市民的福祉教養と市民福祉教育:「教養」について考える―資料紹介―

福祉教育実践や研究の画期をなしたものに、1980年9月に全社協に設置された「福祉教育研究委員会」(委員長・大橋謙策)の中間報告「福祉教育の理念と実践の構造―福祉教育のあり方とその推進を考える―」(1981年11月)がある。そこでは、福祉教育は、「国民の社会福祉への関心と参加の促進」をめざす意図的な教育活動である。福祉教育は、人権思想に基づいた社会福祉の営みの主体として、市民一人ひとりが担ういわば「福祉人」の育成を図るものであり、現代を生きるにふさわしい人格形成にかかわるものである、と述べられた。これは、市民イコール福祉人の「教養」に通底するものでもあり、今さらながら改めて注目しておきたいところである。
1990年代後半には、例えば高橋智(東京学芸大学)が、教育学教育や教師教育における「国民的福祉教養」の構想について論究している(注1)。また、大橋謙策(当時・日本社会事業大学)が、高校福祉科の設置とのかかわりで、子ども・青年の発達を促すものとしての福祉教育を基底に、すべての高校生に「国民的教養としての福祉教育」を展開することについて言及している(注2)。
これらは20年から30年以上も前のことで、旧聞に属する。さらに、それ以前の1970年代後半以降に「教養主義」の「没落」や「終焉」が指摘されたことは、周知の通りである。そしていま、グローバリゼーションとローカリゼーションが同時進行するなかで、「知識基盤社会」(注3)と「市民参加型社会」の時代を迎えている。知識基盤社会は、新しい知識・情報・技術の重要性が飛躍的に高まる社会であり、そこでは大学教育等の改善のみならず、子どもから大人までの「生きる力」を如何に育成するかが重ねて問われることになる。市民参加型社会は、参加と協働(共働)による市民主権・市民自治のまちづくりを進める社会であり、そのまちづくりの担い手となり得る市民としての教養(「市民的教養」「シティズンシップ」)を如何に形成し、そのための教養教育を如何に再活性化するかが問われることになる。
福祉の(による)まちづくりの市民的教養(「市民的福祉教養」)は、それを形成・涵養するための確かな教養教育や豊かな実践軽軽を積みあげることによって育まれる。こうした視点に立って「市民福祉教育」について論究することは、“まちづくりの福祉教育”の今日的課題である。
本稿では、筆者の手もとにある資料から、「教養」に関する基本的な論点や言説の一部を紹介することにする。

(1) 安部謹也『「教養」とは何か』講談社(講談社現代新書)1997年9月
「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養」があるというのである。(56ページ)

教養があるということは(中略)「世間」(「大人が互いに結んでいる人間関係の絆」:阿部、18ページ)の中で「世間」を変えてゆく位置にたち、何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人のことをいう。これまでの教養は個人単位であり、個人が自己の完成を願うという形になっていた。しかし「世間」の中では個人一人の完成はあり得ないのである。個人は学を修め、社会の中での自己の位置を知り、その上で「世間」の中で自分の役割をもたなければならないのである。(180ページ)

(2) 梅田正己『「市民の時代」の教育を求めて―「市民的教養」と「市民的徳性」の教育論―』高文研、2001年5月  
現代における「市民」とは、ひと言でいえば、民主主義と人権の思想を体現した人間類型といえます。
いくつかのキーワードがあげられます。思想・言論の自由をはじめとする「市民的自由」、特権や差別を認めない「平等」、自主性・自発性にもとづく「参加」、主体的に引き受ける「責任」、そして「自治」です。
「市民」とはつまり、うんと単純化していえば、自由と平等の原則に立って、一人ひとりの尊厳を守るとともに、全員が参加し、全員が責任を引き受けることによって、自分たちの社会を自分たちの手で治めてゆくこと(自治)のできる人間類型ということになります。(145ページ)

「市民」を育てる教育は、自立した「市民」として「自治」に参加するために必要な知識と認識、それにもとづく一定の見識の面での教育と、「市民」として実際に行動するさいに必要な自覚と能力、技能、態度をめぐる教育の2つの側面が考えられます。前者を「市民」として身につけておきたい教養すなわち「市民的教養」の教育、後者を、「権利主体」としての自覚をはじめ、「公共の精神」、話し合い(討議)の能力と技能、他者にはたらきかけ互いに協力できる能力などの「市民的徳性」の教育と名づけてみました。
なお、「市民的徳性」という用語については、「市民」としての自覚、能力、技能、態度のすべてが含まれていると考えられる「シティズンシップ」という言葉を使った方がよいかも知れません。(146~150ページから抜き書き)

日本の教育をささえてきたのは、国家主義と立身出世主義(学歴主義)の二本の柱でした。教育の中心に「国家」をすえる考え方は、20世紀をもってその歴史的役割を終えました(ただし国家主義は消滅したわけではなく、幾年もたたないで復活してきます。)。日本の社会にも明確に質的な変化が生じつつあり、日本も明らかに「市民の時代」に入っています。日本の教育はその価値基軸を「国家」から「市民」に転換していかなくてはなりません。「市民的教養」の修得と「市民的徳性」の育成を二本の柱として、新しい学校をどう構想するかが問われています。(64、80、101、104、141、238ページから抜き書き)

(3) 村上陽一郎『あらためて教養とは』新潮社(新潮文庫)2009年4月
自分の中にきちんとした規矩(きく。分別のための「基準」「ものさし」「枠組み」:村上)を持っていて、そこからはみ出したことはしないぞという生き方のできる人こそが、最も原理的な意味で教養のある人と言えるのではないか――というのが私の年来の主張なのです。その上に、一般的な意味での教養、つまり何がしかの知識、何がしかの経験、そして専門家としてではなく、人間一般としての「広さ」、そうしたものが相俟(あいま)って教養が論じられるようになる。しかし、慎(つつし)みを形造る規矩が欠けると、それこそ教養というのはものすごく安っぽくなって、口にするのも恥ずかしいようなものになりかねないんじゃないかというのが私の基本的な考え方です。(28ページ)

今日では、社会が「知識に基礎を置く社会」(knowledge-based society)という言葉で規定されるほど、様々な分野の知識が社会を動かしています。それを身につけなければ生きていけない。社会の中で活動することができない。専門性が求められる一方で、しかし、専門以外の様々な知識に通暁(つうぎょう)していることで、初めて現代社会に生きる資格が与えられるとさえ思われます。その意味での「教養」が、エリート階級だけでなく一般の人々にとっても、現代ほど必要とされる社会はありません。その意味での教養は、現代社会のなかで人間が生きるための「力」そのものです。(88ページ)

ドイツ語の〈Bildung〉というのは、英語のに近い言葉です。つまり「造り上げる」ことですね。では何を「造り上げる」のかというと、「自分」という人間をきちんと造り上げていくことであり、これが「教養」なのではないかと思うのです。(中略)
自分を修めること、きちんとした人間として、正しいと思う方向に向かって自分を造り上げていくことをもって教養と理解するとなると、市井(しせい)の中に埋もれている生活者(中略)の中にも、自分をしっかり持って、自分を見つけて、自分をきちんと造り上げていく人はいると確信しています。(中略)
何を材料にして自分を造り上げるか。広い知識や広い体験は決定的に大事な材料の一つですけど、全部ではない。造り上げるというと、いかにも何かがちがちに造り上げた完成品ができてしまうように見えますけど、そうじゃないんですね。自分というものを固定化するのではなく、むしろいつも「開かれて」いて、それを「自分」であると見なす作業、そういう意味での造り上げる行為は実は永遠に、死ぬまで続くわけです。(中略)一生をかけて自分を造り上げていくということにいそしんでいる、邁進(まいしん)している。それを日常、実現しようと努力している人を、われわれは教養のある人というのではないか、そう私は思っています。(185~187ページ)

(4) 中央教育審議会「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」2002年2月
教養とは、個人が社会とかかわり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体ということができる。(中略)人には、その成長段階ごとに身に付けなければならない教養がある。それらを、社会での様々な経験、自己との対話等を通じて一つ一つ身に付け、それぞれの内面に自分の生きる座標軸、すなわち行動の基準とそれを支える価値観を構築していかなければならない。教養は、知的な側面のみならず、規範意識と倫理性、感性と美意識、主体的に行動する力、バランス感覚、体力や精神力などを含めた総体的な概念としてとらえるべきものである。

新しい時代を生きるための教養として、社会とのかかわりの中で自己を位置付け律していく力や、自ら社会秩序を作り出していく力が不可欠である。主体性ある人間として向上心や志を持って生き、より良い新しい時代の創造に向かって行動することができる力、他者の立場に立って考えることができる想像力がこれからの教養の重要な要素である。

教養教育については、これまで、主として高等教育における問題として議論されることが多かった。しかし、(中略)教養の涵養は個人にとって生涯の課題であり、教養を身に付ける努力は、いずれの年齢や職業においてもすべての人に求められるものである。教養教育の在り方を検討するに当たっては、高等教育だけでなく、幼児期からの家庭教育、初等中等教育も含めた学校の教育活動全体、地域での様々な活動、社会生活における様々な体験や学習を通じて、いかに教養を身に付けていくかを考える必要がある。

(5) 日本学術会議 日本の展望委員会 知の創造分科会『21世紀の教養と教養教育(提言)』2010年4月
現代社会において生起し深刻化するさまざまな問題や課題に適切に対応し、その平和的な解決を図っていくには、それらの問題や課題の解決に向けての多様な取り組みに参加・協働する知性・智恵・実践的能力の形成と、それらの多様な取り組みを支え推進する基盤としての市民社会の豊かな展開が重要である。
そのためには、次の三つの公共性を活性化することが重要である。第一に、集合的意思決定過程(政治)の開放性・透明性(情報公開・情報開示)が確保され、その過程への十分な市民参加があること(市民的公共性)、第二に、さまざまな問題や課題を自分たちの協力・協働により解決・達成すべきものとして引き受け、その協力・協働に参加する活力あるカルチャーが息づいていること(社会的公共性)、第三に、社会のすべての成員が、その尊厳を尊重され、安全かつ豊かな文化的・社会的生活を享受する権利を有する存在であることが、承認され前提となっていることである(本源的公共性:社会的存在としての人間の生存権に関わる公共性)。
現代の多様化・複雑化・流動化する社会では、この3つの公共性の活性化とその担い手となりうる市民としての知性・智恵・実践的能力(市民的教養)の形成が、いま切実に求められている。(ⅳ~ⅴ、4~5ページ)

21世紀に期待される教養は、現代世界が経験している諸変化の特性を理解し、突きつけられている問題や課題について考え探究し、それらの問題や課題の解明・解決に取り組んでいくことのできる知性・智恵・実践的能力であると言ってよいであろう。その多面的・重層的な知性・智恵・能力を、学問知、技法知、実践知という三つの知と市民的教養を核とするものとして捉える。
学問知は、学問・研究の成果としての知の総体であり、その学習を通じて形成される知である。それは、錯綜する現実や言説(研究を含む)を分析的・批判的に検討・考察し、同時に、諸問題を自分に関わる問題として思慮し、そしてまた、自分の生き方や考え方を自省する知でもある。技法知は、メディアの活用、多種多様な情報・資料の編集、数量的推論、自国語・外国語、学術的な文章作成能力、言語的・非言語的な表現能力・コミュニケーション能力などを構成要素とする知で、学問知および実践知の学習・形成と活用の基礎となるものである。実践知は、日常のさまざまな場面で実際に活用・発揮(実践)される知で、市民的・社会的・職業的活動に参加・協働し、共感・連帯し、同時に、自らの在り方・生き方・振る舞い方を自省し調整していく知である。
他方、市民的教養は、上記の三つの公共性、すなわち本源的公共性、市民的公共性、社会的公共性についての理解を深め、その実現に向けたさまざまな活動やプロジェクトに参加し、連帯・協働していく素養と構えを指す。
大学教育・教養教育では、これら三つの公共性に開かれ、その実現を志向し、その実現のための活動やプロジェクトに参加し協働するうえで必要とされる学問知・技法知・実践知を育んでいくこと、それを核とする「市民的教養」を育んでいくことが重要である。(ⅴ~ⅵ、17~18ページ)

「教養」とは何か。以上からも分かるように、その捉え方は多様である。その点を知るのには、歴史的視点から教養主義について論述する竹内洋の『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化―』(中央公論新社(中公新書)、2003年7月)、哲学・思想の領域から教養主義の復活を説く仲正昌樹の『教養主義復活論―本屋さんの学校Ⅱ―』(明月堂書店、2010年1月)、なども興味深い。
ここで、以上に紹介した論点や言説を参考に、「教養」の構造と性格について暫定的な管見を述べておくことにする(図1参照)。
図1 「教養」カラー
「教養」は、「知識」「経験」「知性」「価値観・規範」を構成要素とする。
幅広い知識を修得するためには、知的な好奇心と懐疑心、追究心が必要である。経験を社会的意義のあるものにするためには、その活動・行為を外向化・社会化するとともに、継続的に取り組み、展開することが必要である。知性とは、物事について的確に思考し、判断し、表現する知的な能力をいう。教養の形成には、知的な側面のみならず、行動や判断の基準(規範)やそれを支える価値観の構築が必要であり、「教養の原点」(村上)はここにある。
また、教養は、家庭や地域・社会におけるさまざまな生活体験を通して形成される。教養は、子ども・青年の発達段階に応じて、また高齢期まで生涯にわたって形成される。教養は、現代社会や現代世界の変化や問題に対応するものである。教養は、新しい時代を切り拓き、未来社会を創造するものである。これらの点をめぐって、学校(小・中・高・大学教育))における教養教育をはじめ、市民社会や国際社会を生きるための子ども・成人に対する教養教育のあり方が問われることになる。


(1) 高橋智「教育学教養と福祉教養―教育学教育における福祉教養の意義―」『東京学芸大学紀要.第1部門、教育科学』第48集、東京学芸大学紀要出版委員会、1997年3月。
(2) 大橋謙策「高校における福祉教育の位置と高校福祉科」大橋謙策編集代表『福祉科指導法入門』中央法規、2002年4月。
(3) 「知識基盤社会」(knowledge-based society)とは、「新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す」社会をいう(中央教育審議会「我が国の高等教育の将来像(答申)」2005年1月)。その進展を図るためには、大学教育等の改善のみならず、小学校から大学までの一貫した取り組みが必要である。また、知識基盤社会を生き抜くためには子どもから大人まで、「生きる力」の育成を図ることが重要となる。

追記
(1) 本稿を草することにしたのは、熱心なブログ読者から、「読書による教養主義」(大正時代の旧制高校を発祥として、1970年前後まで大学生の規範文化であったといわれる。)に関して厳しいコメントをいただいたことによる。
(2) 2013年7月14日の朝日新聞の「天声人語」―「キョウヨウとキョウイク」が面白い。
老後をどう生き生きと過ごそうかと誰しも考える。そこには秘訣があるらしい。「キョウヨウ」と「キョウイク」なのだという。教養と教育かと思いきや、さにあらず。「今日、用がある」と「今日、行くところがある」の二つである。なるほど何も用事がなく、どこにも行かない毎日では張り合いがあるまい、という記事である。
老後を豊かに過ごすには「教養」の形成・向上が必要かつ重要である、ということを読み解くことができようか。