阪野 貢/「他者」考:他者と共に生きることによって自分らしく生きる ―磯野真穂著『他者と生きる』のワンポイントメモ―

〇人は、2020年1月に始まるコロナ禍において、疫学理論や統計解析手法などを用いた新型コロナウイルスの感染予測(流行予測)に一喜一憂し、罹患のリスクを避けようとした。そんななかで、普段の暮らしにおいて如何に「自分らしく」生きるかを問い、それができる社会システムを求めたのは、昨日のことのようである。筆者(阪野)の手もとに、磯野真穂著『他者と生きる』(講談社新書、2022年1月。以下[1])がある。[1]において磯野は、前者の概念を「統計学的人間観」、後者のそれを「個人主義的人間観」と呼び、また「生の手ざわり」(生きていることの実感や経験)を求めて、前者に関して「“正しさ”は病を治せるか?」、後者に関して「“自分らしさ”はあなたを救うか?」([1]帯)と問う。
〇磯野は、現代社会における人間観、すなわち「人とは何か」「人とはどのような存在であるか」という問いに対して、3種類の人間観を措定する。統計学的人間観、個人主義的人間観、そして「関係論的人間観」がそれである。[1]におけるひとつのキーワードである。本稿では限定的になるが、それに関する一節をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
〇磯野はいう。「人間の病いと生き死に、及びそれをいかに避けるか、引き受けるかをめぐる問題の諸相の根底には、この3つの人間観の錯綜(さくそう)があると捉えるべきである。つまりあるひとりの人間の病気や死をめぐって、本人とその人を取り巻く人々の間で行き違いが起こる時、その問題に関わる人それぞれが、思考の根底で異なる人間観を前提としながら、同じ人、同じ問題について語っている可能性がある。ある問題に複数の関係者が存在する時、関係者それぞれがどのような人間観を持っているかで、立ち上がる価値と倫理は異なる。したがって、そこのすり合わせが意識的にも、無意識的にも起こらない話し合いは、どこまでも平行線を辿るだろう」(180~181ページ)。

統計学的人間観――病気の事前予測や予防的介入に価値を与える人間観
統計学的人間観は、主に疫学の文脈で提示されるが、例えば50代以上の男性は高血圧だと脳梗塞に罹患する確率が高いというように、統計学的にある集団を数量化することによって導かれた、社会のなかの平均的な人間像(「平均人」:アドルフ・ケトレ)に基づく人間観をいう(150ページ)。その「平均人」は、ある集団の特徴を客観的に表すとみなされながらも、実体としてそれはどこにも存在しない。複雑な計算式を通して現れる架空の物言わぬ人である。それはどこにでもいることにされているが、どこにもいない。誰でもあるが、誰でもない(153ページ)。統計学的人間観は、計算式の上に成り立つ極めて抽象度の高い人間観であり、その最大の特徴は、ある集団の行く末を予想することが可能になるという点にある(184ページ)。

個人主義的人間観――「自分らしさ」(=「私たちらしさ」)を礼賛する素地となる人間観
個人主義的人間観は、自分の内発的な選択や動機によって、社会規範や世間の当たり前に逆らって自分の望みを実現する・表明するといった意味の「自分らしさ」や個性という価値によって支えられる人間観をいう(162、163ページ)。しかし、その「自分らしさ」は、ある選択や行動が「自分らしい」と認められるためには、その選択や行動に社会的承認が伴う必要がある(165ページ)。すなわち、「自分らしさ」が達成されたと思われる時、実際そこで起こっているのは「私たちらしさ」の発現であり(212ページ)、「自分らしさ」はその響きとは裏腹に、合意の形成に他ならない。その点を捉え損ねると、「自分らしさ」は、「それはあなたが決めたこと」という過度の自己責任論や責任回避の機能を生み出したり、「異なる他者といかに生きるか」という共生への省察を欠くことになる(176ページ)。

統計学的人間観と個人主義的人間観の協働と相互支援
統計学的人間観は個々人の価値を棄却する冷たい人間観であり、個人主義的人間観は個々人の価値を大切にする温かい人間観であるように思える。しかし、このふたつの人間観は、一見相反するように見えながら、実は背後(裏)で手を結び協働しあいながら、互いの存在を支え合っている(186ページ)。それはそこに、「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対性を帯びた倫理が存在することによる(226ページ)。すなわち、統計学的人間観は、個人のかけがえのなさに絶対的な価値を置く個人主義的人間観に基づいて立ち上がっている(支えられている)のである(193ページ)。

関係論的人間観――自分と他者との「関係性」の生成や変化に価値を見出す人間観
関係論的人間観は、個人主義的人間観の特殊性を浮き立たせるために措定されたカテゴリであるが、他者との関わりのなかではじめて生まれる者として「自分」(個人)を捉える人間観をいう(212ページ)。そこにおいて、この人間観は、自分と他者との関係性の生成や変化に注目することになり、「他者とは何か」「出会いとは何か」「他者と生きるとはどういうことか」などを問うことになる。「他者」とは、分かり合えるかもしれないという存在であり、同時に分かり合えないかもしれないという両義的な存在である(232ページ)。そういう他者との関わり(つまり出会い)は、不安や恐れなどをもたらすが、他者との言動の相互行為を通してどのように他者と共に在るか、共に在り続けるかについて互いの間に規則性が生成される。この相互行為の場や規則(「共在の枠」:磯野)を前提に出会いは進展するが、未来に向かって共に在り続けるためにはその「共在の枠」を変化させていく身構えと身振り(「投射」:磯野)が必要となる(238~241ページ)。その意味において、「他者と生きる」とは、「共在の枠」を共有する自分と他者が、「投射」(相互行為の姿勢や態度)によってその関係性を維持し、新たな関係性を生み出すことによって、出会った他者と共に生きていく「私」/「あなた」が存在することをいう(251ページ)。

〇要するに、一見相反するかのように見える統計学的人間観と個人主義的人間観は実は、一緒になって「生物的な命が存続することが何よりも素晴らしい」という絶対的な倫理観や価値観を創り出す。そしてそれは、絶対性を帯びているがゆえに、人々の営みを制約する。そこにおいて磯野は、両者の人間観を二項対立的な図式で措定するのではなく、両者は協働関係にあるという。そして(そのうえで)、3つ目の人間観として、自分と他者との関係性の生成や変化に注目する関係論的人間観を考えるべきである、という。それが、「他者とともに生きる」すなわち「自分らしく生きる」ことに繋がる。これが磯野の言説であり、視座である。
〇磯野は[1]の最後でいう。「ひとつの尺度で他者の生の長さ(人生の長さ:阪野)を測り、それを価値付け、生き方に介入する際には、唯一の生への畏怖(いふ)を宿した慎み深さが求められる」(269ページ)。留意したい。
〇この指摘から、例によって唐突であるが、これまでの福祉教育の実践や研究は真に「唯一の生への畏怖を宿した慎み深さ」をもってきたか。さまざまな人間観をすり合わせる地道な・丁寧な作業を行ってきたか。特定の人間観を強要し(押し付け)てはこなかったか。そんな疑問が頭をよぎる。