水があう

ある夏の日 バングラデシュのダッカから 
二百キロメートル離れた 北にある村にいた
雨期で 村中が水没していた
起伏の少ない 平地の国土の多くは 
首都ダッカも 逃れられない水の中にあった

隣の家に行くには 一本の竹の橋を渡った
村から村への移動は 船だった
まるで孤島のようだった
水の下は みな畑だった
水が来る前に 刈り取ったジュートを 
男は 水に入って細かく割いていた
女は 幼児を抱きながら 水浴びしていた

ある冬の日 ダッカから
二百五十キロメートル離れた 北の村にいた
乾期だった
夏の景色は一転し 地面が露出していた
それが当たり前の 村の地相だった
昼 ため池の周りに 村人たちが集まり
村の社交場と化した 喧噪の中にいた
子どもは 大きな鍋を洗う
女は 長い黒髪を洗う
男は 沐浴する
ため池に流れてくる水流は 見えない
朝靄が立ちこめる中 散歩に出た
ガラガラ うがいの音がした
ため池のそばに ひとり女が立っていた

村で 出会った人たち
彼らには 選択肢が限られていた
厳しい自然環境の中で 貧しい暮らしの中で
ひたすら 生きることへの渇望を 強くした
その水に合わせるしか 生きる術はなかった
その水に合うよう 生きるしかなかった
でも 底抜けに明るい笑顔に 
生き抜くエネルギーを 感じた

井戸水を 手押しポンプで汲み上げる
ゲストは その水で顔と手を洗い
ペットボトルに入った 安全な水を飲んだ
出された料理はすべて 井戸水が使われた
現地での当たり前の暮らしに 身体は敏感に反応した 
水が 合わなかった
何度出向いても 水が合わなかった
生理的に 水が合わなかった

現代という 利己主義がはびこる社会の中で
精神的に 水が合わず
生きることを 強いられた 
心も身体も敏感に 拒絶反応を起こした
選択肢が多くなった分 悩みと後悔が 襲った
処理しきれずに 心を病んだ

豊かさの中で いまを生きる
処方箋は 症状を緩和する投薬と カウンセリング
手放すことの出来なくなった不幸を 一人ひとりが抱え込む
世の中の水が 合わなくなって ずいぶんとなる

〔2019年11月3日書き下ろし。二十数年前に出向いたバングラデシュ。今はもう村の風景は一変しているだろう。経済成長は、水に合わない様々な問題と人類の不幸を一方で創り出してきたのではないか。現代の悩みの淵は深い〕