「まなびほぐす」ことと「誤解する権利」:鶴見俊輔に学ぶ―資料紹介―

戦後言論界の中心人物の一人であった哲学者の鶴見俊輔が、2015年7月20日に亡くなった(享年93)。雑誌『思想の科学』や「ベ平連」、「九条の会」などが思い出される。学生時代に雑誌『思想』(岩波書店)とともに、『思想の科学』(思想の科学社)に挑戦したことが懐かしい。
いま、筆者(阪野)の手もとには、鶴見の本は3冊しかない。(1)『教育再定義への試み』(岩波書店、1999年10月。以下、「1」と略す。)、(2)『誤解する権利―日本映画を見る―』(筑摩書房、1959年12月。以下、「2」と略す。)、(3)『学ぶとは何だろうか―鶴見俊輔座談―』(晶文社、1996年3月。以下、「3」と略す。)、がそれである。この3冊も、他の著作と同様に、豊富なテーマや項目について自在に考えが述べられ、語られている。その思考は、拡散的思考から最終的には収束的思考(ジョイ・ギルフォード)に導かれる。とりわけ「1」では、生涯にわたって自分らしさをつくり、守るための「自己教育」論が展開される。「2」では、議論や論争は誤解のうえに成り立っていることを理解する(注①)。そして「3」では、豊かな感性と柔軟な思考、多様な他者(幅広い分野)との繋がりや関わりの重要性を思い知らされる(注②)。これらから、我田引水の謗(そし)りを免れないが、「まちづくりと市民福祉教育」に関するいくつかの視点や論点を読み取り、今後の立論の参考にしたいと思う。以下に、「1」と「2」から、鶴見の言説の一部を紹介する。

(1)『教育再定義への試み』
教育は、連続する過程であり、相互にのりいれをする作業である。教える―教えられる、そだつ―そだてられるは、同時におこり、そして一回でおわるのでなく、その相互作用はつづいていく。(43ページ)

教育は、それぞれの文化の中で生き方をつたえるこころみである。それは、あたらしく生まれてくるものにとっては、まえからくらしている仲間をまねることからはじまる。(中略)教えようとおとながこころみるときに、相手の失敗、抵抗、逸脱などから、自分の生き方への思いなおしのいとぐちを見つけることがある。それが、教育が連続する過程であるということであり、教える―教えられるという相互的な過程であるということだ。(中略)
私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらかは変わる。(45~46ページ)

たくさんのことをまなび(learn)、たくさんのことをまなびほぐす(unlearn)。それは型どおりのスウェーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型の必要にあわせて編みなおすという状景を呼びさました。ヘレン・ケラーのように盲聾唖(もうろうあ)でなくとも、この問題は、学校にかよったものにとって、あてはまる。最後にはみずからのもうろくの中に編みこまなければならない。これがむずかしい。今の自分の自己教育の課題となる。(107~108ページ)

教師が教師であることによって、尊敬されるべきだと考えている教師は、教育をになう条件を現代では失っている。親が親であることによって、尊敬されなくてはならないという考えも、現代では考えなおす必要がある。
生徒の前に、自分自身をもっと前に出す方法を考えたらどうだろう。(131ページ)

死ぬことの準備までを自己教育とし、人間の絶滅までを見すえて自己教育の中にいれる。(中略)自己教育の道しるべ(こざかしく言えば、措定)を、終わりに書く。
一 くらしそのものは、くらしの意識より大きい。そしてもっと重大なものを含んでいる。私自身のくらしは、私の考えをこえる重さをもつ。
二 記録にのこるわずかの数の個人を越える偉大な個人が人間の総体にいる。人間の総体は、どんな偉大な個人より偉大である。
三 専門の思想家の仕事をこえる仕事が、専門の思想家外の人の仕事にはある。教育専門家以外の人たちによって大切な教育がこれまでになされてきたし、今もなされている。(186~187ページ) 

「人は生きているかぎり、今をどう生きるかという問題をさけることができない。今生きているということが、問題をつくる」(132ページ)。鶴見にあっては、そういう人生のさまざまな問題に個々人が立ち向かうときに支えとなるのが、「教育」である。すなわち、教育は、学校教育に焦点化された狭いものではなく、一人ひとりの人間の「くらしそのもの」に関わる、生涯にわたる「自己教育」である。
鶴見は言う。教育(自己教育)は、それぞれの文化のなかで「生き方」を伝える試みであり、それは「まねる」ことから始まる。また、教育は、学んだことを解(ほぐ)す――「まなびほぐす」(ヘレン・ケラーの言葉)ことであり、解したものを自分の寸法に合わせて編みなおす営みである。それによって、教育の目的である「自分らしさ」(integrity)を構築することになる。その自分らしさとは、ひとつに纏められた「全体」(total)ではなく、そっくりそのままの「まるごと」(whole)を意味する(34~43ページ)。
要するに、教育は、「集団として型にはめこむ」(34ページ)ものではなく、従って教師(「教育専門家」)の専有物ではない。教育がもつ本来の姿は、すべての世代の人による教える―教えられるという相互行為のなかに、連続的に見出される。鶴見が説くところである。

(2)『誤解する権利』
学問および評論を商売にするようになってから、とうぜんに論争の中にまきこまれることになり、いかに多くの論争が、誤解の上になりたっているかに気がつかざるを得ない。(中略)
誤解する権利と逆に、誤解される権利というものがある。われわれは、自分たちの心情を直接的にみんなに手わたしすることはできないので、何らかの行動に託して手わたしするほかない。だが、この行動というのは、ずいぶんでこぼこした形のもので、見方によってちがう仕方で光を反射し、どんな動機をその行動の背後に想定するかによって、ぜんぜんちがった意味をもつ行動として映ずる。(中略)
誤解をとくという消極的な作業は、精神衛生的によくないばかりか、客観的に無益でもある。論争という活動がもともと誤解する権利の活発な行使を前提としている以上、むしろわれわれは、誤解される権利を十分に活用して、自分で考えて意味のあると思う行動をどんどんつみかさねてゆくべきではないか。日常のつきあいの世界でも、誤解される権利をもっと活発に行使してゆくほうが、からっとした空気をつくれるように思う。(239~240ページ)

住民参加型のまちづくりでは、住民相互の対話や意見交換が重要な役割を果たす。ときにはそれが、議論や論争に発展することがある。それは、住民個々人の意見や見解の相違を尊重し前提にする限り、至極当然のことであり、無益なことではない。
鶴見は、論争は「誤解する権利」と「誤解される権利」の行使である。「誤解をとく」ことは「客観的に無益」である、と言う。論争は、妥協点を見つけるものではなく、争点や立場の明確化とその認識の共有化を図ることによって新しい価値を創造することに意義がある。「誤解する権利」と「誤解される権利」を活発に行使することによって、自主的・自律的を思考や行動を促すことになる。「まちづくりと市民福祉教育」に関して、鶴見の言説に首肯するところである。
 
以上を要するに、(1)まちづくりの主体形成は、住民が相互に学び―学び合う過程であり、学んだことを解(ほぐ)し、編み直す過程である。(2)まちづくりのための議論や論争は、「誤解する権利」と「誤解される権利」を活発に行使することであり、それによって新しい価値を創造する。筆者が鶴見の言説を通して学んだポイントである。

ところで、唐突であるが、2015年9月19日未明、安全保障関連法が参議院本会議で可決・成立し、日本の立憲主義・民主主義・平和主義に大きな傷痕を残すことになった(注③)。「戦争をしない国」から「戦争ができる国」への転換である。この事態を鶴見はどのように評価し、どのように開陳したであろうか。それを読んだり学んだりすることはもはやかなわないが、いま、「1」の次の一節を思い出す。

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡真史が自殺した。
『生きることの意味』を読んだのは、私の息子が小学校四年生のときで、岡真史(一四歳)の自殺は、その後二年たって彼が小学校六年生くらいのときだったろう。彼は動揺して私のところに来て、
「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」
とたずねた。私の答は、
「してもいい。二つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。君は男だから、女を強姦したくなったら、その前に首をくくって死んだらいい。」(170~171ページ)


① 本書は、その副題「日本映画を見る」から分かるように、「大衆映画の時評」を集成したものであり、「誤解する権利を使うことによって成りたっている」(241ページ)。
② 本書は、鶴見の対談集「鶴見俊輔座談」全10巻(晶文社)のうちの1巻である。対談者は、谷川俊太郎をはじめとする19名であるが、いずれも「学ぶ」ということを対談テーマにはしていない。ブックカバーの表紙裏書には、次のように記されている。「あたえられたものをそのままのみくだす人間になりたくない。つねに新しい自分のいまの状況のなかから考えていきたい。ああも言えるこうも言える、別の見かたがありうるというその揺れを大切にする。‥‥‥自分自身が何かを求めていることが大切なのであって、すでにそれを得たと思ってしまうのは、まずいんじゃないですか」。これが鶴見が言う「学ぶ」ということである。
また、鶴見は、本書の「あとがき」で次のように述べている。「書かないことが、書くことの中心にあり、話さないことが話の中心にある。書く当人自身が書けないことがのこり、話す当人が話せないことがのこるというだけでなく、書く当人が書かないと自分できめていることがあり、話す当人が話さないと自分できめていることがある」(441ページ)。含蓄のある言い回しである。「書いてないこと」「言わなかったこと」を心にとめるのが「学ぶ」ということなのだろう。それは、「行間」や「言外」の真意を読み取ることでもある。
③ 福澤諭吉は『学問のすすめ』で次のように述べている。付記しておきたい。
ダメな政府に対して取るべき手段 
人民も政府もそれぞれの役割を果たして仲良くやっているときは申し分ないが、そうではなくなって、政府がその役割を逸脱して暴政を行うこともある。その場合、人民がとるべき行動は以下の三つのみである。
すなわち、信念を曲げて政府にしたがうか、力をもって政府に敵対するか、身を犠牲にして正義を守るか、この三か条だ。
第一の「信念を曲げて政府にしたがう」のは、たいへんよくない。
天の正しい道理にしたがうのは、人たる者の仕事である。なのに、その信念を曲げて、政府が作った人造の悪法にしたがうというのは、人たるものの仕事を放棄したことになる。
さらに、一度信念を曲げて、不正の法にしたがったならば、後世の子孫に悪い例を残し、天下に悪い習慣を広めることになる。(中略)
第二に「力をもって政府に敵対する」のは、もちろん一人の力でできることではない。必ず仲間が必要になる。これがすなわち内乱である。これは決して上策とは言えない。
現に戦いを挑んで政府に敵対するときは、物事の道理はしばらく放っておかれ、ただ力の争いになる。(中略)
第三の「身を犠牲にして正義を守る」とは、天の道理を信じて疑わず、いかなるひどい政治のもとで、どんなに過酷な法で苦しめられようとも、その苦痛に耐え、くじけずに志を持ち、何の武器をも持たず、少しの暴力も使わず、ただ、正しい道理を唱えて政府に訴えることである。以上、三つの策の内、この第三の策をもって上策の上とする。(福澤諭吉/齋藤孝訳『現代語訳 学問のすすめ』筑摩書房(ちくま新書)、2009年2月、96~98ページ)。

付記
鶴見の『学ぶとは何だろうか』と同じようなタイトルの本に、第27代東京大学総長を務めた政治学者の佐々木毅のエッセイ『学ぶとはどういうことか』(講談社、2012年3月)がある。佐々木は、「学ぶ」ということは、一定の時間と空間のなかで行われる人間の活動である。人間は「学び続ける動物」であり、「学びは人生と歴史の構成要素」である、と捉える。そして、「学びの4段階」ついて説いている。第1段階:事実ないし確実とされている知識や情報を「知る」こと、記憶すること。第2段階:知識や情報の内容を「理解する」こと。第3段階:事実や事実の関係とされている知識や情報を「疑う」こと。第4段階:既存の知識や情報を「超える」こと、がそれである(79~106ページ)。あえて付記しておくことにする。