阪野 貢/追補/憲法上の「国民」:主権者・有権者・市民について考える ―駒村圭吾著『主権者を疑う』のワンポイントメモ―

「国民」には、①主権者(「主権」を有する国民)、②有権者(「固有の権利」を有する国民)、③市民(「不断の努力」をする国民)の3つの役柄があてがわれている。国民は、局面に応じてこの3役を演じ分けなければならない。(下記[1]19ページ)

〇本稿は、<雑感>(151)「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―/2022年4月16日投稿、の追補である。
〇筆者(阪野)の手もとに、駒村圭吾著『主権者を疑う――統治の主役は誰なのか?』(ちくま新書、2023年4月。以下[1])という本がある。[1]において駒村にあっては、「主権はフィクション」(273ページ)、観念的なものであり、「主権者」は「空虚な政治的表象」(14ページ)に過ぎず、その意味において主権者はいない。それは幻想でしかない。しかし、主権や主権者について論じることは可能であり、主権論や主権者論にはリアリティがある。
〇主権のフィクション性を再認識し、主権論・主権者論のリアリティを解き解す駒村の議論(主権論)、その序論(「見取り図」)はこうである。日本国憲法の舞台に登場する「国民」は、ひとりで3役を演じている。「主権者」と「有権者」、そして「市民」がそれである。国民はまず、憲法「前文」が規定するように、「主権者」(国民主権)である(戦前は君主(天皇)主権)。その際の主権とは、国のあり方を最終的に決める絶対的な決定権、あるいは国の権力の行使の正当性を支える究極的な権威をいう。主権者とは、主権を実現する主体、主権的決定ができる主体であり、主権者には国のあり方について絶対的かつ最終的に判断することが求められる。国民が主権者として立ち現れるのは、基本的には憲法を制定あるいは改正するとき(局面)である。
〇「有権者」とは、憲法第15条第1項が規定するように、権力者を選び罷免するとともに、権力者になることもできる国民をいう。「市民」には、憲法第12条が規定するように、憲法が保障する自由や権利を獲得・保持するために「不断の努力」が求められる。さらに、公共の福祉のために憲法が保障する自由や権利を「利用する責任」が課せられている。市民とはこういう国民をいう。そして、憲法第13条がいうように、主権者と有権者、そして市民は、すべて「個人」として尊重されなければならない。
〇以上を整理すると次のようになる(抜き書きと要約。見出しは筆者)。また、図1は、「憲法上の『国民』は3つの仮面を演じ分ける」という言説を図示したものである。

憲法上の「国民」
主権者(前文)――憲法を制定・改正する局面
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
● 前文では、国民は「主権」を持っていること、主権を持つ国民は自分で主権を持つと一方的に宣言していること、主権を持つ国民がなしとげた最初の仕事はこの憲法を制定したことであったということを規定している。( 16ページ)
● 主権とは、「国政についての最高の決定権」とされ、それは「国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威」(国の統治のあり方を最終的・究極的に決定する権限)を意味する。(26~27ページ)

有権者(第15条)――選挙をする局面
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
● 第15条第1項では、公務員を選び罷免することは、「国民固有」の、つまり国民だけに認められる権利であることを規定している。(17ページ)
● 有権者とは、権力者を選び罷免するだけでなく、権力者そのものになることもできるという、両者を総合した国民をいう。(17ページ)

市民(第12条)――市民社会において「不断の努力」をする局面
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
● 第12条では、国民に自由と権利の行使について「不断の努力」を求め、公共のために「これを利用する責任」を 国民が負うことを規定している。(18ページ)
● 市民とは、社会を支え、政治と私的世界のバランスに腐心し、公共的負担を引き受ける国民をいう。(18ページ)

個人(第13条)――いずれの局面において(国民ではなく)「個人」として尊重される
すべて国民は、個人として尊重される。
● 第13条では、「主権者」も「有権者」も「市民」も、すべて「個人」として尊重されることを規定している。(19ページ)
● 「主権者」「有権者」「市民」の3役を演じ分ける「国民」という演じ手は、時に一己の「個人」に立ち戻り、舞台から離れることができることを意味する。(19~20ページ)

図1 憲法上の「国民」は3つの仮面を演じ分ける

出典:駒村圭吾著『主権者を疑う』ちくま新書、2023年4月、帯より。

〇そして、駒村はいう。「主権は“取扱い注意”(主権は、国の統治のあり方を絶対的・最終的に決定する権限であるがゆえに、 恐怖と期待に満ちた“取扱い注意”の概念)であるから、最後の『賭け』(つまり改憲)に打って出るのは慎重な上にも慎重であるべきである。一歩間違えると“革命”になりうるような『主権者』の登場をたのむ前に、統治上の諸課題を通常政治の枠の中でどうにか解決すべく、国民は『有権者』として、また『市民』としてがんばるべき」である(277ページ)。
〇そのためには、有権者や市民に求められる関心や問題意識を喚起・醸成するための仕掛けや教育・訓練が必要不可欠となる。主権者においても然りである。すなわち、有権者教育、市民教育、そして主権者教育がそれである。

憲法は主権者を畏(おそ)れている。主権者を畏れ敬いつつも、それを不断に疑うことを私たちに求めている。(14ページ)