、地域を経営の視点で見直し、集落外と積極的に交流しつつ、住民自治を育む運動が開始された。智頭町における89集落のうち15集落が、この運動に参加した。・・・》

《・・・その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使いわけていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言が増したことが見出された。同時に、10年間エネルギーを発揮し続けた裏返しとして。「この辺りで一服」という正直な気持ちもあること。・・・》

論文-3 考察から抜粋⇒人口減少を衰退指標にしない

《・・・このような10年間に、2-3割の人は、ゼロイチ運動によって新しい自己実現の場を手にした。それとともに、明るい将来展望も芽生えつつある。女性たちも徐々に発言力を増しつつある。別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。
もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、 2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減 少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。・・・》

 

NO.26 地区振興協議会構想 ⇒ 集落振興協議会がヒント

2006年末には早瀬集落振興協議会の総括資料と、また、杉万先生からアンケート調査結果の事前説明を受けた。そこから、本命である地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。

地区版の構想ポイントは、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点を目指す。⑧運営要領等(企画書と規約以外)の仕組みづくりを委ねる。コンセプトの要点を整理した。

 

NO.27 2008地区振興協議会設立過疎化の起爆装置

企画書「2.運動の意義(次代の要請)」~「創造的昔帰り」「偉大な創造」
《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》

規約案の第1条(目的)~「ゼロに帰するか、イチを守るか」
《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》

地区振興協議会の規約第2条基本方針
1.地区の将来を見越した計画をつくる。(計画の策定)
2.地区経営ビジネスモデルをつくる。(地産地消の実現)
3.地域資源として人財バンクをつくる。(地域内外とのネットワーク)
4.地区統治モデルをつくる。(旧村の自治復興)>

 

NO.28 地区振興協議会6地区の内、5地区で設置

領域自治の拠点

NO.29 論文-5.  2013年 旧村を住民自治の舞台に

鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例
京都大学教授 杉万俊夫

(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)5考察から抜粋 ⇒ 社会システム(仕組み)創造の企図

《・・・本論文で紹介した3つの地区振興協議会の事例、また、山田・樂木・杉万(2013)が報告した山形地区の事例、さらには、地区ゼロイチ運動に先立つ集落ゼロイチ運動の事例は、「自分の地域を何とかする」ことが可能であることを教えてくれる。同時に、それらの事例は、「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。・・・》

 

NO.30 論文  旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ

集団力学研究所、2021年第38巻 pp.20-34
樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部准教授)

 《論文要約から~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。

本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》

 

NO.31 論文-6.  2008年 百人委員会スタート
 
政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)要約から抜粋、京都大学教授杉万俊夫 ⇒ 政策提案システム

《地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。

①百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。

②商工・観光・生活・環境・保健・福祉・医療・農林業・ 教育・文化な ど。③百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政 策の実行・実現にも当たる。》

 

NO.32 Ⅳ. 起業 ・発展期【2008~現在】⇒ 移住者・若者活躍

2009年 もりのようちえん開園
2010年 自伐型林業「皐月屋」創業
2011年 那岐地区振興協議会設立
2012年 小学校統合
2012年 土師地区・富沢地区振興協議会設立
2015年 田舎のパン屋タルマーリ―開業
2015年 智頭ノ森ノ学ビ舎林業技術習得塾開講
2015年 おせっかいまちづくり宣言スタート
2016年 山林バンク/北京の杜10年達成
2017年 中国厦門市院前社と山形地区振興協議会交流
2019年 内閣府「SDGs未来都市」認定
2019年 『創発的営み』出版
2020年 おせっかい奨学金スタート
2021年 『ゼロイチ運動と「かやの理論」』出版、ゼロイチ教室開講
2021年 横浜市立大学吉永ゼミ等と交流 2022年 『ギブ&ギブ』出版
2022年 智頭町まちづくりレガシー館開設
2022年 北京外国語大学主催、東アジア「農村地域の過疎化の発見と復興の可能性」シンポ
2023年 「過疎化SDGs・社会システム(仕組み)の力」執筆
2023年 「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店、春オープン(旧那岐小学校「那岐の風」)

 

NO.33 智頭町もりのようちえん

百人委員会から生まれた!

寺谷篤志/過疎化 SDGs・社会システム(仕組み)の力: 〔本編〕―地域経営組織をつくる 杉しかない町から誇りある智頭町へ―


目  次

はじめに―集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ
1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ
2. 社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた
3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間
4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講
5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見
6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける
7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート
8. 気づき、小集団が合流して群衆流へ
 
第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図
1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける
2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業
3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた
4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ
5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)
6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか
7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」
8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み
9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置
10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業
11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む
1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む
2. 創発規範の連鎖の拡大を検証
3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策
4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流
5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現
6. 域規範の「定点観察」、記録はメモから
7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング
9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味
10. 持続可能社会とコミュニティライフ
11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経
《引用文献》
 
第4章 身近に人生の師あり、独立自尊
1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく
2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る
3. 志を立て、国境(県境)を出奔する
4. 会いは神の計画、職場は人間形成の場
5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い
6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念
7. 希望の希求から新たな光が見えた
8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)
9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ
10. 無意識の力に突き動かされた
11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る
 
参考資料
著者紹介

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じめに― 集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

 秋田読書クラブの例会が、2022年4月24日㈰午後8時からZOOMで行われた。題本は『多様性の科学』(2021.6.25.第1刷)(著者:マシュ―・サンド)で、第6章の「平均値の落とし穴」を、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生が解かれた。明快な解説に得心した。草郷先生とは初めての出会いであった。解説をお伺いして社会システム(仕組み)の重要性を認識した。次回は7月24日、拙著『ギブ&ギブ、おせっかいのすすめ(以下『ギブ&ギブ』)』(今井出版発行)第3章を、私が紹介することになっていた。是非とも、草郷先生から拙著についての解説をお聞きしたいと思った。そこで『ギブ&ギブ』を出版後、即、智頭町づくり三部作をお贈りした。

7月24日㈰の読書会、最後の1分にコメントをいただいた。《実は三冊の本を送っていただいていたのです。(省略)ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみることで空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》(第3章9)と解析された。そして、間髪を入れず27日に、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店2022.7.15)が届いた。感謝、感激である。ご著書と解析に触れ、地域づくりの行動目的がはっきりした。つまり、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動(以下ゼロイチ運動)』(第2章)で、誇りの創造をテーマに地域づくりに取り組んだ。それはウェルビーイングを手繰り寄せるためであった。具体的手段が社会システム(仕組み)の創造である。草郷先生の解析によって1984年からの智頭町づくりと、2011年からの京都市マンション自治会の立ち上げの核心をつかんだ。

智頭町づくり三部作を夢中で編集したから導かれた。腎臓癌で命を救ってもらい、長年かかってやっと辿り着いた。応援してもらった方々の顔が浮かんだ。この納得感を、私一人の知識としてあの世に持って行くわけにはいかない、ムラムラと使命感が湧いた。今やらねば何時できる、わしがやらねば誰が書くとの心境であった。ところが、2022年の酷暑は凄まじかった。7月末から毎日パソコンにフラフラしながら向かった。構成は踏み込んで、また踏み込んで次が見えた、腐心しながら社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。やっと9月に入って推敲案を仕上げた。総括すると、社会システムが集落で奇跡を起こしていた。(第2章)

早速、PPと合わせ草郷先生にお送りした。「草郷です。修正資料を拝読させていただきました。セットで学生への貴重な資料になります。それから、差し支えなければ、関心のある知り合いに共有させていただきます。」といただいた。また、北京外語大学教授宋金文先生からは、「ゼロ分のイチ運動を社会システムの視点で整理して、いろいろ考えさせられることがあって、腑に落ちるものがあります。私も社会システム論の応用による境界突破という視点と、「制度創生と越境—過疎地域づくりの事例を通して」のテーマで社会システムの立場から、この事例の意味を総括しているところです。」といただいた。

本書は、二つのコミュニティにおける社会システム(仕組み)創造の実践記録である。編集から見えたことは、まさに結縁の連珠である。偶然の出会いが必然となり、出会いに意味が生まれ、まるで神の計画だったかのように人々との出会いが物語となった。生命があったからまとめられた。まず、出会った方々に心から感謝です!  2023(令和5)年2月—

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ                       

 1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ

智頭町への帰郷の話が突然舞い込んだ。1983 年 2 月、中国郵政局(広島市)でコンピューターの導入会議をしているところへ、那岐郵便局長の故長石公男氏が訪ねて来られ、喫茶店でお会いした。「寺谷君、地域に貢献する郵便局長になってほしい。」と諭された。10年前に智頭町内の郵便局の職員だったころ、青年団活動や総理府の第6回青年の船の団員として、オセアニアを訪問したことを知っておられて、是非とも決断してほしいと言われた。しかし、町の封建的で閉鎖的な体質に躊躇し即答できなかった。でも、いずれは故郷に役立ちたいと思っていた。妻から「あつしさんが必要とされている、智頭に帰ろう。」との一言と、一時、身体を壊していたので体調を考えて帰郷を決断し、二人の子どもを育てようと思った。

そうして50世帯ばかりの集落に住んでみると、過疎化・高齢化・少子化が迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外にない。しかし、役場職員は長年の封建体質で無気力となっていた。住民は時代の波に抗うこともできない、断腸の思いだった。その翌年、何とか一歩をと「杉板はがき」を発案した。鳥取国体の前年ということもあって全国から注文が殺到した。これを幸いに木工集団を組織して対応することにした。そうしたところ1986年に鳥取県知事からイメージアップ懇話会の委員の委嘱を受け、鳥取県のイメージアップ戦略に向けて議論を一年間行い、1987年春、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。早速、一人の積極人間として智頭町から発信した。夏休み、智頭杉にこだわって子どもたちに杉板を加工し応募してもらう、「木づくり遊便コンテスト」を開催した。全国から300点を超える作品の応募があった。地域を何とかしたいと一歩を起こし挑戦した。新しい出会いが夢を叶えるきっかけとなった。

1988年3月、智頭杉日本の家設計コンテストの開催に向けてコンサルタントに相談するため、故前橋登志行氏(後日、CCPT代表)と東京に向かった。早々に要件を済ませ、笹川平和財団に主任研究員の長尾眞文氏を訪ねたところ、長尾氏から地域の国際化に取り組む団体を支援し、社会人1名分の海外研修経費を助成すると伝えられた。帰途、新幹線の中で活性化策を相談した。その一つに、この際に社会人2名を派遣したい。二つ目は地域づくりの学習・実践集団を設立したい、と話し合った。善は急げと翌月、住民有志30人に呼び掛け、「智頭町活性化プロジェクト集団」(Chizu Creative Project Team:略 CCPT)を設立した。合わせて、鳥取大学の留学生を智頭町に招待しようと、長尾氏にお願いして鳥取大学工学部教授の岡田憲夫先生(現:京都大学名誉教授)を紹介してもらった。合わせて、「智頭杉日本の家設計コンテスト」は実行委員会を組織し、鳥取県職員の澤田廉路氏(現(一社)鳥取県建築士会専務理事)の協力を得て、賞金150万円2本(都市型と農村型)を役場に助成してもらい公募したところ、148件の応募があった。その年の12月1日、杉の御霊を祀った杉神社で厳かに表彰式を行った。

次に1989年には、八河谷集落で杉の木村(1986年に都市との交流に開村)を会場に、カナダのログビルダーを招聘して、智頭杉でログハウス5棟を建築する「智頭杉ログハウス建築イベント」を2ヶ月間にわたって開催した。そして、完成施設を集落に無償譲渡し、8月末、念願の社会科学を学ぶ場の「杉下村塾」(さんかそんじゅく)を開講した。そして、講師の一人である長尾氏からスイス山岳地調査に誘われ、9月末、スイスのシャンドラン(1,936メートル)の麓で、住民が検討委員会を組織して地域計画を実行しているコミュニティを視察した。そこで住民自治の種を見つけた。

その直後、町会議員の選挙違反が発覚した。議長候補者が金を配り議員の半数が逮捕された。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の変革にある。さて、どうすれば地域活性化ができるのかと悶々としていた。そうしていたころへ、岡田先生から「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と話され、第4回杉下村塾(1992年)に京都大学総合人間学部の杉万俊夫先生(現:九州産業大学教授、京都大学名誉教授)を紹介いただき、翌年の4月4日、第9回耕読会に『かや(規範)の理論』の講義-1を受けた。(第4章3)要旨。

《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』-講義1)

かやの理論は一匹のメダカの理論(第4章3)の補填となった。一年かけて地域戦略を練った。そして、意を決し翌年4月29日にCCPTの総会を開き、役場との連携(融合)を提案した。まず、第1弾として8月4日、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタートした。早速、買い物代行システムが発案された。まさに連想ゲームのようであった。そして、10月28日~30日に第6回杉下村塾を開催したところ、グランドデザインの策定と智頭急行シンポジウムの企画提案があった。こうなればトップマネジメントである。役場助役の故前橋伍一氏に一か八か相談した。快諾があった。そこで中国郵政局の協賛を得て、1995年1月14日、役場職員と研究者等で、「グランドデザイン(智軸づくり)策定」プロジェクトチームが発足した。7月、報告書の「杉(サン)トピア(杉源境)ちづ構想」がまとまり、その翌年の1996年4月、住民が地域計画を立て実行する仕組みづくりのため、「村おこしコーディネーター会議」が発足し、住民5名が委員の委嘱を受けて企画して、町長に計画案を答申した。そして、議会で決議され、1997年4月、起死回生策の『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』がスタートした。

2.  社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた

2006年に智頭町に移住し、2009年に「もりのようちえん」を開園した西村早栄子さんに、2016年に『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み(以下創発的営み)』を編集するためヒアリングを行った。そうしたところ、役場職員の積極的な姿勢と、「この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになる」と発言があった。地域づくりが、臨界値を超えて相転移を起こしていた。

《私は、鳥取県の職員として八頭総合事務所(当時)という、智頭町を管轄する機関に所属していた。智頭町では新しい事業がもたらされると、ほかの町村とは反応がまったく逆だった。智頭町以外のところはだいたいできない理由を必ず探すが、智頭町に持っていくと「やりましょう、やりましょう!すぐやりましょう。明日からでもやりましょう。」となる。新しいものに対して積極的で、他町村と比べると全然違う。(省略)それはやはり町長の影響も大きいが、長年に渡って住民がやってきた民意というか、住民自治での地域づくり、いわばゼロイチ運動とかの実績があるたらだと思う。十年前に始まった「百人委員会」では、住民が意見を出して住民自身が汗をかいて、それを行政が支援するという住民自治のスタイルがある。民間に対する信頼というか、住民が主役で行政を乗せていくというような雰囲気を感じる。行政に対しておんぶに抱っこを求めない住民をつくってきた、自立の地域の風土を感じる。》(『創発的営み』第 4 章 2)

《私たちがなぜ智頭町を選んだのかといったら、やっぱり「ゼロイチ運動」で住民が自立して、まちづくりに挑戦する精神が浸透していて、町に活気があることだ。ほかの町村と比べてもやっぱり智頭町ははっきり違っていた。この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになるのではないか。私たちも参加してお手伝いができるのではないかという雰囲気を感じた。この町のムードは、私たちが移住を決断する大きな誘因となった。》(『創発的営み』第 4 章 6)

西村さんは、住むなら智頭町へと決断された。もう一方、2015年に移住した「田舎のパン屋さんタルマーリー」の渡邉格氏ご夫婦は、役場職員の対応と地域体制を語っている。

《智頭町へ来る直接のきっかけは「森のようちえん」に息子を通わせるためだった。最初は岡山県美作市に住みながら智頭町に通わせよとしていた。それがなぜ智頭町に店も住まいも移ることになったのか。それは確実に役場の対応にあった。智頭町役場企画課のスピードと丁寧で確実な対応は驚くものがあった。》(『創発的営み』第5章4)

《例えば、旧小学校の駐車場にタルマーリーのお客様が車を停めることに対して苦情が出たことがある。最初に役場が使っていいと言ってくれたから大丈夫かと思っていたのだが、地域の方からそこには置かないようにと言われて戸惑った。そこで役場企画課に相談したら、企画課と地区振興協議会が相談してくださって、結果的には使ってよいとのことで落ち着いた。だから、いろいろな意見があっても、調整して治めてくれる体制があることは本当に助かる。》(第5章1)

お二人は外から見ていた智頭町と、住んで地域社会の評価を行い、確信を持って智頭町で輝き、内外に影響を与えている。つまり、社会システム(仕組み)が奇跡を起こしていた。

2006年に西村早栄子さんが移住するまでの間、智頭町で何が起こったのか。本書ではその取り組みを時系列で記述した。果たして社会システム(仕組み)は、コミュニティの持続可能にどのような影響を与えたのか、形成された創発規範はどのように連鎖したのか。それらを杉万先生が調査・検証されている。ところが、2010年3月にわが身に一大事が起こった。腎臓癌を発症し右腎臓を摘出した。さて、どう生きるか、2011年10月18日に京都市に移住した。たまたまマンション管理組合の理事に就任し、理事会に自治会設立を提案して臨時総会が開催され、2014年2月に自治会が設立された。本書事例は、二つのコミュニティで社会システム(仕組み)創造によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。その記録である。                                             

3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間

 帰郷した翌年の春、智頭町産のドウダンツツジを郵便小包で届けますと報道したところ、新聞・テレビで取り上げられ注文が舞い込んだ。そして、「智頭町どうだんつつじ祭り」が役場前で開催され、赤いバイクの後部座席にドウダンツツジが入ったケースを載せ、郵便配達をする様子がテレビ放映された。郵便小包のイメージからすれば意外性を演出した。この取り組みから地場産品を地域づくりのテーマにすれば、報道機関が取り上げられることを経験した。そして、7月に鳥取国体前年のミニ国体が開かれる。智頭町は空手会場である。その場に郵便局も臨時出張所を出店するが、記念切手を販売することになっていた。妻とお茶をしながら、郵便局なりの智頭町のオリジナル商品ができないかと話した。そこで「杉板はがき」のアイデアが浮かんだ。

早速、近くの製材所で建築用材の柱の端材を購入し、智頭農林高等高校の木材加工科で葉書版の厚さ1センチ程度の杉板を作ってもらった。枚数を揃えて地元紙に発表したところ大反響を呼んだ。智頭町に帰郷して僅かな期間だったが、アイデア郵便局長としてマスコミに取り上げられ、その宣伝効果もあってか、鳥取国体の翌年、1986年に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年後、鳥取県民の在り方を答申することになっていた。

1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に決意を寄稿していた。

《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》

鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだとはっきりと自覚した。一寸の虫も五分の魂の覚悟だった。

1986年、デザイサーの白岡彪氏、「杉の絵本・しんいなばものがたり」の製作機会をいただいた。
1987年、日本海テレビ副報道部長の須崎俊雄氏、「地平線」の執筆機会をいただいた。
1988年、コンサルタントの吉田幹男氏の鳥取交流サロンで長尾眞文氏と出会った。
1989年、写真家の池本喜巳氏、智頭杉「日本の家」設計コンテストの作品の撮影を依頼した。
1991年、鳥取大学の佐分利育代先生、智頭杉棒体操を考案してもらった。
2019年、今井印刷相談役の永井伸和氏、2022年に智頭町づくり三部作を刊行した。

イメージアップ懇話会で出会った方々は、鳥取県の積極人間を共有した人たちである。帰郷して3年で委員に選ばれグットタイミングで地域を学ぶ機会となり、各委員との出会いが人財ネットワークとなった。また、将来智頭町に地域戦略のソフト機関を実現したいと思っていたので、委員会での審議の経験は有意義だった。そして、1987年から「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」の三つをテーマに、とっとりingsマン=積極人間に挑戦した。

4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講

1988年4月、CCPTの設立と同時期に岡田先生に初めてお会いした。その時、何を研究されているのですかと訊ねた。そうしたところ「島根県の匹見町に行って、過疎の研究をしています。」と答えられた。それならば智頭町に来てくださいとお願いして、出会いをきっかけに手弁当でCCPTに社会システム思考の講義をしていただいた。当初、果たして地域に社会科学の学習の場を設けて人が集まるかと心配したが、講義を受けるためCCPTのメンバーが智頭町総合センターの会議室に集まった。郵便局の職員、役場の職員、製材所の経営者、農業・林業従事者、大工さんなど。そして、講義を受けて議論が始まった。ディベート訓練では年齢に関係なく、60歳を超えた人たちが熱くなって議論をした。予想を超えた。

1). ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。

2). 活性化プロセス
ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。

思いがけない学習の場であった。講義や議論の様子をみていると、地域に社会科学を戦略的に入れることは有効であると考えた。早速、身近な人たちに声をかけてみた。しかし、杉の木村は智頭町の最奥部で交通の便が悪い。誰が講習会に3万円も払って参加するものがあるか。地域は運営であって地域経営の概念はない、経営は企業である。と反対意見があったが、思い切って杉下村塾を開講した。当初は講義方式だったが、参加型集団企画技法の四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)を開発し、受講生と講師がほぼ同数で、地域テーマを設定して知的生産の場となった。開講趣旨は、明治維新は吉田松陰の松下村塾に始まったが、平成の維新は杉の下の智頭町から起こそうと気概を持った。1989年8月25日から27日の2泊3日、建築間もない杉のログハウスに合宿形式で参集した。開講テーマは1984年に一歩を起こしたCCPTの活動から、「地域経営」(2章2)とした。1998年まで10年(回)開催した。(『ギブ&ギブ』第1章5)

新しい価値の創造に向けての挑戦だった。現状は、他力本願、行政依存によって住民自治の意識は低い、実はそこに問題がある。例えば、住民一人ひとりが地域を治める意識を持ち、地域資源に唯一無二の価値を認め、住民が地域の主宰者として計画を立て地域を経営すれば、地域が変わるかもしれない。この視点を持てば、萎縮した地域社会から脱出することが可能ではないかと考えた。つまり、過疎化を真正面から捉えたとき、住民の一人ひとりが住民自治の自覚と地域経営の概念により、地域が変わると予測した。実証実験に向けて一歩を起こした。

5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見

第1回杉下村塾の開講直後、9月20~28日の9日間、スイス山岳地調査に長尾主任研究員と、岡田先生に同行して、アルプスの少女ハイジのモデルの町となったシャトーディを訪問した。街を取り囲むロケーションは山岳地から丘陵地へとなだらかに続き、スイスの絵ハガキの情景であった。その地にあるチューリッヒ工科大学の研究所で、スイスにおけるスリム化された行政と、住民と大学機関との連携等について説明を受けた。翌日、ヴァレー州にあるシャンドラン(1,936メートル)のホテルに到着した。ホテルに着いた途端に胸が息苦しくなり、頭がズキンズキンと痛んだ、高山病である。とうとう食事も取らずに寝床に倒れ込んだ。これまで経験したことのない苦しみと頭痛だった。(『ギブ&ギブ』』第1章6)

その翌日、さらに登って小さな集落を訪ねた。天気は快晴、せっかくのアルプスの景観だったが体調が悪い。山々を眺めると山岳部の中腹に点々と家が見えた。まさに天(点)村である。そして、峰の一軒のホテルに着いた。高山病で苦しいと通訳してもらったところ、早速、オーナーが大きな皿にトマトやキュウリをスライスして、着いて来いと言われた。そこはコミュニティハウスの地下蔵だった。並べられたワイン樽から赤いワインをコップに注ぎ、高山病の薬だと言って差し出され一気に飲んだ。赤ワインは妙薬だった酔ってくると頭痛から解放された。ところが、アルコールが切れると高山病がぶり返した。その様子を一生忘れることができない。

そのホテルのオーナーから、ご自身の半生と集落の盛衰が語られた。「今は避暑地として栄えているが、過去には村が存亡の危機にあった。その時、全財産を投げ打ってホテルを建てた。教訓として、まず自分の村に誇りを持つことだ。スイスは山岳地から始まった。自然との共生の中で生活してこそ価値がある。今朝も鹿を一頭獲ってきた、ホテルで提供する。子どもたちは海外から帰ってきて一緒に仕事をし、この村が好きだと言っている。」と、地域の存亡危機脱出の秘訣を聞いた。高山病と赤ワインとオーナーの話は、スペシャルメニューだった。そして、山を下りて麓のコミュニティ調査で、住民が検討委員会を組織し、主体性を持って予算を獲得して行政やコンサルタントの知恵を引き出し、地域計画を立て実行していた。住民自治の種を見つけた。

スイス山岳地調査の直前に智頭町の町会議員の選挙違反が発覚した。1989年に改選が行われ、議長候補者が多数派工作で有力議員に金を配り議員の半数が逮捕された。この時の屈辱感は、智頭町に住んでいることが恥ずかしかった。長年にわたる山林を持つ者と持たざる者の構図が、地域の独特の価値観をつくっていた。封建体質にこそ問題がある。

スイスから帰国後、CCPTでは世代別の住民意識調査(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第2章1)を実施した。住民の意識を冷静に分析しみると、高齢世帯(60代から70代)では、「CCPTと行政が連携すれば町は発展する」の項目の回答が63%みられた。これは依存体質の裏返しだと読んだ。その当時、岡田先生が「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と言われ、第4回杉下村塾(1992年11月6日から8日)に杉万先生を紹介された。11月7日㈯の夕方、杉万先生は杉の木村に入られた。外はみぞれが降って暗かった。初対面で研究の紹介があった。直感的に人間科学ですかとお伺いし、さらに、先生が書かれた本はありませんかと訊ねた。そして、翌年春の第9回耕読会(読書)の講師をお願いした。

6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける

1993年4月4日㈰午前10時、杉の木村には積雪が胸の高さまで掻き揚げられていた。山峡の地である。掻き揚げられた積雪に光が当たって眩しかった。そこで杉万先生から「かや(規範)の理論」の講義-1を受けた。人間科学を予想してテープレコーダーを用意していた。講義のポイントを紹介する。(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)

➀ ささやきかける、手を取る、肩を押しながら逃げる
《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》

② 「かや(規範)」は常に変化し、個人をしばる
《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろんなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をする。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》

かや(規範)の理論の吸着誘導法は、小集団活動の核心と受け止めた。テープ起こしをしながら、役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の革新が一度にできないかと考えた。ただ、この理論を実行するには、地域にある慣習的な良い人を捨てる覚悟が要った。それまで周囲からかなり批判を受けていた。地域では出る杭は打たれる。二人の子どもへの影響を考えた。しかし、自分には財産は何もない、そこで生き様を示すことだと覚悟した。それからもう一つ、地域社会では物事をすべて損得でみるが、それは軸受け(ベクトルの支点のリスク)を避けていることだと気づいた。なんであれリスクを取る覚悟である。どこまでやれるか挑戦だった。

そして、1989年に選挙違反した議員が執行猶予にも係わらず、1993年の町長選挙に立候補して当選した。また、それまで町長をしていた者が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕となった。そんな状況に発奮した。一年後の1994年4月29日にCCPTの総会を開き、役場とは対峙でなく、連携(融合)を提案し、智頭町の活性化は役場職員の覚醒化だと訴えた。

7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート

なぜ役場職員の覚醒化にターゲットに絞ったのか、それは職員が覚醒化することによって、住民規範が変わると予測した。まさに「かやの理論」の実践である。次の理由が考えられた。

➀地域で一番大きな事業体であり、雇用の場である。また、人材集積の場である。
②住民生活に影響を与える施策を実施している。施策に責任を持つ組織とする。
③国の過疎対策は的が外れている。声高に言っても仕方がない、この地に事実をつくる。
④地域を方向づける機関は他に無い。過疎化・高齢化・少子化、広域合併に備える組織とする。
➄住民規範は行政への依存体質である。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化が課題であり、住民のニーズに応えられる組織とする。
⑥職員に地域哲学(アイデンティティ)が無い。

1993年までの10年間にわたり役場職員を観察してきた。地域における公的機関の職員として意識が低く、長い間の封建的で保守的な体質は職員を無気力にしていた。つまり、職員訓練がほとんどできていない。1985年に就任したF町長は一期、1989年のO町長も一期、1993年のH町長も一期の町政が続いていた。そして、二度の町会議員の選挙違反による大量逮捕である。町政トップがぐらついていた。ここに連携(融合)を図る主因があると考えた。

まず、1994年8月4日、智頭郵便局と役場でまちづくりプロジェクトチームが発足した。当時、郵便局の社会貢献が課題となっていた。役場も他機関と交流することで活性化を考えており、お互いに思惑が一致して、連携プロジェクトをやってみようとなった。役場のメンバーは各課横断的に5名が選ばれた。郵便局の職員は意図的に町外から通勤する者を登用していこうと、内務職員2名と外務職員2名の4名とし、プロジェクトチームは計9名でスタートした。

会議は月1回、午後2時から4時までの2時間、会議の方法は司会と議事録係を交互に担当し、前回の課題に対する経過報告と、議事テーマを絞って討議に入った。討議方法はCCPTが開発した模造紙会議方式を使った。最初のブレーンストーミングで約30項目が出た。中でも高齢者と郵便配達を掛けて、「買い物代行(ひまわり)システム」が発案された。

〇国際ボランティア貯金、智頭町長フィリピン視察報告会の開催(1994.12)
〇国際ボランティア貯金、海外視察グラビア発行(1995.4)
〇税金自動引き落とし導入(1995.4)
〇水道料金自動引き落とし導入(1995.4)
〇役場前にポストを設置(1995.5)
〇綾木杯マラソン支援(1995.9)
〇智頭急行開業一周年記念事業、阪神・淡路大震災まちづくりリーダー会議(1995.12)

1995年4月、一部地区の試行で「ひまわりシステム」がスタートした。新聞、テレビ、ラジオで報道され大きな反響を呼んだ。何よりも嬉々として働く郵便局の職員に注目が集まった。その影響は役場職員にも伝搬した。1996年には智頭町全域でサービスが開始され、第一弾の連携策としては大成功であった。次の施策に向けて追い風となった。

 8.  気づき、小集団が合流して群衆流へ

第6回杉下村塾 (1994年10月28日から30日) を開催した。中日の29日、模造紙を囲み四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)の演習で、テーマごとに4時間にわたって議論を行った。テーマの一つに「はくと・はるか・関空」シンポジウムの開催を設けた。12月3日、鳥取県民の悲願である第三セクターの「智頭急行」が開通する。特急「スーパーはくと」に乗れば、京阪神に2時間でアクセスできる。さらに特急「はるか」に乗り継ぎ、関西国際空港まで所要時間は約3時間である。地域活性化の起爆剤にならないかと、シンポジウムの開催をテーマにした。このチームから、「智頭町のグランドデザインは何か?」と質疑が上がった。

智頭急行のシンポジウムの素案と智頭町のグランドデザインの策定構想を、助役の前橋伍一氏に提案した。実現に向けて取り組むと快諾された。早速、中国郵政局に協賛を要請するため、12月26日、前橋助役に小林総務課長と同行した。企画課長と助役の会談で協賛の内諾があり、地域づくりの本質論でグランドデザインの策定が話題となった。そこで、全体の事業費から100万円を充てることが約束された。翌朝、プロジェクトチームの陣容を説明して確認をとった。早速、電話で岡田先生と、杉下村塾で「はくと・はるか・関空」チームだった経営コンサルタントの福田征四郎氏、地域コンサルタントの平山京子さんにアドバイザーを要請した。

帰郷した翌日、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村の総務・企画担当者会議が開催された。大呂課長補佐の根回しで、議題に「はくと・はるか・関空」シンポが取り上げられ、3ヶ町村と郵便局(6局)でふるさとづくり実行委員会が設立されることになった。一度に、シンポジウムの開催とグランドデザインの策定と、二つのプロジェクトが動き出した。そうしていたところ、前橋助役が「CCPTの思いを五感で感じる。」と、身近な人に発言されたと伝わってきた。

1995年1月14日㈯、鳥取市内は豪雪だった。JR鳥取駅近くのホテルの会議室で、第1回グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクト会議が開催された。助役をチームリーダーに職員7名が指名され、アドバイザーは岡田先生と、福田征四郎氏、平山京子さんの3名である。コーディネーターは私が務めた。その後は、土・日曜日に会議が開かれた。そして、議論の上「杉」は智頭町民の精神的支柱であり、杉を「サン」と読み「杉(サン)トピア」「杉源境(さんげんきょう)」と、表記することに一決した。

2月5日、多くの住民が参加し、「どう生かすか、智頭急行シンポジウム」が開催された。

4月12日、役場職員の「さわやかサービス」の接遇研修が、経営コンサルタントの福田征四郎氏の指導の基、全職員を対象に開始された。当初、郵便局の9局でスタートし、民間企業も参加していた。そして、3ヶ町村の役場に導入された。

14日、「ひまわり (買い物代行) システム」の出発式が行われた。テレビ・ラジオ・新聞で大々的に報道された。町が一気に輝き、スタッフは自信を持った。次には全町でサービスの開始である。(『ギブ&ギブ』第2章1)

6月3日、「はくと・はるか・関空」シンポジウムの企画は、3ヶ町村の役場職員が当たった。大阪南港の太平洋トレードセンターで3ヶ町村の住民100名と、3ヶ町村出身の関西在住の知人100名を招待して開催された。一つひとつの施策が実施され、まさに群集流となった。

7月8日、岡田先生がカナダウオータールー大学から名誉博士号を授与となり、記念講演会を智頭町総合センターで開催した。テーマは「ゼロ分のイチ」であった。(『ギブ&ギブ』第2章4)

7月、グランドデザイン策定の詰めは、小林総務課長・大呂課長補佐と三人で、竹輪を齧りながら「杉トピア(杉源境)構想」の図表を、マイステージ(生活・自治)・ユアステージ(交流・情報)・フォレストステージ(森林・自然)と、3つのステージに整理した。報告書は平山京子さんの主筆によってまとめられた。関係者の手持ち資料としたが、経ってみると秘策はしっかりと根づいていた。1995年版CCPT活動提言書(P87-97)に収録している。

9月2~3日、CCPTと関係者とで先進地の広島県旧高宮町を21名で訪問し、地区振興協議会の活動の実態を聞いた。そこで智頭町では振興協議会を、利益要求団体や行政の下請団体等にしないため、時間はかかるが集落単位から地区単位へと展開することにした。そして、翌年4月12日、村おこしコーディネーター会議の委員の委嘱を住民5名が受けた。

1995年秋、杉万先生から論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)と、論文-2、「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫、2本の論文が届いた。1984年から取り組んだ地域づくりが調査・検証されていた。手元には、(ゼロイチ運動と「かやの理論」)講義-1と2、「杉トピア報告書‐ちづ構想」と、論文-1と2の三点が揃った。次の課題は実行案の策定である。これら三点をどう読み解くか大きなプレッシャーを感じた。ほぼ半年をかけた。

10月27~29日、第7回杉下村塾で「智頭未来色」をテーマに討論会を林新館で開催した。

これら紹介した施策は、CCPTと役場職員の連携施策である。手づくり施策の効果は計り知れない、地域に対して当事者に愛着が起こった。例えば、故藤原孝係長はひまわりシステムのリーダーとして、またグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動の企画に携わった。彼は、鳥取市との合併協議会の席上、「例え合併してもゼロイチ運動は譲れない。」と主張したと聞く。まさに智頭町づくりの自負心が言わしめたのだ。主体を持つことの大切さを学んだ。

 第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図

1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける

1996年2月、グランドデザインの具体案づくりに向けて、意を決しH町長に直接申し出た。プロジェクトチームを編成してほしいと直言したところ、返ってきた言葉は住民5名を選んでもらいたいとあった。1996年4月12日、町長の指名により委員の委嘱を受け、「村おこしコーディネーター会議」が発足した。私はコーディネーターの役割を務めた。その企画会議では論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)の「結語」が役立った。紹介する。

《あくまでも一つの可能性に過ぎないが、CCPT集合体が、一つの可視的「集団」としての様態から、より境界があいまいな、より緩やかな連結によって維持される様態へと変化するかもしれない。しかし、仮に、「集団」としての可視性を減じたとしても、あたかも変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう、もし、そうなれば、それは一山間の過疎地の現象と言うにとどまらず、現在の日本社会が直面している大きな課題の一つ、すなわち、新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言えるのではないか。》

杉万論文の「結語」に武者震いした。この「・・・新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言える・・・」に刺激を受けた。大体、行政機関ではグランドデザインの報告書があれば一段落である。しかし、文中「・・・変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう・・・」と、新しい社会システムの構築に向けて自負心がくすぐられ、さてどんな仕組みをつくるか、山間の智頭町から社会革新を起こす覚悟をした。その時のわくわくドキドキ感を今でも思い出す。時をかける思いだった。

そこでまず、地域づくりを「運動」とするか、一つの「事業」とするか議論を行った。やはり、子どもからお年寄りまで、自分たちが住んでいる地域を活性化するための計画づくりにしたいと考え、「運動」とした。では、運動のタイトルをどうするか、岡田先生の記念講演のテーマであった「ゼロ分のイチ」と、「杉トピア(杉源境)ちづ構想」の報告書から、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』と命名した。ゼロイチ運動で、集落振興協議会を設立した場合を想定した。計画された事業は各事業とも主体的に実施され、いずれ価値あるものは定着する。その一つひとつの事業が新たな規範を形成し、それらが群衆流となると予想した。それら施策について住民同士で「コミュニケーション」が図られ、「集合的行動パターン」が起こり、それが「暗黙自明の前提」となって集落の特色をつくり、共有規範が生まれ、集落の規範がいずれ「環境」となると読んだ。ゼロイチ運動の実行案づくりはプロジェクトチームの最大の課題である。つまり、集落には総寄合があって意思決定権を持つ、そして、どの集落にも既存団体がある。公民館活動、老人クラブ、婦人会、消防団、青年団など、個々別々に存在する。それらを包摂する新しい組織づくりを考えた。これこそ地域革新である。そこで集落全体を包む大傘をイメージした。

振興協議会の構想には、杉万先生の講義-1の『かやの理論』と、講義-2の『こころと意味・「かや」』 (『ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-1.と2.) の4点セットが役立った。早瀬集落で生活し、1986年から杉の木村の建設を体験したことが社会システムづくりに役立った。つまり、論文の「新しい総事」(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)を創出する組織にするため、集落振興協議会の構想を村おこしコーディネーター会議で議論を重ねた。そして、1996年5月21日㈮~23日㈰の3日3晩、不眠不休でゼロイチ運動の企画書等①から⑥ (『ギブ&ギブ』第2章4) をまとめた。私の思いを、大呂課長補佐へ人生のプレゼントと手紙を書いた。

企画書(1)趣旨《・・・その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。》

企画書の趣旨と、②集落振興協議会規約、③運営要領、④組織概念図、⑤地域プランナーの手引き、⑥計画策定ステップの6策(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)を町長へ答申し、7月の議会に諮られ議決された。企画書等は役場から各集落に周知された。

 2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業

1996年度中に、ゼロイチ運動で10年間目指す行動計画書を作成した集落が、翌年度から導入することになった。ところが集落の長老支配は厳然と続いていた、保守的な体質である。果たして集落で地域計画が策定できるか、心配しながら見守った。ところがプロジェクトで発案のあった智頭町認定法人の指定が役立った。ゼロイチ運動は新鮮な学習の場となった。計画づくりに住民が参加することで、ゼロイチ運動の本質や隠し味に気づき、集落の体質改善につながると新鮮な空気が生まれた。そして、自ら暮らす集落をデザインする画期的な取り組みとなった。住民は積極的に参加し、計画づくりが集落運営に大きく影響を与えた。

早瀬集落では、1996年8月に入って総寄合が持たれ、ゼロイチ運動を導入するかどうか協議された。多数決を持って導入が決まった。9月から住民アンケート調査が実施され、さらにヒアリングを行い、ブレーンストーミングで洗い出し、語彙を短冊に書き出した。四面会議システムのディベートでは年齢に関係なく、人々は熱くなって計画づくりを行った。杉万先生はその場に立会されていた。(杉万俊夫編箸『よみがえるコミュニティ』P123)

《杉万~すごく印象的だったのが、早瀬集落のゼロ分のイチ運動が始まった頃、まだ、雰囲気がすごく静かなときに、横でみせてもらったんですが、時計が夜11時を回った頃、80歳ぐらいのお年寄りが、ぱっと立ち上がって、「俺たちがやらなきゃだめだ」ってね、こう宙をにらんで大声で演説をされるわけですね。あれだけの宙をにらんでの決意表明、80歳まで生きた人の力強い訴えというか。見えない壁、敵、受け身であり過ぎた過去、そういうものに対する挑戦ですよね。》

お年寄りの顔が輝いていた。そして、他の集落の計画づくりをどう導くか、新たに発足した「ゼロイチ運動担当者会議」のプロジェクトチームで作戦を練った。集落の計画書の作成方法を議論し、早瀬集落が先行し事例を示す戦略をとった。そして、各集落には担当者が、具体例として計画ステップや行動計画書と行動計画表等の書式を紹介した。この作戦は的中した。役場の担当者とコンサルタント2名は、住民の計画づくりを見守った。村の開闢以来の大作業は住民主体で展開した。(『よみがえるコミュニティ』P93)その様子を杉万先生が記録されていた。

《「ゼロ分のイチ村おこし運動」への助走が始まって半年くらいたった1996年12月8日、前橋氏(CCPT代表)の還暦祝いの会が、地域と科学の出会い館で開かれた。会もたけなわになったころ、今後の抱負を語る中で、前橋氏が言った―「ゼロ分のイチは、CCPTの第2幕だ」。智頭という町を舞台に、CCPTという小集団が、猪突猛進、身を持って能動的な地域づくりを実践して見せた最初の10年が、第1部。そして、第2幕では、最小コミュニティ単位の集落に、その能動的姿勢が移植され、住民自治の根を張りつつある。》

杉万先生は智頭町の変革を常に観察された。それでは集落では何が起こっていたのか、早瀬集落の情報紙「夢ステージ早瀬」と「村づくり情報」を紹介する。

(1). 1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》

(2). 1997年12月20日発行:村づくり情報18の「動かなければ出会えない」から抜粋
《なんと「1,892人!」・・・この数字は、早瀬の村づくりのために動いた延べ人数です。その説明をしますと、平成8年8月29日に村の総寄合から委任された「ゼロイチ村おこし運動」について第1回検討委員会に参加した人から、平成9年12月14日の「ふるさと便り」の発送事務をした人数です。内訳は、役員会231人、委員会活動や部会活動・イベントなどに参加した人が1,093人、ボランティア活動に参加した人が568人となっています。この数字は事務局が記録している「活動記録票」から拾い出したので、かなり正確なものです。なお、早瀬集落以外から参加した人も数えられています。「在所(住むところ)に幸せを求めて喜びを創り出す」のがもっとも堅実な生き方です。メーテルリンクの「青い鳥」のお話でも、チルチルとミチルのきょうだいは、方々を探し回った挙句、自分の家に「幸せの青い鳥」を見つけて「ハッピーエンド」でした。私たちの村を幸せな村にしょう・・・これが村づくりの活動です。それにしてもたくさんの人が動いたものですね。》

(3). 次のステップに向けて、地域計画づくりにおける「地域経営」の概念
過疎化への起爆装置は、「集落振興協議会」と「地区振興協議会」の設立にあると考えた。地域の起死回生策として社会的紐帯の機能を模索していた。そして、CCPTの活動から、住民が地域を主体的に経営する概念を培った。そこで地域計画として、①は、住民自らの一歩による「住民自治」である。②は、地域資源を活かす「地域経営」である。③は、意図的に情報発信を行う「交流情報」の三本を、地域計画の要諦として提案した。つまり、1989年の第1回の杉下村塾の開講テーマに「地域経営」を掲げ、地域の課題を希求すれば必ず起死回生策が起こると期待していた。そして、いよいよゼロイチ運動によって地域理念(アイデンティティ)が復興する。

地域には、例えば農業経営はJAが、山林経営は森林組合が、商店経営は商工会が、企業経営は銀行によって経済循環している。地域福祉は社会福祉協議会、運動部門は体育協会、芸術文化部門は公民館である。財産区議会は山林等の管理である。すべてに社会形成されていると思っていた。ところが地域を主体的に見守っているのは一体誰なのか、町会議員なのか、役場職員かと、地域の主体を誰が持っているのか、地域の主体者(主宰者)は誰かととことん考えてみると、それは住民ではないかと思い至った。

住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごとで価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営の視点で捉えられてきた。地域の「運営」と地域の「経営」では異なる。例えば、住民が主体を持ち地域の経営者として仮定すれば、当然、地域の資源の価値を問う運動が必要である。つまり、地域経営とは地域に内在するあらゆる資源であるヒト、モノ、コト、技術、文化、社会システム等の価値を引き出す概念である。地域経営の観点を持つことによって、人財や資源や経済が循環し持続可能な社会が創造されると考えた。実験的であったが、ゼロイチ運動の計画づくりの必須要件として、「住民自治」「地域経営」「交流情報」を設定した。

3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた

ゼロイチ運動は1997年4月に7集落が、「〇〇集落振興協議会を智頭町の認定法人とする」(みなし法人)と指定を受けてスタートし、2011年まで(14年間)役場の助成が行われた。本運動を導入した集落は88集落の内16集落である。その内1集落は途中でリタイアしたが、15集落は堰を切ったように事業を展開し、報道発信を行った。集落ではゼロイチ運動をどのように受け取っていたのか、中原集落の中澤皓次氏が長老支配から脱却した様子を語っている。

(1). 中原集落の場合
《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》(『創発的営み』第2章6)

《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》(『創発的営み』第2章7)

 そして、中原集落では財産(山林)の配分ルールが変更されていた、長老支配を脱却した証拠である。ゼロイチ運動が集落運営に大きく影響していた。水戸黄門の印籠をつくる戦略は的を射ていた。ヒアリングによって中澤氏の証言に驚嘆した。まさに革命であった。

《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにしても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けとなった。》(『創発的営み』第2章5)

《親水公園のキャンプ場の目玉事業であるログハウス建築の第1期工事は、2005年秋から2007年7月で、間伐材150本を山から切り出し、手造りで建てた。作業人員は延べ460人、日数は28日間にも及んだ。この作業は危険を伴う重労働であったので印象深く思い出すことができる。何に一番腐心したかと言えば、怪我人を出さないことであった。そのため、酒を飲んでいる者、トロトロしている者、足手まといになる者は作業をさせなかった。怪我をしないように、場合によっては「もう帰れ」と厳しく言った。もし怪我人がでれば、「それみろ、怪我人がでた」と言われ事業がストップする。怪我人を出さないように細心の注意を払い、緊張感をもってやった。この事業は、この作業に携わった人々の汗と涙と、集落への思いと、誇りの結晶だと思っている。殆どの人は憎まれないようにやっているが、特に危険を伴う作業はいろんなことを想定して、自分が憎まれっ子を買って出た。一人の怪我人も出さなかった。ログハウスを建築するころから集落の女性の協力が得られ始めた。間伐材を切り出して中原神社の前まで運び、そこで一度組み立ててまた解体し、横瀬の谷の親水公園まで運んでいた。昼食はそれぞれ自宅に帰って食べていたが、その内、村の女性の有志は一生懸命に頑張っている姿を見て、自分たちができることをやろうと、カレーライスや丼物などを作ってくれた。自然発生的に始まった昼食の賄いの支援は、中原集落のゼロイチ運動の求心力を高め、結果的に集落のまとまりを一段と強くしていくことに一役買った。ログハウス建築の総工費は、175万円だった。内訳は寄付金96人で73万円、緑化推進委員会から10万円、キャンプ場収入5万円、自己財源87万円で、竣工式は2007年7月21日。初夏のまぶしいばかりの太陽の下、親水公園に歓声が上がった。》(『創発的営み』第2章7)

(2). 早瀬集落の場合
〇2012年8月発行:「ゼロイチ運動早瀬ものがたり」から抜粋
村おこし運動の年譜「10年間における人の動きのトータル」
《役員会114回延べ1,162名、部会27回延べ204名、委員会57回延べ609名、ボランティア延べ8,750名の参加者を数える。10年間のゼロイチ運動期間中には、外部からの視察79件、講演11回、大学生の卒業論文への資料提供など、わが村を説明する機会があった。夢ステージを語るに当たっては、計画した目標値を素材にすることが多く、実態との差を意識させられた。その意味において却ってこちらが足らざるを反省したり、新しい意欲(勇気)を湧かす機会としたと思う。》とあった。

〇2006年11月から12月:役員会によるゼロイチ運動総括[ゼロイチ村おこしで良かったこと]
➀ 理念として
・アンケートによる計画の策定は村始まって以来の事であった。
・ハードづくりに力を結集することで村のシンボルができ、村の意欲が揚がった。そして、ハードはソフトづくりから始まることがわかった。
・村おこしは経済面で計り知れない価値がある。
・ゼロイチ運動は終わるが、その過程で始まっているものも数多い。
② 自治会活動として
・「太陽の館(公民館)」の建築省エネ・自然エネルギー利用であり、若い人の力である。
・「東屋・竹炭窯・焼肉ハウス・いきいきサロン」の建設を成功させた。
・シンボル的なもの(交民の館・バス停・東屋など)に係わって沢山の動きが出てきた。
・自治会を発足させることで、土地の名義変更や税金対策ができた。
・葬儀の運営が合理化できた。・歳を忘れて皆よく頑張った。
・アンケートを半数以上の者が書いてくれたこと自体が素晴らしい。自分の村だからできた。
・盆典にたくさんの若い人が参加してくれるようになった。
・各土居が共同して動くことができるようになった。
・青年層の活動(公民館活動・盆典・消防団など)が盛んになった。
・村の歴史(古文書の保管で過去、村づくり情報で現在)を記録として残せた。
・ふるさと便り・村づくり情報は村の歴史となり、素晴らしい記録となった。評価すべきことだ。
・村づくり情報は「時の証言者」だ。後世にも大層な価値を持つことになる。
③ 交流活動について
・集落放送や村づくり情報などによって、情報公開ができた。
・人々の和(絆)が広がった。
・大阪自然教室と集落内で交流できるようになり、また収入も確保することができた。ゼロイチだからできた。
・外からの視察で、村の足りないところを意識することができ「自分を知る」ことに繋がった。
④ 集落運営について
・「太陽の館」の掃除が皆の協力により順調に行われるようになった。
・竹炭・味噌・給食等、自立したグループの結成と活動が良くできた。
➄ 組織運営について
・会長が辞めた後、事務局に入る人事の流れは良かった。
・ゼロイチ・うるおい事業の会計が詳細に記帳されており、担当された方に感謝したい。

〇2006年末:「活性化策5項目」を総寄合に提案
役員会のアンケート集約から、早瀬集落のゼロイチ運動10年を整理し、5項目を提案した。
①村の運営を早瀬自治会で行う。②自治会規約を制定する。③地方自治法260条の2項の地縁団体とする。④公民館(太陽の館)と、東屋(除雪機格納庫)の土地を法人登記する。⑤自治会長は自主的に立候補する。5項目が承認され翌1月から実行された。

〇2007年2月発行:「ふるさと情報・ふるさとだより」第40号から
「早瀬のゼロイチ運動に寄せて」から抜粋 杉万俊夫(当時:京都大学総合人間学部教授)
《・・・ゼロイチ運動の成果として新しい公民館(太陽の館)が誕生し、その「太陽の館」を管理するために自治会(地方自治法260条による法人)が結成された。そして、昨年末、その自治会に、ゼロイチ運動の組織である集落振興協議会のみならず、旧来からの寄り合いも包摂されることになりました。これら一連の動きは、昔からの伝統的な集落運営とは明らかに違う「もう一つの道」を早瀬集落が生み出したことを示しています。もちろん「もう一つの道」をいかなる道にすべきなのか、それを完全に見通せる人間など、この世には存在しません。それこそ早瀬の住民自身が試行錯誤を重ねながら、探し当てていくべき課題でしょう。「早瀬はこのままではだめだ。自分たちで動かんといかん」—―10年間のゼロイチ運動は、今は亡き老人の言葉を10年前よりも高い次元で受け止めさせてくれたように思います。》

〇2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代早瀬集落振興協議会長 長石昭太郎氏

《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》

早瀬集落の記録の編集は、全て初代会長の長石昭太郎氏による。「早瀬村づくり情報」は計第265号(第平成9年2月7日から平成19年3月26日まで)と、「早瀬自治会だより」は計第135号(平成19年4月23日から平成30年4月23日まで)が発刊され、更に冊子として編集された。50世帯の小さな集落の村おこし物語は、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈された。これらの記録を地域経営で評価すればいくらの値になるか、とんでもない価値である。長石会長曰く、「わしの70代はゼロイチ運動だった。」と語られた。

(3). 二つの集落から見えたこと
地域への思いが、地域理念(アイデンティティ)を復興させた。過疎問題が論議されるが、どうしても過疎化や人口減少に関心が持たれがちである。しかし、いくら過疎化・高齢化・少子化を負の面から論じても意味はない。何歳になろうとも常に目標を掲げて挑戦することである。杉万先生は早瀬集落で80歳の古老との出会いを紹介され、目標を持って挑戦することが大切であると説かれた。また、中原集落では財産の配分ルールが変更されていた。その分母となる定住期間を、意欲論で昇格させる方法を集落(長老たち)は認め、まさに革新を起こした。一つひとつ事業を起こすことによって人々が引き寄せられ、集合流が生まれ、集落がコンセンサスを得ていく、そのプロセスが繰り返えされた。ゼロイチ運動という過疎化の起爆装置は、住民が発信した創発規範に互いが共振し、集落丸ごとで覚醒化、葛藤化、攪拌化を体験した。まさにエマージング(創発)が起こったと言える。

4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ

2002年から2004年まで、合併か単独かと揺れた。智頭町の単独合併論争は寺谷元町長の信任闘争であった。町会議員の一人ひとりに自治権が委ねられた。町は異様な空気に包まれた。ここに合併に関する分析論文がある。(『アクションリサーチにおける質的心理学の方法によるセンスメーキング―町村合併で翻弄された過疎地活性化運動の再定位』―東村知子【心理学評論2006.Vol.49,No.3,530-545から】)

《第一の町長批判については、合併論者であった町長が、住民に何の説明もなく突然単独を表明したこと、すなわち合併問題が一部の人間だけで決められていることを徹底的に非難する。そしてその訴えを、第1ラウンドと同様住民の声を通して行う。》

《「住民のこえ、声、こえ、声・・・」あれだけ「合併、合併」と大合唱していたのに、急に「単独」と訳が分からん。・・・合併の相手が鳥取市だろうと八頭郡であろうと住民は一緒だ。「八頭郡、八頭郡」と言っていたのは町長、その時から住民の意見はもう入っていない。》

《・・・「我々に残された選択肢は、『より大きな不幸をとるのか、より小さな不幸をとるのか』しかないのです。合併は、より小さな不幸を選択するものであります」と述べる。このように合併派は、合併がいいとは決して語らず、自分たちは好んで選ぶわけではないこと、また、合併は自分たちのためではなく「子や孫のため」の苦渋の選択であることを強調する。一方、単独派は「お金で私たちの街を放棄したくありません」(議員の声)と主張し、財政問題を強調する合併派に対抗して、それが重要問題ではないことを訴える。ただし、チラシの大半は合併への反論となっている。単独派「創る会(語る会)」は、合併派「生かす会」の代表であるY氏にチラシ上で公開質問状を出し、名指しで批判する。特に、「合併のメリットを示さず、合併協議会にみちびくのは邪道」、「協議会で合併の是非を決めるかのような署名集めは方便」のように、上で見た合併の「手段」を攻撃する。・・・》

合併協議会の設置について、「賛成か」、「反対か」、を問うた。住民投票の結果は賛成3,134票で反対は3,027票とわずか「賛成」が107票上回った。合併の是非を問う住民投票では「合併する」が3,143票、「合併しない」が2,953票と「合併する」が190票上回った。そして、2004年5月に寺谷町長は辞職した。鳥取県東部10市町村合併協定調印式で調印されたが、町議会は合併関連議案を2度否決する。2004年6月20日に町長選挙で合併派の織田洋氏が当選した。ところが、町議会は単独派が多数を占め、再び合併関連議案を7月8日に否決して単独となった。これで合併単独論争は終結した。2008年6月、再選に向けて寺谷誠一郎氏が第一声を上げた。傍から見ていると進も地獄、引くも地獄、絶体絶命の覚悟を感じた。論文-6、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)に当時の状況が記述されている。

《・・・選挙運動の期間から、「もう俺についてこいという時代は終わった。これからは、あなたたち住民が主役となり、住民と行政が一体となって町の未来を切り開くしかない」と繰り返し訴え、百人委員会の実現を公約に掲げていた。寺谷町長が就任してすぐに、百人委員会の募集が始まった。一般公募である。寺谷町長に未来を託した住民が次々と応募してきた。予想を大きく上回る142名の応募があったが、これは住民の町政に対する危機感と希望が入り交じった結果であろう。また「優れた企画に対して町が予算を付けます」というのは全国的に珍しい試みであり、インセンティブとなった。》

いよいよ首長の姿勢が問われた。創発規範がCCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へと伝搬した。智頭町議会の単独決議によって町は水を打ったように静かになった。それから4年、満を持して「あなたたち住民が主役」と第一声が聞こえてきた。

5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)

2010年に、論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)が公表された。杉万先生はゼロイチ運動の追跡調査を実施し、運動に参加する15集落の全住民を対象に、集落振興協議会の発足初期の2000年と、9~10年目に2回のアンケート調査を実施し、10年間のゼロイチ運動が分析・解析されている。

《10年間という期間設定は重要だったし、10年間という区切りは適切でもあったようだ。この期間設定がなかったら、あれほどのエネルギーを動員することなど不可能だっただろう。われわれ筆者は、ゼロイチ運動という舞台が設営されたことによって多くの役者が登場するのを目の当たりにしてきた。よく人材不足を嘆く声を聞くが、「よい舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」というのが、われわれの実感である。》

運動期間を10年間に区切ったことによって爆発的なエネルギーとなり、集落は創発規範を発信した。もしも、「事業」としていたら単年度で終わっていただろう。期間を10年間としたことによって大きな成果があった。つまり、集落に地域計画を通じて主体が生まれ、人材が人財として育っていた。このことは集落に限らず他の組織づくりにも応用できる。つまり、旧村単位の地区振興協議会の設立に向けて試案となった。論文-3の「要約」に成果が分析されている。

《その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使い分けていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動等によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言力が増したことが見出された。》

これこそゼロイチ運動の成果と、論文-3の「3.考察」に示唆があった。

《別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

ゼロイチ運動を10年間継続したからこそ確認できた。つまり、集落に新しい自己実現の場を得たことは人生の価値である。想定を超えた成果となった。そして、2006年末には文章化された早瀬集落振興協議会の運動総括(前記3. 「ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた」)と、合わせて、杉万先生からアンケート調査結果の途中説明を受けた。そこから、本命の地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。すべての価値が手元にあった。

地区振興協議会の構想は、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間とし、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点とする。⑧運営要領等の仕組みづくりを委ねる。と要点を整理した。

6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか

論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)、1(3)b「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」から要点を抜粋した。

➀ 地域経営-P44
《地域を経営の視点で見直すと、地域には結構な資源を見直すことができる。ある集落では、かつて集落で栽培されていたギボシという山菜の栽培を復活させた。「20-40歳代の女性を中心に」ということにはなったものの、いかんせん、ギボシ栽培などやったことがない。そこに登場したのが、70歳以上の女性たち。昔とった杵柄(きねづか)が発揮されるとともに、それまであまり接点がなかった高齢女性と若年女性の間に交流が始まり、高齢女性もゼロイチ運動に参加しだした。この集落以外でも、竹炭、餅、地酒など、それぞれの集落の資源を活かした特産品づくりが行われた。》

《集落で古くから行われてきた伝統行事も、集落の貴重な資源になる。ある集落では、集落の寺にある地蔵(何か考え込んでいる風情の地蔵)の祭り「考え地蔵祭り」を地域経営の起爆剤に選んだ。集落内部の祭りを集落外にも開放し、積極的に集落外・町外からの参加を呼びかけた。今では、よその集落も出店を出すなど、当初は考えられなかった人数が祭りを訪れるようになった。祭りの最後には、盛大な打ち上げ花火も行われるようになった。》

《その葬儀のやり方に対して、ゼロイチ運動が問題提起を行った。葬儀のやり方について、真剣な議論がなされ、何をどう守っていくか、どこをどう簡素化するかが決定された。用意する小道具も、一つ一つについて図解入りで、簡素化の詳細が定められた。また、参列者に振舞う料理についても、喪主が気兼ねをしなくてよいように、品目と量の目安が定められた。こうして、数ある伝統の中でも、まさにアンタッチャブルと信じられてきた葬儀さえ、ゼロイチ運動によって再創造された。再創造されることで、葬儀屋に依存することなく、「集落住民の手によって葬る」という伝統が守られたのだ。》

② 交流交流情報-P45
《集落外との交流には、積極的に情報発信していくことが必要だ。ある集落では、集落のゼロイチ運動をインターネットで発信するために、ホームページを作ろうということになった(当時ホームページ作成は一般のパソコンユーザに普及していなかった)。そこで一躍中心になったのが、電気関係の会社に勤めている一人の人物だった。その人物は、集落にもゼロイチ運動にも、さしたる関心をもっていなかった。しかし、ホームページ作りという舞台が用意され、その舞台の上で自らの持ち味を活かしたすばらしいパフォーマンスを発揮した。その人物は、後に集落振興協議会の会長にもなっている。》

《集落を越えた交流は、集落間の協同にもつながった。ある地区(旧村の一つ)では、4つの集落がゼロイチ運動に参加していた。ゼロイチ運動を開始して数年が経過した頃から、これら4集落が互いに連携し、ネットワーク組織を形成した。互いに集落のイベントを手伝い合う、毎月一度、隣接する岡山県との県境にある峠のドライブインで各集落の特産品を持ち寄って朝市を開催するなど、ネットワークの強みを遺憾なく発揮した。またそれによって、高齢者が多い集落は、他の集落の中堅層のサポートを得ることができる、各集落独自の持ち味を組み合わせてイベントを開催できるといったメリットが生まれ、単一の集落では見られなかった相乗効果が発揮された。自らの集落を考える上で、他の地域の取り組みは参考になる。ほとんどの集落では、おもしろい取り組みを行っている地域を訪問し、自らの糧とする視察旅行が行われた。また、都市部の住民との交流、近郊都市の大学生との交流、あるいは、外国人との交流も行われた。》

③ 住民自治-P46
《当初のリーダーグループの範囲を超えて(リーダーとなりうる)人材の裾野が広がるか否かは、運動開始から数年間の大きな課題であった。リーダーは集落に登場するのでなく、集落が育むものである。大きくても数10世帯という集落は、いわば固定メンツの世界である。その固定メンツの中から一人でもリーダー候補者を育むことができるかどうかは、運動の推移を大きく左右する。まず、ゼロイチ運動以前から集落活性化を模索していた団塊世代グループは、同運動を追い風にしつつ、リーダーとして成長していった。ここ数年、それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

《一方、従来からの男性優位の集落運営に対して、ゼロイチ運動によって女性たちも集落の活動に参加し始めた。その中からは、女性グループで行う活動のリーダーが生まれ、彼女たちの中からは、男性とともにゼロイチ運動のリーダー的役割を担う人も登場した。・・・2つの集落では、ゼロイチ運動が開始されてほどなく、婦人会が消滅した。婦人会は、全国組織として、都道府県単位、市町村単位に設けられ、集落婦人会はその末端に位置している。その運営は、基本的に、上位機関からのトップダウンによって行われ、イベントごとに動員がかけられる。上からの動員には辟易させられつつも、やはり女性が活動できる数少ない場として、婦人会活動は継続してきた。・・・少なくとも、脱退を考えるなど皆無であった。そこにゼロイチ運動。女性も、男性と平等に、しかも個人の資格でやりたいことを仲間と考え、実行に移せる。そこには、上位機関から動員されて、たまたま時間をともにする活動では得られないおもしろさがある。もちろん、意見が対立する場合もあるが、それでも一方的な動員による活動とは比べようのない魅力がある。なぜ、婦人会などに加入し続けねばならないのか・・・そんな疑問が生じても無理からぬことであった。ゼロイチ運動で育まれた積極性は、長いものに巻かれるのではなく、「いやなものはいや」という意思表明をも可能にした。》

《ゼロイチ運動では、「既存の伝統的集落組織を捨てて、ゼロイチ運動組織(集落振興協議会)に移行する」という発想ではなく、「あえて新旧両方のわらじを同時に掃いてもらう」という戦略が取られている。すなわち、新システムの集落振興協議会は、決して伝統的システムを排斥することなく、伝統的組織(公民館、婦人会、青年団、老人クラブなど)をも包摂する形をとっている。住民が、新旧両方のわらじを経験した上で、自らがはきたいわらじを選んでもらう(場合によっては、新旧両方わらじの経験から第三のわらじを作ってもらう)という意図がこめられていた。》

《ある集落では、ゼロイチ運動によって、寄り合いに劇的な変化が生じた。その集落では、ゼロイチ運動への取り組みが評価され、県の補助事業をうけることができた。その補助事業によってボロボロだった公民館を新築し、ソーラーシステム完備の公民館を建築することができた。この新しい公民館を維持管理していくために、地方自治法第260条(地縁団体による集会施設等の不動産保有に関する権利と義務を規定した法律)に基づく自治会が結成された。そして、ゼロイチ運動10年目を迎えた2006年、同集落は、集落振興協議会と寄り合いを合体させ、自治会に一本化することを決定した。ゼロイチ運動の成果である公民館を維持管理するために設立された自治会が、集落を代表する組織となったことは、ゼロイチ運動が寄り合いを換骨奪胎し、自治会として発展してきたことを物語っている。》

《1997年、ゼロイチ運動がスタートして以来、同運動に参加する各集落で住民主導の姿勢が貫かれた。確かに、町役場には、ゼロイチ運動をサポートする部署が設けられ、1-2名の職員が配置されたが、そのサポートが軽微の域を出ることはなかった。》

その通り、ゼロイチ運動の価値が真に理解されているとは思えなかった。しかし、毎年3月、「ゼロイチ運動活動発表会」で、住民が発表する内容に圧倒された。ゼロイチ運動はきっと成果があると確信していた。仮にトップが代わろうともゼロイチ運動を止めることはできない。必ず人財は生まれる。その通りとなった。

《それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

2004年、智頭町は議会の単独決議によって死守された。ゼロイチ運動の企画前の集落の状況を一言で言うと、集落は自閉していた。住民は無関心で他力本願、集落運営は無計画であった。共有する地域に住んでいながら、個々ばらばらである。そして、旧態依然の規範に縛られていた。これらの現状を打破するため、自ら立てた計画に基づき実行する集落活性化運動を考案したのである。つまり、ゼロイチ運動は無責任な集落の運営を、責任ある集落経営に切り換える運動である。住民はゼロイチ運動の10年間、集落という舞台で知恵と行動力を発揮し創発規範が生まれた。そして、社会システム(仕組み)が集落に奇跡を起こした。

杉万論文は、ゼロイチ運動の発足初期と、9-10年目に実施された2回のアンケート調査によって考察されている。この論文-3から集落活性化の方策が読み取れる。ゼロイチ運動の最大の成果として、2-3割の人が、新しい自己実現の場を得た。また、少子高齢化が進む集落にあって明るい将来展望となったこと、女性の発言力が増したことが見出された、とある。住民が自己実現や明るい将来展望を持ったことが、運動の特色として上げられる。

7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」

ゼロイチ運動の本命は、地区振興協議会の設立にある。2007年秋、山郷地区の住民に打診して、事前の打ち合わせ会を持った。ところがいくら説明しても、有力者からできない理由の発言があった。住民感情の中に単独合併論争が根強く残っていた。それらを乗り越える企画がいる。年末、大呂企画課長の尽力によって、企画書と規約の二点が町議会に諮られ、議決された。企画書の「2運動の意義(次代の要請)」に、「偉大な創造」が提案されていた。

《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》

「偉大な創造」の一文は杉万先生が加筆された。そして、規約案の第1条(目的)に「ゼロに帰するか、イチを守るか」は、岡田先生の加筆による。住民に決起を投げかけた。

《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》

地区振興協議会の企画書と規約で、領域自治システムの発足が宣言された。企画書の策定に当たった大呂企画課長は、役場内の企画書の調整と議会対策を担った。悲壮な決意が表情に表れていた。私は「貴君の将来のポジションづくりだ。」と励ました。1989年にスイス山岳地調査から満18年が経っていた。おそらく、地区振興協議会の設立は、過疎化に向けて拠り所となるだろう。草莽決起の檄文である。企画書と規約で住民に覚悟を促した。

2008年4月、地区振興協議会(住民の自主選択)は、まず、事前対話を図った山形地区と山郷地区で設立された。次に2011年に那岐地区が、2012年に富沢地区と土師地区に設立され、町内6地区の内5地区で設立された。どの地区もよちよち歩きである。しかし、確実に一歩を踏み出した。そして、5年後の2013年12月に、論文-5、「旧村を住民自治の舞台にー鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例」伊村優里・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)の「5.考察」に、社会システム(仕組み)づくりの企図が解析されている。

《・・・「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。》

地区の人々に社会システム(仕組み)の運営要領等を委ねたことは、賢明な判断であった。住民が主体的に地区振興協議会を立ち上げ、地域理念(アイデンティティ)とウェルビーイングを手繰り寄せた。社会システム(仕組み)が人々を「偉大な創造」へと導いた。

8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み

地域活性化は、意欲論や感情論で持続性や継続性は起こらない。ましてや経済オンリーの価値観で覚醒化などない。地域の持続性を考え社会システム(仕組み)創造に、地域づくりを特化した。ところが、飯が食えん者が余分なことをするな、何にもならんことをするなと揶揄され続けた。私から言えば大きな家に住み、美味しい物を食べ、何時になれば豊かさをつかむのかと聞きたい。つまり、地域への無関心はだんだんと地域の誇りや地域理念(アイデンティティ)を欠落させた。その誘因は実は一人ひとりの生き方にあるとみた。アンチ経済論である。

1997年に集落振興協議会を設立し、次に2008年に地区振興協議会が設立された。これら住民自治システムに影響を受け2008年には行政主導により、住民の発想を活かす「百人委員会」が起動(委員は自主的参加)した。百人委員会では住民の企画提案が通れば、役場職員と協働で事業が実施され、「智頭町もりのようちえん」など数多くの施策が生まれた。

(1). 集落振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)
企画書の「3 各振興協議会のメリット」
➀智頭町の認定法人~智頭町役場と村おこし事業の窓口を務める。
②活動経費の支援~活動の2年間は地区100万円、集落50万円のソフト事業費(運営費)を助成する。
③リーダーの民主的選出~住民の総意によって3年間の任期でリーダーを選出する。
④村おこしのための運営団体の組成~各種団体を包含した組織とする。
➄アドバイザーの派遣~村おこしのためのアドバイザーと町職員を派遣する。

(2). 地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第5章)
企画書の「3 事業概要」
➀実施内容:地区(小学校区)単位で、ゼロイチ運動を推進する住民組織として「地区振興協議会」を設置し、自ら描いた「地区活性化計画」に基づき行政と協働しながら、住民自治や地域経営力向上に資する事業を幅広く戦略的に実施する。
②事業主体:地区振興協議会
③助成期間:10ヶ年(初年度に「地区活性化計画」を策定・認定する。) なお、計画は3年ごとに見直しを行う。

(3). 智頭町百人委員会
論文-6要約、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)

地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。
➀百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。
②百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政策の実行・実現にも当たる。

9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置

地域を地理的な視点で見ると、旧小学校区単位に地区振興協議会を設立する意図が分かる。智頭町は、戦前から終戦直後の「昭和の大合併」(1953-61年)で、当時の6つの村が合併して形成された。それら旧村は、現在、地区と呼ばれ、維持されている。渓谷の川筋添いに集落が点在し、一つの地区は、10から25の集落がまとまり、風景が共有できる空間である。旧村に小学校が置かれていたが、2012年1校(智頭地区)に統合された。

智頭町は93%が山林である。鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の最上流部の「山郷地区」は、岡山県の西粟倉村に隣接している。支流の北股川に「山形地区」があり、鳥取県八頭町と若桜町に隣接している。千代川は町の中心部で合流し「智頭地区」を形成するが、南東から土師川が注ぎ、「土師地区」とその上流部の「那岐地区」は、岡山県の奈義町に隣接している。また、西側には新見川が流れ込み、「富沢地区」が位置し、隣接するのは岡山県の津山市である。まさに杉源境である。地区によって、隣接する県境地域の言葉や生活習慣に影響を受け、それぞれの地区が特色を持っている。私達が小学生のころは年に一度、六部会という一堂に会する運動会が開催されていた。地区振興協議会の企画時点(2007年)に、六部会を復興させようと話し合った。

地区住民は、企画書の「偉大な創造」「創造的昔帰り」と、規約案の「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて・・・の檄文をどう受け取ったのか、草莽決起を期待した。2012年までに5地区で地区振興協議会が設立され、創発拠点を獲得した。地域計画の柱とした住民自治、地域経営、交流情報は、過疎化の起爆材となった。

論文、「旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ」(集団力学研究所、 2021年 第38巻 pp.20-34)樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部, 准教授)

《要約~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。

本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》

10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業

特に2015年から智頭中学校生と智頭農林高校生が、2017年には鳥取大学が参画している。
【平成21年度】(2009)
〇智頭町に森のようちえんを作ろう!~ 森のようちえんを運営する。
〇智頭米を活かした国際貢献~国際交流を通して、子どもの奉仕の心を育み、道徳心の向上を図る。
〇智頭農林業活性化プロジェクト~特産物の発掘、間伐材の有効利用、森林セラピーの推進を図るための先進地視察を行う。
【22年度】(2010)
〇郷土由縁の作家「米原万里展」の開催~智頭町由縁の作家故米原万里氏を町民に広く知ってもらう機会として展示会等を開催する。
【23年度】(2011)
〇木の宿場「第2段階」への林地残材活用のための先進地視察~ステップアップに向けた調査検討する。
【25年度】(2013)
〇智頭宿ハイカラ・プロジェクト~智頭宿ハイカラ市を開催し、レトロカーを集め誘客促進を図った。
【26年度】(2014)
〇自分を生きる学校の設立!~まるたんぼう付属小学校~智頭町の資源を活用した特色ある週末型フリースクールの運営をする。
【27年度】(2015)
〇Wonderful People ☆in Chizu!!!~智頭町の達人100人を図鑑で紹介する。伝統継承や智頭町の魅力UPを狙う。(智頭中学校)
〇智頭宿の魅力アップ-格子製作及び藍染のれん製作-智頭町の職人の技を継承し、見直すことで魅力アップにつなげる。(智頭農林高校)
〇「ちのりんショップ」の取組から見えてきたもの、平成26年度に開店した「ちのりんショップ」の拡大を図る~開店1時間後くらいからオープンカフェを実施し、住民の憩いの場、高校生との会話の場を設け、商店街に人を呼び込みたい。商店街各店舗の「わが店の自慢の逸品」を各店舗と高校生とが共同で見いだし、ちのりんショップで紹介する。商店街の人の往来を活発にしたい。(智頭農林高校)
【28年度】(2016)
〇「杉のまち智頭」独自の薪ストーブ等購入助成制度の導入~智頭町の山をきれいにする重要な3点 ①林業環境整備、残材、担い手育成、②の残材・間伐流通について、搬出された材を「薪」として町内に流通させることにより、智頭材の地産池消と環境貢献に寄与するため、薪ストーブの導入に補助金継続する。
〇学びにも選択肢を!「新しい学校」を智頭町に定着させたい!サドベリースクールの支援。
【29年度】(2017)
〇智頭宿まちかどプラットフォーム構想~空き家のリノベーションとIT技術の活用~智頭宿全体を「生きた博物館」として環境整備するために、平野家の利活用を検討する。鳥取大学建築環境工学研究室のメンバーを中心に、それをサポートする職能者(鳥取大学教職員・建築士会等)で「ForestValley(フォレスト・バレー:FV)」を設立する。平野家利用に向け、清掃活動WS、もの作りWS(裏庭整備・杉玉作り・風鈴作り・木製看板等)等を開催。Code for Tottoriと協力して「オープンデータ・ハッカソンin智頭宿」を実施する。(鳥取大学)
〇きて・みて・とまって・またきんさい~民泊マラソンを通じて民泊の魅力を伝える。智頭町産の杉板を使用した距離表示、方向指示表示、給水所表示作りをする。マラソンパンフレットに高低差の断面をつけたマップを作る。民泊先にインタビューし、各民泊先の良さをパンフレットにする。中学生もチームを作って参加し大会を盛り上げる。給水所、エイド、ゴール関係では、給水所の増設をし、ゴールで消化の早い食べものをふるまう。(智頭中学校)
【30年度】(2018)
〇智頭町百人委員会『10年のキセキ』~10周年記念広報誌として、これまでの各部会の活動の軌跡をまとめあげ、全戸配布、主要公共施設に配置する。上記広報活動を通じて、町民にまちづくりへの関心を高めてもらい、百人委員会活動のPR、新たなまちづくりを実践する。百人委員会活動の存在と事業・活動などをより多くの人に知ってもらい、これまでの支援に対する感謝の意を伝え、これからの活動への参加のきっかけ・機会を作る。
〇“智頭は今日も元気です”計画[CKGK](シーケージーケー)~智頭オリジナルカレンダーを作成し、県内外への配布活動を通じて町の魅力を伝え、活性化を図る。カレンダーの上半分のデザイン(12ヶ月分)については、写真や絵、デザイン、文字などを組み合わせて作成する。毎月のカレンダー部分の下に智頭町HPなどのアドレスやQRコード、検索を誘うような名称を記載。 (智頭中学校)
【令和元年度】(2019)
〇「智頭歴史トランプ」を学校教育に!~子供向けの智頭の歴史を知るツールとして、遊ぶだけで分かる「智頭歴史トランプ」を作成し、智頭の小中学校を始めとする教育関連施設に配布し、智頭の歴史を知ってもらい、智頭に愛着を持ってもらう。小・中・学童等に80セット配布する。
〇”新智頭図書館プロジェクト「智頭町にこんな図書館があったらいいな」~新図書館開館に合わせ、智頭らしさを滲ませた杉しおり3,000枚を製作し、ノベルティとして配布する。(智頭中学校)
【2年度】(2020)
〇森のやっかいものを地域の資源に!!~狩猟者が捕獲したシカを解体施設に搬入、1頭あたり1,000円の謝礼を狩猟者に支払う。消費拡大に向けたPR、捕獲頭数の増加、革製品の商品化、獣肉解体処理施設を整備する。
【3年度】(2021)
〇智頭町宿まちかどプラットフォーム構想~アプリを使った「智頭宿魅力発信マップ」作り~
7事業実施、3,910千円

11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

私にとって地域は唯一無二である。時代のうねりの中で過疎化、高齢化、少子化が進行している。杉万先生は論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)の「考察」で、地域力のメルクマール(指標)について記述されている。

《そもそも2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じ、今世紀末には人口はほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繫栄のメルクマール、人口減少の衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとするべきなのか、ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

何を持って地域力のメルクマール(指標)とすべきか、提案されている。実はこの提案を考え紐解くヒントが身近にある。毎週日曜日、我が家で楽しみにしている番組がある。朝日放送テレビの「日本全国大捜索!ポツンの数だけドラマがある。」の『ポツンと一軒家』である。

《日本各地の人里離れた場所に、なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには、どんな人物が、どんな理由で暮らしているのか!?衛星写真だけを手がかりに、その地へと赴き、地元の方々からの情報を元に、一軒家の実態を徹底調査しながら、人里離れた場所にいる人物の人生にも迫っていく。1枚の衛星写真から、どのような人がどんな暮らしをしているのかに思いを巡らせるのは、MCの所ジョージとパネラーの林修。》

人里離れた場所になぜだかポツンと存在する一軒家がある。見ていると過去には数軒あったが、その後に燐家は山を下りて、ほとんど最初から一軒家ではない。ポツンと一軒家に住んで、山峡の地にあっても、生き生きと暮らし、豊かな人生が送られている。新しいメルクマール(指標)はポツンと一軒家にあるのではないか。どんな地域活性化論よりも説得力がある。それでは、地域で生き生きと豊かな人生とするためには、創発的な舞台がいる。それが提案する社会システム(仕組み)の創造である。1984年に一歩を起こし、身に着いた知識がある。持続可能な地域づくりに向けて6つの戦略に整理した。

(1) 企画力
企画力は、模造紙会議から「四面会議システム」(『ギブ&ギブ』第1章10、2章6)を考案した。企画は人々の知恵を集めることにあり、事業計画を立てる方法を工夫した。壁面に模造紙を張って半円形に座り、ペンも資料も持たない、前頭葉を上に向け、ブレーンストーミングで思いついたことを発言してもらい、模造紙に殴り書きした。1990年に智頭町出身大学生との交流事業で、参画型集団企画技法に体系化を考え、岡田先生の助言を得て四つの部門(総合管理・広報情報・人的支援・物的支援)に整理し、ディベートを取り入れ策定ステップを示し、四面会議システムを考案した。誰でも使える企画法を目指した。1996年にゼロイチ運動で早瀬集落振興協議会と、2008年に山郷地区振興協議会の計画づくりに活用した。

(2) 物事の本質をつかむ概念の共有
本書ではひまわりシステムと、ゼロイチ運動の概念図等である。事業の目的や趣旨を明確にする必要がある。図式化は主催者の思いを伝える法として有効である。物事の本質を図式化するヒントは、広島市の職場でミニ情報紙を発行しその価値を実感した。CCPTの事業でも積極的に概念図やイラストを活用した。それと耕読会で南方熊楠の因果律に出会い、日常会話で「因果」の語彙で会話するが、因果律として偶然は「曲線」で、必然は「直線」で描かれ、それらの交点が「結縁」である。起点は「因」で終点は「果」と表記されていた。(鶴見和子著『南方熊楠・萃点の思想—未来のパラダイム転換に向けて』)図式表現にこだわった。2015年に『まちづくりに求められる思考のデザイン』(『「地方創生」から「地域経営』へ)概念図81を編集した。

(3) 社会科学による住民意識調査の実施
住民の意識調査を実施した。企画や活動を持続するためには地域の実態を踏まえることが重要である。〇1988年に八河谷集落の住民意識調査を実施した。また、スイス山岳地調査後、〇智頭町の世代別の住民意識調査を1990年から1991年の間に行った。そして、杉万先生は〇1995年秋、CCPTの活動10年を解析し、〇2010年にゼロイチ運動10年を考察された。住民意識調査はCCPTの方向づけと、地域づくりの戦略構築に役立った。

(4) 資金の裏付け
事業の実施には必ず資金がいる。(1)から(3)を踏まえ、必要経費の概算見積もりを洗い出すことができる。スタッフはボランティアに徹することである。しかし、地域経営の視点から人件費の計上によって、事業価値の目安が把握できる。CCPTの活動では、青少年の海外研修派遣事業は住民から寄付を募った。木づくり遊便コンテストは中国郵政局と智頭町商工会(樹齢100年の智頭杉の寄付)の支援で、智頭杉日本の家設計コンテストの事業資金は智頭町役場の助成である。また、杉の木村ログハウス建築事業イベントは、智頭町役場と笹川平和財団にお願いした。「はくと・はるか・関空」シンポジウムは、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村と中国郵政局の協賛によって開催した。杉下村塾は一人3万円の参加費で、CCPT活動実践提言書の発刊は一部3,000円で300部を販売し活動資金に充てた。

ゼロイチ運動の見積もりは、集落版で1年と2年は50万円、3年から10年は200万円の計300万円で、導入予定集落は20集落で6,000千万円とした。地区版は1年と2年は100万円、3年から10年は400万円の計600万円で、導入予定地区は6地区で3,600万円とした。総計9,600万円を見積もった。年500万円の経費である。実質経費は、集落版4,500万円と地区版3,000万円の合計7,500万円であった。行政は単年度予算である。企画者の思いが10年間の補助事業を実現させた。また、集落振興協議会と地区振興協議会への予算付けは、「先渡し方式」を選択した。これは郵便局の民営化前の渡切経費システムを応用した。そして、グランドデザインの策定は、係わる人々と人生を賭けた一大プロジェクトであった。仮にマネジメントすれば、数千万円、数億円が見込まれる。僅か100万円である。

(5) 人材養成
人材養成は、1984年に一歩を起こし1988年にCCPTを設立、青少年の海外研修派遣のため「智頭町活性化基金」を設立して、5年間で34人を支援した。1989年から1998年の10年間に杉下村塾を開講し、1997年にゼロイチ運動による集落振興協議会の15集落の設立は、論文-3で、《よく人材不足を嘆く声を聞くが、「良い舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」》と、人財養成が起こった。そして、2008年に地区振興協議会がスタートし5地区が設立している。人財養成の舞台ができた。合わせて、百人委員会の企画実践が地域づくりの核心にある。つまり、これら社会システム(仕組み)は過疎化における起爆装置である。当初、地域の持続性を考える機関は役場以外にないと吐露したが、住民の地域への思いが、社会システム(仕組み)の地区振興協議会を実現させた。

(6) 広報戦略
広報戦略は地域づくりに大きく影響する。農山村社会では出る杭は打たれる。批判や中傷が村の噂となる。本人が居ないときを狙って無言電話がかかってきた。新聞に掲載されただけで新聞社に抗議の声が届いていた。これには人権意識を持って闘おうと思った。地元紙の報道課長は鳥取県に必要な動きだと応援を約束し、今日まで支援がある。心強かった。こんな声に負けないためにも広報戦略を考える必要がある。どんな小さな事業でも地元紙に投げかけ、その継続発信によって無責任な批判者は口を閉ざす。つまり、徹底的に情報の発信を行い、ルーティンすることだ。負の規範の粉砕である。2011年に京都市へ移住したが、一人の関係人口として―智頭町の集合体の自伝―をささやかに編んでいる。

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む

 1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む

そうしていたところ2010年3月19日、主治医の木村文昭先生(玉野市民病院)から電話があり、翌日、受診を受けることになった。右腎臓癌の告知だった。4月27日、岡山大学病院で摘出術を受け、命を救ってもらった。そして、妻の「京都に行こう!」に触発され、2011年3月末に郵便局を退職し、10月18日に京都市に移住した。

京都市内の新築マンションに入居した。戸数は48戸である。翌年の7月、たまたま管理組合の理事に就任した。京都市内のマンションでは自治会を設立することは難しいと言われていた。そこで、この機会にマンション自治会を立ち上げてみようと思った。きっと、「かやの理論」が応用できる。そこで管理組合の理事会が主体性を持たせるため、理事の任期の半数を一年延長し2年交代を提案した。全理事が賛同して仕組みができた。次に、自治会を提案しようと規約案を協議して、2014年2月14日に臨時総会を開き、自治会が設立された。

《ホップ》2012年~[できることから]
理事会に防火責任者の設置提案する⇒手を上げる。
東階段と歩道の交差の危険性を理事会に提案する。
防火責任者研修受講⇒翌年度消防訓練計画策定する。
植木の剪定の承認あり⇒剪定作業をする。
節電のために照明センサーと時間設定の変更等を調整する。
照明センサーの移設工事、承認される。

《ステップ》2013年7月[社会システムを少しだけ変える]
管理組合の役員任期を2年に変更、半数入れ替える。
臨時総会~2014年2月
変更、2022.7.31.第11期通常総会~管理組合役員1名が自治会役員を兼務する。
駐車スペース1台分を賃貸にすることを決議する。
変更、2022.7.31.第11期通常総会で管理組合と自治会~別々に開催することを決議する。
消防訓練の実施~2014年4月⇒家族状況調査を実施する。
総会で予算5万円自治会助成を承認する。~2014年7月

《ジャンプ》2014年8月~[具体的に実施する]
地蔵盆・クリスマス会を実施する。
ハロウィン実施する。~2015年10月
出水学区の防災訓練に自治会が参加する。~2015年12月
剪定作業を返上~2020年9月、作業を関さん家族が手を挙げる
管理組合が居住者調書を作成予定~2022.7.31.第11期通常総会に提案する。
大規模修繕工事⇒2023年3月~6月末
社会システム(仕組み)は大きく変える必要はない、少し変えることを心掛けた。ところが、コロナ禍で新たな課題が起きた、仕切り直しである。

 2. 創発規範の連鎖の拡大を検証

地域に規範の定点観察の視点がない。つまり、その後智頭町はどうなったのか、CCPTの創発規範は伝搬(『ギブ&ギブ』第2章7)したのか、ゼロイチ運動は地域にどのような影響を与えていたのか、創発規範の「贈与と略奪」の行方を知りたいと思った。2015年夏、田舎のパン屋さんタル―マーリーの渡邉格氏ご夫妻にお会いして、出会い館で「腐る経済」の話を聞いた。そのころ智頭町では「おせっかいのまちづくり宣言」が行われ、百人委員会に智頭中学校生、智頭農林高校生が参画していた。そして、2016年7月、地域経営まちづくり塾の参加者から松岡正剛氏の「QON DAY 2016」の講演を紹介してもらった。

《「エマージング」です。つまり、「創発」ですね。物質現象は水が氷になったり水蒸気になったりするように、液体が個体になる、液体が気体になるなど、状態のフェーズを変えます。ことを「相転移」といいますが、この時に起こっているのがエマージングプロセスです。》

地域づくりをエマージング(創発)と認識してから、明治大学教授の小田切徳美先生に連絡して、同年11月、京都駅の喫茶店で面談し、書評の快諾をいただいた。書名は「創発的営み」とアドバイスをもらった。翌年の2月にかけて共著者の澤田廉路氏にヒアリングをしてもらった。ゼロイチ運動が大きく影響していた。そうしていたところ、2019年7月、智頭町が内閣府のSDGsの未来都市に認定された。勇気を得た。地域の持続可能に向けて地域づくりに挑戦してきた。10月、『創発的営み』を出版した。早速、杉万先生から手紙をいただいた。

《1992年11月、みぞれまじりの中を初めて智頭を訪れてから今までのことが、走馬灯のように駆け抜けましたというか、もっと正確には、走馬灯の中で私の知ることのなかったことも含めて、大作の映画を見るような感じでした。岩波ブックレット(『地域からの挑戦』2000年発行)と今回の本を比べると、インターローカルへの贈与-略奪の連鎖の拡大が明らかですね。岩波ブックレットでは、CCPT時代から集落ゼロイチの最初の2~3年を書きました。それはそれで壮絶ともいえるスタートだったわけですが、今回の本では、それが軽やかに拡大していった成果が如実に表現されています。(1)岩波ブックレット、(2)集落ゼロイチの総括をした高尾・杉万論文、(3)地区ゼロイチの端緒を書いた樂木・山田・杉万論文、(4)地区ゼロイチの経緯を追った伊村・樂木・杉万論文、(5)今回(『創発的営み』)の本、というように並べると、壮大な絵巻物になりますね。(2)-(4)は集団力学研究所のホームページにあります。大学の講義には、格好の予習・復習の課題になるかもしれません。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第8章6)

杉万先生の提案を重く受け止めた、何とか実現したい。グランドデザインの報告書の編集で、主筆を務められた平山京子さんに協力をお願いした。翌年、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』で実践編・資料編・論文編を発刊した、大作業だった。2020年、智頭町「おせっかい奨学金」制度が発足し、高校や大学等への進学者に向けて創設された。通常より有利な金利で、ローン返済の利子については全員、元金は10年以内に町に帰ってきた場合には補助対象となる仕組みである。2022年6月、横浜市立大学国際商学部の吉永ゼミ等との交流を『ギブ&ギブ』に編集し、発刊した。「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店(旧那岐小学校「一般社団法人 那岐の風」)が、2023年春オープンに向け、マネージャーを公募した。地域は動いている。

3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策

(1). おせっかいのまちづくり宣言(広報ちづNo766から)
(平成27(2015)年12月1日「おせっかいのまちづくり」推進懇談会)
《私たちは、家族や親せき、隣近所、地域、学校、職場など様々な社会の中で、支え、支えられて暮らしています。近年、この支えあいの力が弱くなっており、また「向こう三軒両隣」の助け合いの精神も、忘れ去られているのではないでしょうか。私たちが幸せに暮らしていくために、これからは、少しの「おせっかい」が大事な要素になってくるのではないでしょうか。そこで、地方創生元年の今、町民が肩を寄せ合い、共に支え合いながら地域の人々が、心も暮らしも豊かに「智頭らしく生きていく」そして、訪れた人が町を好きになり「ホッと癒され」また訪れていただく、そんなまちを目指して「おせっかいのまちづくり」をここに宣言します。今日から、押しつけにならないように気をつけながら、少しのおせっかいを始めることで、「安全で安心な住み良いまち」をめざし、本日、ご参会の皆様をはじめ、全町民の方が積極的に行動していきましよう。》

【本町が推進する「おせっかい」】(広報ちづ 2020年9月)
『目配り・気配り・心配りのあるやさしさ『おせっかい』⇒「心が温かくなる」「優しい心を育む」』
【毎月1日「おせっかいの日」】
【おせっかい標語2020】『大賞~あいさつと、笑顔でひとこと“おせっかい”』

(2). 「おせっかい奨学金」スタート(智頭町ホームページから2021年6月4日)
本町は年間25人(2019年)の子どもが生まれています。しかし、高校や大学進学などで自宅から通えない学校に通う場合は、町を離れていきます。子どもたちが町に帰ってきたいという気持ち、大人たちの町に帰ってほしいという願いを叶えたい思いで、このパッケージができました。
〇10年以内にUターンしたら奨学ローン返済額が補助対象
町外の学校に通う場合、自宅から通う人より生活費が平均で月に4万5千円多くかかります。鳥取信用金庫(連携金融機関)の「おせっかい奨学ローン」を借りていただき、生活費を補填いただくことで、中山間地特有の条件不利な環境の改善を図ります。また、その利子については全員が補助の対象、元金については10年以内にUターンした場合は補助の対象となります。
〇おせっかい奨学ローン借入額
高等学校/毎月3万円
大学、大学院、専門学校等/毎月4万5千円
〇おせっかい奨学金をまちぐるみで積み立て
「おせっかい奨学ローン」返済額を補助の対象とするために、「おせっかい奨学基金」を創設しています。町の予算だけでなく、子どもたちのUターンを支えるために、寄附を募り、それを基金に積み立てます。
〇実施時期
2020年4月からスタート

4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流

2021年3月、横浜市立大学国際商学部の吉永崇史先生の吉永ゼミ等の皆さんが、智頭フィールド調査をされていることを知った。それではと関係書籍をお贈りしたところ、4月11日、吉永先生のメールに論文が添付されていた。

《筆者は、横浜に戻った後で、智頭町をフィールドとして研究してみたいと考えるようになった。具体的な研究テーマが思い浮かんだわけでもないが、直感的に、この“コミュニティ”に研究者としての魅力を感じたのだ。あえて言語化するならば、智頭町の人が、雰囲気が、洗練されている。その“ 洗練さ” は何によってもたらされているのであろうか。経営組織論を専攻し、とりわけ組織開発に関心を持つ筆者にとって、このコミュニティに感じるものが何なのかを知りたい、そのように思うようになった。》(横浜市立大学論叢社会科学系列2020.03.31:vol.71No.03)

これは凄い評価だと思った。是非とも吉永ゼミ等の胸をお借りして、智頭町の魅力と洗練さを探ってみたい、そこで地域づくりのダイジェスト版を編集して送った。学生諸氏はどう受け取ったのか、「かや(規範)」「贈与と略奪」「ギブ&ギブ」「おせっかい」「提案マネジメント」など、新しい語彙が感度高く受け止められていた。実は、インターローカル論で、実践の知恵は地域を越える。そして、吉永先生から智頭町住民との“対話”を重ねた筆者にある洗練さのイメージは、①歴史と伝統に裏打ちされた本物の暮らし、②暮らし(ライフスタイル)と仕事(ワーク)両面での専門家、③自然との共生、④他者への温かさと受容、⑤他者との関係性構築としてのおせっかい能力。と解析された。やり取りを編集して『ギブ&ギブ』を出版した。学生から感想文が届いた。

〇智頭町の「おせっかい」が訪問者を魅了して、再訪を促す重要な要素になると再認識した。
〇まず、ギブ&ギブの精神は、相手の反応を予期せず、捨てるがごとく行うべきである。相手の反応を期待するのではなく、自分がしたいからする。これは非常に大切なことであると考えた。
〇自分で1から作ることは簡単なことではない。しかし、行動を起こしたからこそ、智頭町が変わっていったように、自分や周りを変えたいのであれば行動すべきである。
〇ギブ&ギブの利他思想の背景には、エディターシップの実践があることを改めて強く実感した。
〇地域づくりの根本にある精神的支柱は「ギブ&ギブ」の利他主義にあるということを実感した。
〇本書を通じて、「エディターシップ」「四面会議システム」等からトップダウン的な一方通行ではなく、普段からは汲み取ることのできない動機を洗い出し、能動的なコミュニケーションから生まれる案や考え方の重要性を再確認した。
〇初めて智頭町を知った時に感じた智頭町のエネルギーや時代に対応する柔軟さは、過去にCCPTのような智頭に対する熱い思いが、今も受け継がれていると思うと地域活性化とは、単に経済的な成功のみではなく、志や信念があってこそ活性しうるものだと実感することができた。

感想文は一部の紹介である。なぜ『ギブ&ギブ』を編集したのか、それは学生諸氏が、積極的に地域と向き合ってほしいと考えたからだ。例えば、知恵や考え方がどうであれ、自分たちの姿勢によって地域は掘れば掘るほど価値が生まれる。それをつかむため智頭町と向き合ってもらいたかった。そして、『ギブ&ギブ』の出版で、改めて智頭町の魅力と洗練さは日々の暮らしや、隣人との関係にあると発信した。

5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現

私は、夢を実現するという目標を持っていた。精神的に良く持ったものである。こうしたい、ああしたいと夢見る、次にそれを実現するためにどうすれば良いかを考える。ちょっと踏み出してみる。また考えて一歩踏み出す、この繰り返しでやってきた。目標を達成するためにはあらゆる手段を考え、そこにやりがいを見出した。心の中に分け入ってみると、批判や中傷を受けてもなぜ持ったのか、それは物事の本質を知りたいと強く願ったからである。例えば、なぜ過疎化が起こるのかを問うた。導きだした対案は、一つは「誇りの創造」をテーマにしたゼロイチ運動である。そして、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の「おわりに、ウィズコロナと創発的営み」に経済の尺度とは異なり、地域には唯一無二の価値があると提案した。

《これから地球規模で人類の大移動が起こるだろう。その際に、本書で確認したことが活きる。つまり、どの地にあっても思いがあれば創発(エマージング)的な生活により、小さな小循環が生まれる。先人はそのことを体現してきた。地域は誇りありきではない、また、経済ありきでもない。私の先祖も貧しいから山の中で暮らしてきたのではない、逆に豊かな地だから何世代にもわたって営み続けてきた。それは、便利とか、不便とか、お金や時間の尺度ではない。家族、風景、環境など、他では得られない唯一無二の桃源郷の価値を、その地に見出していたからだ。つまり、農山村には人々が生活していく確かな安全・安心がある。おそらく、これから人々は真に豊かな地を目指す。》

地域は唯一無二の地である、人々にとって掛け替えのない価値がある。一歩、一歩、踏み出しながら確信を得て取り組んだ。私はすごく慎重(臆病)な性格である。勝算が立たなければ事は起こさない。①事前に、企てを緻密に図る。そして、②大胆に実行する。③物事の事後は、繊細に情報を収集する。この思考でルーティンを掛けてきた。そして、実現すれば達成感を共に味わい、人々と美酒に酔った。極限の中で「一隅を照らすは 国宝なり」と、1200 年前の思想に拠り所を見つけた。そして、山間の地での生き方に落とし込んだ。青年時代から行動規範とした「我在存宇宙」、我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス、つまり、命が亡くなればすべてなし。人々と向き合い、一文字、一文章、一つの仕組みに精魂を込めた。政府の過疎対策に疑問を持った。単に批判ではなく、この地に事実を作ることだと覚悟した。社会科学の学びの場から、役場と研究者等のプロジェクトからゼロイチ運動を発案した。社会システム(仕組み)の創造はウェルビーイングを手繰り寄せた。

知人で彫刻家の近藤哲夫先生は、2012年4月京都に来て半年経った頃、岡田先生の退官祝賀会に出席のため我が家に一泊された。その際、「この文字がすっと頭に浮かんだ。」と言って7枚の色紙をいただいた。『やっと一息』『ほっ』『礎』『きょうもよかった』『生』『道』『魁』と、薄い墨と金色の太い文字で書かれていた。京都に来て心情が定まらないことを見透かし、最高のプレゼントであった。後日、畳一枚の『魁』(さきがけ)の扁額が届いた。

私は帰郷後間もない時期に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年かけて議論し、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。その後、自分自身の行動指針とした。世の中で二兎を追う者は一兎を得ずと言われる、ところが「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」と三兎を追い夢中で走った。納得である。

 6. 地域の規範の「定点観察」、記録はメモから

第3回杉下村塾で、岡田先生はベクトル思考で問題解決の種子は水平思考にある。つまり、水平型ネットワークのエディターシップ(編集)で、全体と部分を考えることが大切である。(『ギブ&ギブ』第1章8資料-1と2)そして、地域活性化は(熱)(執)(冷)の視点がいると説かれた。

《CCPTは、間口を広げる水平思考をしながら、プロジェクトにより問題解決し、目標を達成している。つまり、ベクトル思考を持った集団と言える。地域を活性化するためには、ベクトル思考を持たないと問題は解決しない。ベクトル思考とは二つ以上の軸を持って考えることが、備わっているかどうかである。そして、ベクトル思考は「地域経営プロジェクト方式」であり、障害を乗り越え問題解決し、目標達成する力である。》

《地域を活性化するためには、(熱)(執)(冷)が必要である。(熱)とは情熱的なひたむきな心で、(執)とは目的を達成するための執念であるが、だいたい活動家と言われる人々には、この二つは備わっている。しかし、あと一つ(冷)、冷ややかに見る目をもっているリーダーは少ない。(冷)とは科学での分析、検証、評価である。いくら個人的な感情面で地域をとらえても真の活性化は起こりえない。》

(熱)(執)は知的好奇心を持つことである。私は物事の頭に「なんで・・・」「どうして・・・」と、言葉を置くことによって物事に強く関心を持った。関心を持つことが熱意につながり、解き明かそうとするところに執念が生まれた。大切にしたことは、熱い思い(感性)である。そして、夢見る(希望)ことである。次にこうありたいとビジョンを持つことによって、行動規範となった。つまり、実現へのステップは、 1.気づき、2.企画し、3.実践し、4.記録し、5.編集する、と5段階のステップを常に心掛けた。私にとって一番できないことは(冷)である。地域で(冷)を持つためにはどうすればよいのか、岡田先生は科学での分析、検証、評価であると言われた。それでは住民が(冷)思考を持つには工夫が要る。私の解決策は観察と記録である。兎に角、観察して記録した。今、このように本書をまとめることができるのも、行事予定表に30年分を記録しているからだ。メモのきっかけは1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。気づいたことをメモにとる。積み重ねたメモは定点観察となった。

そして、CCPT活動実践提言書は1989年から1998年まで編集した。年に一冊200ページ、10年間で2000ページである。資料は、一つの証拠でメモも積もれば力となる。これら提言書は智頭杉の木箱に入れ、山形地区振興協議会、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈した。智頭町づくりの自伝の記録となった。

もう一つ、講義で要旨が語られる。鵜呑みにするのでなく、テープ起こしをすると講義の本旨をつかむことができる。大変な作業だが、言葉を受け止めるから知識を得る。本書はその事例である。そして、関係論文や報告書から何を引き出せるか、特に要約と結語を読み込んだ。報告書では文章末の結語である。それでは論文等を私一人で解釈ができたのか、秘訣は、翻訳プロジェクトチームの編成である。小集団を組織して課題を共有しながら、議論を行い、素案をつくり、議論を重ね、素案を作成してコンセンサスを得た。行政施策は最終的に議決が要る。手数がかかる分、その施策に思いを込め地域理念(アイデンティティ)が醸成された。

7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング

1984年からCCPTが取り組んだ地域づくりの資料は、山形地区振興協議会 (電話0858-75-0343:旧山形小学校:)の『智頭町まちづくりレガシー館』に保存してある。新聞記事はアルバム20冊、企画に伴う書類ファイル、CCPT活動実践提言書(1989年版-1998年版)、書籍関係、また、拙著『ギブ&ギブ』の校正原稿の編集ステップも保管されている。そこで、大呂佳巳氏が地域づくりの語り部を務めている。(1988年、地域づくりの目標を「親の世代から夢は与えてもらわなかったが、せめて子どもたちに語れる町にしよう」と話し合った。)

読者に分かり易く伝えたいと思い大呂氏にインタビューした。その中で「智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。」と回答があった。感動したまさに結縁である。

(1). 地域づくり、大呂佳巳氏にインタビュー(2022.07.20.)
《私は現在、山形地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-4)の会長をボランティアで務めている。地区振興協議会は2008年にスタートした。2012年に旧山形小学校の校舎の管理を智頭町から受託して、旧校舎の活用を地区振興協議会の独自事業と、テナントで民間企業が展開している。自分が卒業した小学校の校舎で、時代の流れとは言え、まさかのまさか、地区における創発拠点として「山形共育空間」構想の実現のため、本当に、日々忙しく、楽しく遊び、学び、人生実現に向けて取り組んでいる、とても不思議な世界にいる。

翻って、1980年代の役場の雰囲気は、トップが「烏が白いと言えば白い、黒いと言えば黒い。」がまかり通っていた。どうあがいても封建体質に従うしかなかった。そんな中で、寺谷局長からまちづくりをしようと声をかけられたが、「智頭町ではまちづくりはできない。」と答えたのは、そんな空気を感じてのことであった。しかし、CCPTは1988年に、智頭杉「日本の家」設計コンテストを実施した。これまでの智頭町の体質とは全く違う、外の世界を巻き込んだ仕掛けだった。そして、役場の中に事務局を置くということで、総務課の一員として事業に当たった。次に1989年に杉下村塾が開かれ、研究者や科学者の方と議論をする機会を得て、将来に可能性を感じた。ところが、町会議員の選挙違反が発覚した。4年後に選挙違反をした本人が町長に立候補して当選し、その直後に元町長が県会議員に立候補して金を配り、再び町会議員が大量に逮捕されるという事件が起きた。

そんな時、第6回杉下村塾での提案をきっかけに助役が中心となって、1995年1月14日に智頭町グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクトが発足した。例え、トップが揺れようとも自分たちが地域プランナーとして、確固たるまちづくり理念を持っていれば振られることはない。本プロジェクトを役場職員は真剣に受け止めた。そして、智軸づくりプロジェクトから、杉トピア(杉源境)ちづ構想へと、次にゼロイチ運動の企画へと進展したが、その取り組みによって救われた。まさに、智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。1998年のCCPT活動実践提言書の表題に、「居合わせた者よ、いきさつの語り部となれ」とあるが、その示唆もあって母校を舞台に、今、『智頭町まちづくりレガシー館』の語り部を務めている。まずもって感謝である。自分たちが歩んできた智頭町の地域づくりの軌跡を、自分の言葉で語っている。こんな幸せを、地域づくりからつかむことができた。幸せは豊かな「かや」から生まれると、次の世代に是非とも伝えたい。》

(2). マンション自治、関さんにインタビュー(2022.07.20.)
《マンションに入居したのは2011年秋のオープンと同時だった。それまで京都市内に住んでいたが、近所の方に子どもを可愛がってもらい、大変親しくしていただいていたので、新しいところへ移ることに少し躊躇していたら、一番親しくしていた方から、「新しいところに行ったら、きっと新しい出会いがある。また訪ねてきたらいいよ。」と言ってもらった。その時、上の子は2歳だった。

そして、2014年に自治会ができて、8月の盆過ぎの日曜日、京都ではどの町内会でもやられている「地蔵盆」が催された。地蔵盆では親子で参加した。子どもたちは学校や幼稚園の関係ではなく、同じマンションでエントランスを走り回り、ペットボトルをピンに見立ててボーリングやゲームをして楽しんだ。あるお父さんは図書館から紙芝居セットを借りてきて物語を話して聞かせた。そして、終わりにはビンゴゲームで商品が当たるというおまけつき、我が家の子は、特賞5キロのお米を当てて喜んで帰ってきた。僅か2時間ばかりの地蔵盆だが、参加した親子は本当に打ち解けた。その次にクリスマス会である。クリスマスツリーの飾りつけから後始末まで、できる者が参加して手作りで会をやってきた。

そして、2020年にコロナ禍で全て中止になった。そんな時、当初は寺谷さんが植木の剪定作業をされていたが、家族で話し合ってみんなでやってみようということにした。まず、ツツジの花を咲かせるため剪定時期を考えなければいけない。家族総出で剪定後の後始末をする。上の子は小学校六年生、下の子は6歳だ。行き交う通行人に気をつけながら作業をしていると、マンションの大人や子どもさんから「ありがとう」と声が届いた。それから今春、剪定をしようとした日に上の子の陸上競技会があって、剪定する間、下の子を寺谷さん家に預けた。本人は何の違和感もなく遊んでいて、成長を見ることができた。このマンションに同じように住んで、少しみんなのためになることをすれば、感謝の言葉が返ってきた。そして、子どもたちもツツジや植木に関心を持って、他所の剪定の様子など親子の会話の話題にもなった。こんなマンションはどこにもないなあと言って、親子で年に2~3回、一緒に汗を流している。コロナ禍で自治会の行事は中止されたが、みんなと遊んだ思い出はきっと大人になっても覚えている、このマンションがふるさとになった。素晴らしい出会いに感謝している。》

智頭町では地域の自伝を書く人は貴重だと聞く。また、マンションでは寺谷さんのようなお年寄りから子どもたちに声を掛けてもらうと助かる。と、ささやかな利他精神の実践である。先に出版した『ギブ&ギブ』を、マンションの子どもたち10人にプレゼントした。入居から10年が経って、みんな10歳大きくなった。「かやの理論」や「こころと意味」や「エディターシップ論」は、何かに役立つだろう。隣の阪本ゆうき君は小学校5年生、『ギブ&ギブ』の感想を聞いた。どんな言葉を覚えているかな、「ベクトル、マズロー、おせっかい」とあった。「おせっかいは、ゆうき君を赤ちゃんの時から知っているので、本を読んでねと言ったことが良い意味のおせっかいだよ。ゆうき君に感想をもらうことでおじいちゃんも元気になった、ベクトル、マズローに関心を持ったことは良いことだ。それではもう一冊、『「地方創生」から「地域経営」へ』をプレゼントするよ、右から読むと「思考のデザイン」が書いてある、絵をみたら面白いよ。」と話した。こんなやり取りができるようになった。私にとって大切な交流である。

9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味

本書の編集に当たって佳境に入ったとき、まさに天啓が起こった。私の思いで一度は袂を分かったが大きな心で受け止めてもらった長尾眞文氏(元笹川平和財団主任研究員)に、2021年の出版時に、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』をサプライズ謹呈した。合わせて、先般出版した『ギブ&ギブ』を献本した。主宰されている秋田読書クラブの題本(2022.07.24.ZOOMで読書会開催)に、『ギブ&ギブ』を推薦いただいた。1988年の出会いから34年の時を経て、新たなご縁へと導いていただいた。それは、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との出会いである。そして、珠玉のコメントをいただいた。特記すべきことは、《それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、解析いただいた。智頭町での地域づくりと、京都市マンション自治の取り組みの本質が喝破された。その直後、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)を贈呈いただき、神の啓示と受け止めた。

《実は三冊(智頭町づくり三部作)の本を送っていただいていたのです。全部読ませてもらって、そうなのだとつながりにたまたま昔からの同僚も沢山絡んでいて、大阪大学の研究室の三隅先生、杉万先生のラインの方々だと分かりました。今日話を伺って確信に変わったのは、寺谷さんはやっぱり革命家なのです。つまり、社会の中をいい意味で変えていく、社会は醗酵するという考え方を持っていますが、まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。凄く感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか、どこに原点があったのか、小さいときと言われたが、智頭町での遊びとか、智頭農林高校とか、謎だけど興味津々です。

杜氏はどうやったらできるか関心があります。寺谷さんのような人をいろんなところで発掘できないか、私的には同じような局面でどうやったらみんなが考えていない所に引っ張っていけるかを考えているけれど。例えば、大きな四角があったら端っこに誰も考えていないところに、それについて寺谷さんと共感する点がある。マインドセットを変える。考え方の枠組みを変えていけば、お金を作ることは結論で資源を使えないのかと、寺谷さんはやっていかれたのは凄く見事にやってこられた。杉の名刺、杉があるよねとあるモノを活かしていく、普通の人はお金に替えれば終わりだけれど、寺谷さんは止まらずに行く。かやの理論に寺谷さんは出会っただけであって、かやの理論的なところに踏み込みたいと思われていて、後押しする確信を持てるような要素を杉万先生の話から受け止めたからだと理解しました。それと、水平思考と訳されますが、エドワード・デボノのラテラルシンキングの考え方に通じる、「ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみること」で空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》

目の前の霧が一気に晴れた、長年の夢から覚めたような感じだった。草郷先生の社会が醗酵するとは、エマージングであり、場立ちである。これまで何を求めてきたのかがはっきりした。コミュニティにおけるウェルビーイング(幸せ・誇り)である。そのために社会システム(仕組み)の創造に関心を持ち、実現に向けて挑戦したのだ。

 10. 持続可能社会とコミュニティライフ

地域社会で無いモノをいくら嘆いても、地域は変わらない。私たちが智頭町で一歩を起こした時、住民は温泉がない、観光資源がない、見せる物は何もない、杉しかないと言っていた。ところがその杉にこだわった。そして、スイス山岳地調査で住民自治の種を見つけ、新しい住民自治システムの実現に向けて挑戦した。ベクトル思考を持ったことによって可能性が広がった。世界に目を向ければヒントがある。それでは京都市のマンションではどうか、周りの町内会では毎年地蔵盆の祭りが催されていた。そこで地蔵盆をやろうと声を掛けた。地蔵盆は400年前に豊臣秀吉の街づくり政策だったとの説もある。ところがお地蔵さんが無いとなった。そこで考えた、お地蔵さんは大地が蔵ですべての生命が芽吹くところと解釈した。石仏が無くてもよい、私たちは大地に見守られていると話した。皆さん納得された。地域づくりは地域文化に根差し、百果競甘である。その地の方言や生活文化を大切にすることが、地域理念(アイデンティティ)を育む。地域はそれぞれに違って価値がある。

実は、地域社会に無いのはモノではなく感性である。人々は日々周りに気遣いし、角を立てないよう生活を送っている。つまり、地域に無いのは実は創意工夫である。そのことに気づくことによってすべてが始まる。社会科学の学びから気づきを得て、感情論に捕らわれず、そこから社会システム(仕組み)をつくった。人々の規範がどのように変化するかを考え、企画、実践、検証、見直しを心掛けた。地域づくりは創作の場である。コミュニティを35歳で意識してほぼ40年になる。私にとって人間修養(啓発)の場であり“利他”(ギブ&ギブ)精神に導かれた。それは身近な生活環境にウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せることであった。

ところが、生活の場であるコミュニティに無関心の人が多い、コミュニティは何もしなくてもある。しかし、極論だが、無関心はある意味でコミュニティの崩壊につながる。私達はコミュニティで生活している。その生活の場をいかに豊かにするかが、結局、地域の持続可能につながる。人生100年時代になった。多くの人々が例えば70歳まで働いたとしても、それからどうするのだろうか。退職したら家庭のお荷物になる、そんな人生はおかしい。若い内からコミュニティに参画(協働)したが良い、私は、人々がコミュニティの価値に気づき、ライフスタイルとしてコミュニティに関係することは豊かな人生をつくると考える。

これまでの価値観は会社(組織)を中心に形成されてきた。一生懸命に勉強して良い大学に入り、一部上場の企業に就職し、立身出世をする。多くの人の目標であった。ところが頑張ってきたが幸せは一体どこにあるのか、皆さん、人生を問い質した。先日退職された知人に地域社会に関心を持って積極的に顔を出してくださいと提案した。そうしたところ年賀状をいただいた。『「何でも見てやろう、やってみよう」の精神で、地域の朗読会、ダンディイングリッシュなどにせっせと顔を出しながら、これまでと全く違う世界を楽しんでいます。』とあった。コミュニティライフ万歳! そして、三つの磁波(サイクル)がリンクすれば自己実現のイメージである。

11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経

草郷先生から《空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか・・・・・空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、私の思考について問いを発していただいた。本書の構成では社会システム(仕組み)をキーワードに、改めて筆を起こした。しかし、草郷先生の問いに答えていない、考え続けた。

社会システムの概念に出会ったのは、1988年に鳥取大学工学部の岡田先生を訪ねた時のことである。教室の表札に「社会開発システム工学科」と表記されおり、岡田先生に社会システムとはなんですかと質問した。問に対して「向こう岸とこっち側に橋を架ける場合、どこに橋を架けたらよいのかを考えるのが社会システムだ。」と説明をされた。この出会いから手弁当で智頭町を訪問していただき、CCPTのメンバーに対して社会システム思考について講義をされた。一部講義の内容は1章4「社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講」と、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の第2章2「課外授業、社会システム思考」、もう一冊は、『ギブ&ギブ』の第1章に収録している。1984年に一歩を起こし、1989年に杉下村塾を10年間にわたって開講した。その学習プロセスの記録はCCPT活動実践提言書に収録している。

それからもう一方に実践による体験がある。1989年の7月から8月の二か月間に杉の木村で智頭杉ログハウス建築イベントを開催した。現地スタッフは3名、全国からログハウスの建築のためボランティアを募集した。代表の前橋氏も私も現地で指揮をとることはできない。どうすればよいのか考えた。そこで、受付、保険加入、作業システム、炊事システム、宿泊システム、朝礼、安全点検、夕礼、五右衛門風呂で入浴など、ベニヤ板に書き、現場スタッフが説明した。一人5日間の作業を行えば向こう5年間、年3日無料でログハウスが使用できる。智頭杉の丸太を加工してログハウスを建築する大作業を展開した。事故が起きたらイベントは中止という条件、全体を動かすために、社会システム(仕組み)を具体的に示した。ボランティアは計68名、事故もなく5棟を建築し無事事業を終えた。(1989年版CCPT活動実践提言書収録)

私が考える社会システムとは、人間で言えば毛細血管や自律神経である。生身の身体を維持している交感神経や副交感神経に例えられる。表面的には分からないので観察や状況の分析によって浮き出てくる生活実体である。つまり、社会システムとは地域社会を維持する神経経脈で、それらは丸ごとで見る必要がある。そして、社会システムは地域を一歩進める仕組みづくりで、一気に百歩進めるものではない。社会システムはデザインによって規範が変わる。人々によって充実する社会システム(仕組み)の創造が理想である。 (ISディジタル辞典=社会システム概要「人間社会を機能させるための公共性の高いシステム。」)

もう一つ、地域活性化は「啐啄(そったく)」 (goo辞書=「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音) で起こる。例えば、地域づくりではいつも相手を説得し、集団を方向づけてきたと思われるかもしれない。しかし、説得工作は一切やっていない。当然、社会システムが成就した場合を想定し提案したが、後は当事者の選択に委ねた。例えば、青少年の海外研修支援事業しかり、本人が手を上げその人を支援する。また、ゼロイチ運動についても1997年のスタート時点、CCPTメンバーや役場スタッフの集落から参加はなかった。企画は欲しい人に提供するのが自然である。例えば、説得し説諭しても物事は成就しない。つまり、必然的に企画力が闘いである。「贈与と略奪」の理論(『ギブ&ギブ』第2章7)に物事の本質がある。早瀬集落ではゼロイチ運動の導入を総寄合にかけて多数決で決めた。一人の住民の意思を動かすことは至難の業である。民主的な一人ひとりの選択が成果につながった。だからこそ自主性を前提に社会システム(仕組み)の創造に全精力を入れた。

地域社会で社会科学を学ぶ場を意図的につくってきた、全ては実践による一歩と学びから始まった。岡田先生の説かれる社会システム論と杉万先生の「かやの理論」に喰らいついた。地域に具体的にどう落とし込み実現するかを考え続けた。そして、1995年1月、役場職員と研究者によるグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動が発案された。社会システム(仕組み)の創造によって、杉しかないと言われた智頭町に誇りが生まれた。小さな力で大きな成果となったが、もう一歩、社会システム創造の価値を過疎地域に紹介したい。

《引用文献》
論文-1 杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」【土木学会論文集NO.562/Ⅳ-35,27-36,1997.4】特集論文(土木計画学におけるリスク分析と応用)
論文-2 森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」【第43回日本グループ・ダイナミックス学会大会発表論文集(1995)】
論文-3 高尾知憲・杉万俊夫「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町
「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」【集団力学2010年第27巻pp.76-101集団力学研究所2010年掲載】
論文-4 樂木章子・山田奈々・杉万俊夫「「風景を共有できる空間」の住民自治—鳥取県智頭町
山形地区の事例―」【集団力学2013第30巻pp.2-35集団力学研究所2013年掲載】
論文-5伊村優里・樂木章子・杉万俊夫「旧村を住民自治の舞台に―鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例―」【集団力学2013第30巻pp.409-435集団力学研究所2013年掲載】
論文-6 叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み
―鳥取県智頭町「百人委員会」—」【集団力学2018年第35巻pp.3-83集団力学研究所
2018年掲載】
講義-1 『かやの理論』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
講義-2 『こころと意味・「かや」』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)

 第4章 身近に人生の師あり、独立自尊

 1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく

1948 年、鳥取県智頭町芦津に生まれた。芦津集落は、鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の上流、鳥取県と岡山県と兵庫県をまたぐ山岳地帯、渓谷と名瀑の宝庫とされる那岐山/氷ノ山/後山国定公園の芦津渓谷の登山口にある。下流の集落から断崖絶壁に沿って上ること約 2 キロメートル、これから上流に人家があるのかと思われるような山間の地で育った。本家の墓石を見ると、江戸時代から林業と少ない耕地面積の農業でほそぼそと生活してきた。四季が織りなすパノラマに80 世帯ばかりが暮らしている。集落は智頭杉の天然林を含めた共有林1,500 ヘクタールを所有し、その入会権は村人のみが相続する。村を出た者の権利は消滅する。集落では、寺谷・武田・綾木姓がそれぞれ氏神の祭祀を行い、同族意識が強く、血縁が結束の元にある。妻と二人の愚息のお嫁さん(各務原市と浜松市)も、先祖さんはよく命を繋いできたものだとびっくりしている。集落内の男は国有林(営林署)の作業員か、私有林の山林労務を行っていた。父は山林労務をしていた。時々、「この村に居ても飯は食えん」と言っていた。その言葉は子供心に残っている。父母は沖の山杉の赤差し苗の栽培や、なめこ茸の栽培をして三人の子供を育てた。働く後ろ姿から山里の生活は創意工夫することだと学んだ。

春まだ水が冷たい頃から渓流に入ってイワナを突いた。祖父母が囲炉裏で魚を焼いてくれた。裏山に登っては探検をし、台風が来ると近くの山で芝栗を拾った。大人は栃の実を拾いに深山に入った。祖父は入り婿だった。尋常高等小学校に上がらず、屋根(茅葺職人)屋の丁稚に入ったという。その時の切なさを話していた。家屋のみの分家で田畑はなかったが、木材の売買をして少しの山林と畑があった。なぜ本家の隣に家があるのかと聞いたところ、祖母の兄が分家を希望したからだと聞いた(おそらく、兄夫婦に子供がなかったため、叔父が5歳で養子になった。)。祖父は3キロメートル下った浅見集落で生まれ、20世帯ばかりの中に縁者が4軒あった。子どものころ連れられて祖父の生家の墓参りをした。背丈ほどもある自然石に「梅花山人」と彫られた墓石があった。裏側に回ると「思い煩うことなかれ なるようにしかならぬ 市蔵」と刻まれていた。峡谷の老梅を愛でた銘文に強く影響を受けた。

1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風は、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした。この台風で集落までの県道はズタズタに流されたが、翌年春、智頭町の中心部までの中間点にある旧山形郷中学校に入学した。道路が復興するまで毎日片道4キロメートルを歩いて通った。芦津集落の出身者は全員バスケットボール部に入った、中学、高校とバスケットボールをした。身長140センチながら走り回っていた。そして、三年生からは統合によって智頭中学校に通学となり、学年は一気に400人となった。1クラス50人のぎりぎりの教室で混ぜ飯状態であった。喧嘩に巻き込まれないために戦々恐々とした。

そして、バスケットボール部は大所帯となり、監督から身長の低い者は要らないと言われた。その一言で山形郷中学の同級生は皆辞めた。しかし、私は身長で区別されることに納得がいかなかった、くそったれと思って最後まで続けた。(この監督とは小学校六年生の時に出会っていた。無理強いする先輩を注意してほしいと約束したにも関わらず対応してくれなかったので、先生はおかしいと抗議したところ、いきなり平手打ちを喰らった。その理不尽さに遺恨があったので、退部しなかった。)秋の県大会で正選手に選ばれ、監督にリベンジした気持ちで納得した。

そして、地元の智頭農林高等学校の林業科に入った。恩師の言葉に勇気づけられた。国田隆広校長からは「君たちはメノウの原石だ、これから自分自身を磨いて宝石となれ!」と。肺結核で入院していて、病室の窓から燕が入って額に糞をしたそこで糞を運が着いたと希望を持ち、病状が回復したと話された。物事は受け止め様で生死の分かれ道になると語られた。小谷先生の「美しいバラの花は野茨の根の上に咲く」は、後日ジャーナリスト大宅壮一の言葉と知ったが、植物の本質と野茨の生命力を感じた。松永能典先生は「親になることは易いが、親たる親になることは難しい、人糞泌尿器になるな!」と説かれた。智頭農林高校に行かなければ出会えなかった。

智頭農林高校では森林の再生に関心を持った。例えば、森林の更新には5通りがある。挿し木、接ぎ木、取り木、実生、萌芽更新である。農業や林業を学んだことは、地域が拠って立つ基本を知った。そして、樹木の移植から根回しの語源を実感し、森林の下草狩りや枝打ちなど、優良材の生産にかかせない作業を実習した。そして林業は、なによりも祖父母の代に植林した杉・ヒノキを、30年50年後に伐採するというサイクルに畏敬の念を持った。目の前の森林は私有林であっても、周囲の緑の山々は共有林のように思えた。しかし、過疎化によって森林に手を入れなくなった。

見ていると地域の後継者に一つの現象があった。普通高校に行った者は大学進学や京阪神に就職して町を出た。実は地域の後継者は、実業高校の卒業生ではないかと自負を持った。高校を卒業して電気工事会社に就職したが、タンパク尿が出て会社を辞めた。社会に一歩出て挫折した。ところで我が家には一冊の本もなかったので、本家の本を借りて乱読をした。中でも「葉隠(はがくれ)」は「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」と、その崇高な精神に触発され、日々、覚悟を持って生きる姿勢を知った。志賀直哉の暗夜行路では鳥取の大山の宿坊で、ウドのカス漬けを食べたとあった。ウドのカス漬けを試作したが美味だった。また、吉川英治の「宮本武蔵」で、沢庵和尚は武蔵を池田輝政に預け、姫路城天守閣の開かずの間で「孫子の地形篇」を学ばせた顛末に、人生の師は身近にあると考え、祖父の薦めで地元の郵便局に再就職した。

2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る

21 歳の初冬の夜、地元小学校の宿直室に故小林義男先生を訪ねた。先生とは6 歳違いで年齢も近く、石炭ストーブに手をかざしながら自分の境遇を語った。次の夜、先生は一冊の本を手渡し、「自分が自分自身を諦めたらいけん、勉強しよう。」と、独立自尊を諭された。それは「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」だった。内容は、《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》とあった。そうか、誰にも能力の限界があるのだ、無能の限界を超えるには学び続けることだと気づいた。そして、1 対 1 の読書会が始まった。そこで実践が必要と考えるようになった。青年団活動に創作演劇を取り入れ、一作目は、山村の若者の都市へのあこがれを創作し、「芦津の田螺(たにし)」の脚本を書いて演出した。二作目は、地元小学校の統合問題を、児童と地域住民の立場に立ち、果たして統合が必要かと訴えた。いずれも仕事を終えて練習を行い、地域で公演をした。それまで黙って見ていた村の人たちが観に来てくれた。声援とともに御花(金一封)がびっくりするほど集まった。地域テーマを題材とすることの大切さを知った。振り返えってみると、1984 年からの地域づくりは、まさに故郷版地域シナリオの実践であった。

そのころ、曹洞宗興雲寺住職(当時智頭町農協組合長)の吉田冥莫(めいばく)和尚と、禅問答をして薫陶を受けた。死とは何か、生きるとは何か、面と向かって質問した。死とは何も無くなることだと返ってきた。その問答から自己の存在を強く意識するようになった。ある時、「今の職場の上司の下では寺谷の成長は無い、郵便局を辞めて農協に来い。そして農民のために働け!」と、強く転職を勧められた。冥莫和尚の言葉にショックを受け、どう生きるか悶絶した。合わせて青年団活動で新聞づくりをガリ版刷りで行っていたら、「戦前のような刷り物をするな、農協に持ってこい。」と、タイプライターを打ってもらい毎月発行した。

この時期、海外を見たいと強く思った。それは鳥取県選出の衆議院議員、故古井喜実先生の国会報告会で、日中国交正常化交渉について話を聞いた。私は勇気を出して手を挙げて質問した。「先の戦争で中国に甚大な被害を与えている。はたして国交正常化がはたせるのか?」と問うた。古井先生は満面の笑みで、「中国は偉大な国だ、心配ない。」と答えられた。1972 年秋、田中角栄首相が訪中して中国側の小異を捨てて大同(だいどう)に就くとの大英断によって、日中国交正常化が図られた。古井先生のご尽力と偉業に驚嘆した、身近で世界が動いていた。

古井先生の話を聞いて素直にぜひとも海外を見たい、世界を知りたいと思った。ところがお金がない、海外に行く方法を探した。そうして総理府の「第 6 回青年の船」に応募した。休暇申請について中国郵政局に問い合わせたところ休職扱いで乗船しろとあった。当時、智頭町の大原教育長から休職は履歴に傷がつくので乗船を辞めるようにとアドバイスがあった。しかし、なんであろうと乗船しようと思い、御殿場で開催された事前研修に参加した。そうしたところ、出航間際に公用パスポートが交付され、特別休暇で乗船することとなった。1972年10月、にっぽん丸は晴海埠頭を出航した。最初の訪問国のフィリッピンまで太平洋の荒波に揉まれた。そして、セブ島に上陸した。インドネシアのジャカルタ、オーストラリアのメルボルン・シドニー、ニュージーランドのウェリントン・オークランド、最後にラバウルに寄港し60 日間かけて訪問した。インド洋のど真ん中、海原を見回しても何もないが、クジラが潮を吹きイルカが群れて泳いでいた。生命を感じた。意を決し渡航した60日間、給料は支給された。仮に周りの人たちの声を聞いていたら、あの感動はなかった。初心貫徹であった。

3. 志を立て、国境(県境)を出奔する

冥莫和尚の薫陶を受けチャンスがあれば必ず活かそうと思った。考えた末、やっぱり郵便局で人生をつくろうと思い、勇気を出して故郷を出奔する覚悟をした。帰国して 2ケ月、郵便局の公報で中国郵政局(広島市)の職員募集を知った。チャンスをつかもうと受験した。二次試験で、数年後に直属の上司となる稲田人事課長の面接を受け、青年の船の体験を語った。そして合格した。周りの人たちはなぜ長男が家を出るのかと止めた。ところが冥莫和尚は「寺谷は広島に出て来い。」と明快だった。そして、餞(はなむけ)の言葉として“我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス”「我在存宇宙」と励ましの言葉をもらった。意を決し独立自尊を覚悟した。

将来、智頭町を何とかしたいと思っていた。僅か80世帯ばかりの芦津集落で、山林を持つ者と持たざる者の貧富の差を見てきた。同じ集落で祖父の従兄は山持の婿養子となっていた。その方は集落の顧問と称えられ、同じ婿なのにとポッと祖父の愚痴を聞いたことがある。格差に屈辱感を持った。1973 年7月、広島市で武者修行する思いで故郷を出奔した。私には何もなかったので行動目標がいると考えた。そこで一つ目は、是非とも労務管理能力を身に着けたい。当時、郵便局の職場では労働紛争があって自殺者が出ていた。二つ目は、自分自身の持ち味は企画だと思っていたので企画力を磨きたい。三つ目は、なんであっても信用・信頼される人間になりたいと、目標を持った。まさに一身独立の気概であった。転勤によって、法律や通達、文書を読んで仕事をするようになった。ところが読解力がない。そこで身近な人たちに声をかけて、土曜日の朝に自主参加で、経営管理・労基法・勤務時間管理規程、経済白書などを題材に輪読会を開いた。なぜ寺谷が主宰するのかと批判や中傷があったが、意に介さなかった。この自発的な勉強会によって理論を得た。その中に郵政省の教養の書のリーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」があった。

《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。

この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》

一匹のメダカと人間関係の原理に関心を持った。おそらく、体験的に社会規範は職場にあっても地域にあっても一点と全体から起こると考えた。一冊の小本によって小集団の本質と行動スタンスを学んだ。そして、帰郷後の1984年春、「決然」と一歩を起こした。木材加工による小集団を立ち上げながらCCPTを組織していった、一匹のメダカのリーダーシップ論は的を射ていた。中でも「小磁極」は地域理念(アイデンティティ)と解釈し、人々の精神的支柱である「智頭杉」をテーマに徹底して、「杉」にこだわり、施策の企画にわくわくドキドキしながら取り組んだ。

当初のやり取りを紹介したい。1988年に岡田先生に智頭町に入ってもらうようお願いした。その際、懇親の場で「なぜ、地域づくりをしているのか?」と質問された。私は即座に「自負心です。」と答えた。そして、帰郷後5年経ったころ地域で祝賀会が開かれた。上座の長老(元県会議員)から手招きが受け、こう切り出された。「良い声でなく鶏は枝ぶりを見て止まるが、見ているとあんたはどの枝にも止まらんが?」と、詰問された。私は即座に「小さくとも一本の木(気)になろうとしています。」と応えた。数年後、杖を突いて郵便局を訪ねられ、「どうか、地区の行く末を頼む。」と頭を下げられた。つまり、物事を成就させるためには日和見でいけない、私は一貫して決然とした態度で、まさに独立自尊の姿勢を貫いた。

合わせて、役場や助成団体の下請けはしないと決めていた。下請けは妥協と考えていた。例え、そのことでマイナスになろうとも貫いた。自分の心に忠実でなければリーダーは失格である。私の一挙手一投足を自覚した。それともう一つスタッフの悪口は絶対言ってはいけない、そんな評価(マネジメント)はない。人生を賭けた地域づくりである。一寸の虫も五分の魂、物事を成就させるには覚悟がいった。つまり、頼みとするCCPTメンバーや住民は常に私の姿勢を見ている、この自覚が大事だと思った。ところが、地域社会では小さい者や弱い者に対しては、強い者になびけと身近な人が善意でささやく。しかし、私は意を持って決然としていた。

そして、闘いを終えた感慨は、(箸)松本順のリーダーシップ論に出会えて本当によかった。どの理論よりもより実践的で、CCPT・ゼロイチ運動・地区振興協議会の思想性を作った。どんな本に出合うか、それこそ運であり万に一つの偶然である。まず文学全集を乱読した、小林先生から「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」で無能の限界を知った。広島の職場の輪読会で出会った「リーダーシップ論」と「孫氏の兵法」を愛読した。1991年から10年間にわたり開催された耕読会では、(箸)木村尚三郎の『「耕す文化」の時代—セカンド・ルネサンスの道』と39冊と出会った。本と出会い、人と出会い、物事と出会い、知識は増えた。しかし、実践者にとっては論より証拠、事実は小説より奇なり、社会システム(仕組み)を実現することが全ての回答である。

私の行動規範の起点は一匹のメダカの理論である。地域実現は日和見では起こり得ない。秘訣は「決然」、「智頭杉」をテーマに「一貫した価値観」と、「人財」にある。例えば、早瀬集落の革新は長石昭太郎氏から始まった。私は「長石先生は智頭町の文化振興に貢献されたが、早瀬集落には尽力されていない。このままで早瀬はいいのですか?」と問い、余人を持って代えがたいと貢献を嘆願した。氏は住民の英知を結集し、奇跡の集落づくりを実現された。(第2章2)

4. 出会いは神の計画、職場は人間形成の場

1). その人の本質をつかむ
「おーい、寺ちゃん、郵政記念日(4月20日)の宿泊担当をやってくれ―。」と、係長から命じられた。聞いてみると夫婦同伴で1,000人の宿泊のお世話である。中国郵政局に転勤後の1年間は貯金部調査課で、郵便局から上がってくる証拠書に算盤を入れた。次の2年間は給与担当である。その次の2年間は、広島郵便貯金会館(メルパーク)の経営管理と岡山郵便貯金会館の施設構想を担当した。その後、中国管内の為替貯金担当職員の訓練を5年間担当し、貯金部管理課に10年間在籍したが、凄く勉強になった。

先ほどの宿舎の職務は給与担当2年目のことである。なぜ、そうなったかというとおそらく背景に、大事な仕事をしたからだ。それは上司のA部長が退職されることになり、退職金計算をすることになった。ところが部長に兵役期間があったので人事部の要員給与課と何度も協議した。そこで、兵役後に無職であったことが証明されれば通算できると判断された。係長から「部長はきれいに退職されたいのだから・・・。」と、釘をさされた。しかし、私はそのことと退職金とは違う、是非ともご本人に確認してくださいとお願いした。その結果、兵役期間が通算され満額の退職金が支給となった。そんな経緯があった後、宿舎担当の指名である。広島市内のホテルを何か所か抑え、宿泊者を割り当て事前作業は終えていた。ところが、国鉄のストライキで全ての作業が無駄となり、5月に入ってから改めて同じ作業をやれとなった。そこで一計を案じた。一つは、トラブルが無いように宿舎担当を通して変更することにした。つまり、寺谷の印がないものは責任を持たないということにした。もう一つは、変更があった所属局に確認電話を入れた。そして、当日を迎えたのだが、トラブルは0件と納得のいく事務作業となった。後日、総括担当の秘書課課長補佐から良くやったと御馳走になった。

ある日、係長に今晩はついてこいと言われた。郵政局の玄関を出る際には大きな鍋と、麻袋に入ったワサビの葉を持って、歓楽街の流川へとタクシーに乗った。聞いてみると、今夜はバーを訪ねてワサビの葉漬けをして回るということだった。とにかく後ろについていった。訪問するとお湯を沸騰させてもらい、その鍋にワサビの葉を手で切って入れ、熱湯をかけて蓋をして力一杯振った。そして、水分を切って瓶に詰め、醤油をかけてワサビの葉漬けをした。とてもユニークな係長だった。気心が知れてくると人間関係の絶妙な機微に感嘆した。そこでワサビの葉漬けのことを聞いてみた。どうして私に声をかけられたのですかと聞いたところ、郵政局に職員が700人いるが、ワサビの葉漬けができるのは先輩のK氏と寺谷だと答えられた。何となく、ふーんと、頷いた。そして、庶務担当として毎週土曜日に各課対抗のバレーボールや軟式野球など、レクリエーションを開催した。どうしても参加されない方があるがと係長に聞いたところ、心配するな、この指さばれ方式だと意に介されなかった。職場が明るい空気に包まれた。

それから、広島郵便貯金会館の施設の増築が浮かんだ。収益を上げるためにどのように施設を増築するか、披露宴会場やレストランの稼働率など実態調査をして、シュミレーションしながら増築計画を立てた。そして、岡山郵便貯金会館の施設構想に入った。用地交渉から施設内容を本省と連携して取り組んだ。広島会館の反省から、岡山会館は会議室と披露宴会場のサービス動線と、客動線を切り離す方式を提案した。これは好評だった。広島会館の増築構想に携わったことが役立った。それと、玄関からコンベンションホールへの吹き抜けが実現した。

2). 部長朝礼とミニ情報紙の作成
月2回、N部長の朝礼が行われた。丁度、土光臨調の真っ只中のころである。貯金部100人あてにミニ情報紙が発行されていた。内容的には貯金部の事業等が編集されていた。そのころ、郵便貯金事業はどんどん改善され、公共料金の引き落とし、給与の振り込み、財形貯蓄など、新しいサービスが追加されていた。そこで新サービスの内容を分かり易く概念図で表すことにした。これがなかなか好評だった。私は法律や規則、規程を読んで図式に示した。そうしたところ、ミニ情報に収録された概念図の方が説明しやすいと、郵便局職員の講習会資料となった。そんな経験から地域づくりに概念図を多用してコンセンサスを得た。

そして、N部長による月2回(1回15分)の朝礼をカセットテープに取り、テープ起こしをして要点をまとめミニ情報に掲載した。情報は価値である。そのミニ情報を貯金部出身の普通郵便局の管理者に郵送を始めた。そうして1年経ったころ、目の前にN部長が立たれ、「管内の郵便局に臨局してみると、みんなが朝礼内容を知っているが?」、と訊ねられた。そこで、私は無断で送っていたことを白状した。そうしたところ、それならば心して朝礼をしなければいけないと、次の回から熱が入った。テープレコーダーに録って、文字に起こし、文章に編集して、要点をミニ情報で周知することにした。それから1年経って、文章を万年筆で浄書し一冊に製本して、N部長に表紙のタイトルを命名してもらった。部長朝礼「自戒」の編集を終えた。2年間、48回のテープ起こしによる文章化と、要点編集は、朝礼の本旨を読み取る貴重な訓練となった。単なる100人に配布の部内紙(B4版1枚)を、最先端の情報に切り替えた。どこに居ても創意工夫、我在存宇宙に導かれた。その思い入れのミニ情報紙一年分を、小冊子に編集し自費出版した。中国郵政局での仕事と知己は人生の財産となった。1973年に鳥取県境の因美線の物見トンネルを武者震いしながら越え、10年後の1983年初夏、一匹のメダカのリーダーシップ論と丸くしたマズローの欲求概念(『ギブ&ギブ』第3章1)、孫氏の兵法を秘め帰郷した。(第1章1)

3). 50年間、友人はどう見ていたか
2022年10月7日に郵政局からの友人である石田素風氏から、第37回国民文化祭の川柳の部で準特選に入ったと、作品の紹介とともに吉報メールが届いた。

課題は「フルーツ」/準特選作品「天と地と汗で実ったAランク」である。

《寺谷さんの生きざまを世に知らしめられたことに大きな拍手を送らせていただきます。ゼロからイチを生む、格闘の日々、芽を育て上げたプロセスが、奇跡を起こしドラマになり、共感を呼んでいるのですね。学者、評論家の皆様は机上論で生きている方も多いのでしょうが、実践論には勝てない。事実は小説より奇なり。オブラードで包んで、化粧しても、真の美学にはかなわない、と同じことでしょう。このほど発刊された書籍類が、これからも輝きを増してゆくことでしょうね。寺谷さんは大病との闘いもあったし、挫折もあったことと思いますが、流川の酒に溺れる(どなたかな?)こともなく、「今に見ていろ」を追い続けた勝利者です。これからも、「おしまいのページに好きな色を塗」(素風)って、行かれることでしょう。第37回国民文化祭/美ら島おきなわ文化祭2022 の 「川柳の祭典」の部に投句していたら素風の句が準特選になり、大会で読み上げるとの知らせ(本日)が来ました。沖縄旅でコロナのうっぷん晴らしをしてこようかな、と思っています。素風より》

友人とは中国郵政局で一緒に仕事をした。挑戦しているときも、病んでいるときも、挫折を経験したときも、ほぼ50年にわたって静かに見守っていただいた。最近の発句に「幸せの分母に蒔いた趣味の種」がある。私は視点に社会システムの目を感じると返信したところ、重ねてメールが届いた。《ありがとうございます。魂を込めて、これからも、句作りに挑みます。寺谷さんの生きざまこそ、句づくりのお手本です。》と、エールを交換した。天と地と友に見守られ、それぞれに実った人生である。お互いに後期高齢者となり新たな世界に入った。

 5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い

私には資産も財産もない。智頭町の規範の本質は、山林を持つ者と持たない者の長い歴史的関係にある。まず、地域の規範の本質を知らなければ活性化はない。山林が無い者がいかに正論を言おうと相手にされない。屈辱の社会構造であった。青年団活動をしていた時も、いつもあんたの父親は、祖父はと聞かれた。私にとってこの問いは常に序列かを意識した。家柄の意識が強く、町会議員になるのはその集落の有力者とほぼ決まっていた。

例えば、集落の総寄合で物事を決める。その翌日には反故になる。強いて言えば長老支配が続いていた。なぜそれが起こったのか、それは自分たちの祖父母の世代までは、中山間地域は耕地面積が少ないため、山林と田畑がない者は山持の家に労働等を提供して人夫賃や米などの糧を得ていた。つまり、家と家の主従関係があった。戦後、農地解放はあったが、山林開放はなかった。冬場の米一升が夏場の一人役とも言われていた。例え、集落の総寄合で決められたことであっても、山持(旦那さん)が頭を縦に振らなければ合意にならない、暗黙のルールがあった。江戸時代の家と家の関係がそのまま続いているように思えた。

私が広島市から帰郷したころ、友人に何かをやろうと言っても、智頭ではできない、周りがその雰囲気でない。突き詰めると町長が悪い、町会議員が悪い、組合長が悪い、と他人批判に終始していた。つまり、身を切らないと暗に言っていた。知人の役場の職員にまちづくりをしようと投げかけた。返ってきた答えは、「智頭町ではまちづくりなどやれない。」とにべもなかった(その知人とは大呂佳巳氏で、山形地区振興協議会長である。第3章7)。この状況に、それではどう生きるか自分自身に問うた。智頭町の活性化とは規範の切り変えである。ある種の秩序の中で静かに生活しているので、生半可な姿勢では達成できない。つまり、「人気」の生き方では地域の規範を革新することはできないと考えた。熟考に熟考を重ねた。結論として「本気」で生きることを覚悟した。二人の息子たちに生き様を示そうと腹を括った。想到な決意だった。

地域づくりは、山の向こうの人々に説得を試みても味方を得ることはできない。つまり、集まった人たちによって挑戦するしかない。そして、身近な人たちの価値を発見することにある。とにかく、この考え方を一貫して持った。私は知らぬ間に、社会の核心をつかんでいた。そして、何か事業を実施すれば必ず新しい人が現れた。知人がその様子を見ていて、どうしてあんな人たちと付き合うのかと忠告したが、帰郷後意図的に地域で変わっている人たちを訪ねた。正面から向き合ってみると、個性的で独特の持ち味があり、その方の長所もあれば短所もある、つくづく人とは面白いと思った。智頭町の規範はまるで平安京の鵺(ぬえ)のようであった。地域の規範を革新するという大望がある。変わった人たちを訪ね、懐に入ってその人に寄ってみると、常識人よりも個性的でユニークな個性であった。世の風評で人を見るようでは強力な組織はつくれない。組織化するならば個性的な人たちを方向づければダイナミックな集団になると考えた。まずは、相手の良いところを見つけてフォローする、一人ひとりが持つ得手をマネジメントする必要があった。そこで地域革新の志を持って組織したのがCCPTである。つまり、組織を維持するための集団はつくらない。テーマによって人々が集まり、テーマを達成すれば自然解散する臨機応変な組織づくりである。常に人間力が問われ、自分自身との闘いであった。

 6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念

1986 年 8 月 14 日、盆の14日に祖母が亡くなった。隣家の本家の仏様を拝み、お茶を一服いただいて、バナナを懐に入れたまま逝った、92 才の大往生だった。通夜の夜、本家の叔父から「杉の木村は、親族の恥さらしだ。」と叱責された。私は覚悟して取り組んでいたので、「いや、今、必要なのだ。」と言って口答えはしなかった。何百年にもわたる地域の規範からすれば、まさに私の行為は異端であり、大人の常識を親切心で諭す言葉であったが、思いを持って突っ走った。それから9年経って、1995年秋、杉万先生の論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1) の解析、4.「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」によって、杉の木村の建設から「新しい総事」の概念をつかみ、1996年にゼロイチ運動の企画書の要諦とした。抜粋して紹介する。

《しかし、忘れてはならないのは、「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘められていると考えることはできないだろうか。》

論文考察から集落活性化のヒントを見つけた。集落を能動的な経営感覚を持ち、「新しい総事」に挑戦する集合体に切り替えることである。そのためには八河谷集落で組織した「杉の木村産業組合」のように、各集落でも新たに「集落振興協議会」を設立すればよいと考えた。その協議会が集落の活性化計画を立て実行するのだ。そして、活性化計画の柱に「地域経営」を設ければ、必然的に能動的な組織となる。杉万論文を読み解くことによって、住民自治システムを具体的に構想することができた。私にとって論文によるヒントはまさに天恵となった。新しい総事をキーワードに「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」の具体策を1996年に企画した。

親族に理解されないことは苦痛だったが、杉の木村の建設は決して無駄ではなかった。過疎化の本質を知りたいと杉の木村の建設に執念を持って取り組んだ。言わば叔父の忠告を聞き入れなかったから、智頭町が茹でカエルにならなくてすんだ。ただ、心の支えとなったのは、祖母が生前だれに聞いたのか、「あつしは夢を実現する子だ。」と言っていた。通夜の夜の勝負感はなにからきたのか、それはきっと、祖母の慈愛に応えられると確信を持っていたからだ。杉万論文-1を手にしたとき、杉の木村の建設にこだわって良かったと心の底から思った。これで理論的な裏づけはできた。次の段階に向けてステップをどう踏み出すか、そこが勝負である。

実現に向けてアプローチをどうするか思案した。1996年2月、意を決しH町長に「村おこしコーディネーター会議」の設置を進言した。(第2章1)

 7. 希望の希求から新たな光が見えた

義父等から戦争体験で極限状態の話を聞いて息を飲んだ。生死の臨場感から人の在り様を見た。そこに過疎化のヒントがあった。つまり、死線を越えた体験談はどんな書物よりも得難い、希望の希求から生命の光を見つけていた。もうお二人とは二度とお会いすることはできない、身近な人たちから自然な言葉で聞き取った。静かに語られた戦争体験に心を打たれた。人間が生きようとした時、何を思いどんな考えを支えとするのか。ふっと1989年にスイス山岳地調査で出会ったシャンドランのホテルのオーナーの言葉がオーバーラップした。(第1章5)

義父は、第二次世界大戦中インドネシアに従軍し、飛行場を造っていた。明日は投降する前夜、戦友と枕に入れていた小豆をぜんざいにして食べて、美味しかったと語っていた。義父は、飛行場造成のため現地の人たちと働いていた。そして、戦争が終わって日本軍の兵隊は整列させられ、連合軍の前で首実検が行われたという。現地の人が悪い人と証言したら即銃殺刑となり、義父は「良い人」と言われて助かったと話した。重たい言葉だった。おそらく、義父は日本軍であるとき、虎の威を借りずに現地の人たちに接していたのだろう。もしかして、逆転を想定していたのかも知れない。生前中、酒に酔ってはインドネシア語で「テレマカシー(ありがとう)」と言っていた。

義祖母の弟は、ニューギニア戦線で撤退命令が出たという。頭を海面に出すと機銃掃射を受けるので、マングローブの下で一昼夜にわたって鼻だけ出して生き延びたと語った。話を聞いて私なら焦燥感と不安感で発狂していたかもしれないと思った。どうして生き残ることができたのか訊ねた。そうしたところ、夜になったら必ず沖合に友船が来て合図の点滅をしてくれる、その船に暗がりに紛れて泳ぎ、助かったと話した。戦争の友船は不確かなものであるが、友船を待つことで生き残ころうと耐えていた。極限の中、希望を持ったことで生き残ったのだ。お二人の話に引き込まれた。翻って過疎もしかり、誇りの前に希望を持つことである。希望は人々の英知によって創造することだ。希望の希求から新たな光が見え、その光を手繰り寄せることによって誇りが生まれる。

2021年5月、義母は 満99才で逝去した。私は妻と一緒になって満 45 年、いつも、「あつしさんが智頭に帰ってから智頭町は変わった。」「みんなは人の顔色を見ている、信じる道を歩きなさい。」「わしは信じている。」と、声をかけ続けてくれた。周りの誰の言葉よりも確かな評価である。義母の信頼に応えようと思った。振り返ってみると、私は常に人々の信用・信頼の輪の中にいた。まさに萃点(すいてん)(goo辞書=「萃」は、あつまるの意、さまざまな物や事柄があつまる場所。南方熊楠の造語。)の世界である。ところが残念なことにコロナ禍で葬儀に帰郷することができなかった。亡くなった義母に手紙を書いた「お義母さん、いつも勇気を与えてくれてありがとう。」と、一人の理解者を得ることは万人の力を得たと同じである。

まず目の前の方(人)と向き合うことである。小集団活動はイコールチーム人数ではない。そこに新しい発見がある。地域づくりは人の力による、大願成就するためには人徳貯金を心掛けることだ。人間関係は1対1の自他の概念(1章4)に秘訣がある。つまり、誰にも自他は存在する。他者にも自他がある。濃密な人間関係は一瞬にして自と他×2、自と自・他と他、とタスキ掛けで自と他の6通りが成立する。(「ギブ&ギブ」第3章2)次に三角形(トライアングル)のコミュニケ―ションによって小集団は輝き、希望を希求することによって光が見えた。

 8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)

地域づくりは無血クーデターだと言っていた。その意味するところは幸福革命である。当時、住民は智頭町には杉しかないと嘆いていた。そんなことはない、視点を変えれば大きな価値があると、一枚の杉の板切れを郵便はがきに応用すれば海外に届くと提案した。智頭杉日本の家と銘打ってアピールすれば地場の杉が使われて新築住宅や腰板が張られ、智頭杉で小学校校舎が2校建築された。そして、生木のまま活用する建築材の縁桁(えんげた)に価値があると、木材市場から智頭杉の生木を購入してログハウス村を建設した。その根底にあったのは、人も物も視点を変えれば最高に価値がある。まず、地域の特色に気づき、違いを認めることからはじめようと、青少年や社会人海外派遣事業や国際交流は、当初欧米の人たちと、そして軸足を東アジア(中国・韓国・台湾)へと展開してきた。それらの活動から地域の活性化は役場を覚醒化することだとターゲットを絞った。例えば、住民が役場の職員を説教しても効果はない、そこで経営コンサルタントの指導による接遇訓練の場を設け、全職員による研修システムが起動した。そして、町のグランドデザインを策定し、集落住民が地域計画を立て実行する日本・ゼロ分のイチ村おこし運動に15集落が10年間取り組んだ。この運動によって住民自治と地域経営の概念が地域に根づいた。次に領域(地区)自治を想定して旧村単位で地区振興協議会を設立したところ、行政(役場)による百人委員会が稼働した。

これら地域づくりは、どのような考え方を持って取り組んだのか。それは地域で生きることを誇りに思い、生き方や住まい方を発信した。こだわったのは「直感力」である。それらの取り組みは義務感でなく、未知との遭遇、わくわくドキドキ感で意外性の演出を心掛けた。兎に角、この地で面白く生きようと思っていた。そして、困難や壁に当たったとき、伝教太師の「一隅を照らすこれ則ち 国宝なり」と、平櫛田中の「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」の格言を唱えた。つまり、どこにあってもその環境に感謝し「足る を知る」と挑戦した。この姿勢によって、目の前の人が最高に輝き、自分自身も最善に活かされた。

1984年、杉板はがきや杉名刺を開発したころ、「寺谷のアイデアも一時のことだ、そう長くは続かない。」と、周りの人たちの嘲笑が聞こえてきた。面と向かって皮肉を言う人もいた。当初は閃きによるアイデアであったが、思いつきは限界があると考えた。そこで創作する場を設けた。その会議は前頭葉を上にして浮かんできたことを言葉にした。合わせて、周りの人たちも意見に乗って連想した。語彙を模造紙に殴り書きして、“つぶやき”や“ささやき”を企画に組み込んだ。創発規範の発酵の場は、まさに豊かな人生時間となった。

1994年8月24日、杉万先生から『こころと意味・「かや」』(「ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-2) の講義を受けた。要約すると、「環境」「集合的行動パターン」「コミュニケーション」「暗黙の自明の前提」の4点がワンセットで、「かや(規範)」と説かれた。つまり、コミュニケーションが通じる範囲の人々が世間を作り、コミュニケーションを張っている人たちの中で、暗黙自明の前提ができる、そこから意味が出てくる。その意味が暗黙自明の前提から取り出され、私たちの心の世界が出来上がるというのだ。究極、人々とのコミュニケーション(エディターシップ「ギブ&ギブ」第1章8)と、創発規範のわくわくドキドキ感によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。

9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ

自然災害は予測できない。2011年3月11日、テレビで衝撃の映像が飛び込んできた。東日本震災である。真っ黒な濁流が逆流し、自動車を飲み込んだ。「逃げろう―」と声を上げた。街をみれば津波に飲み込まれていく。その悲惨な映像は今でも目に焼き付いている。大きな衝撃を受けた。62歳で腎臓癌を発症し3月末をもって退職しようと決めていた。つまり、腎臓機能の低下は冬季間の除雪や、これまでのように公園の草刈りなどボランティアはできない。何分にも悪性癌の再発の可能性とeGFR値35にショックを受けた。自分自身の命の限りを自覚し、退職後は意を決し京都市への移住を決断していた。それこそ環境を変えることが生きることになる。妻の「京都に行こう」の一言によって、命がある内に妻の老後と二人の子どものフォローを第一義に考えていた。そこに東日本震災である。

予測がつかない、飛んでもない災害が起こることを改めて認識した。私に何ができるのか、満身創痍で汗をかくこともできない。そんな時、地震学者の今村明恒(1870年(明治3年)~ 1948年(昭和23年))の生き方を知った。《1899年に当時としては異端説とされた「津波の原因は海底の地殻変動とする」説を提唱。1905年に投稿記事の中で今村は「将来起こりうる関東地方での地震への対策を訴える」と猶予はないと警告し、今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されるが、’23(T12)年に関東大震災によって現実のものとなった。1923年に東京大学地震学講座の教授として、地震博士として幅広い震災対策を呼びかける一方、地震発生が予想される南海道地方に私設観測所を設置、’29(S4)年に日本地震学会を再設立して会長に就任。地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に業績を残した。’31年に定年退官。その後も私財を投じて地震研究を続けた。’33年に三陸沖地震発生後の復興の際に津波被害防止のため高所移転の提案をした。また、「稲むらの火」を教科書への収載を訴え、小学生から津波被害に関する教育の重要性の認知にも取り組んだ。(Wikipediaから抜粋)》

凄い地震学者がいた。自分自身も何にもならんことをするなと揶揄されてきた。ところが、今村は現職中に私設観測所を設置し、1931年に定年退官後も私財を投じて地震研究を続け、防災教育に「稲むらの火」と高所移転を提案した。その結果、高所移転を実現した岩手県大船渡市三陸町綾里(りょうり)地区では、東日本震災で住民の99パーセントが助かっていた。そんな生き方を知った。そうだ、地域づくりに定年はない。どこまで地域に関わることができるのか、それは自分自身の人生姿勢にあると思った。

そして、2011年に京都市に移住し、何から手をつけたらよいのか模索した。そうしていたところ2014年12月、明治大学農学部教授の小田切徳美先生が、『農山村は消滅しない』(岩波書店)を出版された。その一節に智頭町の地域づくりが紹介(P60)されていた。「1996年には、住民で組織する「智頭町活性化プロジェクト集団」(約30名)と行政職員が、約2年間にわたり積み重ねた議論を集約し、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』の企画書を作成した。これは、やや大げさに言えば、我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える。その全文を掲げておきたい。」とあった。運動の趣旨が丸ごと掲載されていた。“我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える”と最高の評価をいただいた。感動した。1996年に三日三晩で起草した文章だ。

小田切先生の書評に刺激を受け、ゼロイチ運動が住民にどのような影響を与えたのか、調べてみようと思った。2016年11月、京都駅の喫茶店で小田切先生にお会いし智頭町の動きを編集することを約束した。関係者にヒアリング(第1章2)をしてみるとゼロイチ運動が大きく影響していた。そして、2019年7月、智頭町が内閣府の「SDGs未来都市」に認定され、一気にまとめ10月に『創発的営み』を出版した。小田切先生は解題で“にぎやかな過疎”を提案されている。そして、創発規範の連鎖の拡大は、2021年に『ゼロイチ運動と「かやの理論」』と、2022年に『ギブ&ギブ』の出版によって検証した。敢えて言うならば、地域づくりに定年はない。

10. 無意識の力に突き動かされた

『ギブ&ギブ』の監修をしていただいた立命館大学教授山口洋典先生の「生き方・働き方の哲学への挑戦」の最終葉に、《寺谷さんの連作は、とりわけ全員が実名で登場する本作は、学問の枠に収まるものではなく、日常生活の科学を言語化する挑戦であったのだと確信しています。》と、解説いただいた。わが意を得た。つまり、「日常生活の科学を言語化する」との表現に出会い、日常における思考の在り様を知ってもらうことができたと思った。そのことを自覚するか無自覚かは知らないが、その人の内面の世界があって行動や思考が起こる。つまり、「日常生活の科学を言語化する」に反応した。そして、草郷先生から名指しがあった「まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。」と看過されたが、それらは特別に意識したものではなく、当然の感覚であった。その無意識で当然の感覚を問うてみた。

そうかと思いついたのは、私は肝臓疾患の患者であった。話せば長い。肝臓病を医師から診断されたのは30歳の年末だった。その夏、身体がだるかったので病院で血液検査を受けたところ、γ-CTPが異常値を示し、脂肪肝の病名がついた。今から考えれば疲れていたのだと思う。肝機能の数値に振り回され、組織検査を受けた。当時は、肝臓は再生しないと言われていた。ショックであった。治療薬が無いので漢方薬を服用した。そして、血液検査でC型肝炎が判明したので、インターフェロン治療を受けたが逆効果となった。そして、2005年に玉野市民病院の木村文昭先生の瀉血治療を受け、2010年に腎臓癌を発見してもらった。C型肝炎の治療薬 (エレルサ・グラジナ錠) が開発され、木村先生の薦めにより2020年2月に肝機能は完治した。この間、常に病気があった。まさに死刑囚のように時間を凝縮して生きてきた。そんな様子を見ていた関西医科大学看護学部教授鮫島輝美先生に、病気と地域づくりの関係について指摘を受けた。

《寺谷さん:いつもありがとうございます。自伝のところを読ませていただきました。人に生かされ、人を生かしてきたんだな、と思いました。確かに、病との関係性が「時間を凝縮した」といえるし、同時に終わりとの関係性がいつも切実にあるので、火事場のくそ力と言いますか、アドレナリンがどっと出る出会いが、ずっと続いているんだな、とも思いました。病と共にあることが、すでに寺谷さんのアイデンティティの一部になっている、そう感じられました。もちろん、病気になりたい人などいませんが、病があったからこその人生もあるな、そういう意味での「病の語り」を読ませていただいた気がしました。鮫島》

私が無自覚か自覚かに関わらず、肝臓病と腎臓癌は自身の個性となっていた。当然、病気になると限りある命を意識するので、火事場のくそ力を発揮したのだろう。病気が自分自身の思考や行動の深層心理の一端を担っていたことは確かである。鮫島さん曰く、「病があったからこその人生もあるな」と語られ、その通りである。しかし、病気は時間を凝縮したかも知れないが、どんな影響を与えたのかと問われると不確かである。ただ、出会いによる一期一会の意識は強く、言葉や語彙、その情景は映像の如く刻まれた。つまり、日常生活の科学を言語化する挑戦やマインドセットを変えたのは、好奇心と実は無意識の力によるかも知れない。

 11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る

2022年の夏、『ギブ&ギブ』を出版した。山形郷中学校の恩師の葉狩守先生に謹呈したところ、感想をいただいた。何分にも60年ぶりの通信簿である。

《貴重な労作をいただき恐縮しています。時間を無駄にせず、生命がけで郷土を想い描いておいでですね。一人で書き、考え、発想してまとめて、素晴らしい書物です。学生やこれに続く人たちの教えになります。自分の利益中心の考え方でなく、郷土の創生のために一銭にもならないことに生命を賭ける。そんな人が芦津から生じたこと、まことにうれしい限りである。小生、目の病で十二分の読破ができませんが、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』など骨が通じている。吉永先生をはじめ、大学の専門の方々の知恵、頭脳を参考にまとめてある。ひとりでできないことが、故前橋登志行様など地元の関心のある方々も寄り添って応援された。寺谷さん自身が動き、仲間を動かし、勉強の場を作られた。八河谷のログハウス、那岐地区の出会い館、アジサイの苗と花の園、魚の掴み取りやウグイのジャブなど、口先にとどまらず、手足、口、心が動いた。ゼロイチ村の振興協議会が動き、寺谷氏の心が村の自治に入り込んだ。郷土の古い物語を掘り起こし、英語の文に訳してスピーチを試みたり(省略)単なるギブ&ギブの本ではありません。》

葉狩先生には62年にわたって見守っていただいていた。すべて見通しておられた、有難いことである。また、日本海新聞社の元記者富長一郎氏から貴重なコメントが届いた。

《「ギブ&ギブおせっかいのすすめ」をご恵送いただき、ありがとうございました。もっと早く到着のお礼を差し上げなければならなかったのですが、生半可な返事は失礼かと思い、熟読しておりました。が、申し訳ありません。ギブギブとはあまりに大きなお題であり、体系的に消化できませんでした。断片的な感想です。大きく思ったのは、寺谷さんの「喜びや楽しみの壮大な回収」がいま始まっているということです。ギブギブとは文字だけ見ると捧げて捧げて略奪されまくったようですが、その一方で、この本からは広島から智頭に帰った時の思いを可視化できた寺谷さんの今の喜びがひしひしと伝わってきます。ギブギブとは地域を、集団を変化させる何よりの手段です。そして、その手段で願いをかなえた喜びを報酬として今、回収している。さらにはこの書を次代に残すことによって、地域づくりの実践を次代の若者に残すことができた喜びも回収されておられるのだと思います。いま、壮大な回収で全身が満たされているのではないでしょうか。断片的な感想ですので話題が飛びます。吉永先生が「関係人口」という概念にふれておられました。ふっと思ったのですが、これはカナダ・ペトロリアへ行く前夜の智頭町とペトロリアの人々の間柄もそうだったのではないでしょうか。カナダと智頭の間には絶対的な距離があったのですが、互いに交流する中で関係人口が創出されていった。いまとなってはその創出も寺谷流「ギブギブ」の産物ですね。そして関係人口が実際に交流すれば、どんな素晴らしい瞬間が待っているのかをだれもが体験した。それ以降、いくつもの多様なパターンの関係人口を創出してきたと思いますが、今回は学生たちという年代も居住地も距離がある人々との関係人口ができた。これは未来の関係人口です。本来は同じ時代の物理的な距離がある人々の間柄を関係人口と呼ぶのでしょうが、本書に収納されている関係人口は今と未来という3次元的な時間距離を隔てた関係人口です。次代への「時空を超えたギブギブ」という何よりの実践例ではないでしょうか。岡山にて》

広島時代の友人から一編の感想が届いた。出会ってから50年、地域づくりは人も物も本物が試され、人間力が根本から鍛えられた。

《今般は貴殿の大作を恵送いただき有難く拝読しました。約40年間にわたり智頭への思いがよく伝わりました。打たれても、打たれても進まれ、沢山の著作本当に素晴らしいことです。①エディターシップ、②ギブ&ギブ、③利他、この三つで頑張れたのだと思います。本著が集大成かと存じますが、益々のご活躍をお祈りします。浦部哲夫》

そして、本書の編集に当たって珠玉のコメントがあった。氏から「1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。」(3章6)、以来40年、塵も積もれば宝となれとメモ(記録)を実践した。

《感想 酒樽をかき混ぜるように、書き直すたびに、寺谷物語の豊穣な香りが立ち昇ります。しかも、ついには素風川柳まで添加された、大吟醸に仕上がってきたようです。見事な一代記です。極めてアナログ的な、地域おこしの集大成を、デジタルの手法を駆使してまとめ上げた、貴重な記録であることを、応援団の一人として、高く評価してやまない次第です。ご苦労様でした。山下宅夫》

地域づくりは世のため人のためと思っていた。情けは人のためならず、自分自身に返ってきた。ギブ&ギブの利他思想を持って邁進した。多くの人々の支援と協力を得て社会システム(仕組み)による地域づくりを実現し、誇りを創造した。まさに1983年に智頭町へ帰郷した時点から見ると雲外蒼天(うんがいそうてん)、想定外も想定外、遥かに予想を超えた地域づくりとなった。智頭町に賭けてよかった。そして「ギブ&ギブ」を出版後、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との面談(第3章9)をきっかけに、社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。

昨秋、北京外国語大学教授の宋金文先生が主宰された東アジアシンポ(横浜市立大学教授吉永崇史先生/韓国・全国災害安全研究所副所長羅貞一氏/鳥取県建築士会事務局長澤田廉路氏)の議論の中で、智頭町の住民は長年にわたって学習してきたと所見があった。まさに地域内外の人々との交流によって新しい知識に触れ心をときめかせた。それが刺激となって誇りを引き寄せたのだ。つまり、社会システム(仕組み)は、智頭町の人々の起爆装置となった。

1973年に一念発起し故郷を出奔してから半世紀の50年になる。奇跡的に命がある、まず感謝である。夢見たことを実現するため挑戦した。本書の第1章から第3章は、ゼロイチ運動による社会システム(仕組み)が、集落に奇跡を起こした事実を検証した。そして、本章は草郷先生の問いである思考の背景を書いた。文章の編集は孤独な闘いであった。できるだけ素直に一語一語を絞り出し、記録と記憶の取捨選択によって構成した。そして、京都市へ移住して11年になる5冊の出版と本書を編集した。地域に気泡のように萃点が生まれ、人々と事と心を紡いだ。実践者の学びと、社会システム(仕組み)創造の記録である。

参考資料
『ひまわりシステムのまちづくり』(共著:地域と科学出会い館、はる書房 1997)
『CCPT活動実践提言書』(編集:智頭町活性化プロジェクト集団 1989から1998)
『地域からの挑戦』(著者:岡田憲夫、杉万俊夫、平塚伸治、河原利和、岩波書店 2000)
『よみがえるコミュニティ』(編著:杉万俊夫、ミネルヴァ書房 2000)
『「地方創生」から「地域経営」へ』(共著:寺谷篤志・平塚伸治、編著:鹿野和彦、仕事暮らしの研究所 2015)(中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2017)
『定年後、京都で始めた第二の人生』(著者:寺谷篤志、岩波書店 2016)
『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み』(編著:寺谷篤志、澤田廉路、平塚伸治、今井出版 2019) (中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2021)
『ゼロイチ運動と「かやの理論」』(編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
『ギブ&ギブ、やせっかいのすすめ』(編著:寺谷篤志、今井出版 2022)

著者紹介
1948年鳥取県智頭町芦津に生まれ、1973年から1983年中国郵政局勤務。1983年那岐郵便局長、1984年杉板はがき発案、1988年CCPT設立、1989年地域経営をテーマに杉下村塾を開講する。1995年智頭町グランドデザインプロジェクト、1996年ゼロイチ運動の具体策を考案、1997年ゼロイチ運動スタート、2008年地区振興協議会スタート。2011年退職し京都市に移住、コミュニティにおける創発規範の連鎖を検証、執筆する。自称、地域経営実践士。
好きな言葉は、一隅を照らすこれ則ち国宝なり。いまやらねばいつできるわしがやらねばたれがやる。一寸の虫も五分の魂。我在存宇宙。独立自尊。

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―大橋謙策の「福祉教育原論」に関する研究メモ―  


 
 福祉教育とは、「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために、歴史的にも、社会的にも疎外されてきた社会福祉問題を素材として学習することであり、それらとの切り結びを通して社会福祉制度、活動への関心と理解をすすめ、自らの人間形成を図りつつ社会福祉サービスを受給している人々を、社会から、地域から疎外することなく、共に手をたずさえて豊かに生きていく力、社会福祉問題を解決する実践力を身につけることを目的に行われる意図的な活動」と規定することができる(「学校外における福祉教育のあり方と推進」全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、15ページ)。

〇ここ10年ほどの福祉教育学界は、地域福祉の主流化が進むなかで、良しにつけ悪しきにつけ、その視座が「教育と福祉」から「地域福祉と福祉教育」に矮小化され、俯瞰的議論から遠ざかっているようである。また、実践を支える理論や思想・哲学、価値、歴史などへの関心は未だ低い。実践方法の原理・原則の探究が不十分であり、理論的枠組みも不明確な福祉教育実践論が展開されているようでもある。

1 福祉教育の概念規定
〇上記の福祉教育の概念規定は、30年以上も前に大橋謙策によってなされたものである。今日においてもしばしば引用される。この概念規定以外にも、「福祉教育とは何か」について論考したものは複数、捉え方によっては多数あるが、大橋のそれがよく援用される。それは、「人権」や「平和と民主主義」といった普遍的な理念や価値に基礎をおいた理念型の定義であり、また包括的で汎用性が高いことに起因するといってよい。具象的な定義はその解釈を狭くするが、抽象的定義はその抽象度によって解釈を広げ、読み手の洞察によって解釈を深めることができる。そうした点で、この定義は多くの人が「使える」、多くの人にとって「使いやすい」ものになっているのであろう。
〇周知のように、全社協・全国ボランティア活動振興センターが1980年9月、「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)を設置し、翌1981年11月に「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」について研究の中間成果を纏め、報告した。委員会の設置は、全国各地で福祉教育実践の進展が図られ、学校における福祉教育のあり方について一定の理論的整理が求められるようになってきたことへの対応であった。次いで、1982年9月に第2次の「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)が設置され、翌1983年9月に「学校外における福祉教育のあり方と推進」と題する中間報告が行われた。大橋の福祉教育の定義は、第1次ではなく、「第2次福祉教育研究委員会」報告のなかで述べられている。そこではまた、次のように述べられている。「社会教育行政における福祉教育の促進には二つの視点が『車の両輪』としてなければならない。第一は、国民が社会福祉問題を学習し、それへの関心と理解を促進させる福祉教育活動の促進であり、第二には、今日の社会福祉問題の中心的課題を担っている障害者、高齢者の社会教育(学習、文化、スポーツ活動)の促進である」(15ページ)というのがそれである。後者(「第二」)に関してはさらに、「今日の社会福祉サービスの主たる対象である障害者、高齢者の学習、文化、スポーツ活動を豊かに促進させることが、国民の障害者観、老人観を変え、ひいては社会福祉観を変えて、ともに生きていく街づくりをすすめる上で重要」(16ページ)であるとされた。
〇ところで、大橋のこの定義は、全社協の「第2次福祉教育研究委員会」報告以前の1982年3月、神奈川県の「ともしび運動促進研究会」(委員長・大橋謙策)が編集し、「ともしび運動をすすめる県民会議」が発行した『ともしび運動促進研究会中間報告』で述べられている(4ページ)。「ともしび運動」は、長洲一二県知事の提唱によって、1976年10月から展開された行政・県民協働の福祉コミュニティづくり(自立と連帯のまちづくり)運動である。具体的には、「障害者の自立促進を」「おとしよりに生きがいを」「連帯感にあふれた地域社会づくり」などをその目標とし、「『ともしび運動』によってすすめられるべき課題の第一は “福祉教育の促進” である」(4ページ)とされた。
〇以上を要するに、大橋の福祉教育論については、一面では「子ども・青年の発達(の歪み)」を軸に体系化された教育論としても評価されるが、併せて高齢者や障がい者の「社会教育の促進」や「福祉コミュニティの形成」との関わりで福祉教育を捉える研究の視座に注目しないと、その定義や所説を読み解くことはできないということである。

2 福祉教育と「社会福祉問題」
〇先に記した大橋の福祉教育の定義についてその構成要素を弁別すると、次のようになる。(1)憲法第13条、第25条等に基づく人権思想をベースにする。(2)歴史的・社会的存在としての社会福祉問題を素材とする。(3)社会福祉問題との切り結びを通して、社会福祉制度や活動への関心と理解を進める。(4)社会福祉問題を解決する実践力を身につけるために、実践に基づく体験学習を重視する。(5)「自立と連帯の社会・地域づくり」の主体形成を図る、などがそれである。
〇大橋の定義における鍵概念のひとつは「社会福祉問題」である。大橋は、1981年2月に刊行された吉田久一編『社会福祉の形成と課題』(川島書店)所収の論文「高度成長と地域福祉問題―地域福祉の主体形成と住民参加―」(231~249ページ)で、高度経済成長期以降、「社会福祉問題の国民化と地域化」(大橋謙策『地域福祉の展開と福祉教育』全社協、1986年9月、3~11ページ)が進んでいるが、地域で福祉問題を解決するためには、それができる「住民の形成とネットワークづくり、とりわけそこにおける住民参加の問題」(238ページ)が重要であり、焦眉の課題であるとする。そのうえで、地域福祉の主体形成のための福祉教育の必要性と、福祉行政の「地方分権主義」への転換を図り、地方自治体が自律性をもって「地域社会福祉計画」を住民参加のもとに策定することの必要性を指摘している。
〇福祉教育が学習素材とする「社会福祉問題」、とりわけ高度経済成長期以降のそれは、大橋にあっては、「戦前の大河内一男の社会政策と社会事業という整理や戦後の孝橋正一の社会問題と社会的問題という整理でも、包含できない課題として創出されてきた」(231ページ)。公害・環境問題と外的な生活破戒、過疎問題と家庭破戒、過密問題と生活の共同的集団的再生産機能の弱まりと不安定化、合理化・機械化による生活リズムの破戒や老人福祉問題の深刻化などが、「従来の問題にくわえてあらわれてきた」ものである(232~234ページ)。
〇地域住民のこれらの具体的な生活破戒の “状況” については、簡潔明瞭にカテゴライズしても、他の領域や次元の “状況” で説明するだけではその本質に迫ることはできない。社会福祉問題の分析は、それを現代社会の仕組みと運動法則によって必然的に生み出される構造的な「社会問題」として、社会科学的に捉えることによってはじめて可能となる。そうした分析のうえで、その問題解決に向けて、批判的・論理的かつ創造的に思考・判断・実践する “力” の育成・向上をいかにして図るか。そのための福祉教育実践の具体的展開について検討することが求められる。
〇以下に、上記の論文中から、「福祉教育と地域福祉の主体形成」に関する叙述部分を記しておく。大橋の「福祉教育の理念と実践の構造」についての所説の基本的部分(特色)を概観・俯瞰することができる。

福祉教育は、国民が社会福祉を自らの課題として認識し、福祉問題の解決こそが社会・地域づくりの重要なバロメーターとして考え、共に生きるための福祉計画づくり、福祉活動への参加を促すことを目的に行なわれる教育活動である。したがって、福祉教育は少なくとも次の諸点を構成要件として意識的に行なわれてこそ意味がある。
第一は、差別、偏見を排除し、人間性に対する豊かな愛情と信頼をもち、人間をつねに “発達の視点” でとらえられる人間観の養成、第二に社会福祉のもつ劣等処遇観、スティグマ(恥辱)をなくすことが必要で、そのためには国民の文化観、生活観を豊かにすることに他ならないこと、第三に、人間は人々との豊かな交流の中で生きる以上、生活圏の狭い障害者等の社会福祉サービス受給者の生活がいかに非人間的であるかをコミュニケーションの手段も含めてとらえられること、第四に複雑な社会における歴史的、社会的存在としての福祉問題を分析できる社会科学的認識が必要なこと、第五に今日の福祉は、福祉行政の中でも細分化されているが、その解決には関連行政たる労働行政、教育行政、保健衛生行政などを含めて地域的課題を総体的にとらえる力が必要であること、の五つを基本に、情報の周知徹底、体験・交流などによって感覚として体得することなどが方法論的にも加味されて、はじめて福祉教育の実践といえる。
福祉教育は、住民の福祉意識を変え、福祉問題をトータルにとらえ、問題解決のための福祉計画づくり、具体的解決のための実践などを行なえる住民の形成であり、それこそ地域福祉の主体形成といえよう。(243ページ)

3 福祉教育と「地域福祉の主体形成」
〇大橋は、岡本栄一によって「住民の主体形成と参加志向の地域福祉論」と評されるように、「地域福祉の主体形成」を重視する。その点について、大橋は、前記の著書『地域福祉の展開と福祉教育』において、「地域福祉の主体形成のしかたと主体として形成されるべき力量には、次のような7つのことが考えられる」とした。(1)社会福祉に関する情報提供による関心と理解の深化、(2)地域福祉計画策定への参加と政策立案能力、(3)社会福祉行政のレイマンコントロール(政治や行政の一部を一般市民に委ねること:筆者)、(4)社会福祉施設運営への参加、(5)意図的、計画的な福祉教育の推進、(6)地域の社会福祉サービスへの参加(ボランティア活動)による体験化と感覚化、(7)社会福祉問題をかかえた当事者の組織化と当事者のピア(仲間、peer)としての援助、がそれである(46ページ)。その後、大橋は、この「地域福祉の主体形成」(「住民の主体形成」)の7つの「枠組み」を整理し、「『地域福祉の主体』形成には、4つの課題がある」として、4つの主体形成の枠組みを提示する。すなわち、(1)地域福祉計画策定主体の形成、(2)地域福祉実践主体の形成、(3)社会福祉サービス利用主体の形成、(4)社会保険制度契約主体の形成、である(大橋謙策『地域福祉論』放送大学教育振興会、1995年3月、75~82ページ)。それは同時に、福祉教育の課題でもある。
〇この大橋の4つの主体形成については、7つから4つに “綺麗” に整理・集約された故にか、4つの側面が並列的に理解されがちで、その内的・構造的な相互関連性の把握を困難なものにしている。主体としての「住民」は、基本的には労働主体と(労働以外の)生活主体の統一的存在であろうが、政治主体・経済主体・文化主体であり、また地域の自治主体や変革・創造主体でもある。「住民」はこれらの側面を重層構造的にもつ存在である。地域の自治主体や変革・創造主体に関していえば、住民主体の社会福祉問題の解決や「自立と連帯の社会・地域づくり」を推進するためには、個人的主体形成のみならず集合行為主体や運動主体の形成が必要かつ重要となる。こうしたことを踏まえたうえで、地域福祉(住民)の主体形成を促進する福祉教育実践の内容や方法について具体的に検討することが肝要となる。

4 「大橋福祉教育論」に対する批判
〇以上が、「社会福祉問題」と「主体形成」の鍵概念を中心にみた「大橋福祉教育論」の概括である。こうした大橋の所説に対してこれまで、「地域福祉と福祉教育」を説く地域福祉研究者からの系統的な批判はあまりみられない。それは、大橋の所説が一定の理論体系を作り上げていることによるが、大橋のそれが「福祉教育原理論」として前提され、そのうえで立論されていることにもよるといってよい。そういうなかで、生涯学習やESD(持続可能な開発のための教育)の研究者である松岡廣路が、論文「福祉教育・ボランティア学習とESDの関係性」(『持続可能な社会をつくる福祉教育・ボランティア学習(日本福祉教育・ボランティア学習学会研究紀要)』第14号、2009年11月、8~23ページ)において、大橋の所説に批判的考察を加えている。
〇松岡の大橋批判は、大橋の福祉教育の定義は「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、<未分化な学習者像>、<社会福祉活動の内実の曖昧さ>、<楽観的な社会形成ビジョン>、<教育概念の曖昧さ>と約言できる」(13ページ)、というものである。そして、松岡は、「脆弱性の高い『福祉教育』の定義に基づいてしまうと、時代の大きな物語に押し流され、重要と思われる要素が外延化され、体制的要素を内包とする対象化(理論化)と実践化が、当然のごとく進んでいく。福祉教育が、現実と理想の拮抗関係の中に位置することを意識し、従来の枠組みを等閑視しないという批判的な姿勢を保つことが、今まさに重要である」(16ページ)として、「批判的創造性」の観点の必要性と重要性を説いている。松岡の批判は必ずしも、「大橋福祉教育論」をその理論的体系化の過程も視野に入れて、総合的・体系的に行うものにはなっていない。とはいえ、「社会的・福祉的課題の解決に不可欠な『批判的創造性』が、実践における学びの目標・内容(いわゆる『学びのベクトル』)から排除されている」(16ページ)という指摘は、首肯されるところである。

5 「大橋福祉教育論」再考のための枠組み
〇ある理論や所説を、内在的にしろ外在的にしろ批判的に考察するためには、その枠組みを構造的に捉え、それを主体的に再構成することが求められる。その点において、「大橋福祉教育論」を超える新たな福祉教育論の理論的枠組みを構築し、新たな実践方法を創造するためには、まずはいま一度「大橋福祉教育論」の理論的枠組みの構築化の過程を時系列的に把握するとともに、その枠組みの構造を総合的に理解する必要がある。そこで、以下では、そのためのひとつの方法として、大橋が行った福祉教育についての2つの「講演」からそのレジュメの枠組みと項目をみることにする。日本福祉教育・ボランティア学習学会の第2回大会と第10回大会での講演である。

(1)福祉教育・ボランティア学習の理論化と体系化の課題(第2回大会・基調講演/1996年11月23日/日本社会事業大学)

出所:『日本福祉教育・ボランティア学習学会第2回大会』1996年11月、5~9ページ。

〇地域づくりや地域福祉の主体「形成」は、福祉「教育」やボランティア活動(ボランティア「学習」)が推進されればそれで可能になるものではない。それは、子ども・青年や成人などの地域住民が、地域の社会福祉問題の本質を科学的に理解・分析し、変革的・創造的に問題解決を図ることのできる“力”を獲得し、しかもそれを具体的・現実的に行使することによって初めて可能となる。その主体形成ができなければ、福祉を学ぶことやボランティ活動は単なる「善行」にとどまり、無批判的で体制適応(順応)的な住民主体を形成することになる。福祉教育は「両刃の剣」になりかねない、といわれるところである。
〇そういう意味からも、上記の枠組みと項目のなかから、ここではとりわけ「形成と教育と学習」について留意しておきたい。それは、上述の松岡が、大橋の定義は「意図的な活動」と明記されていることからも「福祉教育が、ややもするとフォーマルな教育が中心であるとの理解(誤解)を許す脆弱性を有している」(15ページ)と指摘する点に関わることである。
〇大橋の指摘を俟つまでもなく、福祉教育を進めるにあたっては、その対象である子ども・青年あるいは成人などの「学習者」の発達特性や発達課題、学習者が置かれている状況などを理解すること(「学習者理解」)が重要となる。それは、「人格発達論」(「人間発達論」)にまで深められなければならない。そのうえで、子ども・青年や成人の、地域づくりや地域福祉の「形成」と「教育」と「学習」との関係を改めて考えてみる必要がある。
〇宮原誠一によると、「形成」は、人間の社会的生活における自然成長的な過程として捉えられる。それが豊かであることによってはじめて、組織的体系的な制度であり、目的意識的な過程としての「教育」が成り立つ。換言すれば、人間の「形成」の過程を、それぞれの時代の社会、政治、経済、文化の必要に基づいて「望ましい方向」に制御しようとする人間の努力が「教育」という営為である。宮原にあっては、広義の「教育」は「形成」と呼ばれるべきであり、学校教育や社会教育などの狭義の「教育」は「形成」を前提とする。すなわち、狭義の「教育」は、人間の「形成」のうちにあるひとつの営為であり、「形成」の過程に内包されるひとつの要因に過ぎない。
〇「形成」は、人間が社会的生活そのものによって “形づくられる” 過程である。それは、第一次的には社会的・自然的環境によって行われる。とすれば、「形成」は「学習」なしには成り立たず、「学習」は「形成」に不可欠なものとして位置づけられる。そこから、「形成」と「教育」の関係は、「学習」と「教育」の関係になる。その関係について、勝田守一は、「学習のないところに教育はない」「教育は学習の指導である」という。勝田にあっては、「形成」にはその前提として「学習」があり、「形成」は自己の希望や意欲による目的意識的な営為である。従ってそれは、「自然成長的」(宮原)ではない(佐藤一子ほか「宮原誠一教育論の現代的継承をめぐる諸問題」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第37巻、東京大学、1997年12月、311~331ページ。宮崎隆志「教育本質論における宮原誠一と勝田守一の差異について」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第83号、北海道大学、2001年6月、1~24ページ、等参照)。
〇いずれにしても、宮原と勝田の「形成」「教育」「学習」などをめぐる「教育」の概念や本質についての再検討は、福祉教育やボランティア学習の概念把握や本質理解に対してひとつの視座やアプローチの仕方を与えてくれるであろう。地域づくりを担う子ども・青年や成人などの多様な実践・運動主体の育成・確保が求められ、市民活動や教育活動のあり方が厳しく問われている今日、その再検討の意義は大きいと考えられる。それは、宮原と勝田は、「連帯」の概念を基底に地域を捉え、勝田は「自立と連帯」の場として地域を理解する。そのうえで、“地域づくりと教育実践(地域教育計画)” について言及するからでもある。

(2)学会の新たなる10年に向けて~福祉教育・ボランティア学習学会の今後の課題―学会創設10年の総括~(第10回大会・総括講演/2004年11月28日/神奈川県立保健福祉大学)

出所:「実践と研究の未来」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報(10周年記念)』第10号、2005年12月、91ページ。

〇学校は、「学習者」(生徒)と「指導者」(教師)、その両者を媒介する「教材」(教育内容)によって構成される。そこでの教育活動は、教科活動と教科外活動(特別活動、総合的な学習の時間)、学習指導と生活指導という2つの領域や機能に分けられる。また、教科活動と教科外活動、学習指導と生活指導はともに、学校や教育活動の理念や目的・目標を達成するうえで重要な機能を果たすものであり、学校教育において重要な意義をもつ。教育の理念や目的・目標の明確化なくして、学習者の主体的・創造的な学習活動や指導者の意欲的・積極的な学習・生活指導は促進されず、教育の成果を期待することはできない。そこから、教育の「理念・目的・目標」は、学校や学校教育の構造を成す重要な内部要素であるといえる。そして、「理念・目的・目標」「学習者」「指導者」「教材」は、相互に作用・影響し合い、相乗効果を生み出すものとして存在する。
〇こうした認識に立って、以上の枠組みと項目から、ここでは「福祉教育の構造」に関する研究・実践課題について一言する。管見によれば、福祉教育は、(1)理念・目的・目標、(2)学習者、(3)指導者・支援者、(4)素材・教材、(5)教育内容・方法(評価を含む)などによって構造化される(「福祉教育の構造」)。それらの構成要素のうち、例えば(1)については、福祉教育(「市民福祉教育」)は、「自立(independence)と自律(autonomy)、共働(coaction)と共生(symbiosis)」という理念のもとで、「福祉文化の創造や福祉によるまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図る」ことを目的とする。福祉教育は、そのために、地域の「社会福祉問題」を発見・理解・解決するための横断的・重層的な実践プログラムを開発・編成し、地域を基盤とした総合的・複合的な「地域をつくる学び合い」(東京都生涯学習審議会答申「地域における『新しい公共』を生み出す生涯学習の推進~担い手としての中高年世代への期待~」2002年12月)の支援を行う教育営為である、といえる。
〇そう考えたとき、(2)に関しては、「子ども・青年」のみならず、「成人」(中高年世代)の状況について分析・理解すること(「学習者理解」)。(3)に関しては、求められる資質・能力や知識・技能とは何かを探究し、その育成・向上を図ること(「指導者・支援者育成」)。(4)に関しては、学習者の問題意識や学習意欲を喚起し、教育(学習)目標を達成するために、身近な地域・生活「素材」(具体的事象)を掘り起し、「教材」化すること(「教材開発」)。(5)に関しては、地域(「地元」)や「まちづくり」に焦点をあてたカリキュラムやプログラムを開発・編成し、実施・展開、評価すること(「プログラム編成」)、などが求められる。これらは、福祉教育における普遍的な課題でもあるが、人権侵害や立憲主義・民主主義・平和主義の後退、福祉や教育の改悪・切り捨てなどが激しく進行するいまこそ、福祉教育を体制内的な教育営為にしないためにも、自律的・批判的・創造的に取り組むことが求められる重要な研究・実践課題であるといえよう。
〇周知の通り、教育の形態は一般的には、大きく次の3つに分類される。(1)定型教育(formal education:制度化された学校において、構造化されたカリキュラムに基づいて教師と生徒の関係によって展開される教育。学校教育など)、(2)不定型教育(non-formal education:学校の教育課程として行われる教育の外部において、一定の学習者に対して、ある学習目的を達成するために意図的・組織的に行われる教育。社会教育など)、(3)非定型教育(informal education:日常的な生活経験(体験)や環境によって、知識や技能などを習得する無意図的・非組織的な教育。家庭教育など)、がそれである。加えて、日常生活上の市民・文化活動(運動)などを展開するなかで生じる教育課程としての(4)市民・文化活動(運動)を考えることができる。それは、非意図的・間接的あるいは偶発的でもある。
〇福祉教育(福祉教育事業、福祉教育機能)はこれまで、学校における福祉教育を中心にしながらも、学校外における福祉教育、成人を対象とした社会教育における福祉教育等の多様な分野で実践展開が図られてきた。具体的には、家庭や学校をはじめ、社協や公民館、福祉施設、民生委員・児童委員、NPO・ボランティア団体、自治会・町内会、企業、その他の関連施設・組織・団体などが、多様な “機会” や “場” を設けて福祉教育に取り組んできている。これまでの経過や現状・実態を踏まえると、福祉教育は、子ども・青年や成人などの地域住民を対象に、フォーマル、ノンフォーマル、インフォーマルの3つの形態の教育活動や市民・文化活動(運動)等を相互に媒介し、関連づけ、学校や地域などで展開される多様な教育活動として構造化されることになる。「福祉教育の構造」について検討し、その再構築を図るに際して、上述の5つの構成要素とともに留意すべき点である(表1「市民福祉教育の構造」参照)。


 むすびにかえて
〇大橋は、「教育と福祉」に関する初期の著作『地域福祉の展開と福祉教育』のなかで、「本書は、学術論文というよりも実践的研究書という方があたっているかもしれない。筆者の問題関心は、教育と福祉における“問題としての事実”に学びつつ、問題、課題をどう実践的に解決するのかという点にある」(「まえがき」)と述べている。この「実践的研究」の姿勢は、その一貫性を保ちながら「大橋福祉教育論」を深化・体系化させていく。
〇いわれるように、「実践的研究」は、「実践を通しての研究」と「実践に関する研究」に大別される。前者は仮説探索型の研究であり、後者は仮説検証型のそれである。この両者を循環的に組み合わせ、相互作用を引き起こすことによって、実践性と科学性を備えた、さらにはそれらを統合した研究と理論構築が可能となる。「大橋福祉教育論」を再考し、新たな福祉教育論を展開するに際して留意すべきひとつの視点・視座である。
〇改めていうまでもなく、上記の大橋「講演」の枠組みは壮大である。同時にそれは、幅広く奥深い「大橋福祉教育論」再考に向けた多様な視点・視座とアプローチの方向性を示すものでもある。「理論」(所説)は新たな時代や現実によって不断に凌駕され、更新されていく。「大橋福祉教育論」が「福祉教育原理論」としてその普遍性と不変性を今後も保持し続けるか否かの評価についてはひとまず置くとして、「大橋福祉教育論」をいかに継承し、新しく展開するかは福祉教育の実践者や研究者に課せられた大きな課題である。

補遺
(1)大橋謙策は、福祉教育とボランティア活動の関係性について、例えば次のように述べている。

ボランティア活動の契機・動機が(中略)自己満足的なもの、慈善的なものであったとしても、多くのボランティアはその活動を通して厳しいものの見方・考え方を修得していく。社会福祉一つとってみても単なる人のやさしさ、情熱だけでは解決できず、制度の確立と住民の協働がなければならない。ボランティアたちはそれらに関する意識を豊かにしはじめる。/社会福祉に関する意識は、知的理解のみではなかなか変容しない。社会福祉問題を抱えた人々との交流の中で、あるいはその問題解決の実践・体験の中で変容する。それだけにボランティア活動の推進は重要である。と同時に、福祉教育が求められる背景を解決するためにもボランティア活動を豊かなものにしなければならない。
(大橋謙策「福祉教育の構造と歴史的展開」一番ヶ瀬康子・小川利夫・木谷宜弘・大橋謙策編著『福祉教育の理論と展開』(シリーズ福祉教育1)光生館、1987年9月、74ページ。)

(2)福祉教育とその近似概念である「ボランティア学習」の関係性については、例えば長沼豊は次のように述べている。参考に供しておきたい。なお、長沼は、ボランティア学習は3つの構成要素から成るという。①ボランティア活動のための学習(目的としてのボランティア活動)、②ボランティア活動についての学習(対象としてのボランティア活動)、③ボランティア活動による学習(手段としてのボランティア活動)、がそれである。

福祉教育とボランティア学習は、ある実践では領域接近的に、ある実践では融合形として、ある実践は福祉教育の発展として(結果として)ボランティア学習がある、というように、重層的、輻輳(ふくそう)的に領域や方法が重なり合っているといえるだろう。
(長沼豊『新しいボランティア学習の創造』ミネルヴァ書房、2008年12月、135ページ。)

(3)また、福祉教育とボランティア学習の「違い」と「関係」について、全社協の『新 福祉教育実践ハンドブック』では次のように述べられている。

福祉教育とボランティア学習は、(中略)双方とも人権尊重・異文化理解をベースに、共生文化・市民社会の創造を大目標に掲げる実践です。(中略)しかし概念的には、学習素材・期待される成果・手法において若干の違いがあるともいえます。/ボランティア学習の概念の中心に位置づけられる、「ボランティア活動に組み込まれている学び」という発想は、(中略)リアル空間での学びを強調するものです。(中略)安易な疑似体験や講話的な福祉教育への警鐘としてボランティア学習をとらえることこそが重要なのです。/現在、福祉教育とボランティア学習は、ともすると、異なる文脈で実際の教育現場に導入されていますが、両者の特徴を総合することが求められています。理念的にも、福祉教育とボランティア学習は相補う関係にあります。
(上野谷加代子・原田正樹監修『新 福祉教育実践ハンドブック』全社協、2014年3月、32~33ページ。)

付記
阪野貢「『大橋福祉教育論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」市民福祉教育研究所ブログ〈まちづくりと市民福祉教育〉(26)2014年11月4日アップ。一部加筆修正。
阪野貢「『大橋福祉教育原論』再考の視座と枠組み―新たな思考軸の構築をめざして―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、14~27ページ所収。一部加筆修正。

 

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―岡村重夫の「1976年論文」に関する研究メモ―


 
〇春が戻ってきた(内山節の「横軸の時間」)。筆者は、定年を契機に、年金で生計を維持しながら、80坪ほどの農地で自家用野菜を育てる(「定年百姓」「年金百姓」になれるわけがない)家庭菜園者でもある。それが、「老人」(※)である自分の新たな生きがいやレクリエーションになっている。いまは、毎晩のように食卓に上がる“つみ菜”の春の香りを楽しんでいる。昨日(3月5日)は、春ジャガイモの植え付けをおこなった。

※民俗学者の宮田登(みやた・のぼる、1936年~2000年)は、『老人と子供の民俗学』(白水社、1996年3月)で、〈おい〉には「盛りを過ぎた」という語感がある〈老い〉と、「追加する」というイメージがある〈追い〉の二つがある。落ち目になっていくというマイナスの〈おい・老い〉を意味する前に、プラスイメージの〈おい・追い〉があった、という(5~6ページ)。
※農(百姓仕事)は季節による単純な繰り返しの作業ではなく、自然を相手にした繊細で創造的な仕事である。アメリカの精神科医で老年学者のジーン・コーエンは、『いくつになっても脳は若返る』(野田一夫監訳、ダイヤモンド社、2006年10月)で、「創造性」は年をとるとより一層深まり、豊かになり得る。ガーデニングは「小さな創造性」が発揮しやすい分野である、という(225、227ページ)。

〇筆者の手もとに、安室知(やすむろ・さとる)の『都市と農の民俗―農の文化資源化をめぐって―』(慶友社、2020年2月)という本がある。この本では、「現代日本における農の存在意義について、生活者の目線に立ち、国の政治や経済とは別の角度から捉え直し」ている。その際の切り口は、都市や農村における「農の文化資源化」である。「文化資源化」とは、「人が遺伝的に獲得したもの以外のすべてを文化とし、それを何らかの目的をもって資源として利用すること、および利用可能な状態にすること」をいう。安室にあっては「現代民俗学においては、文化資源化は避けて通ることができない問題である。現代において民俗伝承とされるものは、程度の差こそあれ、商品化や観光化など何らかの形で資源化されているといってよい」(9ページ)ここで筆者は、都市における「市民農園」とともに、無農薬・有機栽培野菜の商品化やグリーン・ツーリズム(農山漁村地域における滞在型の交流・余暇活動)、棚田のオーナー制度や観光などを思い出す。
〇筆者が暮らす岐阜県S市は、700年以上の伝統をもつ“刃物のまち”として知られている。まちには何故か、喫茶店と寿司屋が多い(筆者にはそう思える)。住民には、労働に追われることから、また家事時間の削減を図るために喫茶店で「モーニング」の朝食をとり、夕食を外食ですませる習慣があるのであろうか。それは、S市の刃物産業は部品製造業者と工程加工業者による社会的分業体制が採られていることから、零細企業や家内工業が多いことによると思われる。また、喫茶店や寿司屋は、コミュケーションや接待・商談の場となっているのであろう。
〇喫茶店の「モーニング」といった “日常の実際の暮らし” “人間の生” を民俗学の視点で探り、それを「ヴァナキュラー(vernacular)」と称して、「現代民俗学」(「現代学」としての民俗学)の研究対象とする本がある。島村恭則(しまむら・たかのり)の『みんなの民俗学―ヴァナキュラーってなんだ?―』(平凡社、2020年11年)がそれである。この本で、島村は、「ヴァナキュラー(俗)」について次のように定義づけている。「民俗学とは、人間(人びと=〈民〉)について、〈俗〉の観点から研究する学問である」。その際の「〈俗〉とは、①支配的権力になじまないもの、②啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの、③「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの、④(支配的権力、啓蒙主義的合理性、普遍主義、主流・中心意識を成立基盤として構築される)公式的な制度からは距離があるもの、のいずれか、もしくはその組み合わせのことをさす」(16、31ページ)。
〇別言すれば、〈俗〉とは、「対覇権主義的、対啓蒙主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的、対公式的な観点を集約的に表現したもの」(30、107ページ)である。それらの観点を持ち、それらの世界を研究対象とするのが「民俗学」である。島村によると、こうした観点や志向は、「日本の民俗学の基底部に確実に存在している」(29ページ)。なお、「覇権」とは「強大な支配的権力」(20ページ)を意味し、「啓蒙」とは「非合理的な世界にいる無知蒙昧な人を、明るい世界に導いて賢くすること」(17ページ)、「普遍」とは遍(あまね)く通用すること、を意味する。
〇周知の通り、「日本民俗学の創始者」と言われる人に柳田國男(やなぎた・くにお、1875年~1962年)がいる。その柳田民俗学に対して批判的な論陣を張る民俗学者に赤松啓介(あかまつ・けいすけ、1909年~2000年)がいる。筆者の手もとに、赤松の『差別の民俗学』(筑摩書房、2005年7月)という本がある。赤松は例えば、次のように批判する。「柳田系民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めようとしないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。差別する側、富める者は、どうすれば自分の優位を示せるかを、いつの場合でも最大の関心にしている」(165ページ)。
〇赤松にあっては、民俗学は、伝承(「口頭伝承」「民間伝承」)や民俗に内在する階級性や差別論理と切り結び、それを読み解くことに意味があり、避けがたい必然がある。そして、日本社会の重層的な差別構造を見据えて、「解放の民俗学」を標榜し、「実践の民俗学」に執着する。赤松はいう。「一般の民俗学と、私たちの民俗学はどこが違うのか。権力や行政の民衆支配に協力するための調査、学術的研究のためという学閥的、また立身出世型のタネ探し、そうしたものがこれまでの民俗学であったといえる。(中略)解放の民俗学は、立身出世や金儲け、憐憫(れんびん。情けをかけること)などとは無縁のものである。あらゆる底辺、底層からの民俗の堀り上げ、掘り起こし、その人間性的価値の発見と、新しい論理、思考認識の道を開くということであろう。しかし、それは今後においても、とうてい平坦な道ではありえないのである」(116~117ページ)。
〇唐突であるが、ここで想起されるものに、岡村重夫(おかむら・しげお、1906年~2001年)の論稿「福祉と風土―民俗としての福祉こそ基底―」がある。日本生命済生会社会事業局発行の雑誌『地域福祉』1976年3号(通巻121号)、1976年7月、4~9ページに掲載されている。岡村がそこで指摘することは、「われわれの社会生活や個人意識は、強く日本の風土によって規定される事実、従ってまたその共同生活を基盤とする社会福祉も、日本特有の風土性をもつという事実」(6ページ上段)である。
〇岡村はその論稿で、「民俗としての福祉」について概念規定はしない。ただ、福祉を「生活の次元」で捉えれば、福祉は風土によって規定され伝承された共同生活上の「生活の知恵」「生活の工夫」であり、「風土の産物」である、とする。次の一節を引いておく。

福祉とは、すぐれた人々の日常生活上の困窮に対する地域住民の共同的な援助に由来するものであると考えるならば、それは、人々の日常生活のいとなまれる環境、すなわち歴史的であると同時に空間的、自然的な風土との関連を無視することはできないであろう。社会福祉は政府の政策である以前に、すでに生活者が共同生活を守るために工夫した、いわば「生活の知恵」であった。(4ページ下段~5ページ上段)

主として輸入文化に支えられた官製社会福祉や専門家の社会福祉論と、民俗としての社会福祉も、また二重構造的に考えられるけれども、重要なことは、民俗としての福祉こそが基底となって、その上に社会福祉政策や社会福祉文化が消長するということである。福祉の風土とは、まさしくこの基底部分であると考えられる。そしてこの基底部分が掘りくずされ、分解しないためには、外来の上部構造に対して、生活者の見解を対置させ、近視眼的な専門家や法律を鋭く批判しなければならない。(9ページ下段)

〇古くは一番ケ瀬康子(いちばんがせ・やすこ、1927年~2012年)の指摘(「社会事業諸技術の文化的基盤」『社会事業』1958年2月号、全国社会福協議会)を引用するまでもなく、欧米の社会福祉やソーシャルワークの理論や思想、価値や倫理については、直輸入的に摂取し定着を図るのではなく、日本の文化や風土、日本人の国民性、社会構造や生活環境の特質などを十分に踏まえた日本的展開が求められる。ここで思い起こしておきたい。安易な輸入理論や思想(なかでも周回遅れのそれ)への依存には、十分注意すべきである。
〇ところで、「1976年」と言えば、岡村重夫の「福祉教育の目的」と題する論稿を思い出す。それは、伊藤隆二・上田薫・和田重正編著『福祉の思想・入門講座 ③福祉の教育』(柏樹社、1976年4月)の13~36ページに収められている。そこで岡村は、「福祉教育」は社会福祉の専門的知識や技術をもった福祉事業従事者を養成する「福祉専門教育」ではなく、一般市民の地域社会における福祉問題や社会福祉に対する関心を高めるものである(「福祉一般教育」)として、次のように述べている。

福祉教育の目的は、単に現行の社会福祉制度の普及・周知や「不幸な人びと」に対する同情をもとめることではなくして、社会福祉の原理ともいうべき人間像ないしは人間生活の原点についての省察を深めることであり、この省察にもとづく新しい社会観と人類文明の批判をも含まなくてはならないであろう。さらに言うならば、このような新しい社会観や生活観にもとづく具体的な対策行動の動機づけによって、福祉教育の目的は完結するものである。(19~20ページ)

〇そして、岡村にあっては、「真の福祉教育の目的」は具体的に以下の3点に集約される。そのなかで岡村は、次のように厳しく指摘する。福祉教育において「外在的な社会制度の欠陥を指摘する場合に、自分の内面的な偏見や人間観を自己批判することなしに、(あるいは)ひとの内面的文化を問うことなしに、単なる同情心や恩恵をよりどころとした『外面的福祉』の世論を造成することは、(それが)実現すればするほど福祉サービスの対象者は『気の毒なひと』として一般社会から疎外される結果になり終わり、福祉教育の目的は自己矛盾に陥らざるをえない」(34ページ抜き書き)。いまだに観念的な「福祉の心」や「思いやりの心」を育成する福祉教育が叫ばれ、その表層的な実践が展開されているなかで、改めて強く認識すべき指摘である。

(1)福祉的人間観の理解と体得
社会福祉は、その根底において独自の人間観に支えられねばならない。社会福祉の人間観は、社会的=全体的=主体的=現実的存在としての人間像である。この人間像の基礎にある仮説は、すべての個人が生活者であり、生活はいかなる場合にも、自己自身を貫徹してやまないということである。社会福祉の人間観は、抽象的に、あるいは観念的に「人格の尊厳」を主張するのではなく、具体的な生活者としての個人の重み、生活の重みを主張するものである。(31~32ページ抜き書き)
(2)現行社会制度の批判的評価
現在の社会制度によって福祉的人間性を無視せられ、そのような人間像による自己実現を妨げられている個人の生活実態を明らかにしなくてはならない。福祉教育の目的は、現行の社会制度から疎外され、「社会的・全体的・主体的・現実的な人間像」実現の機会を奪われている人が、どこに、またどれだけいるかを認識させることでなくてはならない。このことによって、福祉教育は、単なる人間観の教育よりすすんで具体的な教育目標をもつことができる。(33ページ)
(3)新しい社会福祉的援助方式の発見
福祉は本質的に社会福祉である。その「社会」とは、対等平等の個人によって形成される共同社会(コミュニティ)であり、社会福祉は、「慈善」や「施し」ではなくて、対等平等の個人が相互に援助し合う相互援助を本質とする。対等平等の個人が、全体的な自己実現の機会を提供されるように組織化された地域共同社会において、人びとはサービスの客体であると同時に主体にもなりうるような相互援助体系こそ、福祉的人間観から発展する新しい社会福祉体系である。その体系のなかで社会の果たすべき責任と個人の果たすべき責任とを明確にすることが福祉教育の第三の目的である。(35ページ抜き書き)

〇「民俗としての福祉」は、岡村の着想を手がかりに、今後洗練されるべき「形成途中の概念」(岡田哲郎)であると評される(福山清蔵・尾崎新編著『生のリアリティと福祉教育』誠信書房、2009年3月、180ページ)。また、「生活主体者の論理」を強調する岡村理論には、地域福祉の主体形成や福祉教育についての論究がほとんどみられないと言われる。そんななかで、「生活の知恵」「生活の工夫」としての「民俗としての福祉」という概念の明確化を図る。個人の社会生活の実態を生活者の目線に立ち、国の政治や経済とは別の角度や位相から捉え直す。そして、それを基底として地域住民の「相互援助の地域共同社会」に対する理解やそれに基づく行動のあり方を問う。それがいま、「福祉教育」実践や研究に改めて求められるひとつの歴史的・社会的視点や認識であろう。岡村の「民俗としての福祉」と「福祉教育の目的」の「1976年論文」は、その点においても注目すべき論稿(論考)である。「民俗としての福祉」と「(市民)福祉教育」の親和性・関連性に留意したい。
〇「人間(「民」)が遺伝的に獲得したもの以外はすべて文化」であり、「俗」である。それゆえに、民俗学はすべての学問の基底に位置づく。民俗学は非普遍や非主流、非中心などの民俗事象を研究対象とする。それゆえに、民俗学は「グラスルーツ(草の根)の学問」とも呼ばれる。また民俗学は、普遍や主流、中心などとされる側の基準によって形成された知識体系を相対化し、それを乗り越える知見を生み出そうとする学問である(島村恭規、30、256ページ)。「民俗としての福祉」の延長線上に「福祉民俗学」が構想されるとすれば、それは一面においてこうした民俗学に通底するものであろう。そしてそこに、生活主体者としての一般市民に対する福祉教育の新たな論理が見出される、あるいは見出すべきであろう。
〇なお、「福祉民俗学」を提唱するひとりに柴田周二(しばた・しゅうじ)がいる。柴田にあっては、「『福祉民俗学』を提唱する主たる理由は、福祉文化の基礎としての自立と協同の人間関係の根底に存在する、福祉をうけることを権利とする個人の協同を支える小集団をいかに形成するか、あるいはそれが形成されるための課題は何かを探究することである」(『福祉文化研究』Vol.24、日本福祉文化学会、2015年3月、63ページ)。別言すれば柴田は、「福祉社会を支える福祉文化の基礎を個人の自立と協同の人間関係とそれを支える小集団の形成に求め、福祉文化のあり方を、制度面だけでなく、人々の生活態度の面から考察する学問を『福祉民俗学』として位置付け、その方法と課題について」考察する(『人間福祉学研究』第10巻第1号、京都光華女子大学、2017年12月、8ページ)。
〇また、六車由実(むぐるま・ゆみ)は、「介護現場は民俗学にとってどのような意味をもつのか?」、「民俗学は介護の現場で何ができるのか?」という二つの方向性から問題提起をしようとして「介護民俗学」を掲げる。その際の問題意識のひとつは、「民俗研究者が地域で行っている聞き書きや調査が、地域の高齢者の介護予防につながる地域資源になりうるのではないか」ということにある(『驚きの介護民俗学』医学書院、2012年3月、6、227ページ)。本稿の最後に、六車の次の一節を引いておくことにしたい。

これまで民俗学は、地域の民俗の保存とそれを使った地域活性化という点で、地域づくり、まちづくりには積極的に関わってきた。高齢化がますます進み、在宅介護が地域における切実な問題となる今後は、このように高齢者が地域で暮らしていくことを支える介護予防事業に関わっていくことが、実践的な学問である民俗学に対して求められていくのではないだろうか。/だが、一方で私は、「介護予防」という言葉に少なからぬ違和感を覚えている。/介護予防という言葉には、介護は予防されるべきもの、という考え方が露骨に反映されている。/要介護状態になることは人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、(中略)介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていく(ことが必要である。)/そこで私は、「介護準備」という言葉を使ってみたい。(227~228ページ)

付記
阪野貢「『民俗としての福祉』×『福祉教育の目的』―岡村重夫の『1976年論文』―」市民福祉教育研究所ブログ〈ディスカッションルーム〉(90)2021年3月23日アップ。
阪野貢「『民俗としての福祉』と『福祉教育の目的』―岡村重夫の『1976年論文』を起点に―」『ワンポイントメモ35+3 まちづくりと市民福祉教育―視点と論点―』(追補版)市民福祉教育研究所、2022年7月、8~13ページ所収。

謝辞
本稿を草するに際しては、日本福祉大学の副学長・原田正樹先生と付属図書館にご高配を賜った。記して感謝申し上げます。