暗い谷間と怖い時代に生きた・生きる「ものいえぬ」農民の思い:怒り、悔しさ、叫び、そして祈り―佐藤藤三郎の『山びこ学校』と『まぼろしの村』の底流をなす“教育”と“村づくり”の思想―

(無着先生は)教師をやめて新たな学問に専念する、といって村を出たはずだが、「有名」になったそれの看板をはずすことがなかった。もちろんそうした個人の「自由」に立ち入る権利は誰にもないが、言われたこととなすことに一貫性がなくなっていたことを知る時、信頼が厚く深かっただけにその戸惑いは大きかった。
私は『山びこ学校』の出版によって人生が狂わされたと思ったことが何度もある。マスコミによって幼い青春のかよわい心が粉々にかきまわされた傷跡がいまだふさがっていないところは確かにある。
『25歳になりました』(1960年2月)は、私の独立宣言の書であり、25歳にして山びこ学校の殻を抜け出し新しい出発をするための記念碑のようなものである。(『ずぶんのあだまで考えろ』46~47、54、70ページ)

〇「にわか百姓」を決め込んでいる筆者(阪野)は、10年近く「日本農業新聞」を購読している。その2018年4月23日号の「論点」に掲載された、「森友問題と農政改革」と題する武本俊彦(食と農の政策アナリスト)の一文が目にとまった。その一節は次の通りである(抜き書き)。本稿を草しようと思ったひとつのきっかけは、ここにある。もうひとつのきっかけは、日本が民主国家であり法治国家であることを疑いたくなるような、最近の政治や行政の実相にある。さらには、憲法が揺らぎ、平和な社会が時の政権によって壊されていく、不安を通り越した恐怖にある。

森友・加計問題などを巡る安倍晋三首相や政府の対応は、時代錯誤の縁故資本主義を体現している。官邸主導の名の下、適正な手続きを経ずに一部の権力者周辺に利益をばらまくトップダウンで、短期的成果を求める。その本質は農政改革とも共通しており、近視眼的な政策手法の弊害について検証することが必要だ。
安倍政権が官邸主導で進める農政改革は、現場で創意工夫をしている人々の存在を無視し、地域の多様性を捨象する政策体系となっている。全国の農業や農家を画一的に考え、同じように短期的成果や経済合理性を追求するという思考回路で政策を構築しているのだ。
例えば、アベノミクスの目玉とされた地方創生は、地方への権限・財源の移譲よりも、補助金の活用によって中央政府の考え方に沿って地方の底上げを図ろうとするものになっている。人口減少・高齢化社会の到来、地震・災害の多発化といった不確実性が増す中、中央政府は本来、地方の創意工夫が発揮できるように、補完的役割に徹するべきである。だが、そうなっていない。これも短期的成果を求める観点から地域の諸条件を捨象する市場原理主義の考えに立脚している結果である。

〇感覚的・情緒的な本稿のタイトルについて、一言付記しておきたい。時代(1935年と1948年)と場所(東北と中部)は異なるが、佐藤藤三郎の思いや感情と筆者のそれが重なるところがある。先ず、「ものいえぬ」は、大牟羅良の『ものいわぬ農民』(岩波新書、1958年2月)を念頭においたものである。私事にわたるが、明治生まれの筆者の父(享年87)はまさしく「ものいわぬ百姓」であった。若くして嫁にきた大正生まれの母(享年95)はいつしか、世間に抗する「強い百姓」になり、何よりも「子どもに賭ける」親になった。それは貧困と差別ゆえである。
〇佐藤藤三郎は、1948年4月に山形県南村山郡山元村立山元中学校に入学した43人(卒業したのは42人)のうちのひとりである。いまも山元村(現・上山市)に生きる百姓であり、「もの書き」である。『山びこ学校』(青銅社、1951年3月)は、周知の通り、無着成恭の指導のもとで、貧困と闘う彼・彼女らが2年生在学中に綴った生活記録(生活綴方集)である。そして、『まぼろしの村』(全5巻、晩聲社、1981年1月~7月)は、佐藤のエッセイ集である。「まぼろしの村」というタイトルについて佐藤は、次のように述べている。「この世の中の乱れを評して、村落共同体の滅亡だといい、新しい共同体の創造だとか『むら論』などということを、誰かれとなく口にしている。そして、村に残っている人にそれをやる義務があるみたいなことを、おこがましくいってくるやつがいるから、それらの人への反論として適当なことばと思ったからだ」(『まぼろしの村Ⅰ 村から日本の教師に訴える』245ページ)。
〇いま、筆者の机の上に、佐藤が書いた本が4冊ある。①『まぼろしの村 Ⅰ 村から日本の教師に訴える』(単著、晩聲社、1981年1月。以下[1])、②『まぼろしの村 Ⅱ 村から考える日本の教育』(単著、晩聲社、1981年2月。以下[2])、③『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった―』(単著、清流出版、2004年3月。以下[3])、④『ずぶん(自分)のあだま(頭)で考えろ―私が「山びこ学校」で学んだこと―』(単著、本の泉社、2012年12月。以下[4])、がそれである。例によって、それぞれから改めて認識あるいは確認したい言説をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。さらに、[1]と[2]からは、恣意的で我田引水な「つまみ食い」と評されであろうことを承知のうえで、留意したい一節(◍印)をピックアップしておく。

[1]『まぼろしの村 Ⅰ 村から日本の教師に訴える』
外圧によって破壊される子どもと親と教師
村人は、本質的には村を愛し、これからも村に生きていかなければならないと考えている。(25ページ)
が、しかし、(子どもたちや教育を破壊する力が)村のなかから起こる出来事ではなく、よそからの動きが「村」どころではないというせっぱつまったものを持ちこみ、そこに押し込んでしまう、という力があることを私は知らしめられる。そして、まぎれもなく学校教育それ自体も、村の自動的回転を促すために行なわれているのではなく、外的な動きを村に押し込んでくることの作用に力を貸しているのだ、ともいわざるを得ない。つまり今日の学校教育は、いまなお全国画一に、都市的あるいは工業的に、または無機的に行なわれている、ということである。したがって、こうした無機的な論理をすすめることは、コンクリートでかためた都市においてその効果があがることになる。別にいえば、新しい指導要領などでいう、ゆとりと充実の教育は、本来、自然に恵まれた農山村などでこそよくできる条件があるはずなのに、実はその成果がみられない、ということである。ほんとうの学力、それを評価する基準がこの世界ではまだまだ認められていないということが、親の頭を駄目にし、教師を駄目にし、教育をいけないものにしてしまっているのだ。(25~26ページ)

“解明力”を育成する学校と地域との有機的結合
初等、中等の教育は、基礎学力を身につけさせることに重点がおかれなければならないことはもちろんだが、一方的に知識をつめ込むことだけが学力を向上させることとは思わない。理解した知識をもとに、自然や社会を観察したり、批判したりする訓練の場もなければならないのではないか。そのためには、教師にはもっともっと校外に出て社会に接する機会が多くあって欲しい、と願わずにはいられない。(67~68ページ)
わたしが子どもの頃に、この村に一人のすぐれた教師がいた。その先生は、よく部落をまわって、父母たちを集めて座談会をやってあるいた。いまでいえば“社会教育”の分野にはいることかも知れない。子どもの教育のためには、親たちも一緒に教育しなければ効果があがらないと、そんなふうに考えていた先生であった。つまり、有機的な結合のなかで、その先生はものを考えていたことを、わたしはいまにして教えられる。(169ページ)。
学ぶということは、〈まねぶ〉ことともよくいわれるが、実はそこでおわるとするならば、何のために学ぶのかわからない。学ぶことの真のねらいは、解明する力をつけて新しいものを創造することである。解明するためにはまず疑いをもつことからはじまらなければならない。(185ページ)
教師自身が学校以外の社会に顔を出し、幾度となく子どもをとりまく社会に交わる機会をつくっていくなかから話題やテーマをひき出して学習にもち込むといった作業があればこそ、ことの事実にたちむかったとき、解明する力をそなえた子どもが育つのではないだろうか。(186ページ)

◍「村」はまぼろしの存在であって、現実にはそれが内部から喪失している。否、失わしめなければならないものが、村の若者の背に負いかぶさっている。それを払いのける活力は、村の若者のなかにはまだ沸騰などはしていない。(29ページ)

◍常に己が、己自身をみがこうと努力している人間の姿に触れるとき、その人間の美しさに人はみな忘れ得ぬ魅力を生涯感ずるのではないのかと、わたしは人と人との出会いやふれあいの大切さを感じさせられる。(85ページ)

◍教師自身が、自分の教育に情熱と誇りを傾けているであろうか。人間の美しさは情熱にある。その情熱こそが文句なく人から人へと伝わるものである。その大事な美しい「情熱」を燃やすことを、いま村の若者はどこでも修得できずにいる。(131ページ)

◍「地域に根ざした教育」とか「地域をおこす教育」といったようなことばを耳にする。ある校長先生のように自ら村人となる努力、あるいは、そのような実践があってこそ、教育は地域に根をおろすのではないのか。せめて、地域の人たちと酒をのみかわすことぐらい、時間のロスだなどといわないでくれ。(143ページ)

◍「地域」とか「むら」とか「共同体といったものは、そこに住む人間がつくるものである。「むら」はまず自らが作ることにこそ意義があり、必要によってつくられるものでなけれはならない。(187ページ)

◍「地域に僻地はあっても、教育の僻地は許されない」というのが、この村の学校の信条とされている。真の教育とはなにか。教師と生徒の精いっぱいの力のふれあいを、このような小さな学校にこそ見出せるように思える。(215~216ページ)

[2]『まぼろしの村 Ⅱ 村から考える日本の教育』
「村に残る教育」と「村から出る教育」、その矛盾
「村に残る教育をすればいいのか、村から出る教育をすればいいのか」。こんな問いかけをする教師がよくいる。ちょっと聞くと、「そうだなあ、村に残る教育が大事だ」と、いいたくさえなるような問いかけである。が、よく考えてみると、本来、教育にそんな差があるべきなのかという気になる。いうなれば、それは今日の教育のゆがみを認めてしまっていることになるからである。もちろん、現実的にゆがみをゆがみとして認めなければどうにもならないものがあるのかもしれないが、どうもシックリしない。(137ページ)
「村に残る」ということの意味は、まさに「百姓」として残るか、それ以外の職業に就くように指導するか、という意味である。百姓であるわたしには、「これほど多くの職業の種類があるのに、百姓だけをどうして教育の場においてまで差別しなければならないのか」と憤慨したくなる。(137ページ)
わたしは、「人間」を相手にする教育に、「村に残る」とか「村から出る」といった教育があっていいとは思わない。(そういわれるのは)日本の農業のありかたに問題があったからにほかならない。端的にいえば、農業では食えない状況下に農村はおちいったからである。(138、139ページ)
教育の中に「村を出る教育」だとか「村を守る教育」などというものがあってはならない。どこに住もうが、権利として学ぶ機会が与えられてしかるべきだし、差のある教育なんてあってはならない。(253ページ)

「住む都、ここにこそある」という地域への愛着と誇り
今夜も、シンシンと雪が降っている。わたしにとってはロマンティックな気持になる以前に、明日は、村の道路の除雪はどうなるか、ブドウ棚はつぶれないだろうか、杉の木は雪の重みで折れないか、と気にかかる。しかし一方では、こんな冬の夜に、朗々と本を読む声が聞こえてくることの楽しみを想像したり、ショパンやバッハの音楽が家々から響いてきたら、どんなにか楽しいだろうと想いうかべる。「住む都、ここにこそある」と、村びとのだれもが誇り、自らを信じて生きるよろこびが、この村にこだますることのくる日を、音ひとつない静かな部屋でひとり想いふけるのである。そして、踏まれても、蹴られても、差をつけられても、頑として、びくともしないでこの村に生きることのできる力を持っている少年少女が育つことを、「教育」にこそ期待してやまない。(253~254ページ)

◍その教育がなんであり、どうであったのか、百姓であるわたしたちには、知ることの必要などひとつも感じなかっのだ。ただ、ひとりの人間として、あるひとりのすごい情熱的な先生にめぐりあった、という事実は、どうにも動かせないこととして生きているだけなのた。(41ページ)

◍わたしがいま、お前にいいたいことはたったひとつ。「徹して学べ」。学んで「何かを期待する」などという望みは持っていない。がっちりと、自然に生える雑草のように、季節に応じておおらかにや育ってくれればそれでいい。他人にやさしく、己れに厳しい雑木のように育ってくれればそれでいい。(47、49ページ)

◍そもそも教育というものの基本理念は、国家から指図されて行なわれるものであってはならない。住民が要望するものをくみあげ、地域住民の意志を尊重し、それを教育に消化させていくという作業が“学校”というところにはなければならない。(78ページ)

◍教育は実利的なものでなければならない、などというチャチなことは考えていない。むしろ“あそび”こそが大事だと主張したい。“あそび”は、別のことばでいえば“ゆとり”である。人びとには、もっともっと無駄があってしかるべきだし、ましてや人を育てる教育には、さらにゆとりが必要だ。ゆとりというのは“余り”とはちがう。充実、ということばにほど近い。(118、120ページ)

◍もはや、教育に、個性豊かなローカル性などはない。中央がねらいとする機械的な(しかも精密な)人間がみごとにつくりあげられている。そういっても叩(たた)きつけられることはないであろう。(149ページ)

◍農民にいま必要な教育は、技術者としての力のほかに、人間としての力、つまり、「文化」というものを認識し、それを創造することのできる力をもつこと、そして政治や経済に対しては、従順であるのではなく、主体的にそれに取り組む姿勢をもつことが必要だ、ということだ。(158ページ)

◍「地方の時代」という。わたしにはそれを聞くにつけ、どうしても不満として残るものがある。というのは農業を駄目にし、都市を終末的状況に追いやったのは、どこのだれであったのか、ということを風呂敷に包んで、開こうとしないことである。(245ページ)

[3]『山びこ学校ものがたり』
教育は日常の生活や労働から遊離しては存在しない
「知識」とか「教養」といった言葉には多分に抽象的なものがある。だから「知識」や「教養」といった言葉が、実際の暮らしや生活からは遊離したものと考えがちな人が多い。しかし、そうではないのだ。事実や、生活と遊離したところに「知識」もないし「教養」もない。ましてや現実の暮らしから遊離した「教育」など意味がない、と無着先生は考えていた。21歳の若さにして、無着成恭という人間はそのようなアカデミズムを超えて、自分のイズム(「無着流教育」「無着イズム」:183ページ)を確立しようとしていたのだ、と私には考えられる。(11~12ページ)
ぼくはその授業(木の棒を使ってテコの原理を見せながら、反比例の理屈を説く「数学」の授業)を受けながら深い感動と同時に、憤怒(ふんど)の念を覚えたことが今にしてなお忘れられずにいる。「感動」を覚えたのは、「学問」とか「教養」「知識」というものは遠いところにあるのではなくて、日常の生活や、労働のなかにあるということを知ったからだ。(36~37ページ)
「憤怒」というのは、農民や土工などはいつも知識のない人間のように扱われていたが、生活や労働のなかではちゃんとそうした科学の法則を生かしている(テコは父や祖父が仕事のなかでいつも使っている)ではないか、といった悔(くや)しさからきているのだった。(37ページ)

生きるためには「知識」や「技」「術」が必要である
無着先生は、「たとえ試験の点数が悪かろうと、人間としての生き方をしっかりと教えた――」と主張した。(141ページ)
だが正直に言ってぼくはこの言葉にずいぶん悩み、疑問に思った。そしてその疑問は68歳になった今も解ききれないでいる。(141ページ)
試験の点数云々はともかく、人がより広い視野に立ち、高い人格を備え、いい仕事ができるようになるには「知識」や「技」(わざ)、「術」(すべ)をより多く身につけるための勉学や鍛錬をする必要がある。さらに思考力も判断力も、創造力もそれがあってこそ身につくのではないか、と思う。ぼくにそれらが足りないのは無着先生の教えが悪かったからだ、などと他人のせいにする気は毛頭ないが、そうしたことについて悩んだり苦しんだりしてここまで生きてきたということは確かである。(145ページ)
「知識」や「教養」を学ぶ機会に恵まれなかった悔しさがぼくの心の奥底にいまだ重く淀んでいる。(146ページ)

自分の座標をつくりそこに立つ教育が求められる
かつての学校教育の習わしにとらわれず、さらにまたアメリカ的民主主義に乗ることもなく、自らの思いのままに夢中で教育という仕事に青春を打ち込んだ無着先生の生きざまが、今の日本というこの国に改めて必要なのだ、と思えてならない。というのは今日の日本は、いわゆるグローバル化、特にアメリカという大国との共存のなかで繁栄したが、しかしそうしたなかですっかり自主と自立の道をなくしているからである。恐ろしいほどに、戦争が始まればその最前線に立たされるという危惧すら感じる。世界のなかの日本になったのではなく、グローバル化のなかで自分で立つ足場をなくしているのだ。(179~180ページ)
したがってぼくは今、自分の座標を自分でつくり、その座標のなかに自分が立って、世界の人々と交流できるようにならなければいけないのだとさかんに思っている。そうでなければ、身も心もなくしてしまうといった恐怖すら感じられてならない。そしてぼくは無着先生の20代のときの思いや活動を、余計なものは排除し、足りないものを補ないながら生かしていきたいものだと思っている。(180ページ)
中学のときに学んだ「自立した精神」「自由なる精神」をどこまで貫き通すことができたかはわからない。ただ、過疎化のまっただ中にいる村の現実のなかで、少しの田畑を耕し、少しの牛を飼い、山間地の「農」の可能性にこだわって、ぼくはぼくなりの青春の血潮をわかせる人生を送ってきたと思うのである。(199ページ)

[4]『ずぶんのあだまで考えろ』
「自分の言葉で話せ」「自分の脳味噌で考えろ」
「無着先生の言われた言葉で一番心に残っていること」は、「自分の言葉で話せ」ということと「自分の脳味噌で考えろ」ということである。(125ページ)
「自分の言葉で話す」ということは自分の考えを持つ、ということである。しかもそれが具体的でなければならない。(126ページ)
もちろん「自分の言葉で」といえば、自分のことしか考えない利己主義とか勝手すぎるということにもなりかねないが、そうではなく具体的な自分の身近なことにしっかり目を向けて考えていく、ということである。(127ページ)
とかく、「学校」というものには無着先生の言われるような「自分」(「自分の目で物事を見ろ」「自分の脳みそで考えろ」「自分の言葉で話せ」)というものの基本的なことが教えられていないような気がする。しかし一方、ともすると、無着先生にはそれがあまり強すぎているような気がしないでもなかった。いずれにしろ無着先生は教科書をそのまま教えるだけでなく、それにいつも「自分」という人間と知恵をプラスして授業をおこなったのだ。(195ページ)

「学校は楽しく生活する場である」
(昭和23年4月4日)入学式がひとまず終わり、新任の先生の紹介となった。(無着先生の)あいさつが並でなく、ふるっていたことが忘れられない。(173~174ページ)
まず「学校を勉強するところだ、などと考えたら大馬鹿者だ、楽しく生活する場なのだ」と言った。次に「先生なんて決して偉いものではない。君たちが社会に出て役に立つ人間になるための踏み台として利用するものだ」と言った。さらに「日本は戦争に負けたのだから新しく出発しなければならない国だ。だが敗戦国ゆえアメリカの教育や政策が押しつけられている。ともすると日本人はみんなアメリカの言いなりの骨抜き人間になる恐れがある。『学ぶ』ということは自分なりの生き方や、考え方を持つ骨のある人間になることだ」と、もはやテーブルの横に移って叫ぶように演説した。そして後に口調を弱め、「こんなことを言うとGHQ(連合国軍総司令部)に無着成恭ちょっと来い、銃殺だ、ドン、ということになるかも知れないけどね」といって生徒を笑わせた。だが、この演説ともいえるあいさつを聞いて、当時のすごくまじめな渡辺善正校長はきっと、生徒と一緒に笑いはしなかったという気がする。(174ページ)

「経済優先主義の教育に勝てなかった」
私はいま、私なりに「学校」ないしは「学校教育」といったものを「どこかおかしい」と思うことがしばしばある。「いじめ」の問題、そして自殺、さらには教師の酒気帯び運転だとかセクハラ事件といったものが、「またか、またか」と後をたたないからである。そしてそれらの根元はみんな同じところにある、と思えてくる。つまり、そこには「教育の自由」がなく、与えられ、押しつけられる「不自由さ」だと思えてくる。(210ページ)
明治5年にはじまる日本の「学校教育」というものは国民の要望や要求によってつくられ、できたものではない。(211ページ)
学校ないし教育は「民」が主であるのではなく「国家のため」、「権力」によって強制的に作らせられたものであった。(211ページ)
私たちはちょうど「敗戦」を挟んで学校生活をおくり、満たされない教育環境の中で育った。しかし幸か不幸か、敗戦によってアメリカ式の教育制度ががとり入れられ、押しつけられたものとはいえ、その制度は日本の学校教育を完全なものにはしていなかった。したがって無着先生のような一見勝手にも見えるほどの独創的な教育ができたのだ、といえば無着先生は「それは違う」と怒るかも知れないが私にはそう思える。(211ページ)
(2012年で85歳になられた)無着先生からのはがきの文面には「日本の学校教育は経済の競争優先のみに力が入れられていて、この国と人間の命をだめにしている」と書かれ、ちょっと寂しげに「おれはその経済優先主義の教育に勝てなかった」というようなことが記されていた。(212ページ)

〇筆者の書斎の本棚に、佐藤の本が4冊並んでいる。⑤『村に残ったぼくらの抱負』(共著、明治図書、1965年3月。以下[5])、⑥『村に居る―新しい文化を創る―』(単著、ダイヤモンド社、1996年6月。以下[6])、⑦『25歳になりました』(単著、百合出版、1960年2月。以下[7])、⑧『底流からの証言―日本を考える―』(単著、筑摩書房、1970年3月。以下[8])、がそれである。
〇[5]は、青年が村を見捨てざるを得ない農業政策が推進されるなかで、農村の革新や農業の体質改善を図ろうとする全国の農村青年たちの手記を編んだものである。[6]は、「父母」や「村」「花」「旅」などをめぐって、還暦を過ぎた佐藤自身の若かりし頃のことどもをときには烈しく、ときには静かに語る。そして、「農」と「村」のゆくえを案じる。[7]は、『山びこ学校』が世に出てから10年、その間の、佐藤の「若い農民としての生きざま」を綴ったものである。「今後、農山村に暮らす人びとにとっては、いっそうきびしい生活が余儀なくされる」という。そして[8]は、「貿易の自由化」などが進められるなかで、農民がいだく不安は一刻一刻と強まり、村を追われている。その「底流」をなす「時代」の「動き」のなかで、どうにかして人間らしく生きようともがいている佐藤の鼓動と叫び声が聞こえる。
〇[5]のなかに次のような一節がある。あえて引いておきたい。

農民も人間であるという主張を通し、生きていくための仕事であり、職業であるものをうんと大事にしていかねばならない。いままでのわたしたちは、生産、と価格、それを別々に考えていたように思われるが、自分の生産したものに対する正当な価格の要求は、生きる権利への要求であるのではないか、と、ほんきになって考える。(145ページ)

〇私事であり蛇足であるが、筆者(阪野)は父と向き合って会話をした記憶がほとんどない。しかし、「百姓ほどバカバカしい仕事はない。汗水たらして作った野菜の値段は、自分ではなく、他人によってつけられる。ときには肥料代にもならない。大雨や大風で、それまでの努力が一日でふいになる。百姓にだけはなるんじゃないぞ」。この口癖をいま、思い出している。父が野菜をリヤカーにのせて市場に運んでいった翌日、自転車のペダルを2時間近くもこいで「仕切り(金)」をもらいに行く。小学生の頃からの、筆者に課せられた仕事であった。ズボンのポケットに入れて持ち帰るのはいつも小銭であった。そして、その金額を知ったときの落胆した父の顔が、いまも脳裏に残っている。
〇[6]のカバーの「裏そで」で、佐藤は次のように述べている。「いま、村に居続けたことを、ぼくは、これでよかったと思っている。大きな味噌蔵こそ持てない暮らしだったが、山里ゆえのゆたかさを満喫しながら生きてきた」。そう思うのは、佐藤の「反権力の闘争心」や「深く広い思考」、「鋭い分析と表現力」、そして「豊かな感性」などに拠るのであろう。それに比して、筆者の両親は「ゆたかさ」を感じたときがあったのであろうか。何かを祈る「ゆとり」など、まったくなかったのではないか。それ以前に、「祈り」について知ることも、考えることもできなかったのではないか。
〇以下は、筆者が読んだ佐藤の8冊の本のなかで、一番好きな一節である。福寿草の生きざまとともに、土の温もりや豊かさを感じる。複数の地域(農村や都市)で「まちづくり」や「福祉教育」に関わってきた筆者にとって、その意味するところは深い。心に刻んでおきたい。

福寿草は残雪を割るようにして芽を吹き出し、花を開く。咲いた花はガリガリと凍る強い霜が降りても、その冷たさに萎(しお)れることもなく強く生きる。そして黄金色に輝きながら派手ぶることもなく黒い土に根を据(す)えて地味に生きている。そんな姿を見ていると、自らの過去にそれを重ね合わせ、悔(く)いというか罪というか、それ以上に自らの惨(みじ)めさのようなものが胸を締め付けてくる。
福寿草は土を選ぶのか、吸う水に好き嫌いがあるのか、とてもよく繁(しげ)るところと育ちにくいところがある。その植生は花のやさしさにも似合わぬ頑固さを想わせ、表には立たないが、それでいて頑(かたく)なな精神を宿している。
だがその頑固一徹そうな草花であっても、他の雑草が繁ってくると、その居場所を他の草に譲(ゆず)るようにして身を隠してしまい、どこに生えていたのかもわからなくなる。([4]75~76ページ)