「仕事」(カイシャ)と「世間」(ムラ):日本社会のしくみと生き方に関するワンポイントメモ―小熊英二を読む―

「阪野さんはヨソから来た人だよね。何の仕事をしてるんですか?」「教員です」「いまどきの教員って大変なんだろ。小学校?、中学校?」「大学です」「どこの大学かね?」「〇〇大学です」「ああ、そうかね?」(専門・専攻を訊いてよ‥‥‥)。
「石原(仮名)さんは地元の方ですよね。お仕事は?」「△△会社をやっている」「社長さんですか?」「まあ」「社長さんってすごいですね」「世間との昔ながらの付き合いもあって大変だよ」「そうなんですか?」(「世間」と「空気」か‥‥‥)。

〇筆者(阪野)が地元での地域・福祉活動に関わった当初の、住民との会話のひとコマである。ヨソ者であり定時制市民でもあった筆者に対する地元住民の問いは、「仕事」(業種・帰属集団)であった。それに続く住民の話は必ず、「世間」(地域・関係性)に関することども(世間話)になった。その際には、その「場」の「空気」(判断基準)を読むことが求められた。それはいまも変わらない。
〇筆者の手もとに、小熊英二(慶應義塾大学教授、歴史社会学者)の新刊本が3冊ある(しかない)。(1)『日本社会のしくみ―雇用・教育・福祉の歴史社会学―』(講談社、2019年7月。以下[1])、(2)『地域をまわって考えたこと』(東京書籍、2019年6月。以下[2])、(3)『私たちの国で起きていること―朝日新聞時評集―』(朝日新聞出版、2019年4月。以下[3])がそれである。
〇[1]は、「日本型雇用」慣行(システム)がどのように形成されてきたかを軸に、日本社会で人々を規定している暗黙のルールすなわち「慣習の束」(「しくみ」)を解明(抽出)したものである。小熊にあっては、「日本社会のしくみ」を構成する原理の重要な要素は、①何を学んだかが重要でない学歴重視(学校名の重視)、②ひとつの組織での勤続年数の重視(他企業での職業経験の軽視)、である(6~7ページ)。[1]は、「日本社会の構成原理を学際的に探究した」点において、広義の「日本論」(日本型雇用慣行の形成史に基づく日本社会論)でもある(15ページ)。
〇[1]における言説の要点のひとつをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

日本社会の「三つの生き方」―「大企業型」「地元型」「残余型」―
現代日本での生き方は、「大企業型」「地元型」「残余型」の三つの類型(モデル・理念型)に分けられる。
「大企業型」とは、大学を出て大企業や官庁に雇われ、「正社員・終身雇用」の人生をすごす人たちと、その家族である。
「大企業型」は、所得は比較的に多い。しかし「労働時間が長い」「転勤が多い」「保育所が足りない」「政治から疎外されている」といった不満を持ちやすい。
「地元型」とは、地元から離れない生き方である。地元の中学や高校に行ったあと、職業に就く。その職業は、農業、自営業、地方公務員、建設業、地場産業など、その地方にあるものになる。
「地元型」は、収入はそれほど多くなかったりするが、地域の人間関係が豊かで、家族に囲まれて生きていける。政治も身近である(政治や行政が地域住民としてまず念頭に置くのは、この類型の人々である)。問題なのは、過疎化や高齢化、地域に高賃金の職が少ないことなどである。(21~22、25ページ)
「残余型」とは、所得は低く、地域につながりもなく、高齢になっても持ち家がなく、年金は少ない。いわば、「大企業型」と「地元型」のマイナス面を集めたような類型である。その象徴は都市部の非正規労働者である。現代の日本社会の問題は、「大企業型」と「地元型」の格差だけではない。より大きな問題は、「残余型」が増えてきたことである。(32ページ)
三類型の比率は、「大企業型」が26%、「地元型」が36%、「残余型」が38%と推定される。「地元型」に多い自営業の減少により非正規雇用は増えているが、正規労働者の数はさほど減少していない。大企業の雇用慣行が「企業」と「地域」という類型をつくり、日本社会の構造を規定している。(40~41、45、86ページ)

〇[2]は、移住希望者向けの雑誌『TURNS』の連載記事をベースに加筆したものである。小熊にあっては、「地域」を知るための視点として、①市区町村は行政の単位であって地域の単位ではない。②市区町村は行政の範囲であって経済の範囲ではない。③地域の集合意識(有無や強弱)は地形と関連している。④集合意識の範囲の指標のひとつは神社(祭り)と小学校区である。⑤人は単なる個人ではなく社会関係の結節点である、などが重要となる(7~18ページ)。[2]は、戦後日本の地域の歴史性について考え、持続可能な地域を構築するための今後の方向性を探究する本である。
〇[2]における言説の要点のひとつをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

地域振興の目標―「他から必要とされる地域」と「持続可能で人権が守られる地域」―
地域振興を図るに際して、「かつての賑わいを取り戻す」という発想には限界があり、非現実的である。地域振興の目標は、基本的には地域住民が決めるしかないが、「他から必要とされる地域」および「持続可能で人権が守られる地域」という目標の立て方がありうる。(170、171ページ)
「他から必要とされる地域」については、改めてその地域にある資源を点検・見直し、それが外部から求められるような流れを作っていくことによって新たな賑わいを生み出すしかない。ただ、他の地域で成功したモデルを模倣しても成功しないことが多い。環境の変化に即した、その地域ならではのモデルをそれぞれ構想するしかない。(171、172ページ)
「持続可能で人権が守られる地域」については、人口減少が進むなかで、人口構成のバランスを維持するために若い世代や移住者を呼び込む。行政の仕事や(福祉)施設運営などをNPOに委託したり、農業や自営業、伝統産業の振興を図るなど、移住者が「長いスパンで働けるところを、地道に作っていく」(76ページ)。その際、「かつての賑わいを取り戻す」という目標の立て方ではなく、地域・住民の「健康で文化的な生活」(人権)を守ることを地域の維持や振興の目標とすることが重要となる。そこに求められるのは、チャレンジ精神(「やってみなければわからない」)と愛着(「それが好きだ」)である(177、182ページ)。

〇[3]は、2011年4月から2019年3月にかけて朝日新聞に連載された「論壇時評」を編集したものである。小熊にあっては、「個別の事象の向こう側にある社会の変動をみつめ、その変動の表れとしてそれぞれの事象を位置づけるように努め」る。「その変動とは、人々の個人化が進み、関係の安定性が減少していく流れである」(4ページ)。[3]では、①「社会の変動という、世界に普遍的な傾向が、日本でどう表れているか」、②「戦後の日本で形成された『国のかたち』がどのように揺らいでいるか、次の時代の新しい合意がどのように作られうるか」、という二つの関心が通奏低音(つうそうていおん。底流に流れる考え・主張)となっている(6ページ)。
〇[3]における言説の要点のひとつをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

分断社会・ニッポン―「第一の国民」と「第二の国民」―
現代日本は「二つの国民」に分断されている。「第一の国民」は、企業・官庁・労組・町内会・婦人会・業界団体などの「正社員」「正会員」とその家族である。「第二の国民」は、それらの組織に所属していない「非正規」の人々である。(218ページ)
「非正規」の人々は所得が低いのみならず、「所属する組織」を名乗ることができない。そうした人間にこの社会は冷たい。「第二の国民」が抱える困難に対して、報道も政策も十分ではない。その理由は、政界もマスメディアも「第一の国民」に独占され、その内部で自己回転しているからである。(219、220ページ)
日本社会の「正社員」である「第一の国民」は、労組・町内会・業界団体などの回路で政治とつながっていた。彼らは所属する組織を通して政党に声を届け、彼らを保護する政策を実現できた。もちろん「第一の国民」の内部にも対立はあった。都市と地方、保守と革新の対立などである。55年体制時代の政党や組織は、そうした対立を代弁してきた。今も既存の政党は、組織の意向を反映して、そうした伝統的対立を演じている。報道もまた、そうした組織の動向を重視する。新聞記事の大半は政党・官庁・自治体・企業・経済団体・労組といった「組織」の動向である。一方で「どこにも所属していない人々」の姿は、犯罪や風俗の記事、コラム、官庁の統計数字などにしか現れない。(220~221ページ)
放置された「第二の国民」の声は、どのように政治につながるのか。誰が彼らを代弁するのか。この問題は、日本社会の未来を左右し、政党やメディアの存亡を左右する。(222ページ)

〇ここで、[1]との関連で、あまりにも周知のことではあるが、中根千枝(東京大学名誉教授、社会人類学者)が半世紀以上も前に上梓した『タテ社会の人間関係―単一社会の理論―』(講談社、1967年2月。以下[4])で説く「日本論」(「社会の単一性」を前提とした日本社会論)について思い起しておくことにする。[4]は、一定の社会に内在する基本原理を抽象化した「社会構造」に着目し、日本の社会構造を最も適切にはかりうるモノサシ(分析枠組み)を提出したものである(20、21ページ)。
〇[4]における言説の重要用語は、「資格と場」「ウチとヨソ」「タテとヨコ」である。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

日本の社会構造の特徴―「資格と場」「ウチとヨソ」「タテとヨコ」―
一定の個人からなる社会集団を構成する要因として、二つの異なる原理を設定することができる。「資格」(の共通性によるもの)と「場」(の共有によるもの)がそれである。「資格」とは、性別や年齢、学歴・地位・職業などのように、社会的個人の一定の“質”(個人的属性)をあらわすものである。「場」は、資格(個人的属性)の違いを問わず、一定の地域や所属機関(大学、会社等)などのように、一定の“枠”によって集団が構成される場合をさす。例えば、会社の経営者や技術者、大学の教授や学生というのはそれぞれ資格をあらわすが、〇〇会社の社員、△△大学の者というのは場による設定(位置づけ)である。日本社会では、「場」が社会的な集団構成や集団認識において大きな役割をもっている。(28、29、32ページ)
一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資格者の間に溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離をちぢめ、資格による同類集団の機能を麻痺させる役割をなす。すなわち、こうした社会組織にあっては、社会に安定性があればあるほど同類意識は希薄となり、一方、「ウチの者」「ヨソの者」の差別意識が正面に打ち出されてくる。日本人は仲間といっしょにグループでいるとき、他の人々に対して実に冷たい態度をとる。相手が自分たちより劣勢であると思われる場合には、特にそれが優越感に似たものとなり、「ヨソ者」に対する非礼が大っびらになるのが常である。(48、49ページ)
場の共通性によって構成された集団は、枠によって閉ざされた世界を形成し、成員のエモーショナル(感情的)な全面的参加により、一体感が醸成されて、集団として強い機能をもつようになる。これが小集団であれば、特に個々の成員を結ぶ特定の組織といったものは必要ではないが、集団が大きい場合、あるいは大きくなった場合、個々の構成員をしっかりと結びつける一定の組織が必要であり、また、力学的にも必然的に組織ができるものである。この組織は、日本のあらゆる社会集団に共通してみられ、筆者(中根)はこれを「タテ」の組織と呼ぶ。理論的に人間関係をその結びつき方の形式によって分けると、「タテ」と「ヨコ」の関係となる。親子関係や上役・部下の関係は「タテ」の関係であり、兄弟姉妹や同僚関係は「ヨコ」の関係である。日本社会に特徴的な場によって構成される集団は、資格(個人的属性)の異なる構成員を結びつける方法として、理論的にも当然「タテ」の関係となる。(70、71ページ)

〇ガタガタと揺れ動く「ポンコツ車」の現代資本主義経済に関して、改めて資本主義の「本質」を問い直し、資本主義の「倫理」を見直し、分断社会をこえる社会のあり方について考えを深めていくことが求められている(岩井克人・生源寺眞一・溝端佐登史・内田由紀子・小嶋大造著『資本主義と倫理―分断社会をこえて―』東洋経済新報社、2019年3月)。また、現代資本主義社会における都市と地方、正規雇用と非正規雇用、富裕層と貧困層、高齢者と若者、男性と女性のように、社会の「分断と格差」「対立と差別」が深刻の度を増している。
〇「分断社会・ニッポン」はどこに向かっていくのか。どのような、あるいはどうすれば分断社会への処方箋を見出せるのか。そのことを展望するために、日本社会の基底をなす構造とは何か、について考えようとしたのが本稿である。課題に対する政策的・実践的処方箋は、2011年の東日本大震災後に叫ばれた「がんばれ! ニッポン!」の一言ではすまない。しかも、その言葉は、諸刃の剣(もろはのつるぎ)になりかねない。日本には「協調性」「集団主義」というマクロ文化が存在し、「長い物には巻かれよ(ろ)」「寄らば大樹の陰」(強い権力や勢力には従う)という日本的処世術が定着している、と言われる点においてである。留意したい。