「くえびこ」に想う

「障害者ら団結 缶バッジ販売」という二段抜き主見出しと、「介護者不足、事業所閉鎖に立ち向かう」「福島21団体が事業化」という2本の袖見出しの、地元新聞の記事(3月6日)に目が留まった。そこには白石清春氏の写真が大きく掲載されていた。彼はいま、福島県郡山市で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表として、障がい者の支援活動や運動を展開しているという。
彼は脳性まひのために車椅子生活をするが、その強く、激しく、そして誇りある生きざまから多くを学んだのは、筆者(阪野)だけではあるまい。青い芝の会の運動、とりわけ川崎駅前でのバスジャック闘争(1977年)や養護学校義務化阻止の運動(1979年)の顛末については、地域作業所やときには居酒屋などで彼から聞いている。
筆者が彼のことを知るのは、彼が1980年6月に相模原市で「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成した頃である。その後、彼は、地域作業所「くえびこ」(1982年4月)やケア付き住宅「シャローム」(1986年6月)の開設などを通して、障がい者の自立生活運動に取り組む。そして、1989年に郡山市に戻る。彼との直接的なかかわりは、5、6年のわずかな期間に過ぎない。
「脳性マヒ者が地域で生きる会」は、脳性マヒ者など障がい者の基本的人権の確立をめざし、具体的には、障がい者の自立と社会参加を促す「制度改革」と、障がい者や地域住民が「地域」で「生きる」ことの理解と認識を深める「意識改革」に取り組むための組織であった。「くえびこ」は、企業などの下請け作業は行わず、脳性マヒ者などが地域で生きるための運動の拠点、また個々の障がい者が自立生活能力を身につけていくための地域・生活学習の場として位置づけられていた。ちなみに、「くえびこ」(久延毘古)とは、日本神話に登場する神(「崩え彦」)で、田畑に立って農作物を鳥獣から守る案山子(かかし)を意味する。
かつて筆者は、彼とのかかわりを通して、「障害者の自立と福祉教育」と題する拙稿を草したことがある。以下に、そのうちから、彼の取り組みに関するコメントと管見の一部を掲載する。

彼らの取り組みは、時には力強く、時にはしなやかに、そしてなによりもしたたかである。彼らは、主体的な自己学習・相互学習をとおして、障害者がおかれている歴史的・社会的状況を科学的・客観的に認識する。そして、さまざまな危険(リスク)に挑み、多くの失敗を経験しながら、自立生活を求めて、自己実現をめざして主体的に行動するのである。その際、地域住民との社会的連帯を形成し、社会的諸施策の決定過程に参加することを自立の要件の一つとしてとらえていることが注目される。(中略)
自立とは、日常生活における自己選択、自己決定、自己管理、そして自己実現の行為とその過程をいう。換言すれば、自立とは、日常生活のなかで、生きがいをもってその人らしく自主的・主体的に生きぬくこと、そのための努力をすることを意味する。したがって、それが必要な時には、積極的に他者に依存し、他者から援助や協力を受けることも自立といえるのである。
こういった障害者の自立は、人格の完成と自己創造、自己実現をめざす障害者自身の自己教育活動によって初めて可能となる。また、それは、地域住民の障害者に対する偏見や差別が解消され、地域生活主体としての障害者と一般住民の間に相互支援的な関係――社会的「連帯」が構築されることによって成り立つ。
自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない。ここに、福祉教育の本質的で実践的な課題がある(『福祉教育の創造』相川書房、1989年、144~146ページ)。

筆者は、市民福祉教育について言及する際に、福祉サービスの「利用主体」に対する福祉教育や、福祉の(による)まちづくりの「運動主体」形成を図るための福祉教育にこだわってきた。そのこだわりは、このコメントからも読み取れるように、彼の、障がい者自身による自立生活運動に対する思いや取り組みからの“学び”にあるのは確かである。

付記
およそ25年ぶりに彼と電話で話すことができました。お互いに、相模原市でのことを思い出すのに時間を要することはありませんでした。
白石清春氏のますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。