あの頃の福祉教育、その記憶と記録(6):秋田県社協による福祉教育「活動テーマ別全体構造プログラム」の作成―資料紹介―

〇筆者(阪野)は昔、秋田県社協の大友義勝さんと親しくさせていただいた時期がある。そのきっかけは、全社協の「学校における福祉教育ハンドブック編集委員会」(委員長:高橋靖直先生・玉川大学)であったと記憶している。記録によると委員の任期は1992年9月から1994年10月であり、編集委員会は1994年3月に『学校における福祉教育ハンドブック』(全社協・全国ボランティア活動振興センター)を上梓した。
〇その後、大友さんには格別のご指導とご厚情を賜った。①福祉教育に関する資料のご恵贈をはじめ、②『明日の福祉教育を考える―ともに生きる心をはぐくむために―』(秋田県社協、1994年3月)の刊行、③日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会(中部学院大学、2000年11月)のシンポジュウムへのご登壇、などがそれである。
〇①については後述するとして、②については、大友さんに大変なご迷惑をおかけすることになった。その冊子に掲載された拙稿「明日の福祉教育を考える」(草稿)についてある筋から訂正を求められたが、筆者がそれを断ったことによる。そのことをめぐって、大友さんには上京された折(1993年5月)に、わざわざ時間を割いていただいたことを思い出す。東京・新橋で、1時間半ほどご教示を賜った。筆者は当時もそしていまなお恐縮に思い、また汗顔の至りである。
〇ちなみに、訂正を求められた箇所は、例えば次の一節である(全部で12箇所)。大友さんらがその筋と協議し、最終的には若干の文言の訂正で終わっている。

〇③については、第6回大会の「基調報告」と大友さんの「レジュメ」の一部を紹介しておくことにする。大友さんは当日の朝、秋田を発たれ、家庭の事情で「シンポジウム」終了後すぐに戻られたと記憶している。恐縮の極みであった。

〇①については、いくつかの資料のうちから、『学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム―子どもの自主性を育む福祉教育の実践を求めて―』(秋田県社協・秋田県ボランティアセンター、1998年2月)を採り上げることにする。そのなかでも、「6 福祉教育推進プログラムの編集方針」(8~9ページ)と「7 プログラムの展開方法 (1)ボランティア活動プログラムについて」(9~10ページ)に注目し、福祉教育の実践活動の「トータルプログラム」(全体計画)を紹介する。福祉教育の現状を鑑(かんが)みたとき、時代背景や地域の状況に留意しながら、いま改めて確認し認識すべき事項である。
〇そこでは、福祉教育実践活動(プログラム)の理念と目的・目標、視点と枠組み、内容と方法、技術(手段)と技能(能力)などの総合性や系統性、関連性や発展性などが明らかにされている。それに基づいて、個別具体的な「授業プログラム」の作成や見直しが期待される。

(1)『学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム―子どもの自主性を育む福祉教育の実践を求めて―』秋田県社協・秋田県ボランティアセンター、1998年2月、14~31、80~84ページ(抜粋)                                  

〇以上に関して一言すれば、プログラムの内容(範囲とレベル)が総花的で平準的過ぎると、目的の実現や目標の達成に向けての焦点化が進まず、学校や地域の歴史や特色、資源を活かした実践活動の展開を困難にする。それは、専門的な知識と技術(技能)や多様な経験と応用力をもった福祉教育の担い手の確保・育成を難しくすることにもなる。留意したい。また、福祉教育推進プログラムにおいては、教育成果の確認・検証の視点や方法、教育内容や教育方法の改善・創造とその手順(「ふりかえり」「リフレクション」)などについての検討が必要かつ重要となる。そのためには、長期的かつ幅広い視野に立ってプログラムの研究・開発を進める体制・環境の整備・構築がより一層求められる。付記しておきたい。
〇さらにまた、福祉教育やそのプログラムについて考えるにあたっては、①問題や課題を発見する能力、②課題を処理し解決する能力、③他者や地域・社会と連携・共働する能力、④情報を整理・分析し企画・立案する能力、⑤提案力とプレゼンテーション能力、そしてそれらに共通し、基盤となる⑥主体的・自律的に思考し取り組む能力、などの育成が問われることになる。改めて確認しておきたい。
〇最後に、私事にわたるが、先日筆者は、富山県南砺市の「演劇・文化の山里 越中五箇山 利賀村」に車を走らせた。そばの郷、瞑想(めいそう)の郷、合掌文化村などを訪ね、天竺(てんじく)温泉の郷で食べた蕎麦と豆腐、岩魚の塩焼きは絶品であった。およそ20余年ぶりのことである。
〇筆者がかつて勤めていた東京・中野の宝仙学園短期大学(現・こども教育宝仙大学)では、1974年度から現在まで「利賀村移動授業」を継続的に実施している。東京から100名ほどの女子学生が、しかも8泊9日の日程で豪雪と過疎の村で知られる利賀村に入ることは、ニュース性の高い話題だったのであろう。毎年のように地元の新聞やテレビは移動授業の様子を報じた。また、短大では、学生が主体になってまとめた『利賀村を知ろう(東五箇山移動授業リポート集)』と題する報告書を刊行・配布した(第1集~第4集、1974年10月~1977年10月)。それらの情報を得て、筆者に連絡をしてくれたひとりの社協職員がいた。富山県社協の野田智さんである。その後、30年近くも富山県の福祉教育にかかわりをもつことになる。
〇短大では、移動授業の10周年を機に、『利賀村移動授業10年の歩み―保育者養成のあり方を考える―』(保育科研究報告書1)を1983年11月に刊行した。その前年の11月、「移動授業」に関して筆者を訪ねてきたひとりの学校の先生がいた。島根県松江市の松徳女学院中学校高等学校(現・松徳学院中学校高等学校)の幸野孝治先生である。また、その1年以上も前に(1981年の6月であったと思われる)、「移動授業・体験活動・福祉教育」などについて山本寿子先生からご連絡をいただき、お目にかかっていた。以後、島根県社協の福祉教育にかかわることになる。山本先生には、いまも福祉教育のご指導を仰(あお)いでいる(本ブログ「ディスカッションルーム」(70)2018年5月15日投稿、参照)。
〇利賀村が筆者の「福祉教育の世界」を広げてくれた。その日、筆者は利賀村を後にして、上述の野田さんに会うために射水市社協に向かった。その夜は食事をしながら、利賀村のことや福祉教育のことどもについて話が盛り上がった。県社協の福祉教育事情について話している時にふと、秋田県社協の大友義勝さんのことを思い出したのである。併せて、大友信勝先生(聖隷クリストファー大学大学院)のことも思い出していた。本稿を草することにしたきっかけである。帰途の車のなかでイメージしたタイトルは、「人の出会いとつながり、まか不思議!―『利賀村移動授業』と福祉教育―」であった。
〇蛇足ながら、「利賀村移動授業」の趣旨のひとつは、「利賀村の生活や文化を体験的に学ぶ。全く異なる地域社会・生活環境での自発的・自律的・体験的活動をとおして創造性やコミュニケーション能力を養う」(『10年の歩み』27ページ)ことにあった。我田引水のそしりを免(まぬが)れないが、いまにして思えばそれは「まち学習」や福祉教育にも通底するものであったのではないか。