阪野 貢/「政治リテラシー」考:啓蒙主義的主権者教育と保守主義的主権者教育、市民性教育と国民性教育―関口正司編『政治リテラシーを考える』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、関口正司編『政治リテラシーを考える―市民教育の政治思想―』(風行社、2019年2月。以下[1])がある。[1]では、「政治リテラシ―」について原理、思想史、実際の取り組みという3つの観点から検討する。政治リテラシ―とは、政治に関する基本的な知識、政治に関与する際に求められる基本的な技能、そしてその知識や技能を積極的に用いる意欲や態度、それらの総体(15ページ)を意味する。すなわち、政治の営みに関する知識・技能・態度の複合体をいう(8ページ)。そして、関口らはこれまでの「主権者教育」に対して、「政治リテラシー教育」の必要性を説く。
〇主権者教育とは、主権者としての、「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の育成を図るための教育をいう。日本国憲法の下では、主権(国を統治する権力)を有する者は国民である。(付記参照)
〇[1]には、施光恒(せ てるひさ)の論稿「主権者教育における責任や義務―よりバランスのとれた理想的主体像の必要性―」([1]61~89ページ)が収録されている。そこでは、学校における主権者教育がめざす主体像について、その「啓蒙主義的側面」と「保守主義的側面」のバランスの取れた理想的主体像として「相互作用的主体像」を設定すべきであるという。この点をめぐって、言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

現在の主権者教育における主体像―社会の合理的選択者・変革者としての主体像―
現在の主権者教育の目標とされている(理想的)主体像とは、社会の合理的選択者ないし変革者としての性格を色濃く持ち、積極的に社会に影響を及ぼしていく主体だといってよいであろう。つまり、政治に関する知識と関心を持ち、自分たちの権利や利害に自覚的であり、他者と議論を交わし協働し、積極的に政治参加し、政権や政策を選択し、社会を合理的に変革していく人々だと言えるであろう。(68ページ)

啓蒙主義的主体像と保守主義的主体像―その相互作用的な関係性―
現行の主権者教育における理想的主体像とは、政治思想的に見れば、啓蒙主義の影響を強く受けたものだといえる。自分の権利や利害について自覚的であり、それを守るために、他者と協力・結託し、社会や国家を意識的に構築し、変革していく主体である。しかし人間は、社会や国家を意識的に構築する主体というだけではない。逆に、ある社会や国家に生まれ落ち、その文化や伝統から学び、それによって一人前の知的思考や各種の活動が可能になるという側面もまた有している。/政治思想史的に述べれば、伝統や文化から影響を受け、自己が形成されるという側面を強調してきたのは保守主義の考え方である。保守主義を簡潔に規定するとすれば、人間の理性や知性の限界を強く意識し、国や地域の文化や伝統、慣習などを重視する立場だと言えるであろう。/人間と社会との関係は、啓蒙主義が強調するように、人間が社会を作り出し、また変革を加えるという側面ももちろんある。しかし同時に、保守主義が重視するように、人間の理性や知性が社会の文化や伝統を通じて形作られるという側面もある。(72~73ページ)

今後の主権者教育がめざすべき主体像―バランスの取れた相互作用的主体像―
主権者教育の目指すべき主体とは、「啓蒙主義的側面」と同時に「保守主義的側面」にも目配りし、どちらの育成も目指すものとして、つまり「相互作用的主体」として設定されるべきである。すなわち、政権や政策を選択し、社会や国を変革しようとする積極的意思を備えた存在であると同時に、社会や国の伝統や文化から恩恵を受けてきたことを認識し、その恩恵を将来も享受できるように、よりよき形で社会や国を次世代に手渡していく責任や義務が我々にはあるという自覚を有する主体こそ、今後の日本の主権者教育が目指すべき主体像だと言えるのではないだろうか。/こうした主体像からは、自己の権利や利益に自覚的であり、社会や国に積極的に働きかけていく能動性とともに、社会や国に対する責任や義務の意識も円滑に導くことが可能である。(79ページ)

〇筆者の手もとに、石田雅樹の論稿「『市民性』を陶冶する教育、『国民性』を育む教育―ジョン・デューイにおけるナショナリズムと教育」(『年報政治学』第71巻第2号、日本政治学会、2020年12月、237~255ページ。以下[2])がある。[2]では、第一次大戦期(1914~1918年)におけるジョン・デューイのテクストを主な対象として、能動的な市民を育成する「市民性教育」(citizenship education)と国民性(国民としての資質・能力)を育む「国民性教育」(national education)の言説を比較検証し、その教育論におけるナショナリズム(国家や民族の利益を強調する思想や運動)の位置づけを明らかにする。
〇[2]のうちから、石田の言説(デューイの教育論の理解・考察)のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

市民性教育は、デモクラシーを絶えずリニューアルし深化させる「市民」の育成を図る
デューイにおいて「市民性教育」とは、単に統治者にとって従順な市民を再生産することではなく、デモクラシーを構成する一員として社会に参入する手助けとなるものであった。/(すなわち)デューイにあって「市民」になるということは、単に有権者としてのみならず、家族・労働者・コミュニティの一員として社会に関わることであり、自分と異なる多様な他者と共に包括的に社会に参与し続けることで、デモクラシーを絶えずリニューアルする存在になることに他ならなかった。/(この点を踏まえると)デューイが「市民性」を涵養する「市民性教育」と、生活の糧を得る「職業教育」とを一体的に捉えることも(は)必然であった。(240ページ)

国民性教育には、国の歴史を学び直し、自らのアイデンティティを問い直し、建設的な愛国主義を涵養することが必要となる
デューイは、第一次大戦期の軍事教練や国民兵役などに言及するなかで、「国民性教育」は国民的統合や公共心(public mindness)の涵養を促すものであり、そのためには真のナショナルな社会理念が必要であると説く。また、その具体的プラン(国民性教育の構成内容)については、アメリカの歴史を学び直すこと、自らのアイデンティティを問い直すこと、建設的な愛国主義を涵養することなどの必要性や重要性を指摘する。(247~249ページ)

「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある
「市民性教育」は、形式的な法遵守や空疎な知識の獲得ではなく、「職業教育」と一体化することで、社会生活における「デモクラシー」を実践する技能を涵養するものであり、他方で「国民性教育」は、アメリカ国民のアイデンティティそれ自体を「デモクラシー」として再定義することで、デモクラシーとナショナリズムとの接合を行うものであった。両者は共に、自由で平等な「市民/国民」から成る社会こそが、アメリカであることを再認識させるプロジェクトを共有している。そうした点で、デューイによる「市民性教育」論と「国民性教育」論は相互補完的な関係にある。(250ページ)

〇筆者はこれまで、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「まちづくり―みんなが主役のまちづくり―」や「まちづくり―みんなであるもの探しのまちづくり―」というキャッチコピー(スローガン)を使用してきた。一面的あるいは部分的には、「みんなが主役のまちづくり」は上述の「啓蒙主義的主権者教育」と「市民性教育」、「みんなであるもの探しのまちづくり」(ないものねだり、ではない)は上述の「保守主義的主権者教育」と「国民性教育」に通底するものであろう。なお、「まちづくり」に関して大橋謙策は、1970年代からスローガンのようにいわれていた「福祉のまちづくり」が90年代から「福祉でまちづくり」へと変わり、さらに2010年代には「福祉はまちづくり」といわれる時代へと移行した、という(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月、331、335ページ)。付記しておきたい。
〇本稿に関連する拙稿(記事)に次のようなものがある。併せてご参照いただければ幸いである。

①<雑感>(151)阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日/本文
②<雑感>(187)阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―/2023年9月16日/本文
③<雑感>(96)戦争が始まる“臭い”がする:「愛国」「愛国心」に関するワンポイントメモ―将基面貴巳を読む―/2019年10月8日/本文
④<雑感>(97)いじめ・愛国心・道徳教育:「道徳的価値ありきの、国家のための道徳教育」を問う―大森直樹著『道徳教育と愛国心』読後メモ―/2019年11月5日/本文

付記
主権者に求められる資質・能力(主権者教育の内容)については、上記の①<雑感>(151)の拙稿と併せて、例えば次の資料を参照されたい。